2019年09月05日
紆余曲折…確かにそうだろうね
フェルディナンド・ピエヒを偲んで 彼のキャリアと生み出されたクルマ 前編
フェルディナンド・ピエヒを偲んで
フォルクスワーゲン・グループの会長を勤め、自動車業界で世界的に最も影響力のある人物のひとりでもあったフェルディナンド・ピエヒが、2019年8月25日にドイツの病院で亡くなった。彼の妻、ウルスラによれば、レストランで突然倒れ病院へ搬送されたものの、そのまま亡くなったという。享年は82歳だった。
優れた実力を持ち高く評価されつつも、必ずしも良い話だけではなかったピエヒ。圧倒的なリーダーシップと決断力、エンジニアリングの知識を活かして、フォルクスワーゲンを世界最大の自動車メーカーへと成長させた立役者だった。彼の偉業を、彼が生み出したクルマとともに振り返ってみたい。
フェルディナンド・ピエヒの幼少期
ピエヒは1937年4月17日に、オーストリアのウィーンで生まれた。祖父はオリジナルのフォルクスワーゲン・タイプ1・ビートルを開発し、後に誰もが知るスポーツカーメーカー「ポルシェ」を創設したフェルディナンド・ポルシェ。フェルディナンドという名前も、祖父にちなんで付けられたものだった。
ピエヒは名前だけでなく、祖父の持っていたエンジニアリングに対する情熱や才能も受け継いでいた。スイスのチューリッヒ工科大学で機械工学を学び、後に語り継がれる、フォーミュラ1のエンジン開発に関する論文をまとめている。大学卒業後は1963年にポルシェへ入社し、研究開発部門の有力人物となり、頭角を現すことになる。
ポルシェ917(1969年)
ピエヒはポルシェ917の開発に携わり、重要な役割を果たした。軽量でパワフル、空力に優れたマシンはライバルを驚愕させ、サーキットを席巻。ピエヒは後に、ポルシェ917は自身のキャリアの中でも最もリスクの高いクルマだったと振り返っている。開発には膨大な費用がかかったものの、初シーズンは活躍しなかったからだ。だが、その投資は翌年から報われる。
ポルシェ917は当時としては最も速く、最も高い成功を収めたレースカーとなり、いまでも評価は高い。1970年のル・マン24時間レースでの優勝は、広く知られているところだ。
メルセデス・ベンツOM617エンジン(1974年)
1971年になると、ポルシェのテクニカル・ディレクターに就任したピエヒ。自動車メーカーでの彼の将来は明るいものに見えた矢先、ポルシェ家のメンバーは会社を指揮するポジションについてはならないとポルシェが決意し、1972年に退社を迫られた。ポルシェとしては、ビジネス上の問題が家族仲へ影響しないように、との思いで決めたことだったが、その後数十年に渡り、確執は残ってしまった。
退社したピエヒは、ポルシェとメルセデス・ベンツが拠点を置く、シュツットガルトにエンジニアリング会社を設立。するとメルセデス・ベンツは、4気筒エンジンをベースにした自然吸気5気筒ディーゼルエンジンの開発を、ピエヒへ依頼する。ピエヒは1974年にW115型のメルセデス・ベンツ240 3.0へと搭載される、OM617型ユニットを開発した。さらにW115型とW123型の300DやW116型とW126型の300SDにも搭載され、メルセデス・ベンツは100万マイル(160万km)を走るクルマを製造する、という高い評価へと結びつけた。
OM617型ユニットはモータースポーツとの距離も近く、ターボを組み合わせて最高出力を190psにまで高めたユニットを開発。1976年にテスト車両のC111-IIDへと搭載され、イタリアのナルド・サーキットで16の記録を作っている。
アウディ製5気筒ユニットの開発(1976年)
ピエヒの独立時代は非常に短く、1972年にはフォルクスワーゲン傘下のアウディへと入社し、記録的なスピードでキャリアアップを果たす。1975年にはアウディの研究開発部門の役員へと選出され、この地位を利用しながら、アウディをエンジニアリングで優れた会社、というイメージ作りに貢献した。
1976年にアウディは初めての5気筒エンジンを開発し、アウディ100 5Eへと搭載。これ以来アウディ・ブランドを定義づけるような特徴的な技術となり、2019年の今でもアウディRS3やTT RSなどへと受け継がれている。
アウディ・クワトロ(1980年)
1977年になると、ピエヒは世界ラリー選手権(WRC)に参戦するクルマの開発に取り掛かる。パワートレインには、ターボ過給される5気筒エンジンと4輪駆動が選ばれた。アウディは後輪駆動を作っていなかっただけでなく、スウェーデンでテストしていたフォルクスワーゲン・タイプ181・イルティスが、雪原を楽々と走行していたことを目にしたことも理由だった。
アウディ・クワトロは1980年にデビュー。そのまま1980年代のラリー界を制する。ここでも、アウディの今へと続くブランドを構築することになった。「クワトロ」はアウディのストロングポイントのひとつであるとともに、Q8やRS6など最近のモデルには、1980年のクワトロから、そのデザイン要素を受け継いでいる。
アウディV8(1988年)
1988年にアウディは、フラッグシップモデルとなるV8を発表。同年、ピエヒはアウディのCEOへと就任した。V8のエクステリア・デザインが格下モデルへと類似していたこともあり、販売は伸び悩んだものの、BMWやメルセデス・ベンツなど、ラグジュアリーブランドと渡り合うための重要な基盤作りを果たした。
ピエヒは、ビジネスではポルシェとの関係性を大切にしており、1980年代後半に発表されたポルシェ989には、アウディのユニットを進化させた水冷の4.2L V8エンジンが搭載されていた。ポルシェといえば空冷のフラット6を積んだ911だった時代だけに話題になったが、1991年に製造コストが高すぎることを理由に、計画を中止している。
フォルクスワーゲンのCEOへ(1993)
1993年、ピエヒはカール・ハーンの後任として、フォルクスワーゲンのCEOに就任する。だが56歳に始まったキャリアは、順調にリタイアへと辿り着くものではなかった。長年に渡る売上げの伸び悩みと経営不振にあえいでいたフォルクスワーゲンを、早急に立て直す必要に迫られていたのだ。彼はエンジニア出身ではあったが、かなりの部分で冷酷な、指導者としてのスキルも積んでいた。
ピエヒはフォルクスワーゲンのCEOになった直後、コメントを発表している。グループ工場のネットワークを最適化し、すべての製造品質を向上させ、市場セグメントの拡大を目指す、と。そして1990年代のうちに、最も実力のあるエンジニアと経営者を、次々とフォルクスワーゲンに採用。物議を醸しだすこともあった。
後編では、フォルクスワーゲンCEOに就任後のピエヒを振り返りたい。
フェルディナンド・ピエヒを偲んで 彼のキャリアと生み出されたクルマ 後編
ブランドの大量買収(1990年代後半)
フォルクスワーゲンのCEOになったフェルディナンド・ピエヒの指揮のもと、4代目へと生まれ変わったゴルフやW型8気筒エンジンを搭載したパサートなどは、フォルクスワーゲンのイメージを大幅に高めた。だが、フォルクスワーゲン単独としては展開に限りもあった。ピエヒは幅広いセグメントをカバーするには、より大きなグループ企業となる必要性を理解しており、1990年代後半になると、様々なブランドをグループ傘下に収めていく。
1998年以降、ロールス・ロイス、ベントレー、ブガッティ、ランボルギーニを次々と買収。2000年にはスウェーデンのトラックメーカー、スカニアを手中に収める。フォルクスワーゲンはロールス・ロイスをBMWへ売却したものの、ランボルギーニとベントレー、ブガッティはいまもグループ企業の中では最高の輝きを持つブランドだ。そしてそのいずれのブランドも、買収後に大きな成功を収めている点は、注目に値するだろう。
フォルクスワーゲン・フェートン(2002年)
ピエヒはフォルクスワーゲンのラインナップにスーパーカーを追加することはなかったが、メルセデス・ベンツSクラスやBMW7シリーズに対抗できるラグジュアリー・モデルを、フォルクスワーゲンも持つことができると信じていた。そしてフォルクスワーゲン史上最も上級志向モデルとなるフェートンが、2002年に投入される。アウディA8と競合するという事実は、問題視されなかっただけでなく、内部競争は前向きなものだと判断し、むしろ歓迎したという。
フォルクスワーゲンはフェートンを、ドイツ・ドレスデンに準備したガラス張りの工場で製造した。かなり野心的なプロジェクトであり、ピエヒが市場を読み誤った、数少ない例のひとつとなった。特に北米でのフォルクスワーゲン・フェートンの販売は燦々たるもので、2006年には北米を撤退するものの、他地域では2016年まで存続した。
ブガッティ・ヴェイロン(2005年)
1990年代、ピエヒはスーパーカーに強い関心を示していた。1991年にはミドシップのアウディ・スパイダー・クワトロ・コンセプトの開発を監修し、量産に向けてゴーサインが出た、という情報には大きな衝撃があった。アウディは翌年にW12エンジンを搭載したアヴス・コンセプトを発表。フォルクスワーゲンからは1997年にW12コンセプトというスーパーカーが発表され、ノルド・サーキットでの記録をいくつか樹立している。だが、いずれのクルマもショールームへは姿を現すことはなかった。
しかしフォルクスワーゲン・グループはブガッティを傘下に収めたことで、極めて富裕層向けのモデル開発に取り組む機会を得る。白紙の状態から開発が始まり、クワッドターボ・エンジンを搭載した1001psのヴェイロンは、2005年のデビュー当時、最も速く、最もパワフルな量産車となった。それは、ブガッティの過去の偉業を称えるだけでなく、1930年代にピエヒの祖父、ポルシェが開発した、アウトユニオン・グランプリカーを称えることでもあった。
ポルシェとの争い(2000年代後半)
ポルシェ家とピエヒ家との確執は、フォルクスワーゲンが2009年にスポーツカーメーカを買収したことで、更に強くなってしまう。しかもフォルクスワーゲンの買収の報道は、ヴェンデリン・ヴィーデキングが長年に渡ってフォルクスワーゲンの買収を計画進めるも、失敗した後に行われたものだった。
ヴェンデリンはフォルクスワーゲンの監査役にも就任していたが、最終的にフォルクスワーゲンから逆買収されるかたちとなり、ポルシェCEOの辞任に迫られる。その際ピエヒは、「射殺されるかわたしが勝つか、どちらかだ」と話している。
XL1(2013年)
自動車市場のすべてのセグメントをカバーするという戦略のもと、ピエヒは超低燃費の都市部用自動車の開発を指導する。1999年に発表されたフォルクスワーゲン・ルポ3Lは、空力的に優れたボディに小型のディーゼルエンジンを搭載することで、33km/Lという非常に高い燃費性能を実現できることを証明していた。
ピエヒはそのコンセプトをさらに発展させ、2002年に発表された1リッターカーは、ヴォルフスブルクからハンブルグまでの距離を1Lで走る燃費性能を誇った。あくまでもプロトタイプでコストも高かったが、ピエヒは量産化を諦めることはなかった。
2009年に発表したL1と、2011年のXL 1コンセプトは、その後の量産モデルXL1への布石となる。流線型のボディに2名乗車の車内を持ち、ディーゼルエンジンによるプラグイン・ハイブリッドを搭載した。XL1はピエヒが目標としていた燃費性能を達成したものの、価格はポロの10倍。当時の価格は11万1000ユーロ(1443万円)で、250台が限定生産された。
フェルディナンド・ピエヒの辞任
2015年、フォルクスワーゲンで当時CEOを務めていたマルティン・ヴィンターコルンとの権力争いの後、フェルディナンド・ピエヒと彼の妻は、フォルクスワーゲンの会長職を辞任する。その2年後、彼が所有していた14.7%に達するポルシェ社の株式のほとんどを、彼の弟のハンス・ミヒャエル・ピエヒへと譲渡した。
1300億円以上の金額を手にしたピエヒだが、自動車業界から完全に手を引く意思表明ともなった。
紆余曲折があったことも事実だが、自動車業界をリードしてきた経緯には改めて感服する。心から哀悼の意を表したい。
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自動車業界あれこれ | 日記
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2019/09/05 20:58:21
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