バブルの申し子「レイトンハウス」を率いた赤城 明氏が急逝
バブル時代にサーキットを席巻した「レイトンブルー」
バブル時代に国内はもとよりF1や世界耐久選手権など世界中のレース業界に「レイトンブルー」旋風を巻き起こしたのが、赤城 明代表率いる「レイトンハウス」。当時、1年間の47週の金土日をサーキット取材で過ごした筆者に飛び込んできたニュースが、その赤城 明氏の突然の訃報だ。
元々、丸昌興産という不動産屋からスタートした赤城氏は、若手レーシングドライバーだった故・萩原 光氏からスポンサーを頼まれてレース界に入ったのが1984年。そこからは一気にレース界を席巻する活躍ぶりだった。
だがレース界にスポンサードするきっかけとなった萩原 光氏が、1986年4月にレイトンハウスのグループAレーシングカーだったベンツ190E2.3-16のテスト中に菅生で事故死してしまう。これでレース界から撤退かと思われたが、萩原氏の弟で当時マネージャーだった萩原 任氏や遺族からの意向もあり引き続き国内ではグループA、GC、F2、F3000レース、海外でも世界耐久選手権などに参戦を継続した。
さらに1987年には当時の一流コンストラクターだった英国のマーチエンジニアリングに出資。翌1988年からレイトンカラーに塗られたマーチ881でF1にデビューを果たした(デザイナーは当時新進気鋭だったエイドリアン・ニューウェイ、現レッドブルのチーフ・テクニカルオフィサー)。
だが、1991年にバブル景気の神話だった「土地価格高騰」が一気に崩壊し始め、丸昌興産は急激に資金繰りが悪化。追い打ちをかけるように1991年9月に富士銀行(当時)不正融資事件関連で代表の赤城 明氏が逮捕された(懲役10年)ことで、チーム活動も縮小を余儀なくされ、1992年でレイトンハウスとしての活動に終止符を打つことになる。
不動産、アパレル、ホテル、ジェット機のリース事業、そして日本初のF1チームオーナーとなり、日本のモータースポーツを一躍世界に知らしめてくれたレイトンハウス、そしてそれを率いた赤城 明氏だったが、最後は非常に残念な形となって終焉を迎えた活動となった。
赤城 明氏のご冥福を心よりお祈りしたい。
あまり正直↑の記事だけだと赤城氏の事がわからなかったので
レイトンハウス設立者の赤城明さんが亡くなる。バブル期のモータースポーツ界を席巻
1985年に株式会社レイトンハウスを設立し、鮮やかなターコイズブルーのカラーリングとともに国内外のモータースポーツシーンで数多くのレーシングカーを走らせたレイトンハウスの設立者、赤城明さんが8月8日亡くなった。73歳だった。
赤城さんは1981年に、不動産売買を手がける丸晶興産を設立。84年に富士グランチャンピオンシリーズに参戦していた萩原光のマシンのスポンサードを手がけ、翌年から「レーシングカーに漢字のロゴは似合わない」と、『LEYTON HOUSE』のロゴをつけたスポンサードを開始。1985年にはル・マン24時間に参戦したトヨタ85Cにそのロゴを出した。
1986年からは、当時ホンダ・シティに採用されていたマイアミブルーをベースとした“レイトンブルー”のカラーリングに、レイトンハウスのロゴを着けさまざまなレースに挑戦。萩原光が1986年、テスト中に亡くなった後もその活動は継続し、すべての全日本選手権でレイトンブルーのカラーリングが見られるほどになっていった。
また、1987年からはイバン・カペリを擁しレイトンハウス・マーチとしてF1にも挑戦。1990年からはF1コンストラクター『レイトンハウス』として参戦も果たしている。さらに、ドイツの紳士服ブランドのヒューゴ・ボスの買収、レイトンブランドでのマンションやホテルの建設、さらに全国的に展開したアパレルブランドなど、1980年代後半から90年代初頭までのバブル景気とモータースポーツブームを象徴する存在となっていった。
そんななか、1991年に赤城さんは富士銀行赤坂支店の不正融資事件により逮捕され服役。チームは急速に活動の場を失い、1991年限りでF1のオーナーからは退いた。赤城さんは社会復帰後、海外投資事業などを手がけていたが、8月に入ろうかという頃に体調を崩し、8日の朝に亡くなられたという。
かつてレイトンハウスカラーのマシンを操った関谷正徳は、赤城さんについて「すごく優しい方でした。赤城さんのチームでは、メカニックも人も育ったし、我々にとってはすごくいい時代を過ごさせていただきました」と感謝を語ってくれた。
「レーシングドライバーとしてたくさん勉強させていただきましたし、僕のなかでは赤城さんがいなかったら今の自分はいない。感謝しかないですね。最高の思い出があります」
また、同じくレイトンハウスカラーで戦った岡田秀樹も「自分はマールボロにスポンサードしてもらっていて、そこからレイトンハウスに移ったけど、そこには魅力があったから。最後はああいうかたちだったけれど、感謝の気持ちがありましたね」と同様に赤城さんへの感謝を述べている。
ふたりはもちろん、星野一義や中嶋悟、影山正彦などレイトンハウスカラーで走ったトップドライバーは数多い。また、当時チームに携わり、今のモータースポーツシーンを支えているスタッフも多い。F1でも、近年最高のデザイナーと言われているエイドリアン・ニューウェイはレイトンハウス・マーチが無ければ世に出なかったデザイナーかもしれない。
レイトンハウスと赤城さんがモータースポーツ界に残した歴史、功績に感謝し、心から哀悼の意を表します。
心からご冥福をお祈りします。
レイトンハウス創始者、赤城明氏の急逝に寄せて
今でも時折街中で見かけるターコイズブルーのトレーナー。背には黒い文字でLEYTON HOUSEと描かれている。1980~90年代に国内外のモータースポーツ界で一世を風靡したレーシングチーム、LEYTON HOUSEの名残だ。
そのLEYTON HOUSEを設立したのが赤城明氏。本業の不動産業での収益をレースに注ぎ込んだ。モータースポーツへの関与は1984年の萩原光への支援がきっかけ。ツーリングカーレースや富士GCレースに参戦し、86年に萩原がテスト中の事故で亡くなってからも活動は継続、国内レース界での存在感を高めていった。LEYTON HOUSEのクルマでレースを戦ったのは故・萩原を初め、関谷正徳、星野一義、岡田英樹、影山正彦……など。トップドライバーの名前がずらりと並ぶ。
赤城の野望は日本国内に留まらず、世界、それも最高峰のF1グランプリに向けられた。1987年にはレース活動を再開したマーチ・エンジニアリングを全面的に支援。イワン・カペリ、マウリシオ・グージェルミンの2人のドライバーを抱えてF1グランプリに打って出た。89年にはマーチを買収、正式にコンストラクター”LEYTON HOUSE Racing”としてレースに参加した。
ハイライトは1990年のフランスGP。カペリとグージェルミンは予選7番手、8番手からスタートし、レースのほとんどをリードする快走振りを見せた。残念ながらグージェルミンはリタイアしたが、カペリはゴールまで3周を残してフェラーリのアラン・プロストに抜かれ、無念の2位に甘んじた。自動車メーカー系のチームが力を発揮するF1グランプリで、プライベートチームでも優勝に王手をかけられる希望を見せつけた。その時のクルマを設計したのが、F1界随一の才能といわれる天才デザイナ-、エイドリアン・ニューエイだった。
順風満帆に見えた赤城のレース活動だったが、1991年、赤城は富士銀行赤坂支店の不正融資問題に絡んで逮捕された。多額のレース活動経費の融資を不正に受けたと言われ、10年間服役をした。服役を終えてからは投資会社を興してビジネス展開をしていたが、8月8日に急逝した。享年73歳。
豪快な事業展開をするビジネスマンだったが、モータースポーツ界に限らず、国籍も人種も民族も越えて多くの人に慕われた。ご冥福をお祈りします。
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Posted at
2018/08/11 01:41:52