おかしくも素晴らしきマイクロカーの世界(1)
ピールP50(1962年)
最初に紹介するのは、ギネスブックが認定した史上最も小さいクルマだ。マン島のピール・エンジニアリング・カンパニーが生み出した3ホイーラーのP50は、ブルー/レッド/ホワイトの3色が設定された。オリジナルモデルの製造期間は1962~1965年で、生産台数は50台。現在は復刻版が存在し、ガソリン車のほかにEVも用意されている。この『4.9psの幸福製造マシン』の試乗レポートも、併せてお読みいただきたい。
ビスキューター(1953年)
信じがたいことだが、このスペイン製の拷問道具ともいうべきクルマが、1953~1960年の間に1万台ほどが製造されたという。車名はバイ・スクーター(2座スクーター)を意味するもの。これを手掛けたガブリエル・ヴォワザンは、1930年代に世界最高峰の高級車を製造したことでも知られる。
ブルッシュ・モペッタ(1956年)
ピールP50さえ豪華に思えるくらい、ブルッシュ・モペッタはミニマリズムに徹している。屋根がないのは見ての通りだが、ひとつきりのシートも簡素で、50ccのエンジンはプルスタート式。1956~1958年の間に、わずか14台のみが生産された。
ブルッシュV2(1956年)
モペッタよりさらにレアなV2の生産台数は12台。タイヤは4本、シートはふたつ、エンジンは98ccで、最高速度は65km/h近い。
ドルニエ・デルタ(1956年)
航空機の製造で知られたドイツのドルニエだが、戦後にそれが禁止されていた時期には自動車生産を試みた。その結果がこのデルタだが、生産に入る前に採算が合わないことが明らかになり、プロジェクトは売却される。面白いことに、ドルニエの系譜に連なる会社が今も存在し、デルタの名を使用しているのだが、それはクルマではない。腎結石を破砕する装置だ。
ツェンダップ・ヤヌス(1957年)
ドルニエからデルタのプロジェクトを買い入れたのは、業務拡大を企図していた、同じドイツの二輪車メーカーであるツェンダップだった。車名をヤヌスと改められた、245ccの2ストローク単気筒をミドシップに積む4シーターは、およそ1年間で7000台弱が生産された。
ヴェスパ400(1957年)
マイクロカーに参入した二輪車メーカーはツェンダップだけではない。あのヴェスパも、このビジネスに手を染めた口だ。生産期間は1957~1961年で、393ccの空冷2気筒を搭載した。
フリスキー(1957年)
ヘンリー・メドウズによってウォルバーハンプトンで産声を上げたフリスキーには、フリスキースポーツやクーペ、ファミリー・スリーなどのバリエーションがある。生産期間は1958~1961年で、エンジンは単気筒もしくは2気筒の2ストロークだった。
イソ・イセッタ(1953年)
1953年にイタリアのイソが発売したイセッタは、翌年のミッレミリアに出場し名を上げた。商用車仕様のアウトカーロには、ピックアップやパネルバンなどのバリエーションもあった。
BMWイセッタ(1955年)
イソ・イセッタは、ライセンス生産が盛んにおこなわれた。本家登場の翌年にはフランスのヴェラムが生産を開始し、ブラジルのローミやアルゼンチンのデ・カルロなどでも製造された。そして、ドイツと英国での製造権を手に入れたのがBMWだった。BMWイセッタは、1955~1962年に16万台以上と、マイクロカーでは異例なほど多くが生産されたモデルだ。
トロージャン200(1960年)
第一次大戦後に自動車製造を開始したトロージャンだが、この200を最後に、その歴史は1965年に幕を下ろした。60年代の典型的なバブルカーともいうべき200は、そもそも50年代半ばに元航空機メーカーだったドイツのハインケルが開発し、カビーネという名で販売された。
第二次大戦後に一般的になった他のマイクロカーのメーカーと同じく、ハインケルも航空機製造を禁止されたことをきっかけに、軍需から民生へ転換。マイクロカーのほか、自転車やスクーターなども手掛けた。
バークレイB95(1959年)
マイクロカーすべてが究極の経済性を求めたわけではなく、中には走りを楽しめるものもある。トレーラーハウスの製造業者だったバークレイは、ボンド・ミニカーなどを手掛けたローリー・ボンドと手を組み、空冷2ストロークの2気筒や3気筒を積んだ、三輪や四輪のマイクロカーを生産。このB95は41ps、51psに強化したエンジンを積むモデルはB105と銘打たれた。これ以前にもSA322やSE328、SE492といったスポーティな超小型車を生産していたが、車名の数字は排気量にちなんでいる。
ボンド・ミニカー(1946~1966年)
ローリー・ボンドは、ミニカーと銘打った一連の小さく経済的なクルマの仕掛人だ。最初のモデルは1946年に登場し、1966年に終了するまで20年にわたり生産されたそれは、一輪を備えるフロントに空冷単気筒を搭載。当初は122ccだったが、最終的には249ccまで拡大され、驚くことに100km/h近く出るポテンシャルを得るに至った。
おかしくも素晴らしきマイクロカーの世界(2)
JARCリトルホース(1953年)
マイクロカーの世界は信じられないほど複雑で、プロジェクトはしょっちゅう担い手が替わる。英国のJARCが開発したリトルホースは、1954年にアストラへ売却される。その後はギルがゲッタバウトとして生産。また、オーストラリアのライトバーンがゼータと銘打ち、1966年まで製造していた。
アストラ・ユーティリティ(1955年)
先に紹介したJARCリトルホースの、アストラ版に当たるのがこのクルマ。当時のオートカーに掲載された広告を見るに、全長は2896mm、全幅と全高は1346mm。322ccの2気筒は15psを発生し、最高速度は93km/hに達したというが、この小さいクルマでそれを出すのはちょっと怖い気もする。
ロドリー(1954年)
1954年当時、威勢のいい若者が街へナンパに繰り出そうというのにピッタリだったのがこのクルマだ。ロドリーに乗っていれば、きっと幸運を手にできただろう。このスタイリング、人気者になれること請け合いだ。1954~1956年に生産されたロドリーは、マイクロカーには珍しいスティールボディ。比較的大きな750ccエンジンを持つが、これはオーバーヒートや出火をしがちだった。初デートがいろいろな意味で思い出深いものになったことだろう。
クラインシュニットガーF125(1950年)
公道走行用のまっとうなクルマというより、遊園地の電動カートあたりのようにちっぽけなクラインシュニットガーF125。解体した航空機のパネルを素材に用い、車両重量は150kgほどだとか。エンジンは2ストロークの125cc単気筒だ。
オッパーマン・ユニカー(1958年)
英国のオッパーマンはトラクターを製造していたが、1950年代半ばにマイクロカー史上への参入を決定。その処女作が、グラスファイバー・ボディに328ccの2気筒を積んだユニカーだ。コストを抑えるべく、左右の後輪を近付けてデフを省略している。生産台数はおよそ200台だった。
オッパーマン・スターリング(1959年)
オッパーマンが上級移行を期して、1958年に企画したのがスターリングだ。しかし、翌年にはBMCがミニを発表し、マイクロカー市場を一掃してしまうタイミング。このプランが成功するはずもなく、スターリングの生産は2台でストップ。現存が確認されているのは1台のみだ。
ロヴィンD3(1948年)
フランスのマイクロカーメーカーであるロヴィンは、まず1946年に260ccユニットを積むD1を発表。翌年にはD2,、そしてまた次の年には、423ccの水平対向2気筒を積むD3をリリースした。D3は1950年までにおよそ800台を生産し、後継モデルのD4へとバトンタッチする。諸事情により、D3は2シーターと宣伝されたが、イラストには3名の乗員が確認できる。まだ、安全性などの認識が確立されていなかった時代を感じさせる。
パワードライブ(1955年)
このイラストを見るに、まるで1959年式キャデラックのようなボディサイズを想像してしまうが、実際には2743mmで、しかも3ホイーラー。たしかに、多くのマイクロカーよりは大柄だが、エンジンはアンザーニの2ストローク322ccに過ぎない。
モシェCM-125リュクス(1951年)
フランス人のジョルジュ・モシェが、ミニマリズムの熱心な信奉者だったことをうかがわせるのが、彼が手掛けたこのCM-125リュクスだ。エンジンは125cc単気筒で、出力は3.5ps。極めてベーシックなクルマだが、非常に安価だったこともあり、1250台ほどが製造された。
モシェCM 125 Y(1954年)
初期のマイクロカーで成功したモシェは、上級移行を期し、1954年にCM 125 Yを発売。クローズドボディに、5psに強化した125ccエンジンを積んだそれは、1958年までに1100台以上が生産された。
グラース・ゴッゴモビル(1955年)
数あるマイクロカーのブランドの中でも、その名をよく知られたうちのひとつがゴッゴモビル。そのルックスもなかなか魅力的で、20万台以上を販売するに至った、まさに小さな巨人だ。エンジンは当初250ccだったが、後に300ccと400ccを設定。セダンモデルは、英国ではリージェントと銘打って販売された。
ゴッゴモビル・クーペ(1957年)
セダンの成功の勢いに乗って、ハンス・グラースはセダンのプラットフォームとメカニズムを流用して、よりスポーティなモデルを仕立てた。それが、英国ではメイフェアと呼ばれたクーペだ。エンジンにより、TS250/TS300/TS400のタイプが設定された。
ゴッゴモビル・ダート(1959年)
オーストラリアでグラースのディストリビューターを務めていたビル・バックルは、クーペやそのカブリオレ版よりさらにスポーティなモデルの需要を見込み、それを狙ったモデルを製作。セダンのプラットフォームをベースに、300ccと400ccのエンジンを積んだロードスタータイプのそれは、ゴッゴモビル・ダートと名付けられる。1959~1961年の間に、およそ700台が生産された。
おかしくも素晴らしきマイクロカーの世界(3)
フェアソープ・アトム(1955年)
1954年、第二次大戦中に活躍した英国空軍の英雄であるDCベネットが、ロンドン郊外で設立したのがフェアソープ。FRPボディのスポーツカーで知られたメーカーだが、処女作は2気筒を積んだ2座のマイクロカーだった。ご覧の通り、ラグジュアリーとは全く無縁のクルマである。
ルソン(1951年)
1951~1952年の2年間のみ製造された、英国製のマイクロカー。アルミパネルのボディに、コミカルなまでに小さいホイールを履き、エンジンはエクセルシア製2気筒250cc。しかし、500ポンドという高額な値付けが災いしてか、生産台数は2桁に届かなかった。その後、プロジェクトは、フェアソープのDCベネットに買収された。
ライトバーン・ゼータ(1963年)
オーストラリアのライトバーンは、セメントミキサーや洗濯機のメーカーだったが、1963年に安価な小型車の製造にも着手する。最初に手掛けたゼータは、324ccのヴィリアーズ製2気筒を積んだ前輪駆動車。1965年までにおよそ400台が生産されたが、その中にはわずかながら、商用車仕様のゼータ・ユーティリティも含まれる。
ライトバーン・ゼータ・スポーツ(1964年)
ライトバーンがセクシーさを増したモデルを意図して開発したのが、1964年発表のゼータ・スポーツだ。エンジンは498ccの2ストロークで、最高出力は21ps。しかし、当時のオーストラリア市場では需要がなく、48台が生産されたのみだった。
FMR TG500(1957年)
かつては空で名を馳せたメッサーシュミットが、第二次大戦でのドイツ敗戦により航空機製造を禁じられ、マイクロカーに鞍替えしたのは誰もが知るところ。第1作となるKR175の設計を手掛けたのは、その分野で名を成していたエンジニアのフリッツ・フェンドだった。ところが、1956年にメッサーシュミットが本業への復帰を果たすと、車両製造部門を売却。これを手に入れたのがフェンドらのグループだった。彼らは三輪だったメッサーKRを四輪へ設計変更。FMRブランドでタイガーとして発表するが、クルップが商標権を主張したため、TG500と改名して1957年に発売する。エンジンは493ccで、最高速度は137km/hに達した。オープンとクローズ、2通りのボディが用意され、あわせて450台ほどが生産された。
スパッツ(1956年)
ドイツ語でスズメを意味するスパッツは、モペッタを生んだエゴン・ブルッシュの発案。当初は三輪だったが、あまりにも強度が低く、安全性が低すぎるとして販売できなかった。これを四輪に設計変更したのが、タトラで名を成したエンジニアのハンス・レドヴィンカである。1956~1958年の間に、およそ1600台が生産された。
エクサム(1983年)
マイクロカーは、ミニに完全に駆逐されたわけではない。フランスではこの手の小型四輪車のマーケットが長年にわたり盛況で、いまだに生産しているメーカーが存在する。というのも、この国では排気量や出力の規制はあるものの、14歳以上であれば無免許、もしくは簡単な試験に受かれば運転ができるからだ。そうした現代版マイクロカーを供給している最大手がエクサムで、最新モデルがこのクーペだ。
リジェ・アンブラ(2008年)
エクサムに次ぐ現代版マイクロカーの大手がリジェ。あのF1で鳴らし、1970年代にはスポーツカーも生産したリジェである。現在はピアジオの傘下にあり、超小型車の生産に注力している。その名に恥じぬF1譲りの速さ、だけは間違っても備えていないが。
スマート・フォーツー(1998年)
果たしてスマートがマイクロカーの範疇に入るか、賛否両論あるところだろう。現代の基準では簡素で遅いクルマだが、1950年代のそれに比べれば、速さも安全性も、おそらく豪華さも桁違いだろう。とはいえ、今でも普通に市販されているクルマとしては、最も小さい部類に入るだけに、現代版マイクロカーとして認定したいと思う。
レヴァG-ウィズ(2001年)
その走りや安全性の水準とスタイリングの安っぽさが、かつてのマイクロカーの基準に極めて近い現代のクルマを上げるなら、このG-ウィズということになるだろう。このインド製EVは、2001~2012年に生産された。英国へも輸入され、ロンドンでは一時期それなりによく見かけたものだ。しかし、その後継モデルであるマヒンドラe2oは、おそらくその一瞬の輝きすら放つことはできないだろう。
ルノー・トゥイジー
これまた、現代的なマイクロカーといえそうなのがルノー・トゥイジー。タンデムレイアウトのEVで、日産と横浜市が実証実験に用いたチョイモビのベースだ。航続距離は最大でも100km程度で、市街地での移動くらいにしか使えないが、ルックスは面白みがあり、走りもなかなか楽しい。しかし、この手のものとしては価格が高い。高額なマイクロカーが成功しないことは、歴史が証明するところだ。果たして50年後、何台のトゥイジーが生き残っているのだろうか。
時代背景とかも入り混じりつつ色んなクルマが造られて消えていった
Posted at 2018/01/22 08:24:31 | |
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