2020年09月14日
軽自動車が「危険」は車体サイズが原因じゃない! レーシングドライバーが語る「問題点」とは
基本的な衝突安全性能などは普通車と変わりないモデルも増えた
日本独自の規格で販売される軽自動車。今やクルマは一家に1台からひとり1台の時代へと移行する、その象徴のように売れまくっている。自販連(日本自動車販売協会連合会)と全軽自協(全国軽自動車協会連合会)が統計を発している車種別販売数で、両方を合わせてもつねに上位を占めているのは軽自動車だ。平成10年に現在の規格になってからは室内も広く、動力性能も向上して普通車から乗り換えても不満を感じない人が増えた。
しかし、軽自動車を検討していると必ず「小さくて危険だ」という意見を唱える人がいる。はたして小さな軽自動車は本当に危険なのだろうか。
軽自動車といえども、公道を走る自動車である以上、さまざまな安全基準が取り決められている。一番わかりやすいのは衝突安全性に関する取り決めだろう。国土交通省と独立行政法人自動車事故対策機構は「自動車の安全性能に関する規定」に基づき、さまざまな衝突安全性能試験(フルラップ前面衝突試験、オフセット前面衝突試験、側面衝突試験など)や歩行者頭部保護性能試験、ブレーキ性能試験による評価を行い、その結果を「自動車アセスメント(JNCAP)」として公表している。
これらは車種、車格、車体サイズなどによって条件を変えていない。つまり軽自動車も普通車も同条件で衝突試験を行っているのである。これで最高評価の五つ星を獲得したモデルであれば、普通車の五つ星車と同じ衝突安全性を備えているということになる。
一番心配なのは後ろからの衝突ダメージだろう。これに関しても後面衝突時突頚部保護性能試験も加わり、年々基準が引き上げられ厳しくなっているが、停止中に後方から同一質量の車両が速度36.4km/hで衝突した場合のダメージと規定している。つまり大型車両や高速度で突っ込まれてしまったらひとたまりもない。だがこれは普通車クラスにおいても同じことだ。大型高級セダンでも後方から荷物満載のダンプカーに突っ込まれたら悲惨な結果を引き起こす。とくに後席に乗車する機会が多いユーザーは、後方の交通状況を、より注意する必要があるだろう。
だが運転アシストの発展やカーtoカーの相互通信が普及し、自動ブレーキが標準装着されるようになれば心配の種は大幅に軽減されるだろう。
じつは僕は軽自動車好きである。とくにホンダのN-BOXが登場してからは、本気で購入する機会を伺っているほどだ。
基本となる走りを熟成させたモデルが増えることを願う
さまざまな軽自動車を試乗テストして気になるのは、後方からの衝突安全性よりむしろ操安性(操縦安定性)のほうだ。軽自動車は小さくコンパクトなことと、安価なことが魅力となっている。とはいえ装備や質感を高めるなど車格を追求していくと、普通車と同じくらい開発コストがかかってくる。ホンダN-BOXはホンダが起死回生の策として、シビックやフィットのユーザーすら取り込もうという気概で開発されている。従来の軽自動車とは一線を画す質感と走り、装備を備えていることが試乗してすぐにわかった。軽自動車も選択肢に入るなら、検討すべきモデルは溢れている。
しかし、N-BOXの操安レベルで比較できる車種はほかに存在しないことがわかった。やはりコスト削減のなかで、最初に削られるのが操安性に関する部分というのが大方のメーカーの方策だったのだ。サスペンションを構成するショックアブソーバーやブッシュはコストダウンされ、スタビライザーはそのものを省いてしまっているモデルも多く存在する。
加えてもっとも安価な仕様のタイヤを装着させ、走行試験にも重きを置かない。その結果、動力性能は自主規制の64馬力に仕上がっても、高速で走るとフラフラして危ない、横風に弱い、路面の轍やアンジュレーション(うねり)でハンドルを取られるなど操縦性に難のあるモデルがじつに多い。ホンダN-BOXですら、二代目へと進化した現行モデルは、操縦性に難を感じるようになってしまった。軽自動車として価格を低く抑えなければ売れない。その為に目立たないようにコストダウンされた一面が、走りに悪影響を与えてしまうこともあるのだ。
軽自動車は「小さくて危険」なのではなく、じつは「操縦性を重要視していなさすぎて危険」なモデルの多いことが課題になっていると考えるべきなのだ。軽自動車メーカー各社はそのことを認識し、操縦安定性が高く、走りにも満足できる軽カーとして魅力を高めていってもらいたい。
Posted at 2020/09/14 19:18:36 | |
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2020年09月14日
かつて消耗品の定番! メンテフリーと言われるいまクルマの「スパークプラグ」は本当に「交換」しなくていい?
ひと昔前までは車検ごとに交換する消耗品だった
スパークプラグといえば、1990年ぐらいまでは消耗品の代表格。車検ごとに交換したり、こまめに点検をして先にある電極が減っていないかとか、丸くなっていないか。そしてススの付着などによって焼け具合を見るだけでなく、場合によってはワイヤーブラシで磨くなど、いろいろと手間をかけたパーツだ。実際の交換も3万kmぐらいで行っていた。
それが電極にプラチナを使った白金プラグが登場して、ロングライフ化。10万km無交換と言われたが、その当時は走るのには問題ない程度の消耗というだけで、実際はかなり消耗したのは事実だった。
さらに2000年を越えたあたりから、今度はアフターパーツのイメージが強かったイリジウムの採用が進み、摩耗しやすかった電極も強化されたことで耐久性も大幅に向上。最新の交換指示はなんと20万kmごとで、点検も不要となっている。もちろんプラグに限らず、メーカーの交換指定の基本は「不具合がない範囲」なので、絶好調が維持されるかというと実際はそのようなことはないだろうし、どうなってしまうかはクルマ好きとしては気になるところ。とくにスパークプラグは完全なる消耗品の時代を経てきたベテランドライバーとなるとなおさら心配だろう。
もちろんメーカーが指定しているので問題ないのは事実なのだが、実際はかなり消耗していることがあり、実際に外して見ると思わず唸ることもある。最近ではダイレクトイグニッション化され、1回の点火タイミングで、2~3回スパークさせるマルチスパークも増えているので、できるだけ完全に燃焼させるためとはいえ、プラグへの負担は増すばかりだ。
実用と割り切るならメーカー指定の交換タイミングでいいが、今まで取材や実際に外してきた例で見ると、指定の6割ぐらいで交換するのが、好調を維持するにはベストだろう。ただ、最近はバルブまわりのスペースの関係で鉛筆のように細い特殊プラグだったりするので、交換ついでに社外品に交換しようとしてもそもそも用意がなかったり、純正装着がイリジウムだったりするので、社外品でチューニングやレベルアップさせることはできなくなってきている。
構造的にも、最近のクルマはプラグの頻繁な点検、交換を想定していないからか、吸気系がヘッドの上を覆っていたりして、外すのにとても苦労することが多くなってきた。もはや消耗品交換というよりも、修理と言ったほうがいいかもしれない。指定上は完全無交換とはいかないにしても、先に紹介したように、実質無交換でメンテナンスフリー化が急速に進んでいるのは確かだ。
Posted at 2020/09/14 19:12:23 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年09月14日
「スーパーシルエット」に「R90CP」! 日産の歴代ワークスマシンはすべてが伝説だった
グループCやグループAでライバルから恐れられた日産ワークス
SUPER GTで最強チームの一つとして知られるNISMOは、日産のモータースポーツを統括するポジションにつけ、競技車輌やそれらが搭載するエンジンを開発する一方で、日産のワークスチームとしてレースに臨んでいます。それはNISMOの前身となった追浜や大森の日産ワークスも同様でした。
そしてその高いポテンシャルはライバルたちから今のNISMOチーム以上に、大いに恐れられていました。今回は、そんな追浜や大森から、現在のNISMOへと続く歴史を紐解いて、当時開発されていた競技車両やエンジンの凄さを振り返ってみました。
フェアレディやサニーにスペシャルエンジンを搭載したレース仕様
日産がトヨタとともに外国車を相手に戦っていた60年代の日本グランプリ。日産の主戦マシンと言えばR380~R381~R382のグループ6/7のレーシングカーを連想するファンも多いと思いますが、実は一見すると単なるツーリングカーやGTカーに見えるクルマが、実はレース用の特別なエンジンを搭載していた。そんなケースも見逃すことはできません。
それは66年の日本グランプリでポルシェ・カレラ6やプリンスR380などのグループ6レーシングスポーツを相手に、ウェットコンディションだったとはいえFRのGTカーで予選をぶっちぎったフェアレディSはその好例で、直4プッシュロッドの1.6Lエンジンに代えてツインカムで2L直6のB680X型エンジンを搭載していました。
さらに70年代に入ると1.4L直4SOHCのL14にツインカム16バルブヘッドを搭載したサニー・エクセレント・クーペ。
カウンターフローのL28にクロスフローのLYヘッドを組みつけて搭載したフェアレディ280Zなど、オッパマ(追浜)仕立ての日産ワークスカーにはニュースがあふれていました。
スーパーシルエットの“ターボ3兄弟”に搭載された“グリーンヘッド”
70年代後半になると、国内レースの花形としてグループ5(Gr.5)、いわゆる“シルエットフォーミュラ”が注目を集めるようになってきました。
このカテゴリーに追浜=日産ワークスが投入した競技車両は、3台ともに2L直4のL20から発展したユニットで、ツインカム4バルブヘッドを持ちターボでフルチューンしたLZ20B、通称“グリーンヘッド”を搭載していました。
この最強エンジンとともに、ノバ・エンジニアリングの森脇基恭さんが設計したシャシーに、ムーンクラフトの由良拓也さんがデザインしたボディカウルを纏うというパッケージングはブルーバード、シルビア、スカイライン(登場順)すべてに共通していましたが、それぞれポテンシャルは高く、例えばイメージリーダーとなったスカイラインは82年から84年の3シーズンで19戦9勝と半数近くで優勝を飾っています。
クルマ本来が持っていたポテンシャルの高さもさることながら、これをサポートした日産ワークスのパフォーマンスが高かったことも、決して見逃すことはできないでしょう。
ちなみに、三兄弟のラストシーズンとなった84年に大森ワークスを母体にしたNISMOが誕生していました。
市販車用をベースにグループC用のレースエンジンを開発
84年に誕生したNISMOは様々なカテゴリーへの支援と参戦を始めます。その中でも、特に力が入っていたカテゴリーの一つが全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)でした。83年に開始されたJSPCは世界的にもGr.5に代わるグループCによるスポーツカーレースの流れを汲んでいました。
日産勢としては83年にJSPCが始まった当初から、ホシノレーシングが購入した市販シャシーのマーチ83GにワークスチューンのLZ20Bターボを搭載して戦っていました。日産ワークスとしてはエンジンのチューニングやサーキットサービスでこれを支援していたのですが、NISMOが誕生して以降、支援体制は一層強化されていきました。そしてパワーユニットに選ばれたのが日産の市販モデルに初めて採用されたV6のVG系エンジンで3LターボのVG30DETTでした。
最初にこれをチューニングしていたのは北米に本拠を構えるチューナーのエレクトラモーティブ(現ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー=NPTI)でしたが、これを日産ワークスが支援し、国内ではNISMOが主導するスタイルが確立しました。それまでのLZ20Bターボ時代はポルシェに対して苦戦苦戦を強いられていましたが、ここから日産の反撃が始まりました。
オリジナルシャシーにV8レーシングエンジンを搭載し、ル・マンでポール奪取
当初はマーチなどの市販シャシーを購入し、それにレース専用に設計された3LV8ターボのVEJ30を搭載していました。が、やがてエンジンをストレスマウントするカーボンファイバー製モノコックシャシーを製作、エンジンもブランニューのVRH30を開発。VRH30はやがて3.5LのVRH35へと進化していきました。
そして究極のモデルが90年に誕生しました。完全な自製のシャシーに最終チューニング(予選スペシャル)を施したVRH35Zを搭載したニッサンR90CKが、90年のル・マン24時間レースで日本車として初のポールポジションを獲得することになったのです。
レースでは相次ぐトラブルに見舞われてリタイアする日産チームのマシンもありましたが、長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男組が5位入賞。日本車/日本チーム/日本人ドライバーとしてのベストリザルトを更新することになりました。
一方JSPCでは90年から92年まで3年連続してチャンピオンに輝いています。ここでも日産/NISMOのパフォーマンスが発揮されたのです。
Posted at 2020/09/14 19:09:57 | |
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