2021年07月16日
スバルの四駆比率は驚異の98%!? 約半世紀で2000万台販売! AWDにこだわる理由とは
■スバルが販売するクルマの98%がAWD車
スバルは1972年に量産乗用車として国内初となる全輪駆動車(AWD車)「レオーネ 4WDエステートバン」を発売して以来、約半世紀にわたって多くのモデルにAWDを設定してきました。そして2021年6月末、同社のAWD車の累計販売台数が2000万台を達成しました。
直近では、2018年から2020年(暦年)のスバルの販売実績(グローバル)において、全体の98%がAWD車と非常に高い比率を実現しています(他社からのOEM供給車を除く)。
国内では、スバルが自社生産するモデルで2WDを設定するのはFRスポーツの「BRZ」と「インプレッサスポーツ/G4」のみ。インプレッサはFFとAWDを設定していますが、それ以外のモデルは全車AWDです。
他社でも2WDと4WDを設定するモデルは数多くありますが、最近はSUVであっても2WDのみの設定というモデルも増えています。
そんななか、スバルではほとんどのモデルがAWDとなっていますが、なぜAWDに力を入れるのでしょうか。
スバルはAWDにこだわる理由について、「安全を最優先させることを目的とし、水平対向エンジンとシンメトリカルAWDを組み合わせて操縦安定性を図っています」と説明しています。
現在のスバルのAWD車は、全車が水平対向エンジンとシンメトリカルAWDの組合せを採用。
シンメトリカルAWDは、縦置きの水平対向エンジンを核とした左右対称のパワートレインで、低重心のエンジンと優れた重量バランスのパワートレインにより、安定性や走破性など優れた走行性能を発揮するのが特徴です。
「総合安全性能」を重視するスバルは、他社にはない独自のパワートレインを強みとし、クルマと乗員の一体感を高めるつくり込みを続けて高い次元での「安心と愉しさ」を実現しているというわけです。
なお、インプレッサにFFが設定される理由については、雪国以外のAWDを必要としない地域のユーザーに低価格で商品を提供するためといいます。
また、総合安心という面においてスバルは、次世代プラットフォーム「スバルグローバルプラットフォーム」による衝突安全性能や、運転支援システム「アイサイト」による予防安全性能など、さまざまな技術との相乗効果によってより安全なクルマを目指しています。
※ ※ ※
レオーネ4WDから始まったスバルのAWDですが、今後は電動車においても真価を発揮することになります。
ハイブリッドシステム「e-BOXER」搭載車では、モーター駆動の応答性の高さを活かしたより緻密なAWD制御により、雪上や氷上といった滑りやすい路面での安心感やラフロードなど悪路での走破性がさらに向上。
また、2022年発売予定のSUVモデルのEV「ソルテラ」、2020年代中盤に発売予定のストロングハイブリッド車においても、モーター駆動とAWD制御の協調でスバルのAWD性能は進化を続けていくようです。
スバル、AWD車の累計世界生産2000万台 1972年発売の「レオーネ4WDエステートバン」から49年で達成
スバルは8日、AWD(全輪駆動)車の世界累計生産台数が6月末で2千万台を超えたと発表した。1972年9月に発売した国産初の乗用タイプ全輪駆動車「レオーネ4WDエステートバン」に搭載してから49年目で到達した。スバル独自の技術として今後は電動車への活用を加速する方針だ。
スバルによると、2018~20年暦年の世界販売台数に占めるAWD車の比率は98%だった(OEM供給車を除く)。スバルのAWDは、重心が低く重量バランスに優れる水平対向エンジンと組み合わせることによる安定性や走破性の高さが特徴で、販売台数を伸ばしてきた。
足元では、マイルドハイブリッド技術「e―BOXER(eボクサー)」としてモーター駆動の応答性を生かした緻密なAWD技術の搭載車を、日本のほか世界各地域で展開。今後は22年の発売を予定するSUVの電気自動車(EV)である「ソルテラ」や20年代中盤に投入するストロングハイブリッド車にもAWD技術をフル活用する考えだ。
スバルのAWD車が初登場以来49年目で累計販売台数 2000万台を達成!
2021年7月8日、スバルは2021年6月末でAWD(All-Wheel Drive:全輪駆動)車の累計販売台数2000万台を達成したと発表した。(シンメトリカルAWD以外のAWDを含む)
AWDは電動化とも組み合わされて進化を続ける
スバルが最初に発売したAWD車は、1972年9月に登場した国産初の乗用タイプ全輪駆動車「スバル レオーネ 4WD エステートバン」だった(タイトル写真のクルマ)。以来、49年目でAWD車の累計販売台数2000万台を達成した。
現在、スバルの世界販売台数に占めるAWD車の割合は98%にのぼり、そのすべてが水平対向エンジンとの組合せによるシンメトリカルAWDとなっている。(2018~2020年の暦年販売実績ベース。他社からのOEM供給車を除く)
シンメトリカルAWDの最大の特徴は、縦置きに配置した水平対向エンジンを核として左右対称にレイアウトされたパワートレーンで、水平対向エンジンのもたらす低重心とパワートレーンの優れた重量バランスがAWDの安定性・走破性を最大限に引き出し、あらゆる天候・ 面で優れた走行性能を発揮すること。スバルはこのハードウエアの強みに加え、「人を中心としたクルマづくり」の 考え方のもと、クルマと乗員の一体感を高めるつくり込みを続け、高い次元での「安心と愉しさ」を実現してきた。
また、スバルの安全思想と走りの愉しさを支える中核技術としておよそ半世紀にわたって磨かれたAWD性能は、電動化においても進化を続けている。日本をはじめ世界各地域で展開する「e-ボクサー」搭載車では、モーター駆動の応答性の高さを活かしたより緻密なAWD制御により、雪上や氷上といった滑りやすい路面での安心感や、ラフロードなど悪路での走破性がさらに高められた。
2022年に発売予定のSUVモデルのEV「ソルテラ」や、2020年代中盤に発売予定のストロングハイブリッド車においても、モーター駆動とAWD制御の強調でスバルのAWD性能は進化を続ける。
スバルでは、今後も独自のコア技術を進化させるとともに、時代変化に応じた将来技術を養い、高めながら「スバルらしさ」を磨き続け、世界中のユーザーに「安心と愉しさ」を提供していくという。
スバルWRC三連覇の「大いなる助走」!「レオーネ」&「レガシィ」が果たした功績とは
スバルWRC参戦の黎明期に活躍したレオーネ&レガシィ
スバルのモータースポーツと言えば、先ずは1995年から1997年まで3連覇を果たした世界ラリー選手権(WRC)での活躍が連想されます。この間の主戦マシンは「インプレッサ」でしたが、その栄光の歴史へと繋がるパイオニアとなったモデルが「レオーネ」と「レガシィ」でした。今回は、この2台のパイオニアを振り返ってみます。
レオーネに世界初の量産乗用4WD車をラインアップ
レオーネの登場は1971年の10月。スバル(当時は富士重工業)は、初の小型乗用車となったスバル「1000 ff1 1300G」の後継上級モデルとして企画開発されたもので、先ずは2ドアのクーペのみでスタート。これに4ドアセダン、2ドアセダン、さらに4ドアセダンのルーフを伸ばしてリヤゲートを設けたエステート、そして2ドアハードトップも追加。シャーシとしては水平対向4気筒エンジンで前輪を駆動することがすべてに共通していましたが、最終的には5車形がラインアップされることになりました。
このレオーネに4輪駆動(4WD)が加わったのはデビューから1年たった1972年8月のこと。エステート/バン・ボディにパートタイム式のシステムを組み込んだ「エステート バン 4WD 1400」がラインアップされたのです。じつは先代の1300Gの時代にも、東北電力や宮城スバルと共同で開発したスバル「ff1 1300Gバン 4WD」が20台ほど製作されていましたが、レオーネへの移行がすでに決まっていたことから、これが量産されることはなく、乗用4輪駆動車として初の量産モデルの栄誉は1300Gではなくレオーネに与えられることになったのです。
スバル1000からの大きな技術的特徴である水平対向エンジンに加え、4WDシステムを手に入れたことで、現在に続くスバルの技術テーマ、シンメトリカルAWDが完成し、ここからスバルは精力的にラリー活動を開始することになりました。
1980年に悲願のWRCに参戦! サファリラリーでデビュー
スバルは、1000 ff1 1300Gの頃から熱心にラリー活動を続けていました。もっとも当時はメーカーが前面に立っての参戦ではありませんでしたが、有力なドライバーの手によって国内最高レベルのラリー競技に参戦を続けていました。
筆者は当時、モータースポーツ専門紙のリポーターとしてラリーを取材していましたが、三菱ランサーやトヨタのレビン/トレノに交じって孤軍奮闘するスバルは、ライバルと違って前輪で路面を蹴るために、ホイールベース間のフロアに砂利を蹴り上げることになり、ガレ場でのステージではフロアに石礫の当たる音がこだましながら近づいてきます。そこで、マシンを待つ報道陣は「スバルが来た!」となったことを記憶しています。
そんなスバルが初めてWRCに参戦したのは1980年のこと。かねてより念願となっていたサファリラリーへの挑戦が叶ったのです。この時の競技車両は前年に登場した2代目レオーネで、新たに加わった3ドアハッチバックのスイングバック1600 4WDでした。チューニングが厳しく制限されたグループ1仕様での挑戦は、高岡祥郎/M.ゴーヒル組と平林武/A.カーン組の2台体勢でのエントリーでした。
久々に完全ドライとなった1980年のサファリラリーは、非力なグループ1仕様にとってはタフなコンディションとなり、高岡/ゴーヒル組はエンジントラブルでリタイアしてしまいましたが、もう1台の平林/カーン組は総合18位で完走。グループ1で見事クラス優勝を果たしています。その後もスバルは、年に一度のサファリ参戦を続け、1980年代を通して4度のクラス優勝を果たしています。
STiとプロドライブがタッグを組み数々の栄光を手に入れた90年代
その後、1989年1月にスバルの屋台骨を支える基幹車種となるレガシィが登場することになりました。前年にスバルのモータースポーツを統括するスバルテクニカインターナショナル(STi)が設立されており、レガシィは当初から『戦うクルマ』であることが運命づけられていたかのように、それまで以上に精力的にWRCチャレンジを開始することになりました。
具体的には当時、BMWのワークスチームとしてM3でWRCに参戦していたプロドライブと契約し、1990年のWRC第5戦アクロポリスから本格参戦を開始しています。じつはデビュー戦となるアクロポリスの2カ月前に行われたサファリラリー(こちらはWRC第3戦)にも参戦していますが、この時は国内で仕立てたレガシィRSでの参戦でした。
そしてアクロポリスからはプロドライブで製作した車両で参戦。同じグループA仕様のレガシィRSでありながら、やはりラリー・スペシャリストのプロドライブが仕立てた車両は、まさに本物のマシンでした。初年度には結果に繋げることはできませんでしたが、グラベルでの速さは天下一品で、高い評価を受けることになりました。
レガシィからインプレッサへマシンをスイッチ! 戦闘力が大幅に向上
その一方で、レガシィで鍛えられた主要コンポーネントをひと回りコンパクトなボディに組み込んだ進化モデルともいうべきインプレッサが誕生することになりました。1992年10月にベースモデルが登場したインプレッサのWRC用参戦車両の開発が着々と進む中、レガシィはなかなか勝利を奪うことができないままでいました。
このままではWRCで未勝利のままインプレッサに主戦の座を譲るのでは、とも噂されるようになりましたが、スバルでは何とか優勝を飾って引退の花道にとWRC参戦を続けていきました。
そしてその日がとうとうやってきました。1993年8月、シリーズ第8戦のニュージーランドがその舞台となりました。ドライバーはコリン・マクレー。1991年に抜擢されてチーム入りし、WRCを戦う傍らでイギリスラリー選手権にも参戦、こちらでもレガシィを駆って1991年~1992年と連覇していた彼は、WRCでもその速さをいかんなく発揮。
レガシィとスバルに初優勝をもたらすとともに、彼自身も記念すべきWRC初優勝を飾りました。そしてこの優勝をきっかけにレガシィはWRC主戦の座をインプレッサに譲り渡すことになりました。
ニュージーランドの次戦、フィンランドで戦われた1000湖ラリーではインプレッサが勇躍デビュー。ベテランのアリ・バタネンのドライブで、デビュー戦即優勝かと思われる速さを見せつけて2位入賞。
そしてトップコンペティターとなったインプレッサは、1995年に初のワールドタイトル(マニュファクチャラー&ドライバーのダブルタイトル)を手にするとともに、メイクスタイトルについては1997年まで3連覇。我が世の春を謳歌することになるのですが、そんなインプレッサの活躍は、また別の機会に紹介することにしましょう。
【アフリカの大地に勝てるか】WRCサファリ・ラリー 復活を歓迎する理由 豊かな歴史とケニアの自然
ラリーの象徴的ステージ
世界で最も有名なラリーといえば?モンテカルロはもちろんだが、その次に有名なのがサファリだろう。
そのサファリが世界ラリー選手権(WRC)に19年ぶりに復活した。復活といっても、一般道ではなくクローズドのスペシャルステージを走るなど、かつてのような激しい戦いではないが、その名に恥じないものになっている。
事実上、サファリは誰にとっても真新しいイベントなのだ。現在、ランキングトップのトヨタは、サファリで素晴らしい戦歴を持っているが、ケニアでの最後の勝利は1995年にさかのぼる。
トヨタのモータースポーツ・アドバイザーであるトミ・マキネンは、サファリで2度の優勝経験がある。彼の経験とアドバイスが、6月24~27日のレースでトヨタの優位性を強固なものにした。
ヒュンダイでは、レギュラーラインナップに加えて、オリバー・ソルベルグがi20 WRCのステアリングを握ってグラベルデビューを果たす。ちょうど22年前、彼の父親であるペッターが、トーマス・ラドストロームの骨折後、土壇場でフォードのファクトリーチームに起用された。ペッターはその後、5位に入賞した。
フォードは2002年にコリン・マクレーがWRCサファリで優勝しているが、今年はガス・グリーンスミスとエイドリアン・フルモーの2人がファクトリーのラインナップに名を連ねている。
Mスポーツは、新型コロナの渡航制限により最小限の人員しか派遣されておらず、チーム代表のリチャード・ミリナーも自宅待機となっている。彼は最新の通信技術を駆使して遠隔地からチームをマネジメントすることになった。
しかし、今回のイベントで最も人気のあるドライバーは、WRC3に参戦する91歳の元欧州チャンピオン、ソビエスワフ・ザサダ氏(ポーランド)が駆るフィエスタだ。ラリーの歴史と深い関わりのある彼は、1997年以来のサファリ参戦となった。
最も「映える」ラリー?
サファリ・ラリーは、黙示録的な暑さや豪雨などの極端な天候だけでなく、目を見張るような景観も含めて、すべてが極端だ。この極端さと豊かな歴史が、レースを特別なものにしている。
キリマンジャロを背景に、マサイ族の人々が見守る中、クルマがジャンプする様子が記録された過去の映像を見ると、サファリは世界で最もフォトジェニックなラリーであることは間違いない。
かつては数百kmにも及ぶ競技区間を、一般の交通機関が行き交うオープンロードで走っていたこともあり、クルーが地元の人々と交流する場面も多く見られた。スポッターのヘリコプターとクルマが無線で結ばれ、前方の危険(象の群れなど)を知らせながら、想像を絶する悪路を走る。
このような状況に対応するために、各チームは強化ボディシェル、デイタイム・ランニングライト、水場を乗り越えるための「シュノーケル」と呼ばれる排気装置などを備えたカスタムメイドのクルマを作っていた。ダカールとキャノンボールランを掛け合わせたようなものだと思えば、イメージがつかみやすいだろう。
サファリの魅力の大部分は、基本的に「無法地帯」であるという点にあった。グループB時代には、ある有名メーカーがルートの途中でクルマを丸ごと交換して不正を働いたという伝説もあるほどだ。つまり、現代の感覚に合わせてサファリを変える必要があったのだ。
現在のサファリは、デラメア・エステートのような私有地の中を走るという、まったく異なるものになっている。しかし、ラリーの主催者は、サファリに携わっていた者が多く、オリジナルの精神に沿ったものを約束してくれた。つまり、クルマが壊れることは間違いなく、観客の中にはシマウマもいるということだ。
6月24~27にわたって繰り広げられたサファリ・ラリーの結果については、ここで深く触れることはしないが、多くのファンにとって見ごたえのあるものだったのではないだろうか。ザサダ選手も再挑戦への意欲を見せているようだ。
5つの忘れられない瞬間
●1963年「アンシンカブル・セブン」
1963年に開催されたラリーは、サファリの基準から見ても非常に過酷なもので、84台のマシンが3100マイル(約4990km)のルートに挑んだものの、完走したのは7台だけだった。1968年も完走車は7台で、ドライバーとコ・ドライバーは「アンシンカブル・セブン(沈まぬ7台)」の一員として知られるようになった。
1968年に完走したドライバーのうち2人(ニック・ノヴィッキとジョギンダ・シン)は、1963年でも完走している。
●1972年「ザサダの911」
ケニア人は、自国のイベントでは常に優位に立っていた。しかし、欧州勢もこの特殊な地形での速さを徐々に身に着け、1972年、フォード・エスコートを駆るハンヌ・ミッコラがついにこの状況を打破した。
準優勝したのはポルシェ911を駆るソビエスワフ・ザサダだった。彼のマシンは、前年にポルシェのファクトリーチームから借りたままケニアに残っていたもので、メカニック1人と、休暇でたまたま現地に来ていたポーランド人の2人のボランティアだけで整備していた。
●1990年「最年長記録」
1990年のサファリ・ラリーで、ビヨン・ワルデガルドは46歳と155日で16回目となる最後の優勝を果たし、最年長記録を樹立した。
トヨタ・セリカのウォーターポンプの消耗が激しく、ケルンのファクトリースタッフが金曜日の夜、スーツケースいっぱいのスペアを持ってナイロビ行きの飛行機に乗り込んだほど過酷なレースだったが、ワルデガルドは38分もの大差をつけて勝利した。
●1999年「フォーカスに焦点を合わせる」
革命的な新型フォード・フォーカスWRCのデビューは決して容易なものではなかった。モンテカルロ・ラリーでウォーターポンプに問題があり失格となったのだ(ワルデガルドも同情しただろう)。第3戦のサファリは最も過酷な試練となるため、期待値は決して高くなかった。
コリン・マクレーが15分差で優勝するとは誰も想像しなかった。Mスポーツを率いるマルコム・ウィルソンは、この勝利を自分のキャリアの中で最も誇りに思える瞬間の1つだと今でも語っている。
●2002年「砂中のバーンズ」
このラリーで2度の優勝経験を持つリチャード・バーンズは、サファリに親しみを持っていた。彼の流れるようなドライビングスタイルは、クルマを壊すようなルートに完璧にマッチしていた。
2002年の第2戦では5位を走っていたが、サスペンションが壊れてしまった。彼のプジョーは問題なく走り続けた。しかし、55kmほど走らせところで、サービスパークを目前にして柔らかい砂に埋もれてしまったのだ。必死になって砂を掘っている彼を見ていても、ルール上、誰も助けることはできない。英AUTOCAR編集部の記者は、長年ラリーを取材してきた中で最も歯がゆい思いをしたことの1つだ、と語っている。
「世界で進行するクルマの電動化」SUBARUは2030年までに40%をBEVまたはハイブリッドに
SUBARUは「脱炭素社会への貢献は企業として必須の取り組み」と考え、2030年までに全世界販売台数の40%以上をBEVもしくはHVにする長期目標を立てている。
また、2030年代前半には、生産・販売するすべてのスバル車に電動技術の搭載を目指す。ここでいう電動技術とは、BEVもしくはHVなど、電動利用を高める技術を指し、他社からOEM供給を受ける車種は除く。
スバルは2012年にマイルドHV(e-BOXER)、2018年にPHVを市場に投入。2020年代前半にはストロングHVを投入する予定だ。BEVも2022年に投入する予定で、CセグメントのSUVに搭載する予定。電動化の基幹技術開発はアライアンスも活用しながら加速し、CO2削減を図りつつも、スバルらしい個性あるクルマ作りを行っていく考えだ。
2050年にはWell to Wheelで新車平均(走行時)のCO2排出量を2010年比で90%以上削減する目標を掲げている。
零戦が搭載した「栄」とSUBARUに息づくDNA【名車の起源に名機あり】
零戦が三菱重工製であることは知られているが、その心臓部であるエンジン「栄」が中島飛行機製、つまり現SUBARU社が開発したものだということをご存じだろうか? 当時のままのその「栄」を搭載した、当時のままの零戦が今も1機だけ、米カリフォルニア上空を飛んでいる。今回は、筆者がCAで空撮取材したその「現存零戦」の概要をお伝えしたい。
文/鈴木喜生、写真/藤森 篤、SUBARU
SUBARUの源流、航空機メーカー「中島飛行機」
かつて世界に名を馳せた日本帝国海軍の「零戦」。この名戦闘機を開発したのは三菱重工業だが、そのエンジンには中島飛行機製の「栄発動機」が採用されていた。中島飛行機株式会社とは、ご存じのとおり現在のSUBARU社だ。
堀越二郎技師によって設計された零戦は、試作機の段階では三菱製のエンジン「瑞星」を搭載していたが、しかし同時期、中島飛行機がより高性能な栄発動機を完成させたため、この機体を発注した海軍の判断によって栄発動機が搭載されることになったのだ。
敗戦国である日本の兵器は、そのほとんどが戦勝国によって破棄されている。しかし、戦後80年近くが経つ現在も、オリジナルの栄発動機を搭載し、機体自体も限りなくオリジナルに近い零戦五二型が、アメリカにただ1機だけ現存しているのだ。しかもそれは飛行可能な状態が保たれている。
筆者がその機体を空撮するため、カリフォルニア州チノにある「プレーンズ・オブ・フェーム航空博物館」(以下、POF)を訪れたのは2012年。ここには第二次大戦時に使用された機体が数十機、飛行可能な状態で保存されている。この五二型も同館のコレクションのひとつだ。
POFでメンテナンス中の零戦五二型。現在のSUBARU、旧中島飛行機が開発したオリジナルの「栄発動機」を搭載
今も飛行可能な零戦五二型と、オリジナルの「栄発動機」
カウルが外されると、空冷星型複列14気筒の栄発動機が現われる。POFスタッフによると、キャブレターのほか、プラグと電装系パーツは新しいものに交換しているが、シリンダーやクランクケースなどの主要パーツは、当時のものをオーバーホール、あるいは多少の手を加えて使用しているという。経年を感じさせないそのコンディションの良さから、丹念に整備されていることがすぐさま理解できる。
星型複列14気筒とはつまり、放射状に配された7つのシリンダーがひとつのユニットを構成し、それを前後にふたつ、2列に組んだ空冷式エンジンのことだ。
総排気量は27.9リッター。それぞれのユニット内には7本足のコンロッドが延びている。マスター・コンロッドの軸間は280mm。ピストンひとつの重量は1.23kg、ボア130mmと巨大であり、クルマやバイクのものを見慣れた我々からすると、そのサイズは異様なまでに大きく感じられる。
栄発動機のコンロッド。「R」とあるのがマスター・コンロッド。その他はリンク・コンロッド
2機の零戦が里帰り
オリジナル機にはない後付けのセルモーターで栄が始動すると、「バッバッバッバッ」という乾いた音が鳴り響き、排気管から白煙が噴出する。スペック的には離昇馬力1130hp/2750rpmとされているが、なんせ同機はクラシック機なため無理は禁物。スロットルの出力は離陸時80%、巡航時60%に抑えているという。
この取材で我々はさらに、ロシアの工房で新造されたという零戦二二型を2機、米国の他所から呼び寄せチャーターしていた。そして、POF所有の五二型とともに、計3機でのフライトを依頼し、空撮に臨んだのだ。大戦時、零戦は3機で「小隊」を構成して飛行したため、それを再現するための空撮取材だった。
ちなみに、この時に撮影した二二型は、回収された零戦の残骸からリバース・エンジニアリング方式によって型を起こし、ロシアで新造されたもので、うち1機の機体標識番号は「AI-112」。つまり、2017年に幕張でデモフライトを行った機体である。
また、POFが所有するオリジナルの五二型の機体標識番号は「61-120」であり、我々がこの空撮を行った翌年の2013年、埼玉県の所沢航空発祥記念館に里帰りしている。その際、エンジン始動とタキシングが行われたことを記憶されている方も多いだろう。
手前がPOFのオリジナル五二型「61-120」、続いてロシア製の二二型「X-133」と「AI-112」
戦闘機から「超音速機」へ
中島飛行機とは、ここで紹介した栄発動機だけでなく、「九七式戦闘機」、「隼」、「鐘馗」、「疾風」など、数多くの名戦闘機を世に送り出した航空機メーカーである。
戦後、中島飛行機は「富士産業」と改称され、GHQによって航空機の開発・製造が禁止された。そのため自転車やスクーター、やがてバスなどを生産したが、1950年には財閥解体によって、各地の工場ごと、十数社に分割されることになった。
しかし、1952年から53年にかけて、同グループの主要5社が再合併し、航空機の生産することを目的にした「富士重工業株式会社」が発足。そのきっかけとなったのは、自衛隊の前身組織である保安隊のために、アメリカの航空機メーカー、ビーチ・エアクラフト社の単発レシプロ練習機「T-34メンター」を、ライセンス生産する権利を得たことによる。つまり富士重工業は、自動車の生産を本格化させるよりも早く、航空機の生産を再開させたのだ。
そして、「SUBARU」となった現在も、航空宇宙事業は連綿と継続されていて、旅客機の生産にも参画。ボーイング787型機において、もっとも剛性が必要な主翼中央部に、世界ではじめて炭素複合素材を使用するなど、革新的な技術を投入するなどの実績を挙げている。また、米国ヘリコプター・メーカー「BELL」社の機体をライセンス生産。さらに、今月6月16日には、JAXA、三菱重工、川崎重工、IHIなどとともに、国産の「超音速機」の研究開発において連携することが発表されている。
2020年、SUBARU社はボーイング787型機の主翼中央部の生産において、1000機を達成している(写真/SUBARU)
「栄」エンジンのDNAは現代のSUBARUにも継承されており、ポルシェとともに世界でも稀少な水平対向エンジンという独自技術を守り続けている
Posted at 2021/07/16 23:27:09 | |
トラックバック(0) |
富士重工 | 日記