2022年03月08日
バカッ速だけど真っ直ぐ走らせるのが困難! 衝撃の気むずかし屋スーパーカー「ランチア・ストラトス」とは
3年連続でWRC王者に輝いたストラトス
フェラーリ製のV6エンジンをミッドシップに搭載したスーパースポーツカーでいながら、ランチア・ストラトスはランボルギーニ・カウンタックとフェラーリ512BBを2トップとするスーパーカーとは異なった立ち位置となっていました。
その最大の理由は単なるスーパーカーではなく、モータースポーツ、とくにラリーの最高峰WRCを戦うために生まれたファイターだったからでしょうか。今回は、1973年から始まったWRCを1974年から1976年まで3連覇、「真っ直ぐ走るのは困難!」とさえ形容されたランチア・ストラトスを振り返ります。
WRC専用マシンが誕生した“裏事情”
ランチア・ストラトスの祖となったのは、ベルトーネが1970年のトリノ・ショーに出展したコンセプトカー、ストラトスHFゼロでした。ランチア・フルビアの1.6L V4エンジンや足まわりなどのコンポーネントを使用していたストラトスHFゼロを、ベルトーネはランチアに新たなスポーツカーとして提案したのです。
新進メーカーのランボルギーニは、1966年にミウラを登場させ、スポーツカーのトップメーカー、フェラーリも1960年代後半にはディーノ206GTをリリースするなど、ミッドエンジンのスポーツカーも巷で見受けるようになっていました。ですが、まだスーパーカーはブームとなる直前のタイミングでしたから、ベルトーネには先見の明があったということでしょうか。
しかしランチアは当初、スポーツカーよりもフルビアに代わって世界ラリー選手権(WRC)で活躍するラリー・マシンを用意するのが急務の課題とあって、新時代のスポーツカーを目指したストラトスHFゼロは、とても魅力あるプロポーザルという訳ではありませんでした。
しかし、このプランに興味を持つ人物がいました。ランチアでラリーのワークスチームを率いていたチェザーレ・フィオリオにとっては、ストラトスHFゼロのパッケージがとても魅力的に映ったのです。そこで、ミッドシップによる高い運動性能に加えて整備性と信頼性を確保することを条件にストラトスの実車化を進めるよう、ランチアの経営陣に進言しています。
開発にはふたりのキーパーソンを指名したランチア
当時のWRCの主役はグループ4でした。ホモロゲーション(車両公認)を得るためには連続する24カ月間に400台生産される必要がありますが、ランチア経営陣はこれを十分に可能と判断。こうしてランチアのフルビアHFに代わって、次期ラリーマシンとなるストラトスのプロジェクトがスタートすることになりました。
開発に当たってランチアはふたりのキーパーソンを指名しています。かつて、ランボルギーニ・ミウラで共同作業の経験があったマルチェロ・ガンディーニとジャンパオロ・ダラーラです。デザインを担当したガンディーには当時、ベルトーネのチーフデザイナーを務めていましたし、一方のシャシーを担当したダラーラは1970年にデ・トマソを退社していて1972年にレーシングカーコンストラクターのダラーラ・アウトモビーリを創設するまでフリーランスとして活動中でした。
立場は違っていましたが、ともに新進気鋭のふたりは自らが持つ感性と技術理論を結実させ、ラリーマシンと呼ぶにふさわしいランチア・ストラトスを完成させています。ちなみにこのコンビはこの前後にランボルギーニ・ハラマやフィアットX1/9 でも名コンビぶりを発揮しています。
パッケージからも容易に想像できたコーナリングマシン
それでばストラトスのメカニズムを紹介していきましょう。まずはクルマのキャラクターを決定づけるパッケージから。フィオリオが要求した最初の課題、高い運動性能を実現するために、エンジンはフィアット・グループ同門のフェラーリからディーノ用2.4L V6を獲得。
これをミッドシップに搭載するシャシーは、キャビン部分のモノコックと、その前後にパイプで構成したサブフレームを組み合わせたもので、サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーンでリヤはストラット式。
特徴的だったのは前後のトレッド1430/1460mmに対してホイールベースが2180mmと極端に短かったこと。WRCの前任マシンであるフルビア・クーペに比べてトレッドがフロントで40mm、リヤが125mmも幅広くなっているのに対してホイールベースは何と150mmも短縮されています。
実際問題、全長が3mだったころの軽乗用車で、もっともホイールベースが長かったシャンテと比べても20mm短く、超ショートなホイールベースとなっています。これはラリーマシンとしての資質を高めるための手法えです。
一般的にホイールベースが長くなれば直進安定性が高まり、反対にホイールベースが短くなれば回頭性が高まってコーナリングでアドバンテージが生まれると言われています。これだけホイールベースが短いと、ドライビングはとてもセンシティブになり、ドライバーを選ぶクルマになったであろうことは想像に難くありません。
ラリーを戦ったドライバーは「まっすぐ走るのは困難で気が抜けない」
実際ストラトスでラリーを戦ったドライバーからは「真っ直ぐ走るときにもまったく気が抜けない」、「コースがすべてコーナーだったらいいのに!」などというコメントが聞かれるほどだったようです。
それだけドライビングに対してシビアだったストラトスですが、ワークスチームの“腕利き”がドライブすると、ターマックでもグラベルでも路面を問わず、さらには氷雪路においてもライバルを圧倒する速さを見せつけることになりました。
まだグループ4としてのホモロゲーションがなく、プロトタイプクラスでのデビューとなった1972年のツール・ド・コルスではサスペンションのトラブルでリタイアに終わったものの、このときから速さの一端を見せていました。
そして1974年の10月にグループ4としてのホモロゲーションが発効されると、翌2日から始まったサンレモ・ラリーに参戦してエースのサンドロ・ムナーリが快走。グループ4のデビューを優勝で飾っています。さらに2週間後にカナダで開催されたリデウ湖ラリーでムナーリが連勝。さらにシリーズ最終戦となったツール・ド・コルスではジャン-クロード・アンドリューが1973年のモンテカルロにアルピーヌで優勝を飾って以来の2勝目をマークしました。
このシーズンでストラトスは都合3勝を挙げ、ランチアはWRCで念願だったマニュファクチャラータイトルを手に入れることに。さらに1975年と1976年にもそれぞれ4勝ずつをマークして3年連続でWRC王者に輝いています。
1977年からは同門のフィアットがWRCを戦うことになり、ストラトスの活躍の場はサーキットへと移っていきます。ル・マン24時間などのスポーツカー世界選手権に加えてタルガフローリオのような公道クラシックイベントにも参戦。
ラリーではグループ4仕様で戦っていましたが、こうしたレースではホイールベースを延長するなどしてグループ5に移行していました。一方、グループ4仕様のままツーリングカーレースに参戦し、1981年にはスペインのツーリング化選手権で王者となりました。
ヨーロッパで盛んだったラリークロスでも活躍し、F1ドライバーとして活躍したアレクサンダー・ブルツの父、フランツ・ブルツが76年にはERAヨーロッパラリークロス選手権でチャンピオンに輝いています。
Posted at 2022/03/08 21:14:28 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2022年03月08日
ブリッツ、OBD接続で車両情報をモニタリングする「タッチブレインプラス」発売 ドライブ映像との合成も可能
ブリッツ(山口聡社長、東京都西東京市)は、車載式故障診断装置(OBD)のコネクターに接続するだけで、電子制御装置(ECU)の情報をモニタリングできる「タッチブレインプラス」など電子機器類の新製品を発表した。従来から薄型化しながらも画面サイズを大型化し、操作性を引き上げた。さまざまなグラフィックや90種類以上の表示が可能で、よりドライブを楽しめるようにしている。また、重力加速度を測るセンサーを内蔵しており、サーキットでのラップタイムの計測などにも利用できるという。
新製品は専用のスマートフォンアプリとも連携。本体から取得したOBDデータとスマホで撮影したドライブ映像とを合成することもできる。
同社では、カーエレクトロニクス部門の強化を図っており、年内に新たなドライブの楽しさを体験できる複数の電子機器製品をリリースしたい考えだ。
Posted at 2022/03/08 21:11:42 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2022年03月08日
国内初のLNG燃料フェリー「さんふらわあ くれない」が進水
株式会社フェリーさんふらわあが、2023年春に就航予定の新造船2隻のうち、1番船の命名・進水式が3月3日に、三菱重工業下関造船所江浦工場で行なわれた。新造船は別府市の長野恭紘市長により「さんふらわあ くれない」と命名された。
「さんふらわあ くれない」はフェリーさんふらわあの株主である商船三井が三菱造船に発注。2022年12月に三菱造船から引き渡され、2023年1月より大阪~別府間を運航する。1997年から同区間を運航する「さんふらわあ あいぼり/さんふらわあ こばると」の代替船となる。
「さんふらわあ くれない」は日本国内初のLNG燃料フェリーだ。主機関にLNGとA重油それぞれを燃料として使用できる高性能デュアルフューエルエンジンを搭載し、環境負荷の低減を図る。長さ約199.9m、幅28.0m、総トン数約1万7300トン、最大旅客定員数716人で、13mトラック約137台および乗用車約100台の積載能力がある。
本船のテーマは「復活ときずな(KIZUNA)」だ。フェリーさんふらわあでは「きずな」というテーマに、世代を超えて家族が集い、船旅を楽しむという願いを込めた。そんな家族のつながり=きずなを再認識する場として、長距離フェリー初となる「コネクティングルーム」を設置し、3世代で楽しめる空間を提供する。
客室区画は定員一人当たり面積を従来船より拡大し、最上階8階の客室にはクルーズ船並みのバルコニー付きのスイートフロアを設置する。大浴場とレストランも拡大、3層吹き抜けのアトリウムをはじめとしたゆとりある開放的なパブリックスペースを設置するなど、「カジュアルクルーズコンセプト」を拡充する。
車両区画は既存船に比べてトラックの積載台数を大幅に増やし、ドライバーズルームの拡充や定員一人あたりの面積を大幅に拡大。これによりモーダルシフトへの対応を促進する。
「さんふらわあ くれない」は国内フェリー初となる、LNGと重油それぞれを燃料として使用できるデュアルフューエルエンジンを搭載した。LNG燃料を使用することで、二酸化炭素(CO2)を約25%、硫黄酸化物(SOx)を約100%、窒素酸化物(NOx)を約85%、排出削減する効果が見込める。
「復活」のテーマは船名に象徴される。「さんふらわあ くれない」の名前の由来は110年前に遡る。大阪商船(現:商船三井)が1912年、阪神~別府航路の開設と同時に投入した貨客船が初代「紅丸」だった。初代「紅丸」は石炭燃料の船舶だが、1924年に就航した2代目「紅丸」は当時の最新技術だったディーゼルエンジンを搭載した。1960年就航の3代目「くれない丸」(平仮名)は豪華な内装を備え、「瀬戸内の女王」と称された。技術進化と共に人々の交通や観光の夢を叶えた船として名を馳せた「くれない丸」が日本初のLNG燃料フェリーとして復活する。
Posted at 2022/03/08 21:09:48 | |
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