世界ラリー選手権のクルマってどうして小型車がベースなの?
FIA世界ラリー選手権(通称WRC)に参戦している日本メーカーは、現在、トヨタだけですが、過去にはスバル、三菱、日産、マツダなども参戦していました。日本車のWRC全盛時代を知っている方ならご存知かと思いますが、現在のWRCマシンは、当時よりもコンパクトになっています。その理由を解説しましょう。文・赤井福
WRCと日本の関係
WRCの歴史は1973年まで遡ります。それまで各地域で開催されていた選手権をFIA(世界自動車連盟)が統合し、世界選手権として開催されました。
日本人に馴染みが深いのは、トヨタ、スバル、三菱などが参戦していた1990年代ではないでしょうか。当時は、セリカ、インプレッサ、ランサーエボリューションが活躍していた時代でした。WRカーのベースとなった市販車は、比較的安価に購入できたため、大変な人気がありました。
その後は、レギュレーションの変更や、メーカーやスポンサーの懐事情によって、日本メーカーの参戦が減り、近年はヨーロッパメーカーがWRCの中心にいます。
変遷するレギュレーション
日本メーカーが活躍した1990年代のWRCは、グループAというレギュレーションによって覇権が争われていた時代で、マシンは連続した12ヶ月間に5,000台以上が生産されていれば参戦が可能でした。
しかしレースが激化してくると、2WDでは太刀打ちできず、いずれのメーカーも、2.0Lターボエンジンとフルタイム4WDを使うようになります。
ところが、すべてのメーカーが2.0Lターボ+4WDの市販モデルをラインナップしているわけでもなく、必然的にWRCに参戦できるメーカーが限られてしまうことから、1997年よりWRカー規定が導入されることになります。
WRカー規定では,市販車が2WDでも4WD化への変更が可能で、加えてワイドボディ化、リアサスペンションの変更、メーカー内であればエンジンの換装やターボ装着も可能とし、WRC参戦の門戸を広げました。
メーカー各社は、運動性能上、有利となる小さなベース車のボディに2.0Lターボ+4WD化を施したマシンを開発。これが、1999年から2010年までにトヨタカロ―ラやプジョー206・307、フォードフォーカス、VWポロなど、ハッチバックスタイルのWRカーが増加した理由でした。
そして2011年のレギュレーション変更では、1.6Lターボエンジンを搭載することが決まります。1.6Lクラスのエンジンを搭載している市販車は、日本車でいうとヴィッツやスイフトなどのA-Bセグメントのコンパクトクラスでした。
そのため、欧州のチームも含めて、各メーカーはベース車両として、ボディサイズが大きすぎず、かつ販売戦略的に目立たせたい車を採用していると考えられます。
このルールのなかで、フォードはフィエスタ、シトロエンはDS3、ミニがジョン・クーパーワークス、フォルクスワーゲンポロ、トヨタヤリス(日本名ヴィッツ)と、各メーカーのコンパクト車が参戦しています。市販車ベースであるWRCでは専用車両の設計が認められていないので、おのずと小型ハッチバックのクルマでの参戦となってしまうのです。
門戸が開かれないWRC
低予算で参戦しやすいよう、レギュレーションを変更したはずが、車両規格の問題で参戦できないメーカーも多くあります。
WRCは、市販車がベースで、一定量の販売台数も車両規定に反映されており、ベース車両になるコンパクトハッチバックを持たないメーカーには門戸が閉ざされています。かつてWRCで活躍したスバルや三菱の復活も日本では熱望されていますが、現状の市販車ラインナップでは、参戦は難しい状態です。
現在、唯一日本メーカーとして参戦しているトヨタの豊田章男社長はWRC参戦の目的を「もっといいクルマを作るため」としています。フォーミュラカーと違い市販車をチューニングして走るWRCは、市販車両へのフィードバックがしやすく、集めたデータも市販車改良や開発に使うことができます。
もっといいクルマを作るための参戦は納得できますし、さらに多くのメーカーがWRCへ参戦できる環境を作ることで、新たな技術やいいクルマの開発が加速していくのではないでしょうか。
大きなクルマをつくるより、コンパクトクラスのクルマをつくるほうが大変で、その大変な市販車をベースに戦うWRCは、いい方向へレギュレーションを変革していると感じます。
コンパクトクラス中心のルール作りは変えることなく、条件を緩和して多くのメーカーが参戦できるような仕組みを作っていって欲しいものです。
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文・赤井福
大学卒業後、金融業に従事。その後、6年間レクサスの営業マンとして自動車販売の現場に従事する。若者のクルマ離れを危惧し、ライターとしてクルマの楽しさを伝え、ネット上での情報発信を行っている。
孤高のラリーカー!? 神格化されるランチア ストラトスとはどんな車?
2018年のジュネーブショーで発表された、新型ストラトス(ストラトスコンセプト)の発売決定のニュースに驚かれた方も多いと思います。わずか25台の限定発売される新型ストラトス。その祖となる本家ストラトスとは、いったいどんなクルマだったのでしょうか?かつてラリーシーンを席巻した伝説の車、ランチアストラトスについて見ていきましょう。文・西山昭智
ストラトス・ゼロがすべての始まり
成層圏という意味を持つストラトスのデビューは、1970年のトリノショーでのこと。ストラトス・ゼロという名前で発表されたコンセプトカーが、すべての始まりでした。このコンセプトカーは、カーオーディオのCMでも登場しているので、テレビで見かけた方も多いと思います。
このときランチアにはフルヴィアというモデルがラリーシーンに投入されており、次なるラリーカーの新星を待ち望んでいた時代。そこでランチアは、ベルトーネが手がけたこのストラトス・ゼロをベースとして次世代のラリーカーを製作することになったのです。
そして翌年のトリノショーでは早くもストラトスタイプ1が発表。市販前モデルでありながら1973年のタルガ・フローリオに参戦、2位という成績を収めたのち、グループ4のホモロゲーションを獲得するべく本格的な量産を開始しました。
ラリーのために生まれたパッケージング
全長わずか3,710mmというボディサイズのストラトスですが、そのホイールベースは2,180mmと全長に対して短めになっています。一方の全幅は全長に対してワイドな1,750mmとなり、独特のサイズバランスとなっていました。
車体の中心には、ディーノ246GTにも採用されていた2,418ccV型6気筒DOHCエンジンを横向きで搭載。直進安定性に欠ける一方でコーナリング性能は高く、ミドシップレイアウトによる重量バランスの良さによって回頭性にも優れていたのがストラトスの特徴でした。
WRCで快進撃を続けるも……
このストラトスは、1974年にホモロゲーション獲得した直後の初戦で、WRC(世界ラリー選手権)初勝利を達成。その後も次々と優勝を果たし、1974年のマニファクチャラー・チャンピオンシップに輝きました。
さらに1975年、1976年もストラトスで勝負に挑んだランチアは、3年連続でチャンピオンの座に君臨し続けることになります。特に1975年に登場したストラトスは、アリタリア航空がスポンサーについたことで、あの白・緑・赤のトリコロールカラーで登場し、多くのラリーファンを魅了しました。
しかしここまでの活躍を見せていたストラトスも、親会社であるフィアットが投入した131アバルトに対抗することができず、ランチアのレース活動の縮小と相まって1977年にはその王座をフィアットに明け渡すこととなります。
ラリーで輝かしい成績を残す一方で、その特異なスタイリングとスパルタンな仕様が災いしてか、車両の販売につながることがなく、フェラーリからのエンジン供給が滞ることもあって、商業的には決して成功したモデルとはいえませんでした。
相次いで伝説のラリーカーが復活
そんなストラトスですが、1973年に始まったWRC創世期において輝かしい成績を収めたことは間違いありません。彗星のごとく1974年に登場し、瞬く間にラリーシーンを席巻。ランチア黄金期の礎となったモデルこそが、ストラトスという車だったのです。
登場から40年以上の月日が経った現在でも多くのファンを魅了するだけでなく、今回、21世紀版のストラトスが復活するのもそんな人気ぶりを表しているといえるでしょう。
ちなみに1973年の第1回WRCでマニファクチャラー・チャンピオンシップを獲得したアルピーヌA110も先日、現代版として復活を遂げており、こちらは日本でも発売されています。
その時代のレギュレーションの差
時代背景や企業の体制によってもこの辺は変わってくるから一概には比べられないけど、ストラトスはその中でも特殊でしょう?
グループ4からグループBに時代が変わって色んなモンスターが登場いた頃なんかも「市販車のかたち」をしたナニカって感じのが多いです(それをホモロゲ取得の為に市販していた訳ですし)
WRカーの頃まで来ると市販車が一応あれば中身は何でもいいみたいなレギュレーションになってしまって…(コッチになるとホモロゲも市販車売っていればOK位な違いですから)
ある意味で言えば初代インプレッサとかの勝利もそれに救われた部分もあるのかな~(555からWRCに変わって劇的に進化している訳ですし)
Posted at 2018/09/23 00:46:09 | |
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