【WRC名車列伝 (1)】アウディ クワトロ(1981-1986)はラリーの常識を一変させた傑作だった
モータースポーツにはそのリザルトとともに忘れられないクルマが存在する。ここでは、強烈なインパクトと圧倒的な速さでWRCを席巻した思い出深い名車を紹介しよう。(タイトル写真は1981年のスウェディッシュラリーで優勝した、ハンヌ・ミッコラが操るアウディ クワトロ)
4WDによる圧倒的なトラクションでラリーを席巻
高速4WDの可能性を世界にアピールするために、アウディが独自の直列5気筒+ターボエンジンを搭載したグループ4仕様のクワトロをWRCにデビューさせたのは、1981年の開幕戦モンテカルロラリーのことだった。
当時のWRCは、ミッドシップスーパーカー、ランチア・ストラトスの時代が終わり、その後を引き継いだFR車のフィアット 131アバルトやフォード エスコートRSもそろそろ退場か、という絶対的王者不在の時代だった。
そんな中に4WDシステムを搭載して現れたアウディ クワトロは、「こんなデカい車はラリーで勝負にならない」という周囲の懐疑的な声を黙らせる圧倒的なスピードを披露。トラブルとアクシデントでデビュー戦の勝利こそならなかったが、続く第2戦スウェーデンラリーで早くも初優勝。初期のメカニカルトラブルを解決した2年目の1982年には、初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
1982年にはもはやWRCに勝つには4WDが必要なことは明らかになっていたが、ここに2WDながらより改造範囲の広い新規定グループBマシンとしてミッドシップのランチア ラリー037が台頭。1983年、アウディもアウディ クワトロをグループB規定に適合させ若干の軽量化を図ったA1、さらには排気量を2144ccから2109ccへとあえてスケールダウンして、ターボ係数をかけた排気量クラス区分で3L以下に収まる(=規定最低重量が下がる)A2を立て続けに投入する。しかしドライバーズ選手権こそ奪ったが、マニュファクチャラーズ選手権はランチアに奪われてしまった。
翌1984年、王座奪還を目指すアウディは、アウディ クワトロをショートホイールベース化し、エンジンをさらにパワーアップしたスポーツクワトロS1を春から投入。ランチアとの死闘を制し、アウディはマニュファクチャラー&ドライバーズのダブルタイトルを獲得する。
だが、時代の流れは早い。この1984年シーズンの終盤からはミッドシップ+4WDという、037とクワトロのいいとこ取りをしたような第2世代のグループBマシン、プジョー 205 T16が圧倒的な力を見せ始める。
一方のアウディは、高速4WD市販車のプロモーションというWRC参戦のコンセプトがあるためにミッドシップ化には踏み切れず、スポーツクワトロS1にド派手なエアロパーツを装着したスポーツクワトロS1 E2(エボリューション2)で対抗するも、趨勢を覆すことはできなかった。
結果的に、アウディのマニュファクチャラーズ選手権獲得は2回だけ(1982年、1984年)、ドライバーズ選手権獲得も2回(1983年、1984年)に留まり、ヒストリーブックに残るアウディの実績は、同時代を戦ったランチアやトヨタ、後年のスバル、三菱、プジョー、シトロエン、フォルクスワーゲンなどには及ばない。
だが、現代まで続く4WDラリーカーの礎として、アウディ クワトロがWRC史上もっとも重要な一台であることは間違いない。
アウディ・クワトロ(1981年)
●全長×全幅×全高:4404×1733×1344mm
●ホイールベース:2524mm
●エンジン:直列5気筒 SOHC +ターボ
●排気量:2144cc
●ボア×ストローク:79.5×86.4mm
●最高出力:360ps/6500rpm
●最大トルク:420Nm/3500rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:5速MT
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループ4(のちにグループBとして再公認)
【心に残るWRC名車列伝 (2)】プジョー 205T16(1984-1986)はグループB規定をフルに生かした最強マシンだった
1984年に登場したプジョー 205T16は、WRCがまた違う時代に入ったことを感じさせた。市販車のプジョー 205と似たスタイリングを持っていたが、その中身はまさに「怪物」そのものだった。(タイトル写真は1986年サンレモラリー。ドライバーはティモ・サロネン)
4WDでラリーを席巻していたアウディを王座から引きずり降ろす
過激さが魅力のグループBマシンの中でも「最強マシン」と言えるのがプジョー 205T16だろう。コンパクトハッチバックの205のボディをベースにしたこのミッドシップ4WDラリーカーは、アウディを王座から引きずり降ろし、ランチアの追撃を退けて1985年、1986年のWRCマニファクチャラーズ選手権&ドライバーズ選手権を連覇した。
プジョー 205T16が登場する以前、WRCでのプジョーの活躍は1970年代の504/504V6クーペによる耐久色の強いアフリカンイベントでの奮闘に留まっていた。潮目が変わったのは1978年からプジョー傘下になったクラスラーUKの送り出したコンパクトカー、タルボ・サンビーム・ロータスがWRCで活躍を見せ始めたことだった。
サンビーム・ロータスの好走に刺激された当時のプジョーのトップ、ジャン・ボワイヨは社運を賭けて開発中だった次期コンパクトカー、開発コード「M24」のプロモーションにWRCを使うことを決断する。
タルボがWRCマニュファクチャラーズ選手権を争っていた最中の1981年10月に、プジョーとタルボの競技部門を合併させてプジョー・タルボ・スポールを結成、そのトップにタルボでコドライバーを務め、チームマネージャー的な役割もこなしていたジャン・トッドを据えた。
アウディ・クワトロの脅威をWRCの現場で目の当たりにしていたトッドは、さらに一歩先をゆくミッドシップ+4WDこそグループBラリーカーの未来だと看破。M24ラリープロジェクト、のちに205T16となるラリーカーの概要を固めた。
精鋭エンジニアたちが開発した205T16がWRCの現場に姿を現したのは、1984年5月のツール・ド・コルス。スタイリングはFWDの市販205と巧妙に似せられていたものの、ラジエター冷却用の大きな開口部のあるボンネットの下には、エンジンではなくスペアタイヤとフロントデフがあり、1774.6ccの直4ターボエンジンは強固なサブフレームを組んでギアボックスとともにリアに横置き搭載されていて、まったく異質のレーシングマシンであることは一目瞭然だった。
初陣ではアリ・バタネンが最終的にはリタイアしたものの、ランチア・ラリー037、アウディ・クワトロA2らを圧倒する走りを見せて、ポテンシャルを示す。そしてシーズン半ばの1000湖ラリー、サンレモラリー、RACラリーと3連勝を飾ってみせた。
翌1985年はアルゼンチンでエースのバタネンがアクシデントで大怪我を負うという悲劇はあったものの、コルシカから登場させた改良バージョン、205T16E2(空力パーツ追加と軽量化、エンジン改良を図った)の投入も奏功して、圧倒的な強さでダブルタイトルを獲得。1986年もランチア デルタS4との死闘を制して、2年連連続ダブルタイトルを獲得してグループB時代を締めくくったのだった。
プジョー 205T16 EVO2(1986年)
●全長×全幅×全高:3825×1680×1405mm
●ホイールベース:2475mm
●車両重量:890kg
●エンジン:直列4気筒DOHC ターボ
●排気量:1774.6cc
●ボア×ストローク:83.0×82.0mm
●最高出力:450ps/8000rpm
●最大トルク:490Nm/5500rpm
●駆動方式:4WD エンジンミッド横置き
●トランスミッション:5速MT/6速MT
●サスペンション:前後ダブルウイッシュボーン
●車両規則:グループB
【WRC名車列伝 (3)】ランチア デルタS4(1985-1986)は遅れてやってきた悲運のグループBカー
「037ラリー」の後継として登場した「デルタS4」だったが、037ラリーに十分なポテンシャルがあったこともあり、開発が遅れたのが痛かった。エンジンを縦置きするアイデアは秀逸で、衝撃的なデビューを飾ったものの、「これから」という時に突然グループB時代が終焉を迎えてしまったのだった。(タイトル写真は1986年ミキ・ビアシオンがドライブするランチア デルタS4)
プジョー 205T16を打倒する前に、時代は次へ
1982年から施行されたグループBレギュレーションにいち早く対応し、プロトタイプ並みのレーシングラリーカー、ラリー037でアウディ クワトロを敗って1983年のマニュファクチャラーズ選手権を勝ち取ったランチアだったが、2WDラリーカーでは限界があることは自明であり、すでに1983年1月の時点で次期マシンの開発が決定されていた。
こうして誕生したのがデルタS4だった。「SE038」の開発コードネームが示す通り、このニューマシンは「ラリー037同様にアバルトが設計を担当し(「SE0」から始まるコードネームはアバルトの開発車両コード。SEはスポルト・エスペリメンターレ=実験的スポーツ車両の略)、ランチアの小型車デルタのサイズとホイールベースを使用して開発が進められたことから、後にデルタS4と呼ばれることになる。
「S4」のSはオーバーチャージド(過給)を表す「Sovralimentata」で、1759ccの直4エンジンが037譲りのアバルト製スーパーチャージャーにKKK製のターボチャージャーを加えたツイン過給(スーパーチャージャーが低中速回転域をターボチャージャーが高速回転域を担当)されること示していた。
一方、「S4」の4が表すのは当然4WDで、S4のシステムは同じミッドシップ4WDのプジョー 205T16とは違い、直4ユニットをミッドに縦置きし、その前方にギアボックスを置いてセンターデフと繋げるというものだった。
しかし開発は遅々として進まなかった。その間ランチアはラリー037にエボリューション2を投入して延命させるなどして対応。エアロダイナミクスを中心に幾多のトライが重ねられたあげく、ようやくホモロゲーション(車両公認)を取得したのは1985年の11月1日。WRCデビューはこの年の最終戦RACラリーとなった。
このシーズンはプジョー 205T16が圧倒的に強かったが、デルタS4はいきなり1-2フィニッシュという衝撃のデビューを果たす。勝者のヘンリ・トイボネンはその勢いのまま翌1986年1月のシーズン開幕戦モンテカルロラリーでも勝利。だが、その若きエースは第5戦のツール・ド・コルスでクラッシュ、死亡するという悲劇に見舞われた。
その後、マルク・アレンが孤軍奮闘するも、ラリーカーの完成度としてはデビュー3年目のプジョー 205T16がこの時点では上。デルタS4にトラブルが多発したこともあり、結局ランチアによるマニュファクチャラーズ選手権の奪回はならなかった。
ドライバーズ選手権はアレンが最終戦オリンパスラリーで優勝したことで獲得したかに見えたものの、その後プジョーに失格裁定が下されていた第11戦サンレモラリー(アレンが優勝)の結果をFIAが無効とする判断を下し、プジョーのユハ・カンクネンの手に渡った。
この時点でWRCは安全上の理由で翌1987年からグループB(およびその後継カテゴリーとして予定されていたグループS)を禁止、より市販車に近いグループAで争うことが規定路線となっており、デルタS4はその短いラリーカーの生涯を閉じることになった。
ランチア・デルタS4(1985年)
●全長×全幅:4005×1800mm
●ホイールベース:2440mm
●車両重量:960kg
●エンジン:直列4気筒 DOHC ターボ
●排気量:1759cc
●ボア×ストローク:88.5×71.5mm
●最高出力:480ps/8400rpm
●最大トルク:490Nm/5000rpm
●駆動方式:MR エンジン縦置き
●トランスミッション:5速MT
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループB
前後ダブルウィッシュボーンだった気がするんだけどな…
Sovralimentataもイタリア語でスーパーチャージドだからオーバーチャージドでは…
【WRC名車列伝 (4)】グループA仕様のランチア デルタ(1987-1993)はメイクスタイトル6連覇を達成
高いポテンシャルを秘めながらグループB時代にはタイトルをとれなかったランチア デルタだったが、その経験は新しいグループA時代に大きな花を咲かせることになる。(タイトル写真は1990年のモンテカルロラリー。ディディエ・オリオールのドライブで優勝を飾ったランチア デルタHF インテグラーレ 16V)
いち早くグループA仕様のデルタを開発
ランチアのラリーカーと言えば、多くの人が思い浮かべるのは1970年代の「ストラトス」、次に迫力のグループBマシン、「037ラリー」や「デルタS4」だろう。
しかしWRC通算74勝のうち、最多の46勝を挙げているのは1987年からのグループA「デルタ」であり、この時代に達成されたマニュファクチャラーズ選手権6連覇は、史上最強ドライバー、セバスチャン・ローブを擁した時代のシトロエンでさえ破ることができなかった現在まで残る金字塔となっている。
相次ぐグループBの悲劇的事故を受けて、当時の統括組織であるFISAがグループB、およびその後継に決まっていたグループSを中止し、1987年からWRCの主役をグループAにすると決定したのは1986年の6月。
これをきっかけに撤退を決めた王者プジョーをはじめ多くの自動車メーカーが軌道修正を余儀なくされたが、WRCに執念を燃やすランチアはいち早くデルタHF 4WDを市販化し、新時代に備えた。
ライバルとなったのは唯一戦える4WDターボカーのベース車があったマツダのみ。しかしデルタのエンジンが2Lだったのに対し、「323(日本名ファミリア)」のエンジンは1.6L。体制・資金面でもWRCに全力投球するランチアの敵ではなく、グループB同様、アバルトが開発したグループA仕様のデルタHF 4WDはあっさりと1987年のWRCを制覇する。
しかし、いかにランチア/アバルトといえども、市販ベース車から高性能グループAを作るのは至難の技だった。なにせデルタHF 4WDの全長は、現在のWRカーのベース車の全長要件である最低3900mmより短い3885mm。これだけの小さなボディに冷却系やストロークのあるサスペンションなどのコンポーネンツを収めるのは容易でなく、これらを解決して競争力を維持し続けるために、相次いで改良モデルが投入されていくことになる。
2シーズン目の1988年前半には、エアインテークダクトを増やし、インタークーラーを大型化、トレッドも拡幅した「デルタHFインテグラーレ」が登場。念願のサファリラリー優勝を含む10勝挙げて連続タイトルを獲得する。
翌1989年の後半戦サンレモラリーからは、急速に力をつけてきたトヨタ・セリカに対抗するために、「デルタHFインテグラーレ16V」を投入。その名のとおり、16Vヘッドを持つエンジンを与えられたデルタは、無事に3年連続でマニュファクチャラーズ/ドライバーズ選手権を連覇する。
翌1990年はトヨタとの死闘の末、ドライバーズ選手権こそカルロス・サインツに奪われたが、マニュファクチャラーズ選手権は死守。1991年も同様にトヨタとの対決となったが、後半戦で振り切って再びダブルタイトルを獲得した。
大きな変化があったのはこの年の末、ランチアがワークス活動から撤退し、チーム運営がプライベートのジョリー・クラブに任されることになった。それでも、引き続きマシン開発を担当するアバルトは、ボディを拡幅したエボリューションモデル、「スーパーデルタ(デルトーナとも呼ばれる)」を1992年の開幕戦から投入。ドライバーズタイトルは再びトヨタのサインツに奪われたものの、マニュファクチャラーズ選手権6連覇を達成する。
だが、日本車の勢いはもはや抗しきれないものになっていた。この年の第11戦サンレモラリーを最後にデルタがWRCで勝つことはなくなり、翌1993年を持ってランチアの名はWRCから消えることになる。
ランチア デルタHF インテグラーレ 16V(1990)
●全長:3900mm
●全幅:1700mm
●ホイールベース:2480mm
●車両重量:1115kg
●エンジン:直列4気筒 DOHC ターボ
●排気量:1995cc
●ボア×ストローク:84.0×90.0mm
●最高出力:295ps/7000rpm
●最大トルク:410Nm/4500rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:6速MT
●車両規則:グループA
サスペンション形式調べるの面倒になったのかな?
標準のデルタは前後ストラットで良い筈ですよ
【WRC名車列伝 (5)】フォード エスコートRSコスワース(1993-1997)は躍進する日本車の前に立ちはだかった
1980年代に低迷していたフォードがWRCで再びトップ争いを繰り広げるまでに復活。その立役者がエスコートRSコスワースだった。目まぐるしく変わるチーム運営のため次第に成績が低下したが、プライベーターによって長く活躍した。(タイトル写真は1997年のフォード エスコートRSコスワース。この年、アクロポリスラリーとラリーインドネシアでカルロス・サインツが優勝。スウェディッシュラリーは総合2位に終わっている)
コンパクトなボディにシエラ譲りのメカニズムを搭載
市販車のスポーツグレードに「RS」の名を使う車は多いが、その意味するところは自動車メーカーにとっては様々だ。
ポルシェの場合はレンシュポルト=レーシングスポーツ。そして、フォードの場合のRSは、1970年代のマークIエスコートRS1600の時代から=ラリースポーツだ。その名に恥じることなく、マークI、そして1976年初登場のマークIIエストコートRS1800でフォードは大活躍を演じた。
ところが多くのライバルメーカー同様、グループB時代=4WD革命時に出遅れたことが致命的となり、1980年代半ばからフォードの戦績は低迷。1987年からのグループA時代でも、最適なベース車両を持たなかったために、大柄で重いなシエラをベースとしたマシンで苦戦を強いられることになる。
しかしそんな中で、ラリーカー開発の拠点である英国ボアハムのファクトリーでは起死回生の4WDターボーカーが準備されていた。それが1993年に投入されたエスコートRSコスワースだ。
マークVエスコートのコンパクトなサイズのボディに、シエラで熟成したエンジンとギアボックス、専用のフロアパンとシャシ、エアロキットを使ったエスコートRSコスワースのパッケージングは当時ベストと言えるもので、デビュー2戦目のポルトガルで早くも初優勝。その後もアクロポリス、サンレモ、カタルニアと勝利を積み重ね、この年初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得するトヨタを最後まで苦しめた。
翌1994年も、前年惜敗していた開幕戦モンテカルロラリーで見事に雪辱を果たす勝利する幸先の良いスタートを切ったが、ここで思わぬアクシデントが待っていた。モンテ制覇の殊勲者である若手エースのフランソワ・デルクールが一般公道での交通事故で右脚を骨折。戦線を離脱してしまったのだ。
シーズン半ばのフィンランドではスポット参戦したトミ・マキネンがWRC初優勝を遂げたものの、マニュファクチャラーズ選手権ではトヨタとスバルに次ぐ3位に後退。そしてここからエスコートRSコスワースの運命は大きく変わってしまう。
シーズン末、ボアハムが30年以上続けたWRC活動の休止を表明。1995年、エスコートRSコスワースはベルギーのサテライトチーム、RASスポールに委ねられることになったが、ワークスの技術支援がほとんど得られない状況では日本車勢に立ち向かうことはできず敗走の連続。
翌1996年は再びボアハムにラリー活動のオペレーションが戻されたが、かつての予算規模は望むべくもなく、スバルから移籍してきたカルロス・サインツが1勝を挙げるにとどまった。そしてついにボアハムはWRCからの完全撤退を決定。WRC活動はラリーカー開発を含め、英国カンブリアに拠点を持つMスポーツに移管されることとなる。
エスコートは1997年にそのMスポーツによってエスコートWRCヘとアップデートされて2勝を挙げたあと、後継のフォーカスWRCに役割を譲って退場していった。
フォード エスコート RS コスワース(1993)
●全長:4211mm
●全幅:1734mm
●ホイールベース:2550mm
●車両重量:1200kg
●エンジン:直列4気筒 DOHC ターボ
●排気量:1993cc
●ボア×ストローク:90.8×76.95mm
●最高出力:300ps/6250rpm
●最大トルク:450Nm/5000rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:7速シーケンシャル
●サスペンション:前ストラット/後セミトレーリングアーム
●車両規則:グループA
【WRC名車列伝 (6)】プジョー206 WRC(1999-2003)は日本車全盛時に登場し新たな時代を切り拓いた
1999年のツールドコルスで復帰したプジョーは、日本車全盛のWRCに衝撃を与えることになった。しばらくWRCでの活動を休止していたプジョーは、206WRCで2000年からマニファクチャラーズを3連覇、再び黄金時代を築くことに成功する。(タイトル写真は2001年キプロスラリーのマーカス・グロンホルム)
グループAのWRカー規定のもとで誕生した206 WRC
1986年限りでのグループB規定の廃止によってWRCから撤退することになったプジョーだが、それでもラリー活動を皆無にしないところがさすがはヨーロッパのメーカーであった。
現役を引退していた名ドライバー、ジャン-ピエール・ニコラをカスタマー部門の指揮官に任命し、グループA時代以降も309GTiや306S16をベースとしたラリーカーを開発。プライベーターに販売して細々と命脈を保っていたのだ。
その活動が再び注目を集めるようになったのは、大幅な改造が許されるWRカー規定が制定されたのがきっかけ。
プジョーがこの新規定向けに開発した306マキシは、2WD・NAエンジンながら、ターマックラリーでは時に4WDターボカーを凌ぐパフォーマンスを披露して見せた。参戦チーム体制も、表面上は南フランスのプライベーターが運営するという体裁だったが、プジョースポール本体のエンジニアが常に帯同するなど、ワークス並みと言える状況に周囲の期待は高まった。
そして、1998年秋、ついにその時は訪れる。9月のパリサロンで名車205の後継206がお披露目されると、時を同じくして、206WRCでのWRC復帰がアナウンスされたのだ。プジョーはWRカーの全長規定の最低4m(当時)をクリアするために、206 S16のバンパーを延長した206GTを発売するなどの力の入れようで、WRC活動に全力投球した。
コラード・プロベラの監督のもと、1999年のツールドコルスでデビューした206WRCは、コンパクトな車体に405のツーリングカーで実績のあった2Lユニットをベースとしたエンジンを搭載。Xトラック製のギアヤボックスは縦置き配置、ダンパーはプジョースポール自製という斬新なパッケージングであった。
テクニカルディレクターは元TTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)のミシェル・ナンダン。エンジンチューナーのピポ・モチュールにもやはり元TTEのスタッフが協力するなど、王者トヨタのノウハウも息づく206WRCはデビュー早々にまずはターマックで速さを発揮した。
2年目の2000年には、エンジンのパワーアップとブレーキ性能の向上、自社製ダンパーの熟成、さらにはグラベルを得意とするフィンランド出身のマーカス・グロンホルムの急成長もあって、ターマックだけでなくグラベルでもライバルを圧倒。マニュファクチャラーズ/ドライバーズタイトルを獲得することなった。
2001年はドライバーズ選手権こそスバルのリチャード・バーンズに奪われたものの、マニュファクチャラーズ選手権は連覇。翌2002年はアクティブアンチロールバーの採用やサスペンションの改良、空力面のアップデートなどで圧倒的な力が復活してダブルタイトルを獲得し、WRCに再びプジョーの時代を築いたのだった。
プジョー 206 WRC(2000)主要諸元
●全長:4005mm
●全幅:1770mm
●ホイールベース:2468mm
●車両重量:1230kg
●エンジン:直列4気筒 DOHCターボ
●排気量:1997.5cc
●ボア×ストローク:85.0×88.0mm
●最高出力:300ps/5250rpm
●最大トルク:535Nm/3500rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:6速シーケンシャル
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループA
【WRC名車列伝 (7)】シトロエン クサラWRC(2001-2006)は路面を選ばないオールラウンダーだった
プジョー206WRCの次に、WRCの王座についたのがシトロエン クサラWRCだった。天才セバスチャン・ローブとともにWRCを席巻、途中ワークス撤退もありながら、6年間で28勝をあげるなど圧倒的な速さを誇った。(タイトル写真は2004年のラリージャパン。セバスチャン・ローブは2位)
ローブによって引き出された走りは鮮烈だった
同門のプジョーの後を追うように、ラリーレイドから2Lキットカー、そしてWRカーヘと活躍の場を移し、WRCでは2004年からプジョーの王座を継承。日本車の時代を完全に終わらせたのがシトロエンだ。
その原動力となった「クサラWRC」は、FWDのクサラ キットカーで大パワーを受け止める電子制御アクティブデフのノウハクを学び、2000年フランス選手権にプロトタイプとして参戦させたクサラT4で4WDターボカーの経験も蓄積。2001年に満を持してデビューした。
テクニカルディレクターとして開発を主導したのは、プジョーで206T16開発の主力だったベテランエンジニア、ジャン-クロード・ボカールだ。
デビューまでにたっぷりと開発期間をとったクサラWRCはいきなり高い戦闘力を発揮、初年度はターマック3戦、グラベル1戦の限定的な参戦だったが、シーズン終盤のツール・ド・コルスで早くも初優勝を達成している。
2年目の2002年にはのちの最強ドライバー、セバスチャン・ローブがドイツでWRC初優勝を飾る。そして2003年、ドライバーズタイトルこそスバルのペター・ソルベルグに1点差でさらわれたものの、シトロエンはフル参戦2年目にして初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
翌2004年にはマニュファクチャラーズタイトル2連覇を達成するとともに、ローブが初のドライバーズタイトルを獲得。ワークスが一時参戦を休止した2006年はマニュファクチャラーズタイトルこそフォードにさらわれたものの、ローブがドライバーズ選手権連覇を達成と、2007年に「C4 WRC」にバトンを渡すまで最強の存在であり続けた。
シトロエンがWRCを席巻した最大の要因として、不世出の天才ローブの圧倒的なパフォーマンスがあげられるが、クサラWRCも、シトロエン・スポールのチーム代表ギ・フレクランの処世訓である「ベルトにサスペンダー」を反映させた一滴の水も漏らさぬような完璧な信頼性で、ローブの快進撃を支えた。
当初はグラベルに不安があったパフォーマンスも、徹底したサスペンションの熟成で克服。ローブの急成長もあって、2003年後半以降は路面を選ばないオールラウンダーとしてWRCの歴史に名を刻むことになった。
シトロエン クサラ WRC(2004)主要諸元
●全長:4167mm
●全幅:1770mm
●ホイールベース:2555mm
●車両重量:1230kg
●エンジン:直列4気筒 DOHC ターボ
●排気量:1998cc
●ボア×ストローク:86.0×86.0mm
●最高出力:300ps/5500rpm
●最大トルク:520Nm/4000rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:6速シーケンシャル
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループA
206とクサラはグループAではなくWRカーになるんじゃないんだっけ…
Posted at 2019/08/25 16:35:16 | |
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