2020年08月20日
ジャパン、鉄仮面、セブンス、不遇な時代を生き抜いたスカイライン【MOTA写真館】
日産 スカイラインは、日産の中でも長い歴史を持つ車種。また、日本国内にとどまらず、世界中にもファンがいる日本を代表するスポーツカーでもある。そんなスカイラインにも、排気ガス規制や流行などといった時代の波に翻弄され、今思えば不遇と言わざるを得ない時期があった。そこで今回は、根強いファンがいるものの、苦しみながら生き抜いた5代目から7代目のスカイラインをご紹介しよう。
「日本の風土が生んだ名車=SKYLINE JAPAN」不毛な時代を生き抜いた日産 5代目スカイライン
歌謡曲に乗せて日本のワインディングロードを颯爽と駆け抜けるスカイライン。日産自らが「日本の風土が生んだ名車」と名乗り、若かりし頃のデートを思い出させてくれるCMが特徴。CM最後の「SKYLINE JAPAN」表記から「ジャパン」の愛称で親しまれている。
初期のモデルは、昭和53年の排気ガス規制により、高出力のエンジンを搭載できなかった5代目スカイライン。1979年、トヨタ セリカから「名ばかりのGT達は、道を開ける。」のキャッチコピーで挑発を受ける。1980年ターボエンジン搭載モデルを追加、145馬力を発生させるエンジンを搭載し、トヨタからの挑発に対抗した。
スペック
■全長×全幅×全高:4,600×1,625×1,390mm(スカイライン 2000GT-E・L)
■エンジン
・水冷直列6気筒2000cc
・水冷直列4気筒1800cc
■ボディ
・2ドアハードトップ
・4ドアセダン
・3ドア/5ドアワゴンおよびバン
■駆動方式:FR
■トランスミッション:3速AT/4速MT/5速MT
「New愛のスカイライン/史上最強のスカイライン」高性能を追求した日産 6代目スカイライン
1981年、R30型 日産 スカイライン発売。キャッチコピーは「New愛のスカイライン」。デビュー同年、ファン待望のDOHCエンジンが復活した。「4バルブなくしてDOHCは語れない」のキャッチコピーとともに、150馬力を発生させる直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジン搭載の「2000RS」を追加。
1984年「クールに乗れ」のキャッチコピーで、インタークーラー搭載モデル「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」を追加し、最高出力は205psとなり、国産車で初めて“リッター100馬力”も壁を突破。通称「ターボC」と呼ばれ、現在でも多くの根強いファンが存在している。
スペック
■全長×全幅×全高:4,595×1,665×1,360mm
■エンジン
・FJ20E 直列4気筒 2000cc DOHC(2000RS)
・FJ20ET 直列4気筒 2000cc DOHCターボ(2000ターボRS)
■トランスミッション:3速AT/4速AT/5速MT/4速MT
日産“7th”スカイライン(R31)はハイソカー? それともスポーツカー!?
通算7代目 R31 日産 スカイラインは、1985年に登場し1990年まで販売された。バリエーションは、4ドアセダンおよびハードトップ、2ドアクーペ、ワゴンをラインナップ。通称は、7th(セブンス)、都市工学スカイライン。ハイソカーブームの影響もあり、5連装カセットチャージャー、カードエントリーシステムなど豪華な装備が与えられているのも特徴だ。
ハイソカー時代に誕生した7代目 R31 スカイラインは、生産終了までスポーツグレード「GT-R」を名乗らなかったことでも知られている。その理由は諸説あるが、「GT-Rを名乗るにふさわしくない」という理由や「ハイソカーブームに乗ったコンセプトがらしくない」といったことが理由だったといわれている。
スペック
■全長×全幅×全高=4,650mm×1,690mm×1,385mm
■エンジンラインナップ
・直列6気筒 DOHC 2000cc ターボ RB20DET
・直列6気筒 DOHC 2000cc RB20DE
・直列6気筒 SOHC 2000cc ターボ RB20ET
・直列6気筒 SOHC 2000cc RB20E
・直列6気筒 SOHC ディーゼル RD28
・直列4気筒 SOHC 1800cc CA18S
■トランスミッション:5速MT/4速AT
■駆動方式:FR
「技術の日産」はいつまでも
これら3世代のスカイラインを見ていくと、「GT-R」の設定していないことがわかる。今考えると「GT-R」を名乗ってもおかしくないほどのポテンシャルを秘めているが、日産が思い描くスポーツマシンでないことからGT-Rと名乗らなかったのかもしれない。
しかし、GT-Rが設定されていないジャパン、R30、R31のスカイラインは、中古車市場で予想外の価格で取引される個体もある。「技術の日産」を直に感じられるスカイラインは、時間が経過しても評価され続けているといえるだろう。
Posted at 2020/08/20 22:35:39 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年08月20日
1800万円オーバーで落札!! スバル「インプレッサ22B STi」とはどんなクルマだったのか
■ラリーで勝つために生まれた、スバル「インプレッサ」
1980年、世界に先駆けて4輪駆動車でラリーに参戦したスバル。その舞台は「サファリラリー」、参戦マシンは「レオーネ4WD」だったわけだ。
その後、1990年からは「WRC」に、新開発されたEJ20型エンジンを搭載した、初代BC5型「レガシィ」で参戦。1993年のニュージーランドで初優勝を飾った後、より戦闘力の高いマシンを投入されることになり、ひと回りコンパクトなボディを持つGC8型「インプレッサ」が選ばれたのだ。
●打倒ランサー・エボリューション
当時、インプレッサのライバルとなっていたのが、三菱「ランサー・エボリューション」である。
デビューイヤーの1994年には、マニュファクチャラーズタイトルで2位、1995年から1997年まではチャンピオンとなったスバル「インプレッサ」だったが、ドライバーズタイトルは1996年から1999年まで、ランサー・エボリューションを駆るトミ・マキネンが獲得。
そんな熾烈なライバル関係は、ベース車であるインプレッサとランサー・エボリューションの、過激ともいえるモデルチェンジとチューニングのレベルアップを生んでいた。
そんななか、発売されたのが、今回紹介する「インプレッサ22B STi version(以下インプレッサ22B)」である。
このモデルは、1998年、インプレッサのWRCマニュファクチャラーズタイトルの3連覇を記念して製作されたものだ。そのモチーフとなったのは、チャンピオンマシンであるインプレッサのワールドラリーカーで、当時販売されていたインプレッサの2ドアクーペモデル「インプレッサ リトナ」をベースとして作られている。
ボディはワールドラリーカー譲りのワイドボディで、フェンダーは片側40mmワイド化され、全幅は1770mmとなっている。当然のことながら、前後のバンパーはこのフェンダーに合わせてリメイクされている。
搭載されているエンジンは「EJ22型」水平対向4気筒インタークーラーターボ。排気量は2212ccで、最高出力は自主規制のせいもあって280psと抑えられてはいたが、EJ20型と比べて低中速トルクが太くなっているため乗りやすく、スペック以上の速さを感じさせるマシンだった。サスペンションにはビルシュタイン製ショックアブソーバーがセットされていた。
このインプレッサ22Bの販売台数は400台だったのだが、わずか2日で完売したといわれている。
当時の車両価格は500万円。装備内容を見ればお買い得といえるだろう。しかし1998年というと、400万円もあればかなりの高級車が買える時代でもあった。そういう時代に、2ドアボディの高価なスポーツモデルがあっという間に売り切れとなったというのは、スバルにとってうれしい出来事であったはずだ。
またこのあと登場するSTIの限定コンプリートカー、たとえば2000年に販売された「S201」など、S20#シリーズの先駆け、となったのがこのマシンである。
■英国オークションでの落札価格は、驚きの高プライス!
そんなインプレッサ22Bが、イギリスのシルバーストーンオークションに登場した。走行距離は3万マイル(約4万8000km)で、シリアルナンバーは326/400という個体だ。
●インプレッサが1800万円オーバー!!
メーターはマイル表示だが、これは後にイギリス国内で交換されたもの。付属品として山口スバルの車険証入れや、日本語の取り扱い説明書や点検整備簿が付属していることからもわかるように、もともとこの個体は日本国内向けの車両で、それが2004年にイギリスへと輸出されたものである。
その後はイギリス国内のスバル専門家によってメンテナンスを受けながら、2020年まで保管されてきている。
そのため、ボディのコンディションは極上レベルといっていい。レンズ類はすべて曇っておらずクリアだし、塗装に関してもヤレがない状態。
エンジンルームも、空冷式インタークーラーのフィン部分が若干よれている程度で、樹脂パーツに劣化はなく、インテークマニホールドの赤い結晶塗装も綺麗だ。
ただしマフラーはオリジナルではなく、砲弾型サイレンサーの社外品に交換されているが、それも劣化ない。タイヤはトーヨー・プロクセスT1-S(235/40R17)を履いていて、ホイールは純正BBS製となっている。
インテリアも極上レベル。ナルディ製ステアリングやシフトノブといった、使用感がでがちなところもキレイだし、樹脂パネルやペダルも使用感はほとんどない。オリジナル状態を保っているブラック&ブルーのシートも、前後ともに擦れ感がない状態だ。
メーター交換をしているとはいっても、実際にあまり乗られていない個体なのだろう、ということが、ここからもわかる。
こういった、簡単にいえば極上の個体なら、日本国内での取り引きでも1000万円以上の価格がついてもおかしくはない。そのため、シルバーストーンオークションにの予想落札価格も、7万ポンド-8万ポンド(邦貨換算約980万円-1120万円)となっていた。
ところが、実際に落札された価格は、なんと13万500ポンド(邦貨換算約1827万円)というハイレベルなものだった。
そこには、イギリス人のスポーツカー好き、ラリーカー好き、そしてスバル好きという側面が大きく影響しているかもしれない。
技術にこだわりをもち、水平対向エンジンの可能性を追求し続けているスバルという自動車メーカーが作った、世界で400台のみのワールドラリーカーのメーカーレプリカ。いかにも好き者が手を出しそうなスペックである。
実際のところ、この価格で購入しても、このあと大事に乗りながら保管をしていけば、手放すときにはさらなる値上がりだって期待できてしまうはずだ。
Posted at 2020/08/20 22:29:43 | |
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富士重工 | 日記
2020年08月20日
若者を熱狂させた「ブルーバード」! 「オヤジグルマ化」して消えた悲しい過去と「後継車」の生き様
日産のビッグブランド「ブルーバード」のゆくえ
自動車の世界では、「クラウン」や「カローラ」そして「スカイライン」など半世紀以上の歴史を持つ名前が今なお受け継がれることもあるが、いっぽうで高い知名度を誇っていた車名が廃止されることもある。かつて日産を代表するセダンの一台だった「ブルーバード」もそのひとつだ。遡ること約20年前となる2001年で伝統の名前が消えてしまった。果たして、ビッグネームの終焉の裏には何があるのだろうか?
スポーツセダンとしての隆盛
まずは、ブルーバードの歴史から振り返ってみよう。初代デビューは1959年。
ダットサンシリーズの量産セダンとして登場し、1963年デビューの2代目では後にスポーツセダンとしてのイメージを高めることになる「SSS」も設定された。SSSとは「スーパースポーツセダン」の略だ。
初代からはじめていた海外ラリーへの参戦は、3代目(1967年登場)による1970年のサファリラリーで偉業を達成。総合優勝したのだ。ここからスポーツセダンとしてのイメージが急速に盛り上がる。
そしてピークを迎えたのが、1979年から1983年まで販売された6代目。「910」という型式の、後輪駆動を採用する最後のブルーバードである。エンジン排気量1.6L~2.0Lの小型車クラスでは27ヵ月連続で新車登録台数1位を記録する大ヒットモデルとなった。
また、この世代ではレースでも大活躍。「スーパーシルエット(グループ5)」と呼ばれる、市販車の面影を残しつつ派手な外観とした車両が競い合った当時の人気レースでは、スカイラインRSターボなどとともにトップ争いを繰り広げた。そんなモータースポーツのイメージもあり、この世代は「SSS」グレードが強い存在感を発揮。ブルーバードのスポーティイメージを強く引っ張った。
いっぽう、市販車として最もスポーティな仕立てだったのは1987年にデビューした8代目だろう。SSS系のトップモデルに搭載したエンジンは、前期型が175psのCA18DET、後期型は205psのSR20DET。
つまりS13型シルビアと同じエンジンであり、さらにはATEESA(アテーサ)と呼ぶスポーティなフルタイム4WDと組み合わせていた。高性能な4WDセダンだったのである。
そのうえ、ハイカムやコスワース社製の単層ピストンに専用タービンを組み合わせてエンジンチューンを施し(前期型のみ)、クロスレシオのトランスミッションやロールバーまで標準装備するラリー競技向けエボモデルの「SSS-R」まで設定されたのだから楽しい時代だった。
しかし、その後ブルーバードは凋落の道をたどる。1991年から96年の9代目を経て、96年から2001年の10代目を最後に「ブルーバード」という車名は消えてしまった。
「時代のニーズ」は変わり続ける
消えてしまった理由はなぜか。販売台数が低迷したからに他ならない。ではどうして販売台数が低迷したか。ひとことでいえば、「時代のニーズとあわなくなった」からである。
どんなクルマならブルーバードとして認められるかを見極めきれなかったこともあるし、もし硬派でスポーティなブルーバードらしいクルマを作ったとしても、セダン離れが始まっていた当時はすでに人気を得ることは難しかっただろう。ひとことでいえば、ビッグネームゆえに時代を反映したブランディングができなくなってしまったのだ。
たとえば9代目にハードトップとして用意された「ARX(アークス)」は、今にして思えば思い切った素晴らしいデザインだったが、ブルーバードとして考えれば「男の硬派な乗り物」という雰囲気が全くない。時代を先取りしすぎたこともあるし、ブルーバードという車名にはふさわしくなかった。ブルーバードを名乗らなかったら、販売台数を伸ばせたかもしれない。
また、ミニバンなどセダン以外の選択肢が増え、セダンのマーケットが縮小した。そんなマーケットの変化も大きな影響を与えた。結果として、日産ではブルーバードのほかにも「セフィーロ」や「ローレル」「セドリック」、トヨタでは「コロナ」「ビスタ」「マークII」などのビッグネームが2000年前後に消えてしまったのだ。
しかし、ブルーバードの血統は途絶えてしまったわけではない。2000年に「ブルーバード・シルフィ」というコンパクトセダンが登場し、スマッシュヒットを飛ばした。
2012年登場の3代目からは「シルフィ」とブルーバードの名前が完全に消えたが、販売継続中だ。
また中国では2019年の春に新型(4世代目)が登場。現地ではセダンが好まれることもあり、日産のナンバーワン人気モデルかつ、中国における同クラスのトップセラーとして高い人気を誇る。
北米では「セントラ」という車名で、スポーティなセダンとして販売されている。
「ブルーバード」という名前は消えてしまったが、名前を変えることで過去のイメージに別れを告げ、新世代の新しい車として再発進。実質的な後継車は今なお世界各地で愛されているのだ。
Posted at 2020/08/20 22:26:22 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年08月20日
1980年代のユニークな日本車5選
1980年代に登場した日本車のなかでも、ユニークなコンセプトを持つ5台を小川フミオがセレクト。当時を振り返る。
1980年代の日本車には、おもろいクルマがいろいろあった。1990年代になると「ひとつのモデルがコケると会社が傾く」なんていわれるように、製造コストと生産体制がひとつのパッケージになっていくものの、1980年代まではもうすこしゆるやかだった。
とはいっても、会社の上層部から、売れそうもないけれど、ま、出してみよか、なんてことは言われなかっただろう。どのモデルも開発者たちが真剣に取り組んだ結果である。数が売れて会社に利益をもたらすのが、すべてのモデルに共通した目的だ。
それでもなかには“たくさん売れそうもないけれど出してくれて嬉しい!”と、思えるモデルもあったし、なんの冗談? と、言いたくなるぐらいハズしたモデルがあったのも事実。
でも、クルマが楽しいのは、多様性があるからだ。コンフォートモデルがあればスポーツモデルもあり、トルク重視型エンジンに対して高回転型のエンジンもある。2シータースポーツもSUVも。ここでは1980年代、いわば日本車の黄金時代をいろどってくれた、個性的なクルマをいくつか紹介しよう。本来、クルマが成功したかどうかの基準は、ひとつは売れ行き、もうひとつは、後継モデルへの道を開拓できたか、にある。どっちもよくわかんないっていうモデルも、でもまた、存在を許されてきた。だからクルマは楽しいのだ。
(1)日産「エクサ」(2代目)
1986年に発売された「エクサ」の特徴は、2つのボディバリエーションを持つ点だった。ひとつはノッチがついた「クーペ」、もうひとつはリアセクションが荷室になった「キャノピー」だ。
ルーフが2分割で取り外せるいわゆる「Tバー」と呼ばれるリアピラーと、そこにくっついた三角のリアクオーターウィンドウまでは、クーペとキャノピーともに共通。その後ろの部分は、自分でも交換できる方式で販売された。といっても、それは北米での話だ。
似たような使い分けとしては、メルセデス・ベンツ「SLクラス」(R129)を思い出す。ソフトトップでフルオープン走行を楽しむいっぽう、天候の思わしくないときはハードトップを装着して……という楽しみかたにも似ている。とはいえ、日本のユーザーはたいていハードトップをつけっぱなしだった。ほとんどの人の場合、外したハードトップの保管場所がなかったのだ。
話をエクサに戻すと、日本の法規では、最初からクーペあるいはキャノピーを選択する必要があった。デザインとしてみたらキャノピーも魅力的であるものの、自分で乗るなら軽快感をもつクーペが好ましい。というのは、当時の私の感想である。
エンジンは1.6リッター直列4気筒DOHCで、駆動方式は前輪駆動。バリエーションとしては、変速機が、5段マニュアルか4段オートマチックか選べた。走りの記憶は強く残らないクルマで、遅くはない。ただし、ハンドリングが飛び抜けて印象的でもない。そんな、やる気があるんだかないんだか、わからないところも不思議だったのをおぼえている。
1982年登場の初代エクサは、小さなキャビンと格納式ヘッドランプを特徴としていたが、後付けデザインの感が強く、全体のかたちがまとまっていなかった。それに対して米国のデザインスタジオが仕事をした2代目エクサは、完成度が高い。
ただし、インダストリアルデザインの作品としてみたら、よく出来ていても、クルマの魅力はそれだけではない。多少ぶかっこうでも、なんだか乗ってみたくなる、と、思わせるモデルが存在するのは事実だ。1990年代の日産はそれに気づいたのか、もうすこし泥くさい印象を復活させる。デザインってむずかしいもんだ。
(2)ホンダ「シビックシャトル」(初代)
1983年登場の3代目、通称「ワンダーシビック」は車種構成がおもしろかった。看板車種のハッチは2ドアのみ。4ドアが欲しいひとはセダン。荷物も積める4ドアを、というひと向けに「シビックシャトル」が用意されたのだ。
シビックシャトル(以下シャトル)は、大きな縦長のウィンドウによってカーゴスペースを強調したモデルだ。ハッチバックに1カ月遅れて、セダンとともに発売された。機能主義というのか、デザイナー頑張りすぎだから、と言いたくなる個性的な造型のキャビンが印象に残るモデルだ。
車高はハッチバック車が1340mmであるのに対して1480mm。4WDの設定もあり、いまならSUVに分類されるだろう。シャトルが出たとき、スタイリッシュではないものの、機能を優先させた大胆なデザインに、私を含めた自動車好きは喝采を送ったものだ。
ただし、1.5リッターエンジンはパワフルでなかったし、無理に(と、当時は思われた)ボンネット高を下げたためサスペンションはストロークを十分にとれなかったのか、乗り心地もいまひとつだった。
このあと1987年のフルモデルチェンジでシャトルも一新される。コンセプトはおなじであるもののスタイリングはより洗練されていた。いまでもSUVとして充分通用すると思う。
ただそれでも、初代のインパクトは忘れられない。このちょっとしたカッコ悪さも計算だったのかもしれない。
(3)三菱「スタリオン」
驚くのは、どこからみてもスポーツカーのルックスをもった「スタリオン」が、ラグジュアリークーペだった「ラムダ」の後継だった点だ。
実際にシャシーはラムダのものをベースにしていた。ただし、ホイールベースを2530mmから2435mmに切り詰めるなど、コンセプトはスポーティなものへ変わった。
スタイリングはカッコいいんだか悪いんだか……。スポーツカーとして評価しようとしたら、分厚いノーズや2プラス2のパッケージをあきらかに重視したような、ぼてっとしたキャビンなど、ネガがいろいろ目につく。
いっぽう、おもしろがろうと思えば、いろいろな要素を組み合わせた統一感のちょっとした欠如が、ユニークなスタイルを作り上げているのが見どころだ。デビュー当初は、北米的なテイストで、それはそれで納得できるスタイリングだった。
ところが、というべきか、1987年2月には大型のブリスターフェンダーを前後に備えたターボ2000GSR-VRが登場。明るいシルバーメタリックのボディは、極端なほどの抑揚感があって、ほかにない個性である。
洗練という表現とは無縁。インタークーラー付きターボチャージャーによる加速感といい、硬めの足まわりといい、豪快なスポーツカーが好きな層をまっすぐに見据えて開発されていた。
当時、スタリオンに乗るというのは、日本の自動車メーカーが高性能化と同時に欧州的な洗練性を目指していた流れに背を向けるようなものだった(私の印象)。べつの言い方をするなら、自己表現の道具としてはまたとない存在感である。
手持ちの札を可能なかぎり組み合わせて市場のニーズに応えようとした当時の三菱自動車の開発者たち。みなさんは、スタリオンに手を入れていくことを、楽しんでいたのだろうか。そこ、いま知りたい。
(4)マツダ「ファミリアアスティナ」/ユーノス「100」
1989年に登場した7代目ファミリアは3つの車型で登場した。ハッチとセダンは従来からの継続。くわえて5ドアハッチの「アスティナ」が加えられて話題を呼んだ。
アスティナは格納式ヘッドランプを備え、ぐっとスラントした低いノーズを強調していた。よくない角度がフロント7対リア3で見たとき。いっぽう、特徴がよく出るのはプロファイル(真横)だ。
くさび型のシルエットで、かつ太いリアクオーターピラーが、フォルクスワーゲン「ゴルフ」のように力強さを感じさせる。ピラーは後輪の真上にくるように配置されていて、きれいなプロポーションだ。
もうひとつ、このクルマの特徴は、当時、多チャネル化戦略をとっていたマツダの方策にのっとり、ユーノスブランドでユーノス100として販売された点だ。
エンジンは、1.5リッター、1.6リッター、それに1.8リッター。全長4030mmのコンパクトなボディは、1.5リッターでも充分に速いと思わせてくれた。
7代目ファミリアはしっかりした足まわりをもったいいクルマだった。パワーもある1.8リッターはとりわけ走りがよかったが、下の排気量のエンジンでも、ハンドリングがいいので、ワインディングロードではよく走った。
インテリアの質感もドイツ車をめざして大きく向上。このときからマツダ車のクオリティは、ぐんと向上した。ドイツ車をライバルとすることを公言していただけに、日本では人気がなかったものの、欧州ではスマッシュヒットを記録。ほとんどのクルマが輸出にまわされたとか。マツダって往々にして、米国を中心にウケるとか、欧州ではウケてる、とか、そんなクルマを作る。おもしろいではないか。
(5)スズキ「マイティボーイ」
パーソナルなイメージが強いスズキの軽自動車が「セルボ」だ。そのセルボのプラットフォームと、シルエットをそのまま流用して、しかし斬新なピックアップスタイルを与えられたのが「マイティボーイ」だ。
ふたり乗りのキャビン背後を荷台にして、そこにソフトトップをかけたスタイルだ。プロファイル(真横)で見ると、ソフトトップが立体的なので、ボディの輪郭は2代目セルボのまんま。そこもユニークな点といえよう。
2代目セルボの大きな特徴は、初代の2ストロークエンジンを捨て、543cc直列3気筒4ストロークに変えたことだ。トルクでは2ストロークに勝てず、期待を裏切られたファンも多かった。でも燃費や排ガス規制や騒音問題で、2ストロークがなくなるのは時代の趨勢だった。
「スズキのマー坊とでも呼んでくれ」というキャッチコピーが話題になったマイティボーイは、全長3195mmとかなりコンパクト。ふたりで乗るには必要最低限のスペースが確保されていたものの、ソフトトップはやや複雑な構造で、開け閉めがやや面倒くさく、結局、荷台を露出させるか、荷物を入れないか、究極の二択を迫られた。
荷台を使うといっても、奥行きは660mmしかなく、容量も少ない。つまり、実用にはやや不向き。デビューのときは「ププッ」と吹き出してしまうような、楽しいコンセプトに思えたものだ。これでスポーティに走れればよかったが。
車重が530kgなので、最高出力29psでも意外に楽しめた。マイティボーイはガラス面積も少なく、いわゆる上屋が軽く低重心化も可能というパッケージだった。そのせいか、それなりに楽しいクルマだったのだ。
粗めのエンジンフィールとか硬めのサスペンションとか、言いたいことはいろいろあったものの、シャレで作ったようなクルマに真面目に意見しても野暮というもの。なんて思ったりもした。私、間違っていたでしょうか。
文・小川フミオ
Posted at 2020/08/20 22:23:10 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年08月20日
WorldRX:電動部門に向けた新ステップアップ選手権『FIA eRX2 Championship』が始動
2021年のWorldRX世界ラリークロス選手権のサポートカテゴリーとして、シリーズの“ステップアップラダー”を担う新たな電動選手権『FIA eRX2 Championship』が正式に発足。スペインのEV専門企業のQEVテクノロジーズ、ラリークロス界の名門コンストラクターであるオルスバーグMSE、そして現在はRX2シリーズの運営に携わるRXプロモーションが合弁会社を立ち上げ、シリーズ運営とプロモートをWorldRX同様のIMGが担当することが発表された。
昨年10月に競争入札を終えて電動パワートレインのサプライヤーが決定していたこの新EVワンメイク・シリーズは、前身となるRXライツと同様に電動ラリークロスの最高峰となる『Projekt E(プロジェクトE)』へのステップアップや、文字どおりの世界最高峰クラスであるWorldRXスーパーカーのドライブを目指す、若いドライバーたちの育成カテゴリーとして創設される。
この育成分野の電動化に向けパワートレインを供給するQEVテクノロジーズは、2014/15年シーズンに初のフォーミュラE選手権タイトルを獲得したネルソン・ピケJr.擁するNEXTEVチームの技術サポートを担当しており、直近では2021年開幕の電動オフロード選手権『Extreme E(エクストリームE)』への参戦を計画するなど、電動パワートレインの設計と製造、充電インフラストラクチャーの設置まで、電気自動車分野で成功した歴史を誇っている。
このeRX2シリーズでは“アライブ&ドライブ”のコンセプトが採用され、250kW(335bhp)を発生するモーターと32kWhバッテリーを採用する共通パワートレインを、この9カ月で開発された専用スペースフレームシャシーに搭載する。
■最初のシーズンは欧州内で6戦を予定
この専用フレームは、オルスバーグMSEが製作した既存のRX2シャシーをベースに、現状はプロトタイプとなるコンポジットシェルを架装。安全性が充分にテストされたバッテリーは、車体中央に座るドライバーの左右に振り分け搭載され、理想的な50:50の重量配分を確保している。
前後アクスルに搭載されたモーター/インバーターで4輪を駆動し、最長25分間の全開走行が可能。週末のレースではセッション間に20分の充電が推奨される。最終仕様は2020年末に向けて正式発表される計画で、『FIA eRX2 Championship』最初のシーズンはヨーロッパ域内で6戦のイベントを計画。その暫定カレンダーもまもなくリリースされる予定だ。
QEVテクノロジーズ社のCOOを務めるジョアン・オルスは「ラリークロスは電気自動車にとって理想的な分野である」との持論を改めて強調した。
「2019年10月に入札で供給権を獲得して以来、我々のチームは新しいeRX2マシンの開発に精力的に取り組んできた。最大トルクを迅速に供給可能なEVの特性により、現在の内燃機関RX2車両より速くなるだけでなく、限界域でのドライブがより難しくなるだろう。これはより高性能なマシンをドライブするステップアップ候補者には重要な要素になる」と続けるオルスCOO。
「eRX2マシンについて私がもっとも気に入っている点のひとつは、トルク配分からブレーキバイアスまで、ドライバーが違いを生むすべてのパラメータが緻密に調整可能な点だ。これはエンジン車のままでは難しい制御でもある」
「レース中に任意でパフォーマンスを調整でき、150km/h以上の速度でサイド・バイ・サイドのバトルを繰り広げながらドリフトコントロールをすることで、そのドライバーのスキルセットと技術的理解を真に実感し、把握することが可能となるだろう」
Posted at 2020/08/20 22:19:00 | |
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