喫茶店 デビューは高校生でしたかね?
昔とはいえ、遅めですかね!?
しかも、珈琲はまだ飲めずに注文はコーラだったような・・・・・
まぁ、スタバなど気楽に入れる珈琲ショップやチェーン展開の喫茶店も無く、個人経営の喫茶店ぐらいしか無い時代ですから・・・・・
加えて、のどかな田舎の子供でしたから、
小学生時代は田んぼで遊んだり、今と違って三角ベースやサッカーが出来る空き地や公園があり、友だちと遊んでいるのが楽しくてそれだけで十分だったし、
中学時代は部活(バスケット)に全集中、平日は暗くなるまで、土日も練習や試合でほぼ潰れ、帰宅後なんとか食事はするがその後別のことをする気力・体力は無く・・・・・
何より、中・高時代に喫茶店やボーリング場に出入りすると、不良のレッテルが貼られるような環境でしたし・・・・・
実際、繁華街などを通過せず、自宅周辺よりも過疎の田舎道を自転車で通っていた高校時代もそんなに日常生活は変わりませんでしたが、クラブ活動を止めた高2位からは活動範囲を広め週末や長期休暇には市内オンリーから静岡まで出掛けるようになって近隣の監視から逃れてやっと・・・・・
1歳年上で静岡市内に住んでいた再従兄弟の(悪?)影響が大きかったかも・・・・・(笑)
セリカにするとスカイライン、ソアラにするとセリカダブルエックスと張り合った仲の・・・・・(笑)
VS
まぁ、いつも先だったのでこちらにそんな気持ちは無かったのですが・・・・・
ということで、先ずは年寄りの懐かし話から
そんな遅咲きでしたが、学生になると人並みに・・・・・・
(人並みのレベルが分かっていませんが・・・・・)
教養課程時代の松本では、昨年生存確認した寮近くの茶店や、残念ながら定休日だった創業100年以上、喫茶店としての現建物も50年以上経っている
民芸茶房 珈琲 まるも を筆頭に色々と・・・・・
まぁ、当時は 珈琲 まるも に通っているものの本当は紅茶のほうが好きだったりして・・・・・(笑)
学部に移った3年間では更に多くの・・・・・
自分の学生番号は1F111でしたが、
こちらでお馴染みの1F110の友人達と、
なぜか10F台の番号を持つ友人達と、(メンバー重複あり)
1F112の彼女と、
1F110メンバー+1F112で、
その他
など、グループ毎に異なった茶店に・・・・・
この辺りでやっと珈琲の味に・・・・・
だが、ミルクだけじゃなく砂糖も入れて・・・・・
それでも、多くて週に数回というレベルでしたが、社会人になると急変しました。
5年間勤めた営業時代は営業職の御多分に洩れずというか・・・・・
事業所を出た後、担当エリアへ向かう前に同僚と馴染みの喫茶店へ
情報交換や談笑後各地に散り、遅めの昼食を兼ねて2度目の茶店へ、時には代理店担当者や交渉相手と3度目、4度目と・・・・・
まぁ、日帰り1,500円、宿泊3,500円の日当が日々出るし、実費との差額は懐に入る一律11,500円の宿泊費支給、相手とは会議費・交際費が使える時代、入社後僅かのペーペー社員でも割と優雅に暮らせていましたね!?
自分は宿泊が少なかったので1~2週間分で10~20万円の仮払いでしたが、僻地や事業所が遠く半月から一月近く戻らない社員は80万とか申請していたようですから・・・・・
自分もほぼ給料には手を付けずに暮らせましたね。
他支店の先輩には、給料に手を付けないだけでなく、宿泊出張が多かったので安い宿に常駐し、宿泊差額、日当も溜め込んで数年で家を建てた猛者もいましたし・・・・・
そういえば、入社時の面接担当社員が、
「営業は日当が出るから昼でもステーキとか食べられるが、内勤者は自腹だから昼食代も厳しい!?」
と、営業職への誘導と思われる言葉を発していたことを思い出します。(笑)
まだ、バブル前でしたが、売り手市場の時代だったのか、
入社面接に通うたびに、交通費、日当が貰えましたね!?
最初から・・・・・
最悪の就職氷河期1年後の長男、氷河期ではなかったもののリーマンショック直後の次男、どちらも初期訪問では一切出ず最終面接近くになって貰ったと言っていたような・・・・・
現在はどうなんでしょうかね?
さて、5年後、本社の内勤業務に異動すると、面接担当社員の言葉を初めて痛感しました。(笑)
日当が無くなっただけでなく、
家賃補助は同様にあり都市部ということで割増もあったが、それでも家賃負担は増え、
田舎より物価が高く生活費も増加、
間もなく次男が生まれ、家族が増え・・・・・
とても、喫茶店に気軽に入り浸れる余裕は・・・・・
まぁ、それでも定額の小遣いは貰い、飲む打つ買うをしないので同僚に比べれば・・・・・
しかし、
そんな貧困にも関わらず、限界がきました!?
もう、我慢が出来ません!?
耐えられません!?
珈琲が切れて禁断症状出たわけではなく、
四六時中デスクの前に座って、
真面目に業務を熟すのが・・・・・(笑)
本社では新参者で風貌も当時は若く見られ新入社員に間違えられることはあっても、その中身は自由気ままな生活を5年も過ごしてきて入社時のような真摯な気持ちも薄れて既に薹が立ち始めている30歳を目前にした妻子持ちのおじさん、元々の不真面目さにずる賢さや要領の良さを兼ね併せ・・・・・
猫を被って過ごした1ヶ月が過ぎ、環境、雰囲気、そして隙があることが分かると本領発揮、小一時間社外に抜け出すことが、日課 いや、週課というか、楽しみとなって・・・・・(笑)
本社での勤続期間の2/3程度の年数は継続したでしょうか?
振り返ると、見つかった場合のリスクのほうが得られたものよりも遥かに大きく、よくやっていたなと思いますが、当時は気分も向上、息抜きも必要、その後の仕事のパフォーマンスは上がっているはずだから必要悪などと都合よく解釈して・・・・・
残り1/3の期間は改心した結果?
と思うでしょうが、違います!?
最後まで会心はしませんでした!?(笑)
物理的な問題でした。
本社が、日本橋、麹町、赤坂と移ったことが原因でした。
麹町までは、ちょっとした裏道や奥まった場所に手頃で目立たない個人経営の喫茶店があったのですが、流石に赤坂ともなると地代が高くて経営が成り立たないのか、隠れ家のような喫茶店が無くなって・・・・・
流石にスタバのような開放的で明るいところでは落ち着かないし、いつ、誰が入ってくるかも分からないので不安だし・・・・
ということで、隠し通せたまま足を洗うことが出来たことは、自分にとっては幸いでした。
こういうところが、持って生まれた悪運の強さと言うことなんでしょうかね?(笑)
もちろん、何も起こらなかったわけではありませんでした。
冷や汗をかいた瞬間もありました。
他部署の先輩や、元直属の上長でその後役員になった上司と鉢合わせしてしまって!?
しかし、お互い様と目配せだけで終わったり、状況追求など始まらず会話が始まり一緒に社に戻ったりしたこともありましたが、日頃の行いというか、サボるとき以外は真面目に勤めていてそれなりに実績を出していたので特にお咎めが無く・・・・・
ちなみに、その方々とは退職後の現在も年賀状だけはやり取りが続いています。(笑)
元々、広く開拓していくタイプではなく、気に入ったところに通うタイプ、
かといって、通い詰めて馴染になってもカウンターでマスターと会話を楽しむタイプでもなく、「いつもの!?」なんて馴れ馴れしくすることもない。
もちろん、挨拶や話しかけられれば会話もしますが、基本的には一定の時間一人席でのんびりしたり、漫画や雑誌などを読むのを好んでいたので特にエピソードは無いのですが、一つだけ覚えていることがあります。
当時は大きな話題となり盛り上がり、大ベストセラーとなった
宮沢りえの写真集『Santa Fe(サンタフェ)』
を、
「まだ見てないでしょ? 見ます?」
と、発売当日に入手したマスターに見させて貰ったことを・・・・・
当時、宮沢りえはピチピチの18歳美少女、撮影は篠山紀信、しかもただの写真集ではなくヌード写真集ともなれば興味津々ではあるものの現在のようなネット環境が無い時代、購入以外見る機会は暫く先かと思っていたものが当日に・・・・・
ちょうど倍の年齢になっていたおじさんは、静かに、興奮させていただきました。(笑)
確認してみると、発売日は、本日(4/21)から11,848日前、1991年(平成3年)11月13日(水)とのこと、
数字や記録好きでもサボった回数や日付は一切残ってはいませんが、
少なくとも、上記の1991年11月13日の午後、ひと仕事が終わった2時頃からはしっかりサボっていたのは間違いありません。(笑)
1年は52週ですが年末年始、夏季休業等ありますから毎週ではありませんが、仮に50回としてして10年で500回、20年で1000回にも・・・・・
再雇用まで含めると勤続年数は42年弱、営業5年を除くと37年、その2/3は25年近辺、
こう考えると、随分サボりましたね!?(笑)
費用だって一回4~500円だったから、月にしたら2000円ぐらいで当時は大したことないと思っていたが、1000回だと4~50万円にも・・・・・
塵も積もればということでしょうね!?
さて、職場でのサボり報告に大きを置いてきましたが、プライベートでも喫茶店を利用しています。
入社が1980年でしたから、本社勤務となって上京したのは1985年になります。
おとぎの国住人となったのは2003年、それ以前は隣接市である市川市行徳エリアで暮らしていました。
ずっと同じではなく、同じエリアで2度移っていますかね?
自分は特にありませんでしたが、子供達は当然、母親としても親同士のコミュニティが出来上がっていましたから無くしたくないと・・・・・
結果、東西線の隣駅「南行徳」を基点とする生活エリア内、距離としても数百メートルしか離れていない引っ越しを繰り返し18年間を生活したので、子供達には転校というようなことも経験させずに済みました。
こちらに住み始めたのは、新しい職場同僚達からのお勧めによるもの、通勤の利便性、暮らしやすさ、などに併せ、当人たちも住んでいるエリアだったため。
出身が静岡、学生時代は信州と都会暮らしには縁がなく、不安だったので近くに知り合いがいれば安心かと・・・・・
まぁ、実態は他の候補地より同じ家賃で一部屋増えたということも大きかったですが!?
しかし、当初はちょっとエリアを広げるとバスケットの試合が出来るぐらい居たのに、結婚して移ったり、転勤や退職で離れて行ったりで、気がつけば10年もしないうちに一人だけになっていまい、自分のコミュニティは・・・・・
まぁ、過度に人と連むのは好きでないので、遠方でも必要なときにこちらから出向けばよいだけなので実害は無かったのですが・・・・・・
そんなコミュニティを持たない自分ですが、自宅でのんびりするのだけでも十分ですが、たまにはと出掛ける場所が喫茶店とかになります。
元々、下戸なので飲み(酒)の場所は憩いの場になりませんし・・・・・
地元にも必要ということで、馴染となるべく居心地の良い喫茶店を探しました。
見つけたのは、子供達が通った小学校の近くです。
こちらでご紹介した 子供達が阿部ちゃんと共に過ごし学んだ、いや、サッカーに励んだ小学校。
移ってきた頃にはまだなく、開店は知っていましたがその後暫くは出向かず、子供達が4年生になってサッカークラブに入った頃から、休みの日に試合の応援や遠征の車出しで小学校に出掛ける機会が増えて・・・・・
子供は3歳違いなので連続して6年も・・・・・
まぁ、真面目であったり、長時間会話を楽しめる父兄はずっと居るのですが、不真面目で長く一緒にいると辛くなる自分は、「ちょっと抜けてくる」と妻に伝えて喫茶店へ・・・・・
そこが、スタートですかね!?(笑)
その後は単に珈琲を飲みに・・・・・
開業は1987年みたいですから、3年後、1990年頃でしょうか?
通い始めてから34年ですか?
喫茶店が減っている昨今の状況を考えると、長く続いている方ですよね!?
コロナ禍の数年を経ても・・・・・
実際、住まいが隣街になった頃から随分足は遠のき、コロナ禍では完全消滅していましたが、
たまたま一昨年前を通るとまだ営業していることを確認、また通いが復活しました。
今月は珈琲を飲みにではなく、久しぶりの外での昼食を兼ねて妻と出掛けてきましたので記録に残すことにしました。
昨今、コロナ禍対策を継続しているお店は少なくなりましたが、こちらは現在もアクリル板継続、座席間引き使用継続中です。
アクリル板もヤッツケで準備した汎用品などではなく、しっかり店名などを入れ込んだものを使っています。
居心地の良さは、こんな「ゆとり」のあるところから来ているのかも知れません。
わざわざ隣街まで行かなくとも、浦安駅前にはこんな昭和レトロを味わえると言われている喫茶店があります。
でも、ちょっと自分が求めている場所とは違うんですよね!?
※ こちらのお店をディスっているわけではありません。
自分の好みじゃないだけで、他の方の好みを否定しているわけでもありません。