2020年04月26日
【リコール】フォルクスワーゲン 「ポロ」「ゴルフ」」など29車種5万6000台以上に不具合
フォルクスワーゲンは2020年4月23日、新たにポロ、ゴルフ6、ゴルフ・バリアント、シロッコ、ジェッタ、ザ・ビートルなど合計29車種のリコールを届け出ました。
このリコールは2019年8月にゴルフ、ポロ系の7速DSGに関するリコールと同様で、対象車種が過去のモデルまで拡大されたため、新たにリコール届け出となりました。
7速DSGの不具合
リコール内容は、7速DSGトランスミッションのアッパーハウジングのねじ切り加工が不適切で、耐久性が不足している場合があるというものです。ねじ切り加工が不適切な場合、疲労の蓄積により、アッパーハウジングに亀裂が発生し、油圧漏れが生じる恐れがあるということです。
対策は、トランスミッション・カバーをはずし、ねじ切り加工部を確認して、製造時の識別記号を確認。該当記号の場合はアッパーハウジングを交換することになります。そのため、リコール対象車種は、カバーを外して確認するため約1時間の作業、またアッパーハウジングの交換が必要な場合は半日程度の作業時間となります。
リコール対象車種は、シロッコ(2009年~2010年)、ゴルフ(2009年~2012年)、ジェッタ(2007年~2012年)、ポロGTI(2010年~2015年)、ポロ(2010年~2016年)、ザ・ビートル(2012年~2014年)、トゥーラン(2009年~2015年)、パサート/バリアント(2011年~2014年)、CC(2012年~2014年)の合計5万6938台となっていますが、これまでの不具合の報告は22件に留まっています。
Posted at 2020/04/26 23:59:18 | |
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リコールなど | 日記
2020年04月26日
【麻薬と不正利用 ロータスの関与】デロリアンDMC-12 開発と倒産の裏話 前編
バック・トゥ・ザ・フューチャーで一躍有名に
text:Richard Bremner(リチャード・ブレンナー)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)
タイムトラベルのアドベンチャー映画が上映されていなければ、ステンレス製のボディにガルウイング・ドアを備えたデロリアンDMC-12は、今ほどの知名度は得ていなかっただろう。
デロリアンのデザインは、フラックス・キャパシターがなくても充分に個性的。それだけでなく、クルマが備える欠陥や、開発者が犯した犯罪は、ちょっとした物語級の面白さがある。
世界中で好まれているバック・トゥ・ザ・フューチャーは、御存知の通り3部作。テーマパークのアトラクションにもなっている。だが、DMC-12の開発ストーリーも同じくらい興味深いと思う。実際、映画にもなった。
DMC-12の開発が行われたのは、1981年から1983年という短期間。もっとも、映画の存在がなければ、開発の裏話も旧車マニアや北アイルランドの歴史好きに受けた程度だったかもしれないけれど。
1979年、英国政府はデロリアン・プロジェクトを進めるため、5,300万ポンド(71億5500万円)という資金援助を行った。失業者対策として。しかしすぐに、数百万ポンド(数億円)に及ぶ資金の使途不明利用が発覚する。
ロータスの関与や、タイミングの良いコーリン・チャップマンの死去。創設者、ジョンZデロリアンによる180万ドル(2億円)のコカイン取引など、逸話やスキャンダルも絶えないのが、デロリアンでもある。
GM最年少のスピード出世からの起業
創設者のジョンZデロリアンは、1960年代、最も華やかに自動車業界で活躍した人物の1人だった。40歳でゼネラル・モータースとして最年少の部門マネージャーに昇格。GM内でもトップ級の仕事をこなした。
マネージャーにしてはカジュアルな風貌に、少なくないテレビ出演など、お硬い幹部の間での評判は良いわけではなかった。1973年にはマネージャーを降り、フロリダのGMディーラーで働くようになった。
その後、ジョンZデロリアンは新たな事業に乗り出す。デロリアン・モーター・カンパニーを立ち上げ、彼の名を冠したスポーツカーを計画。英国政府は北アイルランドに、製造工場を準備した。
当時の政府は、経済的に厳しかった北アイルランドでの雇用拡大の手段として、デロリアンに大きな期待を寄せていた。創業後しばらくは、政府の期待通りの成果を挙げていた。
新しいスポーツカーは、バックボーン・シャシーを備え、ボディはステンレスを用いたコンポジット・パネルが採用された。レイアウトはリアエンジン・リアドライブ。ルノー製のV型6気筒エンジンが動力源だった。
イタリアのカーデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロのドラマチックなスタイリングは、ガルウイング・ドアが最大の目印。だが、会社の運命も負けじとドラマチックだ。
創業者の信用失墜とともに会社も倒産
180万ドル(2億円)のコカイン取引容疑により、ジョンZデロリアンはFBIの捜査を受け、デロリアン社は望まぬ注目を集めた。当時の英国首相、マーガレット・サッチャー首相が決定した資金援助に対しても、不信感は高まった。
ジョンZデロリアンは最終的に無罪となるが、彼の弁護士は、警察がしかけた罠にはまった、と主張した。しかしデロリアン・モーター・カンパニーは、創業者の信用失墜と合わせるように、1984年に倒産してしまう。
その翌年、1985年に公開された映画、バック・トゥ・ザ・フューチャーはDMC-12を銀幕の世界へと押し上げた。ハリウッド出演がもう少し早ければ、もしかすればデロリアン社は立ち直れたかもしれない。
工場へ大きく依存していた当時の北アイルランドでは、数千人が大きな影響を受けた。デロリアンの開発から製造に関わった、多くの努力は忘れ去られつつあるが、クルマ自体は今も高い注目を集めているのが対照的だ。
このDMC-12は、現在は未来の自律運転技術の開発用車両としても選ばれている。アメリカ・スタンフォード大学では、EVのデロリアンを開発し、事故を回避するために意図的にドリフトさせるアイデアを研究している。
テスト車両はテールスライドのマルチ・アクチュエーターのベース車両となっている。フラックス・キャパシターの研究だけではない。
デロリアン工場の施工に携わった内装職人
熱い期待を集めていたクルマを実現するために、全力を投じた人々。工場の建設に関わった人。潰れかかったデロリアン社を、画期的な計画で立て直そうとした人。今回は、ジョンZデロリアンの背後にいた人物を、インタビュー形式で紹介したい。
ジョー・マレー 内装職人
内相職人のジョー・マレーは振り返る。「わたしは室内装飾を担当していました、つまり、社内のあらゆる場所に立ち入れました」 豪華なカーペットが敷かれた、ジョンZデロリアンのオフィスも施工したという。
「ユニークだと思ったのが、個人用のバスルームがあったことと、トイレにも電話が設置されていたこと。とても印象に残ったことの1つです」 と話すマレー。
ジョンZデロリアンはアメリカの芸能界とも人脈があり、テレビ司会者のジョニー・カーソンが工場を訪れたこともあったという。現地、アイルランドのコメディアンではなく。
デロリアン社は、マレーにとって重要な仕事先だった。多くの従業員も同様だろう。マレーの妻は、DMC-12のシートを製造していたそうだ。
デロリアン社へ対する献身的な気持ちは今も変わらない。今でも彼は、かなりの量のカタログや写真、記念品や資料を収集している。デロリアン・プロジェクトに対する強い思いと、失敗に終わった悲しみもが伝わってきた。
後編では、開発に関わったロータスのCEOを務めていた人物と、デロリアン社の従業員から話を聞いてみたい。
【麻薬と不正利用 ロータスの関与】デロリアンDMC-12 開発と倒産の裏話 後編
コーリン・チャップマンと試作車を運転
text:Richard Bremner(リチャード・ブレンナー)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)
マイク・キンバリー ロータスCEO
当時のロータス・カーズは、デロリアンDMC-12の量産モデルの開発検討を依頼された。「夜のアリゾナで、エンジニアリングに関与できるかどうか、コーリン・チャップマンと試作車を運転しました」 と前ロータス社CEOのマイク・キンバリーが思い返す。
「フェニックス試験場での運転は、とても疲れました。サーキットに留めて走らせることも大変でした。車内は暑く息苦しく、基本的な形状としてはクルマでしたが、完成したモデルではありませんでした」
「エンジンは正しいものでしたが、パワー不足。とてもプロトタイプと呼べる状態ではなかったですね。かなり失望しました。自動車試験場という条件は、このクルマには適していないと判断しました。そこで翌日、高速道路を走らせました」
「ところが追い越し車線を走行中、燃料系統で故障しストップ。不名誉にも、警察車両に押して救援してもらったんです」
そんな経験にも関わらず、チャップマンとキンバリーは、ロータスでデロリアンの開発を進めることを決定。しかも、英国政府がジョンZデロリアンとが結んだ条件を満たすには、残り18カ月でクルマを完成させる必要があった。
「当時のロータスには、2つの技術者チームが存在していました。 VARI(真空補助樹脂注入)ボディとバックボーン・シャシーの開発に、382名が関わっています」 と話すキンバリー。
ロータスが望んだ、ガルウイングの不採用
チャップマンとキンバリーは、クルマの基本構造の一部を変更するため、ジョンZデロリアンを説得した。ハンドリングを向上させ、開発も容易にすることが目的だった。
最も強くロータスが望んだ内容は、ガルウイング・ドアを採用しないことだった。「代替案を提案しましたが、話が通じませんでした」 結果、リアエンジンとステンレス製のボデイのスポーツカーが完成した。
一方でキンバリーは、デロリアンの開発期間の短さを強調する。「まったく白紙の状態から、2年2カ月から4カ月の期間で、生産へと移行しています。これは自動車業界としては最速で、今も記録は破られていないと思います」
「プログラムとしては、ロータスにとっては大きな成果にもなりました。今まで目にしたクルマでベストといえるモデルでした。悪くない、妥当なクルマだったと思います」 と言葉を選ぶキンバリー。
「始めは好調でした。ですが1982年には、1台も売ることができませんでした。2度目のオイルショックです。トヨタですら、6億ドル(648億円)も失ったのです。アメリカではガソリンが手に入りませんでした」
しかも、オイルショック以前の1981年の半ばには、ディーラーは充分な新車を用意できずにいた。そこで工場はシフト体制を組んでボディと組み立てを進めていた。
ところが一気に景気は後退。ロータスとデロリアン社との関係も悪化し、1982年の8月には、英国政府からの資金も途絶えたのだった。
トライアンフを用いた2台目の計画
バリー・ウィルズ 購買部門ディレクター/破産管財人責任者
バリー・ウィルズは、デロリアン・モーター・カンパニー創業当初からの従業員。そして最後にデロリアン社を退職した人物でもある。ちなみに彼は、ジョンZデロリアンとわたし、と題した本を出版したばかりだ。
1978年10月に購買部門のディレクターとして入社し、1982年5月には、破産手続きに伴う最高責任者となった。それと前後するように彼は、成功する可能性が高かった、救済計画を立案している。
ウィルズのビジネス計画の1つは、2台目のモデルを投入することだった。ブリティッシュ・レイランド(BL)カーズが、トライアンフTR7とTR8の生産終了を1981年に発表。それを利用し、低コストで2台目を実現する機会が訪れたのだ。
「わたしたちはオースチン・ローバーと、TR7とTR8コンバーチブルの買収に関する協議を進めていました。西ミッドランズの支援も受けていました。2台のクルマを組み合わせることで、デロリアンを救えると考えたのです」 と話すウィルズ。
既存スポーツカーのボディを、低コストに一新したモデルの計画だった。「BLカーズはトライアンフやTRの名称利用は認めなかったため、ジェフリー・ヒーリーの承認を得て、ヒーレー・ブランドに改める計画でした」
事業に対するサッチャー首相との亀裂
「ヒーレー3500にはV8エンジン、ヒーレー2000は2.0Lエンジンが搭載されたでしょう。デロリアン・モーター・カンパニーの名称は、ダンマリー・モーター・カンパニー、DMCへと改名されました」
「この事業には、2000万ポンド(27億円)の資金が必要でした」 多くは投資銀行や、外部の投資家からの資金だったが、北アイルランド庁を通じて政府からも8万ポンド(1080万円)を得た。
「当時のジム・プライアー大臣は計画に協力的でしたが、サッチャーと対立していたトリー・ウェットは異なりました。プライアー大臣は、サッチャー首相と一度、問題をクリアにする必要性を理解していました。
「状況を検討する閣議も開かれず、とてもスピーディに話が進んでいました。しかしサッチャー首相は、DMCが組む英国コンソーシアム計画には資金が不足しているという印象を受け、混乱していたようです」
「首相は、DMCがより多くの資金提供を求めていると勘違いしたのです。プライアー大臣が、首相へのプレゼンテーションに失敗したと聞きました」
「求めていたのは承認だけでしたが、首相はプライアー大臣の質問に耳を傾けることはありませんでした。もっとDMCには仕事に取り組んで欲しいし、もう政府の資金はない、と首相は計画を跳ね返したのです」
Posted at 2020/04/26 23:52:12 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月26日
「スタリオンに魅了された男の物語」心臓部はグループAパーツで鍛え上げた至宝の340馬力仕様!【OPTION back number】
このスタリオンは、1984年のホットモデル“GSR-V”をベースにしたチューンドだ。グループAのパーツを使いながら匠の手で仕上げられたスペックは、今見ても垂涎ものだ。(OPTION誌2004年12月号)
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カンサイサービス渾身のフルチューンスタリオン!
ワンオーナーで21年以上かけて育て上げた珠玉のG63B
1982年にギャランの2ドアであるラムダの後継車として登場したスタリオンは、83年には日本車初となるインタークーラーを純正装着。
84年5月に追加されたGSR‐VグレードにはSOHCながら高回転では3バルブ、低回転では2バルブとなる”シリウスダッシュ3×2”G63Bエンジンを搭載し、200ps(グロス表示)を発生した。2Lで200psオーバーというと、84年2月に登場したDR30スカイラインのRSターボC(205ps)も思い浮かぶ。
スタリオンvsRSターボC、この両車は後のグループAレースでも直接のライバルとなる。当時、ギャランシグマ1.6Lのソレックスツインキャブ仕様に乗っていたオーナーは、200psというスペックに惹かれてスタリオンを購入。
しかし、自分の憧れていた200psのイメージとなかなか一致せず、以前から「ミツビシ車の良いところを教えてもらっていた」というツインパワー(カンサイサービスの前身)向井さんの元を訪れ、チューニングを開始した。
まずはブーストアップ、次にTD05H-18G10cm2、そしてWRCで使われていたという272度カム。それでも目標のフィーリングに至らなかった。その目標とは300km/hオーバーだったからだ。
そこで辿り着いたのが、280度のRカム、いわゆるグループA用のカムだ。加えて、1000ccのグループA用インジェクター、高ブースト対応のグループA用の燃圧レギュレーターも手に入れた。
当時はチューニングしたくてもパーツが少ない。そのため「パーツが手に入ってはじめて“これならフルチューンが作れる”やった」と向井さん。
HKS製85.5φ鍛造ピストンを使い、排気量は2020ccに。ノーマルコンロッドには熱処理を施し、ピストンと重量バランス取り。ヘッドはポート研磨をし、280度カムに合わせるバルブスプリングを特注。バルブシートカット、バルブフェイス研磨など、全てが手探りとなるワンオフエンジンを作った。
タービンも一回り大きい、TD06H-18G10cm2に交換し、等長エキマニにセット。アクチュエーターをロックしてスイングバルブを固定し、HKS製STDタイプを使ったウエストゲート仕様とした。
インタークーラーはHKSの4層タイプを水平に配置しているが、ノーマルもこのレイアウトのため正確には純正置き換えだ。後のマイチェンで垂直マウントに変更されている。
リミッター関連はSLDとFCDでカットし、制御系はPFC F‐CON+GCCIIという、当時の定番フルチューンメニューである。
ブースト1.5キロ時に340ps/5600rpm、トルクは42.1kgmというのが完成時のシャシダイチェックデータ。その後ブースト1.8キロまで煮詰めたが、「乗ったフィーリングに満足できていたので何馬力かはどうでも良かった」とオーナー。
室内はノーマル然とした仕上がり。スピードメーターは輸出用の240km/hスケール。ちなみに北米ではクライスラーブランドでコンクエスト(Conquest)という名で販売されていた。
センターコンソールには、F-CONでセッティングしたデータを回転数ごとに微調整できるGCCIIや、初代EVC、初代ピークホールドのブースト計&排気温度計が装着されている。クラリオンのカセットデッキも年代もの。もちろん、これら全て現役で稼働する。
セカンドカーとして、ランエボVのブーストアップ仕様にも乗っていたというオーナーいわく「同じようなパワー&トルクだと思うんです。だけど、フィーリングが全く違います」と語る。
続けて「回転を引っ張っていった時に、エボは頭打ちになるけど、スタリオンはタレない。最新のクルマは良く出来ていて、長距離乗るのも快適ですよね。チューニングカーは乗るのも大変だけど、楽しさがあるんです」。
新車で買って21年目、自分仕様のエンジンを作ってもらって16年目。「向井さん、周りのスタッフさんと二人三脚で作ってきたクルマなので大切にしたいですね」。このオーナーの言葉に心から敬服したい。
●取材協力:カンサイサービス 奈良県奈良市小倉町1080 TEL:0743-84-0126
Posted at 2020/04/26 23:36:01 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月26日
【スーパーカー年代記 060】ポルシェ カレラGTは、V10エンジンを搭載して究極のスーパー ポルシェを目指した
クルマ好きなら一度は憧れたことがあるだろうスーパーカー。その黎明期から現代までをたどる連載企画。第60回は「ポルシェ カレラGT」だ。
ポルシェ カレラGT(2003-2006年)
2000年のパリ モーターショーでポルシェが発表したコンセプトカー「ポルシェ カレラGT」。その完成度の高さからして、市販化は間違いないないだろうと思われていたが、その車名のまま市販モデルが登場したのは、2003年のジュネーブ モーターショーだった。ポルシェのコードネームでは、タイプ980となる。
1970年代のレーシング ポルシェ、917をモチーフにしたといわれるスタイリングは、コンセプトカーと大きく変わることはなく、ライト類などのデザインが少し変更された程度。いちばんの違いは、デタッチャブルトップを採用したことだろうか。シャシはカーボンファイバー製のセンターモノコックに、リアのパワートレーンを搭載するためのサブフレームもカーボンファイバー製。当時としては最先端のカーボンモノコック構造だった。もちろん、ボディパネルにもカーボンファイバーが用いられていた。
コクピットの後ろにミッドシップ搭載されたエンジンは、68度のバンク角が与えられたV型10気筒DOHC。このエンジンはル・マン制覇のためにポルシェが開発していたものだが、諸般の事情で日の目を見なかったユニットだ。開発当初の排気量は5.5Lだったが、カレラGTには5.7Lにアップされて搭載された。潤滑方式はドライサンプで、燃料供給装置はボッシュ モトロニックME 7.1.1を採用。パワースペックは、最高出力は612ps、最大トルクは590Nmを発生した。
組み合わされたトランスミッションは6速MTで、最高速度は330km/hと公称された。リアエンドには速度感応式のウイングが備わり、車速が120km/h以上になると160mmアップしてダウンフォースを増し、高速時の安定性に寄与していた。ブレーキにはセラミック ディスクや6ポット キャリパーを採用し、超高速からの強大なストッピングパワーも与えられている。
インテリアでは、左右のシートをセパレートする大きなセンターコンソールが特徴的だが、このインテリアデザインは現在のパナメーラや911などと共通性を感じさせる。そのハイパフォーマンスから想像されるほど室内はレーシーではなく、いかにもポルシェらしい、快適装備も備えたハイクオリティな高級スーパースポーツカーといったイメージだった。
だがハイパフォーマンスゆえに限界が高く、しかも限界域でのコントロールには相当のスキルが必要とされた。まさに乗り手を選ぶスーパー ポルシェのカレラGTは1500台限定生産の予定だったが、2006年までに1270台しか生産されなかった。
ポルシェ カレラGT 主要諸元
●全長×全幅×全高:4631×1921×1166mm
●ホイールベース:2730mm
●重量:1380kg
●エンジン種類:68度V10 DOHC
●排気量:5733cc
●最高出力:612ps/8000rpm
●最大トルク:590Nm/5750rpm
●駆動方式:縦置きミッドシップRWD
●トランスミッション:6速MT
●タイヤサイズ:前265/35ZR19、後335/30ZR20
8400万円で落札! ポルシェ「カレラGT」の危険な魔力とは?
■「カレラGT」は、過去のコンペティションモデルへのリスペクトであり、未来への先進性を示した
ポルシェのタイプ980、後に「カレラGT」と呼ばれることになるミッドシップ・スーパースポーツのプロジェクトは、1990年代の中盤はすでに開始されていた。
1999年のパリ・サロンで、そのスタディ・モデルが公開されてから約4年後、ポルシェは世界を驚愕させる凄まじいスペックと掲げて、正式に生産型のカレラGTを2003年のジュネーブ・ショーで世界初公開した。
ちなみに、この年のジュネーブは、さまざまなライバルが競うかのようにデビューを果たした豪華絢爛なショーだったが、それでもカレラGTの華やかさは特筆に値するものだった。
カレラGTのスタイリングは、基本的にはスタディ・モデルから大きな変更を受けることなく、そのまま生産型に移行されたという印象が強い。フロントウインドウの傾斜角や灯火類のデザインなど、若干の手直しを受けている部分があるのも事実だが、それらはきわめて小さな変更と考えることができそうだ。
スタディ・モデル時に噂されていたクーペとタルガトップという2タイプのボディが設定されるという噂は誤りで、結局カレラGTには着脱式ルーフの1タイプのみとなった。
そのデザインは、ポルシェの手によるスーパースポーツの先進性を主張すると同時に、過去のコンペティション・モデルから多くのモチーフを得たと考えられるディテールにも満ち溢れている。
例えばフロントマスクをさらに精悍な印象とする丸型の4灯式ヘッドランプは、あの「917」から受け継がれたディテールであるし、またボリュームに富むフロントフェンダーの造形は、「718RSKパイダー」のそれを反映させたとポルシェは説明する。
もちろんエアロダイナミクスも当時としては世界最高峰のレベルにあった。リアエンドには車速が120km/hに達した時点で160mmライズアップする可変式のウイングが備えられ、さらにダウンフォースのほとんどはボディ下面のヴェンチュリートンネルで得る仕組みであった。
■走行距離たったの1200km! ほぼ新車ストック状態のカレラGTのプライスは?
カレラGTのインテリアは、ポルシェの流儀に従った、機能的で整然としたデザインに徹している。メーター類も5つの円形メーターを重ねてレイアウトした、ポルシェのカスタマーには見慣れたものである。
独特なセンターコンソールの造形は、カレラGTでは大きな特徴となっている部分で、6速MTのシフトノブがバルサ材で作られた円形のウッド製となっていることも見逃せない。これは往年の917が軽量化のためにバルサ材によるシフトノブを使用していたことに由来するものなのだ。
キャビン全体は、軽量で高剛性なCFRP素材によるひとつのタブとなっており、そのリアにはやはりカーボン製のサブフレームが接合されている。このサブフレームが特徴的なのは、上下に分割されたシェルの2ピース構造となっている点だ。
このサブフレームの挟むようにしてマウントされるのは、そもそもル・マン24時間レース参戦用に開発を進めていたものを基本とする、5.8リッターのV型10気筒40バルブエンジンや6速MT等々のパワーユニット一式である。
また搭載される電子制御デバイスは、ESP、ABS、ASR、ABDなどである。最高出力で612ps、最大トルクで590Nmという動力性能を考えれば、やや物足りないような印象もあるが、これでも当時は最先端の装備だった。
前後のサスペンションは、フロントがダブルトラックコントロールアームを用いたインボードタイプ。リアもデザインとしてはフロントと同様になる。装着されるタイヤはフロントが19インチ径、リアは20インチ径だ。
これらのメカニズムで0-100km/h加速は3.9秒、最高速は309km/hを達成している。
カレラGTのセールスは好調で、結果的に1270台の生産を記録したと、RMサザビーズは解説している。ちなみに今回、アメリア・アイランド・オークションに出品されたモデルは、走行距離がわずかに766マイル(約1226km)の個体だ。
オプションのフルブラック・インテリアとラゲッジ・セットを備え、2004年5月1日にポルシェのライプツィヒ工場から出荷された記録が残されている。
そのコンディションの素晴らしさから、落札価格は事前から大いに注目されたが、最終的な落札価格は78万6000ドル(約8410万2000円)という数字に落ち着いた。ちなみに新車価格は39万2300ユーロ(当時のレートで約5000万円)であったから、その人気や価値は順調に高まりを見せているようだ。
Posted at 2020/04/26 23:30:25 | |
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ポルシェ | 日記
2020年04月26日
次期型86/BRZ登場間近!? 超カッコイイという噂 2021年お披露目か
■ついに次期型86/BRZが動き出す?
2020年3月12日、トヨタは「86」の限定車「ブラックリミテッド」を限定86台で発売すると発表しました。既に商談申し込みは締め切られていますが、トヨタ自身が驚くほどの申し込み数(ウワサでは30倍近く!?)があったと聞きます。
このモデルは、86のご先祖となる「スプリンター・トレノ(AE86型)」のみに設定された特別仕様車「GTアペックス ブラックリミテッド」をオマージュしたものです。
AE86のブラックリミテッドは1986年1月に登場しましたが、次のモデルとなる90系の登場は1987年5月となり、モデル末期に発売されたことになります。
それを現在に置き換えると、このモデルは現行86としての「ファイナルエディション」と考えていいでしょう。この件に関してトヨタの関係者に話を聞くと「察してください(笑)」とコメント。
一方、スバルのドイツ法人は2020年3月13日にBRZの特別仕様車「ファイナルエディション」を同年7月に発売すると発表。ただ、これはドイツ向けとしての最終モデルであり、日本向けには同様のモデルの設定はありません。
そんななか、4月には「BRZの注文受付は7月20日で終了(ただし、生産予定第数を上回る注文があった場合はその時点で受付終了)」と日本でも明らかになりました。
これが何を意味するのかというと、「フルモデルチェンジの時期が迫っている」ということです。現行86が登場した際、当時のチーフエンジニアだった多田哲哉氏は「10年くらいは作る」と語っていましたが、BRZ生産終了のタイミングを考えると、2021年で間違いないでしょう。
ちなみに86はBRZとは異なり、「しかるべきタイミング(トヨタ関係者)」まで生産が続けられますが、これはトヨタの「スポーツカーの継続」へのこだわりなのでしょう。
とはいえ、次期86のカウントダウンは確実に進んでいます。現行86と同じく、トヨタ/スバルの共同開発によって進められています。
以前から水面下で進められていましたが、2019年9月にトヨタとスバルは新たな資本提携の合意の際に「トヨタ86/スバルBRZ 次期モデル共同開発」と正式なアナウンス。
巷では「トヨタとスバルの仲が悪い」という噂話が生まれ、「次期モデルは存在しない?」、「次期モデルは各々で開発」というような情報も流れました。
しかし、どちらの関係者は「むしろその逆ですね。現行モデルを開発していたときの方がギクシャクしていたかも(笑)。現行モデル発売後も長く付き合ってきているので、お互いの考えも理解できていますし、ハッキリ物事をいえる関係になっています」と話していました。
登場まで1年と考えた場合、タイミング的には偽装されたテストカーがスクープされてもおかしくない時期ですが、まだ決定的な証拠を捉えた人はいないようです。
■次期型86/BRZはいつお披露目される?
現行86は「世界のありとあらゆる路面をテストした」というリアルワールド主義を貫きましたが、次期型86もそこは変わらないはずです。
次期型86はキープコンセプトでプラットフォームは現行86の進化版を採用、ボディサイズはほぼ同等、エンジンは排気量アップというような噂を信じるとするならば、現行86の姿を身にまとったテストカーが今も世界の道を走りまわっているはずです。
では、いつお披露目されるのでしょうか。現行モデルは86/BRZ共に2011年の東京モーターショーで正式発表されましたが、次期型は別のようです。
86はその直前にニュルブルクリンク耐久シリーズ(VLN)に参戦しています。トヨタはその流れを踏襲するのは間違いないでしょう。
正式発表は2021年の東京オートサロンではないでしょうか。2019年はGRスープラ、2020年はGRヤリスがお披露目されていますが、2021年は86という流れが自然というわけです。
ちなみに現行86はGRカンパニー発足前に登場したモデルなので立場が曖昧でしたが、次期型は正式にGRブランドのモデルとなります。
BRZはどうでしょうか。2020年後半には新型「レヴォーグ」が正式発表されるので、そことのバッティングは避けたい所ですが、86とはできるだけタイミングは合わせたいという思惑を考えると、海外ショーを活用するのではないかと予想しています。
実は現行BRZは正式発表前に開催された2011年のロサンゼルスモーターショーに「BRZコンセプトSTI」というショーカーをお披露目していますが、今回はそのままロサンゼルスモーターショーを活用するかもしれません。
とはいえ、新型コロナウイルスの問題でスケジュール通りに進むかは解りませんが、着実に世代交代のカウントダウンは刻まれているようです。
Posted at 2020/04/26 23:26:49 | |
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自動車業界あれこれ | 日記