2020年05月07日
【日本再参入 オペル】WRC復帰が期待される3つの理由 2022年シーズンが有力
OPELのワークス参戦 可能性は?
text:AUTOCAR
ラリージャパンの復活やヤリスの活躍で、日本におけるWRC(FIA世界ラリー選手権)への期待は高まってきた。海の向こうでは、今後WRCに新たに参戦するメーカーがどこになるのか話題となっている。
例えば、中国のメーカー。自動車産業が大規模であることは誰もが知るところだが、各々のブランドの名前はあまり知られていない。
そんな彼らにとって、世界最高峰のWRCは魅力的な舞台になりえるだろう。しかし、ダカールラリーに参戦していた長城汽車を除けば、具体的に名前が挙がる中国メーカーは存在しない。
WRCに参戦する好条件が揃っているメーカーは、いったいどこなのだろうか?
われわれが注目しているのは、ドイツのオペルだ。
その理由の1つは、多くのファンにとって忘れられているラリーのヘリテージが存在すること。
2つ目は、WRCを経験した人材にアクセスしやすいこと。
3つ目は、ラリー界の新たな動きに強い関心を示していること。
ヴァルター・ロールのタイトル、電動化
1982年にはヴァルター・ロールが、アスコナ400でドライバーズ・チャンピオンシップに輝いているオペル。
このヒストリーは、彼らにとって魅力的だ。なぜなら、WRCが新レギュレーションで動き出す2022年に参戦すれば、ちょうど40年目の節目のタイミングということになる。
オペルの愛好家が愛するカデット、マンタは、いまやクラシック・ラリーの世代だが、もっと新しいモデルたちも歴史を残している。
オペルのイギリスにおける姉妹ブランド「ヴォグゾール」の「ノヴァ」は、コリン・マクレーがWRCデビューを飾ったマシンだ。
ほかにも、グループA時代のアストラGSi、さらにアストラのキットカー、クリス・ミークが活躍したコルサ・スーパー1600、ワンメイク・シリーズも行われたアダムR2とその血筋は続く。
注目したいのは最新モデル「オペル・コルサe」だ。今年後半から始まるワンメイク・シリーズ「ADACオペルeラリー・カップ」で使われるEVのラリー・マシンである。
電動化は、2022年のWRCの屋台骨となるトピック。ハイブリッドが全てのマシンに導入される新レギュレーションに向けて、オペルの準備は進んでいる。
シトロエン・レーシングの人材
オペルのWRC復帰を考えるうえで何よりも見逃せない好条件は、人材の確保だろう。
彼らは現在、グループPSAに所属している。そこには、近年のラリー界で最も成功を収めたブランド、シトロエンが存在する。
才能ある当時のエンジニアたちは、2019年シーズンにWRCのワークス活動が撤退したあと、どんな毎日を過ごしているのだろう?
しかも、プジョーとシトロエンは、WRCですでに栄冠を手にしている。
それを考えると、2022年こそ、グループPSAがWRCの舞台で新たなヒストリーを歩みだす好機に思えるのだ。
Posted at 2020/05/07 22:57:08 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年05月07日
新型は2021年デビュー濃厚 86/BRZの進化は満足できるものだったのか?
2LクラスのFRスポーツとして2012年にデビューしたトヨタ86&スバルBRZも2020年で丸8年が経過。
燃費、環境志向が顕著なった2010年代初期、元気のなくなっていたチューニング業界を活性化したのはまさしく86/BRZだったと断言できる。
販売台数的に見れば微々たるものかもしれないが、クルマ界への貢献度は絶大だったと断言できる。
8年生産されながら、エクステリアデザインがここまで変わらないクルマも珍しいが、中身は毎年のように進化を続けてきた。
その86/BRZの進化は期待していたほどではなかったのか? 期待どおりだったのか? 期待以上だったのか?
86のスペシャリストである橋本洋平氏が考察する。
文:橋本洋平/写真:TOYOTA、SUBARU、平野学、ベストカー編集部
【画像ギャラリー】形は大きく変わらなくても中身は劇的に進化!! 2012~2020年 86/BRZの進化総決算
86を3台乗り継ぐ
86&BRZはトヨタとスバルが共同開発したFRスポーツで、フロントバンパー形状、フェンダーのエンブレムなどで差別化。左が86で右がBRZ
2012年に登場し、今年で丸8年が経過したトヨタ86とスバルBRZは、今年末から来年はじめくらいまでには次期型が登場すると噂されている。BRZに関しては今年の7月にオーダーストップするとのアナウンス。兄弟車の86に関してもほぼ同様の流れとなるだろう。
そんな86とBRZの8年は、まさに進化の歴史でもある。僕はGAZOO Racing 86&BRZ Raceに初年度から参戦するために86を購入。
その後、2回に渡って買い替えをしたこともあり、その成長を経験してきた。それを振り返りつつ、86とBRZがどのように変化したかを辿ってみる。
橋本氏はGAZOO Racing 86&BRZ Raceに2013年の初年度から参戦。86を極限状態で使うことで長所も短所も熟知しているスペシャリスト
未完成な状態でスタート
初めて86を購入したのは86が登場してからおよそ1年後となる2013年。だが、その時にはまだ改良らしい改良は施されていなかった。
後に通称A型と呼ばれたその個体は、実際に手にしてみるとまだまだ未完成な部分があるように感じられた。
86/BRZは2012年に鳴り物入りでデビュー。この時点ですでに開発責任者の多田哲哉氏は細かく改良を続けていくことを明言
リアシートの上部パネルあたりからパチパチと音を発していたり、テールレンズ内に雨水が溜まったりといった具合にである。
後に聞けば、パネルあたりの音は溶接が甘く、ボディがよじれる度に合わせ面から音が出ているとの話。
テールレンズの水の混入に対しても、即座に対策品が用意され、ディーラーで無償交換したもらった覚えがある。いわゆるマイナートラブルだが、そんな状態から86&BRZは始まったのだ。
初期の86ではリアコンビに水がたまるというトラブルも出ていたがすぐに対策された
ボルト交換で走りが激変
だが、それだけで終わらず、スポーツカーらしく走りを磨くために拘ったことも印象的だった。
ボディの一部の板厚アップ&スポット打点の追加、パワーステアリングの制御変更、そしてサスペンションメンバーの取り付けボルトを変更は興味深いものがあった。
一度に施す改良はそれほど大きなものではなかったが、細かな改良を重ねたことでクルマが熟成されていった
さすがにスポット打点の追加は真似できるものではなかったが、ボルトについては初期型ユーザーでも流用できるとアナウンスするなど、販売した後のフォローも絶妙だと感じた。
おかげでそのボルトに発注が集中し、一時欠品になってしまうほどの反響を生んだ。
その変化を肌で味わったが、そこで感じたことは、初期型はインフォメーションが薄く、クルマとドライバーが対話できる環境ではなかったことに気づく。
年々改良が施されるたびにリニアに対話性豊かになる86の走りは、クルマの部品ひとつひとつでこんなに走りが変化するのだと知る良い機会になった。初めから完璧もいいが、未完成なものが成長する姿を共に体感できる体制は面白かった。
E型(通称)でパワーアップ
2016年7月に初のマイナーチェンジを受けた。エクステリアデザインはより空力にこだわったフロントバンパーが与えらた。これも性能アップの手段のひとつ
その後、最も走りが変化したのは、通称E型と呼ばれる前後の灯火類やバンパーデザインが変わったモデルだ。
エンジンパワーアップに加えてファイナルギアの変更など、86乗りならずとも見どころの多い変化だったのではないだろうか?
燃費や環境性能ばかりが重視される世の中にあって、モード燃費が落ちる結果も許し、さらにリニアに洗練した走りをと進化させたことは驚くばかり。
アルミテープを採用して、空気の流れに拘っていたことも面白かった。当時、それを付けたり外したりと繰り返しテストしたことがあるが、眉唾物と思っていたにも関わらず、悔しいくらいに走りを変化させたことにも感心した。
トヨタが提唱したアルミテープは最初は眉唾物と見られていたが、効果的だとわかるといろいろなクルマのチューニングに波及していった
個人的にはこの時に初めての買い替えを行ったのだが、その際に同じクルマでもここまで違うのか! と感心するばかりだった記憶がある。
初期モデルではおよそ4シーズンに渡ってサーキットを走り回ったせいか、ルーフ周りにシワがより始めるなどのトラブルがあり、かなりルーズな走りになっていたクルマと比べているせいもあったかもしれないのだが……。
わずかだが小径化されたステアリングを握ってサーキットを走れば、タイヤからの情報がダイレクトに伝わる感覚に溢れ、さらにスロットルを踏み込めばパワーアップとファイナル変更によって、蹴り出し豊かにわずかなスライドもコントロール可能。
まさに手足のように応えてくれる一台に進化していたことが脳裏に焼き付いている。
もちろん、他車に乗っている人からすれば微々たるレベルなのだろうが、86乗りからすれば別物だと断言できる仕上がりに満足した。当初は同じクルマを乗り継ぐのもどうかと思ったが、買い替えてよかったと素直に言えるものだった。
2016年のマイナーチェンジでは200ps/20.9kgmから207ps/21.6kgmにスペックアップすると同時にファイナルギア比が4.1から4.3に変更された
極限状況での使用にも真摯に向き合った
後に現行モデルではABSセンサーの改良にも踏み込んだ。これはサーキットを走る際、縁石などで大入力がある状況でエラーが出ていたことをクリアするための措置だった。
一度エラーが出たABSユニットは、2度と復活せず、その交換におよそ18万円もする状況だったからその改良は羨ましかった(最後に所有していた一台は最新型のひとつ前の型だったので)。
サーキットのような極限の状況なら、壊れても何も文句を言えないのが市販車の世界だが、そこに対しても真摯に向き合い改良を重ねた姿勢こそが、86&BRZの素晴らしさだったように思えてくる。
ABSセンサーが改良されたのはサーキット走行での不具合から。日常レベルを超越した使用状況によるトラブルにも対処してきたのはさすが
もちろん、現状ですべてがOKではない。特にスポーツ走行をする状況では冷却関係がまだまだであり、特にミッションに関しては弱さが露呈していた。ワンメイクレースではトラブルを防止するために、2戦に1回はオーバーホールをするのが当たり前だったのだから。
これはタイヤ戦争がもたらした弊害でもあるから、一概にクルマのせいにするのも可哀想だが、次期86&BRZが登場する際には、その辺りを強靭にして登場してもらえたらと願わずにはいられない。
けれども、そんな要求に対してもきちんと応えてくれると期待している。
8年に渡ってコツコツと進化してきた86&BRZなら、きっとそれを達成してくれることだろう。
これまで歩んできた地道な努力のうえでフルモデルチェンジをするなら、手足のように動き、そして速く、強靭なスポーツカーとなるに違いない。
次期86は現行のプラットフォームをキャリーオーバーして登場するという。デビュー時期は2021年中で早ければ春の可能性も高まっている(画像は予想CG)
Posted at 2020/05/07 22:54:08 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年05月07日
超名門レガシィが風前の灯!? スバルの宝が日本クルマ界に遺した軌跡
スバルを、いや日本を代表する名門車が岐路に立たされている。
2020年4月、東京スバルは公式サイトで「レガシィB4」の注文受付を、2020年6月22日をもって終了すると公表。その後、スバル広報部に確認したところ、レガシィB4の国内受注を終了することを認めた。
そうなると「レガシィ」の名前を冠したモデルは(国内市場では)「レガシィアウトバック」のみとなるが、しかしこちらも次期型(米国で発表済み)は「アウトバック」という車名に切り替わる可能性も取りざたされている。
「レガシィ」という、かつて一時代を築き上げたブランドが、いまはもはや風前の灯なのである。ここであらためて、レガシィとはどんなクルマだったのか。どのように日本市場で活躍したかを、あらためて振り返ってみたい。
●関連記事→【速報】レガシィB4の国内販売終了が決定 BRZは7月受注終了で新型登場へ
●【画像ギャラリー】スバルの、日本の至宝!!! 歴代レガシィをギャラリーでチェック!!!
文:片岡英明/写真:SUBARU
■初代レガシィ(1972-1979年)…誕生 そこへ至る系譜
今から50年以上も前に、まだ「富士重工業」と名乗っていたスバルは、水平対向エンジンに注目し、スバル1000を送り出した。
スバル1000(1965年)
水平対向エンジンの利点は、全長と全高を抑えることができ、重心を低く下げられることである。軽快なハンドリングのクルマにしやすいし、安全性に対するメリットも少なくない。
そしてスバル1000の後継となるレオーネでは、今につながる乗用4WDの分野を切り開いている。
スバル レオーネ(1971年)
そんなスバルは、1980年代半ばにはシンメトリカルAWDの未来をかけ、新しい発想のセダンとツーリングワゴンの開発を行った。
この意欲作は「LEGACY」と命名され、年号が平成に変わった1989年1月23日にベールを脱いでいる。車名の「レガシィ」は「大いなる伝承物」という意味だ。
レガシィはデザインもメカニズムも一新して登場した、新世代のスバルを象徴するミディアムクラスのファミリーカーである。
その心臓は2019年までスバルを牽引し続けたEJ20系の水平対向4気筒DOHC4バルブだ。RSとツーリングワゴンGTはパワフルなEJ20型水平対向4気筒DOHCにターボを組み合わせ、刺激的な走りを見せた。
FF車もあるが、主役はシンメトリカルAWDと呼ぶ進歩的なフルタイム4WDである。
■2代目(1979-1983年)-5ナンバーサイズの保持
初代レガシィは、4輪駆動のツーリングワゴンを中心となり、新たな市場を開拓することに成功した。DOHCターボに4WDの「GTシリーズ」は、スポーツワゴンの分野までもメジャーな存在に押し上げている。
ワゴンに引っ張られる形でセダンも息を吹き返した。
1993年10月に初めてのモデルチェンジを断行し、デザインもメカニズムも正常進化の形をとっている。
5ナンバーの小型車枠にこだわったが、商品性と動的性能はライバルを寄せつけなかった。フラッグシップのGT系はターボをツインターボ、2ステージ化している。
ツーリングワゴンGT(1993年)
4WDシステムも3種類を揃えた。GTの4速AT車は、走行状況に応じて前後のトルク配分を変え、安定性や旋回性能を高める不等&可変トルク配分電子制御4WDのVTD-4WDだ。
スカイラインGT-Rと同様の高度なメカニズムとパワフルなターボパワーを、ほぼ半額で提供したのだから売れないはずはなかった。
カルディナやアベニールが追いすがったが、バン出身のワゴンと専用設計のレガシィとの差は明らかだ。
■安全性能へのこだわり
当時は今と違って安全性に対する認識が薄く、日本車の多くはボディがヤワだった。また、衝突安全性能と危険回避性能もヨーロッパ車に大きく後れをとっている。
だが、航空機メーカーを母体とするスバルは、走りの実力だけでなく「安全」に対するこだわりも強い。
だから強大なトルクのターボエンジンに負けない強固なシャシーを開発した。
路面や天候に関わらず安全に、愉しく運転できるシンメトリカルAWDにも磨きをかけている。この真摯な姿勢は今のスバル車にも見られるDNAだ。
2代目レガシィは積極的にバリエーションを拡大し、1995年夏に「グランドワゴン」を投入した。
2代目レガシィ グランドワゴン(1995年)
これは「ランカスター」と改名し、現在は「アウトバック」を名乗っている。今につながるクロスオーバーカーの先駆車で、流行に火をつけた。
また、名門ビルシュタイン製のダンパーを採用し、走りの実力を一気に引き上げたことも特筆できるポイントのひとつだ。
■3代目~4代目(1998-2009)…ツーリングワゴン/B4体制の確立と充実
1998年6月に3代目のツーリングワゴンがベールを脱ぎ、セダンは半年後に「B4」と名を変えて登場する。時代に先んじて車両挙動安定制御のVDCを標準装備したグレードを設定したのも、この3代目だ。
スバルは早くからステレオカメラやレーダーに関する研究を始めていたが、ランカスターに採用したADAも注目の安全装備である。
この運転支援装備は2003年にステレオカメラにミリ波レーダーを組み合わせたシステムに進化。4代目では「アイサイト」に発展させ、5代目で普及させている。これもレガシィの偉業と言えるだろう。
2003年に登場した4代目レガシィは初めて3ナンバーのワイドボディを採用し、運動性能を飛躍的に高めた。
この年、レガシィは日本カー・オブ・ザ・イヤーに輝き、12月には国内販売累計100万台の偉業も達成している。
もちろん、北米を中心に海外でも売れに売れた。2006年に新しいドライバーアシスト装備のSIドライブを、2008年にはアイサイトを投入と、攻めの姿勢を貫いている。
■5代目(2009-2014)…アウトバックの台頭と北米への進出
劇的な変身を遂げるのは2009年に登場した5代目レガシィだ。
北米で人気の高いアウトバックを主役に据え、エンジンを2Lから2.5Lに拡大するとともにCVTのリニアトロニックを主役にしている。
ボディもひと回り大きくした。快適性を高めた第5世代のレガシィは北米で大ヒットした。だが、日本では4代目ほどの人気を得られず失速する。
一世を風靡したツーリングワゴンも販売を落ち込ませ、セダンのB4より販売台数が少ない月が増えてきた。
■6代目(2014年-)…スバルが決して失ってはならないレガシィの遺産とは
レガシィは2014年秋に6代目にバトンを託している。世界基準の大柄なボディをまとい、ドル箱だったツーリングワゴンは整理(廃止)した。また、自然吸気エンジンだけに絞り、ターボ搭載車は消滅させている。
レガシィらしさ安心感のある走りは受け継がれた。だが、魅力のひとつだった水平対向エンジンの個性は薄れている。
レガシィの魅力は、メカニズムに対するエンジニアの強いこだわりだ。エンジンも駆動方式も個性的で、運転支援システムのアイサイトやSIドライブも時代に先駆けて採用した。
レガシィを熱狂的に愛するスバリストは、運転するのが楽しいスバル車のメカニズムに、畏敬の念を払うとともに惚れ込んでいたのだ。
が、5代目からレガシィは軸足を北米に置いた。
ボディを大きくし、メカニズムや素材のコストダウンも目立つようになっている。ターボを搭載したスポーツモデルがなくなったのも痛手だ。
環境性能において一級の実力を持つハイブリッド車でもあれば、そのハンディをはねのけることができただろう。
だが、その回答は先送りされ、ファンを失望させた。また、デザインから若さが消えたこともユーザーのレガシィ離れを引き起こしたと言えるだろう。
リーマンショック以降、レガシィはコストダウンに走り、日本の熱狂的なファンを大事にしなくなっていたといえるのではないか。
だからインプレッサとレヴォーグにスバルの代名詞としてのポジションを奪われ、影の薄い存在となった。
ワゴンブームが去ったと言われるが、BMWやメルセデス・ベンツ、アウディなどのワゴンは日本でも売れている。スバルは自らの手でフタを閉めてしまったのだ。
たゆまぬ努力によって、神話を作り、多くの人に感動と喜びを与えてきたレガシィ(アウトバックではない)の戦う姿勢を、今一度スバルの首脳陣とエンジニアは思い出してほしい。
Posted at 2020/05/07 22:46:59 | |
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富士重工 | 日記
2020年05月07日
BMW、”挨拶”なしのアウディDTM撤退に憤慨「スポーツマンらしくない」
アウディは、4月27日に2020年シーズンをもってDTM(ドイツツーリングカー選手権)からの撤退を発表した。BMWにとって、この発表は驚くべきものだったようだ。
2012年にシリーズ3番目のメーカーとして、DTMに加わったBMWだが、今やDTMに残る唯一のメーカーになってしまった。
BMWの研究開発部門責任者であるクラウス・フローリッヒは、アウディが公式発表まで撤退を隠していたことを非難した。
「そのニュースは私を驚かせ、がっかりさせた」と、フローリッヒはドイツのウェブサイト『Suddeutsche.de』に、アウディの撤退についてそう語った。
「驚いただけではなく、セカンドパートナーである我々に事前に話をしなかったのは、スポーツマンらしくないと感じる。私は本当に驚いたんだ」
「メルセデスが撤退した時は、オラ・ケレニウス(現ダイムラーCEO)が私に直接電話をして、経緯や理由を説明してくれた。プロフェッショナルだったし、感謝している。アウディはそのチャンスを逃した」
「公式発表の直前、ゲルハルト・ベルガー(DTMを運営するITRの会長)からアウディの撤退を知らされた。私は彼と密に連絡を取っている」
「そして彼も、アウディの理事会から実務レベルの連絡を受けたが、他のパートナー同様、非常に連絡が遅かったという」
「どんな決断だとしても、会社は好きなようにそれを実行できる。だが、公平さとスポーツマンシップという点で、アウディはDTMともっと違ったコミュニケーションができたはずだ」
アウディはDTM撤退の理由のひとつとして、フォーミュラEへの取り組みを強化すると述べている。しかしDTMも、環境に優しいシリーズを目指す独自のロードマップを明らかにしており、フローリッヒはアウディのアプローチに疑問を呈した。
DTMよりもフォーミュラEを優先するというアウディの決定について、「私から見れば、議論の余地はない」とフローリッヒは語った。
「我々はDTMを変えたかった。その最初の段階として、自然吸気のV8エンジンから効率的な4気筒ターボエンジンに切り替えた。そして2022年からハイブリッド、2025年から完全電動ツーリングカーとする予定だった」
「DTMは、グローバル化について考えてきた。それが、我々が推し進めてきたことだ。共に多くの作業をしてきたにもかかわらず、アウディがそれを危険に晒しているという事実に驚いている」
「DTMは2025年までに完全に電動化することを望んでいるため、DTMに留まるのではなくフォーミュラEに集中するという声明は理解できない」
「DTMの柱を断ち切ることで持続可能性が高まるのか、フォーミュラEの方が電動モビリティを伝える上で長期的に実行可能なカテゴリーなのか……私はそれに疑問を持っている」
アウディの撤退で窮地に追い込まれたDTM。生き残りへの解決策はGTEマシンの採用か?
先日、アウディが2020年限りでDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)から撤退することを発表。これで参戦メーカーはBMWの1社のみとなり、この選手権の存続が懸念されている。
DTMが現行のClass1規定でシリーズを存続させられると考えているのものは、ほとんどいない。そのため、来年以降は異なるレギュレーションを採用することもあるのではないかと言われている。
関心を集めている選択肢のひとつが、世界耐久選手権(WEC)やIMSAウェザーテック・スポーツカー選手権(IMSA)で使用されているGTE規格に切り替えることである。これはDTMがスーパーGTとプラットフォームを共有する際に“プランB”として考えられていたものだ。
このGTE規定のマシンを製造しているのは、フェラーリ、ポルシェ、コルベット、アストンマーチンなどだ。BMWもWECには参戦していないが、IMSAでM8 GTEを走らせている。
1988年から1992年にかけてDTMに参戦したアルフリート・ヘーガーは、GTEマシンがクラス1マシンと混走できるようにすれば、DTMは少なくとも短期的には存続できると考えている。
「アウディの撤退はDTMの終焉ではない」とヘーガーはmotorsport.comに語った。
「新たな始まりのチャンスだ。技術規則、競技規則を前向きな形に変更することはまだ可能だ」
「ポルシェ(911)RSR、シボレー・コルベット、アストンマーチンやフェラーリのようなマシン(の導入)は、DTMにとって正しい形の移行になると思う。こういったGTカーはWECに素晴らしいものを提供している。そしてそのマシンは手に届くところにある」
「だからこそ、そういったマシンをDTMのカスタマーカーとして見ることができるだろう。おそらくClass1のマシンと混走することになるだろう。1年や2年はそうやって一緒に走ることができるのではないだろうか」
世界的なスポーツカーのレギュレーションを、ドイツの国内選手権で採用するのは初めてのことではない。DTMの前進とも言えるドイツ・レーシングカー選手権(DRM)は1985年で終了となったが、グループ5とグループCのマシンによって争われていた。
しかしヘーガーは、GTEを採用するのはDTM存続のための一時的な解決策であり、今後はメーカーに大きく依存しない、まったく新しい形を考案する必要があると信じている。
ヘーガーは2020年代半ばまでに「DTMの完全に新しいコンセプトを開発する必要がある」と語ると共に、電動化へ進むのは未来に向けた正しい解決策ではないと考えていると付け加えた。
「VLN、GTマスターズ、DTMを長年みてきたモータースポーツファンは、電気自動車には興味がないと思う」
そうヘーガーは続けた。
「私の意見では、ITRのコンセプトは、轟音を上げるエンジンを持ち、興味深いシルエットのマシンでなければならない。そして裕福なプライベートチームや、プロチームにも参加する機会を提供することになる」
「我々の問題は、政治的な状況のため、メーカーに依存するモータースポーツを追求するのは、将来的には難しいだろう。それは、メーカー側としても同様だ」
「GTマスターズがDTMよりも優れている点はここにある。同シリーズはメーカーが作ったクルマを走らせているが、シリーズ自体はメーカーに依存していない」
ハンス-ヨアヒム・シュトゥックは、アウディがDTM撤退を発表する以前から、DTMでGT3マシンを使うことを提言しており、ITR会長のゲルハルト・ベルガーも、当初は難色を示していたものの、最近では多少は前向きな姿勢になっていることを明かしていた。
しかしヘーガーは、DTMはGTマスターズとの差別化が必要だと主張している。
「私はそうは思わない」
DTMでGT3マシンを採用する案について尋ねると、ヘーガーはそう語った。
「もしGTマスターズがGT3マシンを使って開催を続けるならば、DTMは本当の意味で差別化するために、別の策を講じる必要がある」
Posted at 2020/05/07 22:43:45 | |
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自動車業界あれこれ | 日記
2020年05月07日
「打倒GT-Rを誓って進化を続けたECR33」超高回転型のエンジンはRB25改2.4L仕様!?
BNR34フェイスとワンオフワイドボディでフル武装
常用1万rpmを可能にするRB25改ショートストローク2.4L仕様
今から遡ること20年以上前。当時、オーナーは夜な夜な大阪環状線や湾岸線へ向かっていたのだが、ミラーに映るのがタイプMだと分かると、GT-R連中に相手にされない悔しさを味わっていた。
「どうすればGT-R連中をその気にさせることができるか?」と悩み続け、試行錯誤の末に辿り着いたのが、当時最新のBNR34フェイスを移植するという奇想天外なアイディアだったのだ。細部を見ていこう。
ボメックス製のフロントバンパーを加工しながらフェイススワップを敢行しつつ、「250キロで自在にスラロームが切れる湾岸仕様」というコンセプトの元、ワイドボディ化も実施。バンパーから繋がるブリスター形状のフロントフェンダーは、強度に拘って鉄板叩き出しで製作したスペシャルだ。
大きく張り出したサイドステップも完全なワンオフ、リヤバンパーはR33とR34の純正を組み合わせたハイブリッドだ。フロントに負けない大ボリュームのリヤフェンダーは、GT選手権用のレースパーツを加工流用している。
速域での安定性を突き詰めて製作されたリヤウイングは、アルティアのダブルウイングをベースにボルテックスのウイングを装備したワンオフ品だ。
パワーユニットも凄まじい。RB25DETユニットは、コスワースの腰下パーツを使ったショートストロークの2.4L仕様という珍しいもの。高回転型のパワー特性を得るのが狙いで、作用角IN296度、EX306度、リフト量11.2mmというレーシングスペックのハイカムと合わせて、常用1万rpmを可能にしているのだ。
そんな至宝のRB25改2.4LエンジンにT78タービンをドッキングすることで、最大ブースト圧1.8キロ時に最高出力680ps、最大トルク72kgmを手にしている。
なお、正確なエンジン制御を行なうために、T78タービンにはZ32エアフロをツインで装着。大容量ラジエターや3層インタークーラー、16段を2個装着するオイルクーラーなど冷却系チューンも抜かりなしだ。
足回りは、クァンタムのRSタイプ車高調を軸に構築。スプリングはスウィフト製で、フロント18kg/mm、リヤ16kg/mmというハードレートを組み合わせる。アーム類はナギサオートの調整式をフル投入し、超高速域で踏めるセッティングを追求している。
ホイールはSSRのタイプF(FR11J×18)、タイヤにはアドバンA048(F295/30-18 R315/30-18)をセット。ブレーキもフロント6ポッド、リヤ4ポットのエンドレスキャリパーと大径ローターでしっかりと強化済みだ。
無駄な装備は一切なく、走りに集中するための装備を機能的にセットアップされたインテリア。センターコンソールに装着された3×2個の追加メーターは、最小限の視線移動で確認できるレイアウトとなっている。レブリミット1万rpmを示すタコメーターが迫力満点だ。
ちなみに、このマシンは“ガチャピン”と呼ばれるが、それは鮮やかなグリーンのカラーリングが理由ではなく「“ガチャン”と事故っても“ピンピン”しているから」ということで、仲間達が付けたあだ名なのだとか。
「実は最初に作ったR33改34は事故で潰してしまったので、これは2台目なんですよね…」と、オーナーは笑いながら説明してくれた。
Posted at 2020/05/07 22:33:52 | |
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