6月21日、日本国防協会の土浦駐屯地研修
野外展示の見学の後、雄翔園・雄翔館を見学しました。
こちらの施設は、隣接する「予科練平和記念館」の開館日に合わせ、無料で一般開放されています。
雄翔園・雄翔館は、「予科練」(海軍飛行予科練習生)出身の飛行兵の多くが戦死(特に特攻)していることから、その慰霊と遺品・遺書を後世に伝える為に作られました。
旧海軍時代、土浦駐屯地のある場所には「予科練」(海軍飛行予科練習生)の施設がありました。
横須賀から移転して来たもので、海軍の航空兵の養成施設でした。
少し誤解があるのですが、「予科練」=航空機の操縦訓練をした
これは間違いです。
「予科練」では、海軍の軍人としての基礎教育、幹部下士官しての教育が行われ、飛行機への搭乗は、適性検査の為の体験飛行(教官の操縦する飛行機に同乗、グライダーでの体験等)しか行われませんでした。
1年間の「予科練」教育が終わると、飛行練習生(飛練)になり、その後、実戦部隊に配属される流れなんですが、戦局が悪化すると、この飛練の教程が滞ることになり、教育制度として崩壊してしまった感があります。
ですので、雄翔園にも歌碑がある「若鷲の歌」(予科練の歌)
歌詞「今日も飛ぶ飛ぶ♪ 霞ケ浦にゃ」は、若干イメージ的な部分があると思います。
雄翔園の外周は、日本列島各地を見立てて作られています。
「予科練の碑」を背に左手から沖縄、九州に始まり、右手の赤い橋が津軽海峡で北海道に続く設えになっていて、それぞれのセクションで、その土地の石や植物が使われています。
失われた多くの御霊が想った祖国を表している形になっています。
雄翔館は、「予科練」出身の飛行兵の遺品・遺書が展示されています。
特攻出撃際して残った遺書は、検閲が厳しかったことを考えてもその心中を察して余るものがあまりにも大きいです。
時代が違うとは言え、いまのあの若者たちより上の世代、私も含めて社会に出て久しい世代が、あの文書を書けと言われても書けないの゛はないかと思います。
極左暴力集団をはじめとする左系のキブレ風味の方々は、こう言うことを扱うと、直ぐ戦争美化だのなんだの言いますが、少なくともここには、そんな要素は一欠けらもないと強く感じます。
祖国を単純に国家=天皇制としか読み取れないのであれば、相当にアホで低能かと感じてしまいます。
雄翔館の前には、山本五十六元帥(戦死後、元帥)の銅像があります。
この銅像は二代目で、初代は終戦時、米軍の接収・破壊を避ける為、上下に分断し、上半身は霞ケ浦に沈め、下半身は行方不明になっていました。
戦後、上半身は、霞ケ浦から引き揚げられ、長岡を経て、江田島の海上自衛隊第1術科学校で保管されています。
下半身は、地元ローカル局が扱ったことで土浦駐屯地の近くに住む方が所在を知っていることが判明
その方の証言をもとに発掘したところ直ぐに見つかったそうです。
二代目の銅像の基礎として使われています。
山本五十六元帥の人物評価は分かれるところがあるかと思いますが、少なくともあの昭和18年の時点でブーゲンビルで戦死すべきではなかったと思っています(取りようによっては投げ出し感がありますからね)。
海軍の飛行兵になるコースは、「予科練」からのコースだけではなく幾通りかありましたが、何れのコースも戦局が悪化する中、特攻専科の様相を呈したことに違いはありません。
1人の命で多くの敵の命を奪うことが出来れば、国力・戦力の差は埋まる
一見、数字のお遊びとしては成り立つようにみえますが、ここには大きな間違いがあります。
1人の命が敵にたどり着けない現実がありました。
戦争末期、技量云々を別にして、旧式化した練習機まで借り出しての特攻は、もはや正気の沙汰とは思えないと思います。
戦後、その責を感じることなく、政界や産業界にのさばった者が少なからずいたことが、現在の日本の歪みに繋がっているようにも感じます。
改めて失われた多くの御霊に感謝と哀悼の意を表します。
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Posted at
2023/06/27 17:16:06