
2月1日、日本国防協会の青森研修2日目
八甲田山雪中行軍遭難資料館を見学しました。
ホテルを出発した時から雪が降っていましたが、八甲田山雪中行軍遭難資料館に到着する頃には、更に強く降っていました。
八甲田山雪中行軍遭難資料館は、1902年(明治35年)1月24日に発生した旧陸軍第8師団歩兵第5連隊の八甲田雪中行軍遭難事件の記録を後世に伝える施設です。
2004年にリニューアルオープンしています。
施設は、幸畑陸軍墓地に隣接しており、八甲田雪中行軍遭難事件で犠牲になった199名の将兵も祀られています。
この八甲田雪中行軍遭難事件の概要を、今一度振り返ります。
事件が発生した1902年当時、日本はロシアの侵略の脅威を感じていました。
先に発生した日清戦争の際、寒冷地での作戦行動に苦戦した経験もあり、冬季にロシアが青森に圧力(上陸作戦ほ含む)を掛けて来た場合の対策を検討していました。
戊辰戦争での野辺地戦争の記憶もあり、青森-八戸の海岸線が攻撃(上陸作戦を含む)された場合の対策として、現在の青森県道40号青森田代十和田線のルートで、青森-八戸の補給路を確保できないか検討され、その一環として厳冬期の輸送が可能か実証実験することになりました。
これには、この事件の主体となった青森の第8師団歩兵第5連隊とは別に弘前の歩兵第31連隊も同時期に行軍を行っています。
遭難した歩兵第5連隊と歩兵第31連隊の行動はお互いに連携をとったものでも双方の実施を知る状態でもなく、それぞれ単独で行われている時点で、旧陸軍の組織的な欠陥が指摘されるところです。
この両連隊の差は、実施規模(歩兵第5連隊は210名、歩兵第31連隊は38名(従軍記者1名を含む))の差、厳冬期の青森の山岳地帯での経験者の有無、地元案内人の有無が大きいところです。
歩兵第5連隊の記録と遭難ルートを見るに、歩兵第5連隊は、目的地であった田代温泉(田代新湯)までの距離が約20kmであったことから物見遊山的な気分で実施したようにも感じます(前日の壮行会(宴会)、装備、実施に際しての参加者の発言等々から)。
しかし、実際は僅か20kmとは言え、かなり急な山道であり、小高い山を越えた先に田代新湯はあるので、厳冬期の環境を甘く見過ぎているように感じますし、作戦行動を考える際、地図を平面でしか捉えられない能力の欠如(これは後の太平洋戦争でも改善されることなく悲劇を生んだと考えます)が大きいと思います。
この事件は、新田次郎氏の小説「八甲田山 死の彷徨」で題材となり、その後、小説をベースにした映画「八甲田山」、またその他の映画、ドラマも作られていますが、何れも脚色され事実とは異なる点があることに留意して見る必要があります。
何れにせよ、これ程、多くの犠牲を出した行軍訓練は、世界的にも類を見ない事件であり、この教訓は、後世に伝えいくべきものだと思います。
改めて犠牲になられた将兵の御霊が安らかなことをお祈り申し上げます。
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Posted at 2024/02/07 12:11:07 | |
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