手術となる連休の少し前。
もう少しだけ桜を追いたくて、ヴィッツ乗りの相棒と三度信州へ。
昨年は飯田・伊那、その前は高山村と、
北と南を攻めたので、今度は中間にあたる安曇野の桜を巡ってみたんだ。
安曇野はわさびとか、天然水とか、水がきれいなイメージがある。
水がきれいな所というのは、山も田畑もきれいで、
人も生き生きとしている気がする。
逆に水の汚い所は、土地も人も荒んでいて、殺伐としている所が多い。
やはり、必要不可欠なものがきれいか汚いかですべてが決まってしまうものなのである。
つまりは勿論、桜も一級品の美しさであった。
早朝出発で、6時には諏訪到着。
先だって簡単なリフレッシュ作業を終えた、NCP13ヴィッツRS。
まだまだ元気なツインカム1500CCだ。
ウェザストリップやウインドランを新品にした恩恵は大きく、
煩かった高速での風切り音が殆どなくなった。
僕のGCもそろそろやりたいところである。
開花時期がドンピシャなのが良かった。
ソメイヨシノと比べると、開花の早い枝垂れ桜は少々読みづらい。
それが長野などの高地となると、実際に行ってみないとわからないことも多い。
観光協会などの開花情報は、長期間の集客を見込んでフライングしている場合が多く、
数日早めに見頃を謳うことも多いので、そこから逆算する必要も出てくる。
経験と勘がものを言う部分である。
安曇野は殆どが枝垂れ桜。
一本目が外れたら、あとは全部ハズレなのである。
満開と快晴。
これに勝る桜日和はないと言っていい。
PLフィルターなど必要がない真っ青な空。
トップライトだと撮影が難しくなるので、晴天時の9~11時位が一番きれいに撮れると思う。
ちょこまかとクルマを停めて、一本桜を刻んでいく。
有名な一本桜を地域ごとにまとめているサイトや、一本桜の雑誌なんかもあって、
そういう情報を頼りに、リストを作って一箇所づつ廻っていくんだよ。
気づいた方もいると思うけど、桜というのは殆どの場合、お寺や墓地に植わっている。
田畑の脇の小さな墓地にぽつんとあることが多い。
昔の人にとっては、種まきの時期のバロメーターであることと同時に、
そのまんま墓標である場合も多い。
桜は弔いと生産の花。
桜巡りはは墓地巡りなのである。
今回の一番の目玉はこの、「北小倉のしだれ桜」という大関クラスの一本桜である。
順番的にちょうど正午で、難しい時間帯になってしまったが、
その貫禄は充分に感じ取れた。
元々有名な桜ではないのだが、一部のカメラマンの間で話題となり、
第二の滝桜と評されるほどの人気の桜となっている。
西日の時間帯にもう一度訪れることにした。
やはり、水を張った田んぼと桜の取合せは絶妙だ。
なんの変哲もないトラクターも、突然絵画のように映えてしまう。
予定を立てて、桜を一本づつ追いかける。
想像を超える出会いに一喜一憂しながら、一枚づつ切り取っていく。
単純な旅である。
しかし、何故かこの単調な作業を超えるものに中々出会わない。
写真を撮るわけだから、出来ればいい道具を使いたいとは思うが、最低限このくらい出来れば・・・
程度の機材で充分に楽しめる。
クルマで言ったら、マニュアルでLSDが入っていれば・・・みたいなね。
写真を撮るというのはやはり口実であり、実際にその風景に身を投じたいだけなのだ。
眩しく飛び跳ねる春の木漏れ日の中、
薄くれないの薫風を感じながら、馬鹿みたいに花の天蓋を見上げたいのである。
それだけで、護りきれずに妥協としがらみに澱んでしまった精神と価値観が、
軌道修正出来る気がする。
人間はね、解ってはいても忘れるし、見失う。
弱いからね。
だから、それをどこかで定期的に見直さなければいけないと思うんだ。
桜を追いかけるお墓巡りの旅が人生のリセットの旅だなんて、少し滑稽だろうか。
オッチャンのセカンドライフが大体写真だったりする訳だけど、
自分は中学生くらいの頃から写真を撮る旅をしているから、同じ心境なのかは判らない。
ただ、単純なようでいてセンスや技術、経験が必要で奥深い趣味であるから、
可能性の広さに面白みを感じている点では、きっと同じなんだろう。
手のひらの中の宇宙。
そういった概念である。
自分次第でどうにでもなる可能性の淵で、常に挑戦していかなければその先は無い世界。
クルマも写真も同じだという気がする。
格好を付けてはいるけれど、何も考えていないと考えてもらっていいw
これ以上はないという瞬間を謳歌しているだけなのだ。
みんなの中で、これ以上はないという至福の一瞬というものは何だろうか。
人生の中で、そういう一瞬をひとつでも持っているかどうか、
それがその人が生きる意味なんだと思う。
人は無欲になればなるほど、そういうものが増えていく気がするよ。
最後にまた北小倉のしだれを見てきた。
やはり、斜陽が生み出す立体感は存在感をより際立たせるね。
なんという立派な樹であろうか。
ただ、桜の樹を見上げて呆気にとられる。
こういうことを、恐らく60、70の爺さんになっても続けていくんだなという気がする。
煩いマフラーの旧車に乗って巡るんだろうか。
性格的に人並みじゃ詰まらない部分もあるので、何をしているかは判らないけれど、
シンプルの中にある真実を穿つ生き方は多分変わらないので、
桜を追いかけたり、山に登ったりして、
虚飾にまみれた俗世間をまた見下すんだと思うw
そのくらいの見事さなんです。
いやいやそれにしても、この貫禄で名もない里山の桜である。