
5月30日の夕方、みなとみらいにネットワーク機器の調整に行きました。
その時、前々から気になっていた錨を見てきました。
錨の主は、「山汐丸」
戦時中、戦時標準船として、大型タンカーに飛行甲板を設置して対潜機能を持たせようとした特2TL型と呼ばれる船の5番船です。
大戦中期以降、南方からの資源輸送は米国の潜水艦攻撃により壊滅的な打撃を受け、陸軍は、海軍に対して度々、船隊護衛の強化を要請していましたが、既に海軍にもその余力はなく、護衛空母の建造より、陸上基地からの援護が効率的であると要請を拒否されていました。
しかし、陸上基地からの援護もままならぬ状態であり、最終的に戦時標準型の大型タンカーに空母機能を持たせる特2TL型の建造となりました。
「山汐丸」は、山下汽船の発注で、1944年(昭和19年)9月11日に、現在のみなとみらい地区にあったた三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカーとして起工された後、前記の経緯から陸軍の特2TL型として設計変更が行われ、1945年(昭和20年)1月27日に竣工しました。
搭載機は、陸軍の三式指揮連絡機を6機、対潜哨戒機として搭載予定でした。
竣工した1945年(昭和20年)1月27日の時点では、サイパン・グアムは陥落し日本本土空襲の拠点化が進み、フィリピンもルソン島に米軍が上陸し、首都マニラの攻防が始まっていました。
とても南方から物資を輸送できる状態ではなくなっており、また、船団を動かす燃料も不足している状態で、「山汐丸」は本来の任務に就くことはなく、横浜港内で係留されていました。
1945年(昭和20年)2月16日、米機動部隊から発艦した攻撃部隊の攻撃により大破、着底
そのまま終戦を迎えます。
終戦後、解体作業が行われましたが、解体作業中に船首が折れ沈没、引揚げは費用的にも難しいことから、船体はそのまま岸壁の一部として埋め立てられました(横浜船渠にあった通称・山汐岸壁)。
みなとみらいに建設されたみなとみらいセンタービルの工事の際、この「山汐丸」の錨が発掘され、現在に至っております。
尚、同型船として建造された「千種丸」(日本郵船所属)は、同じく空襲で大破しましたが、戦後、修理され捕鯨船団のタンカーとして活躍し、1963年(昭和38年)佐世保で解体、生涯を終えています。
知らなければ単なるオブジェとして通り過ぎてしまうかもしれませんが、少し足を止めて歴史を振り返ってみても良いかもしれません。
※記事と写真の映像は、1993年7月にデルタ出版から発行された「スーパー・キャリアー」に掲載されていた記事のハードコピーです。
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2017/06/04 03:18:42