2019年03月24日
今日は何の日かと言いますと、私が楽しみにしていた美作岡山間道路の延伸開通の日です。今日から、熊山以南が瀬戸まで、佐伯から北が湯免温泉の近くまで延伸供用開始されます。
岡山以外の方は何のことだかわからないかもしれませんが、岡山国際サーキットに行かれる方には関係なくもありません。
備前インターから岡国に行かれている方には関係ないのですが、和気インターから行かれている方は、もしかしたら、今日からは山陽インターで降りる方が便利になるかもしれないのです。
ただ、これが微妙で、本来の計画では山陽道から直接美作岡山間道路にアクセスできる予定なのですが、今回の供用開始では山陽道の取り付け部分が未整備で、山陽インターを降りて少し一般道を走ってからでないと美作岡山間道路に乗れないスタイルなのです。
この一般道部分がどれほどスムーズに走れるのか。今日から周辺のクルマの流れも変わるはずなので、しばらくして落ち着いてみないと交通量の判断はつかず、和気インターと山陽インターのどちらが便利になるのかわかりません。
それから、私のクルマがそうであるように、サーキット仕様のガチガチに固い足回りのクルマの方は、経路選択をするのに、単純に所要時間だけでなく、路面の状態の良し悪し(舗装の凹凸とか段差とか)が重要な要素になってきますよね。その辺も、実際に走ってみないとわからないので、私も実地走行してみようと思います(私は岡国に行くわけではありません(笑))。
あと、今まで岡山市街から美作市方面へのアクセスは岡山吉井線(菊ケ峠を通るルート)がメインで、私の感覚では、岡山吉井線と旧美作岡山間道路経由との利用比率は7:3くらいな感じ(私の全くの肌感覚)でしたが、今日からは明らかに美作岡山間道路経由にシフトしてくる車両が増えるはずです。
事前資料で見たところ、今日から供用開始する区間はおそらくすべて片側一車線なので、物流トラックや非力な軽自動車が美作岡山間道路経由にシフトしてきた場合、スロー走行されて追い越しできず数珠つなぎになって、それはそれでストレスになるかもしれませんね(熊山佐伯間には片側二車線区間が少しあるので、そこでは追い越し可能です)。
そういえば、先週は岡国の近くで、先日は総社市内で、FK8とすれ違いました。すれ違ってみると、車体が大きく、かなりの存在感。なかなか良いです(笑)。着実にFK8の国内流通量が増えてきている感じがしますね。
さて、美作岡山間道路の延伸供用開始は本日15時です。あと2時間ですよ♪
Posted at 2019/03/24 12:54:10 | |
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2019年01月06日
昭和が終わった日のことについては先月の当ブログで言及しましたが、新元号の公表時期について、4月1日となることが先ごろ発表されましたね。それに対するネット上の多数意見は、「決まっているならもったいぶらずにさっさと発表しろよ」だとか「システム改修するSEの立場を考えろ」というような感じでした。
私は、一部の自民党保守強硬派(新元号は新天皇が即位してから公表すべき、と強硬に主張している)寄りでもなく、「もう元号なんてやめて西暦一本にしちまえ」と主張する派でもなく、まあどうでもよいというか、あるがままを受け入れるスタンスなのですが、そのスタンスから思うことを書き連ねてみます。
私自身は両刀使いというか、西暦と和暦をサクサク変換できることを目指していて、周囲の人たちより西暦と和暦の変換が得意だと感じています。これは、すべての年号を両方で覚えているのではなく、特定の事象が起こった年を両方で覚えていて、そこから足したり引いたりすることで西暦と和暦を変換するのです。
さすがに私も明治や大正はよくわかりませんが、古くは、世界大恐慌が1929年で、それが昭和4年だと覚えています。次が、終戦の昭和20年イコール1945年。次が東京五輪で、昭和39年イコール1964年。自分が生まれて以後はもっと細かく覚えていて、例えば、1987年が日本におけるF1元年と呼ばれており(フジテレビによる全戦テレビ中継開始、鈴鹿での日本GP開始、日本人初の中嶋悟フル参戦開始)、それが昭和62年でした。そんな感じで、1980年代以降は、そんなに足し算引き算をしなくても、割と容易に変換できるわけです。
ただ、和暦というのは海外から見れば奇異に感じるだろうな~とは思っていて、知人に「元号なんて、海外の人から見れば、ガミラスにおけるデスラー暦みたいなもんだよね」と言ったら、「そこでデスラー暦が出てくるか!!」と結構ウケましたが、海外の人から見れば、同じようなもんだと思います。
ちなみに、ウチの親はいまだに平成を昭和換算していて、今年は昭和94年のようです(笑)。平成になったばかりのころはそういう人がたくさんいたけれど、いまだにこんな人が一体どれだけいるのでしょう?
一方で、この年末年始に会った小学生の甥っ子に自分の生まれた年を尋ねたところ、西暦では即答できるのに、和暦では「わからん」と言いおったのです。今どきの小学生(高学年)は、自分の生誕年を和暦で言えないのか、ただ単にウチの甥っ子がちょっと変わっているだけなのか(笑)。
で、今回新元号の公表時期を4月1日としたのは、自民党保守強硬派に配慮しつつ、社会生活に与える影響をできるだけ少なくするための最大公約数的なギリギリの結論だったと思うのですが、それに対する冒頭に書いたようなネット上の反応は、気持ちはわからないでもありませんが、いまひとつそのスタンスが不明な気もします。
すなわち、自民党保守強硬派の主張は、国民の社会生活なんか二の次で、最優先されるものは天皇の権威であるという点で、良いか悪いかは別として、一応筋が通っています。そもそも、和暦(元号)はその性質上面倒なものなのです。それなのに、ネット上の反応は、「和暦なんかやめちまえ」と言うでもなく(もちろん、そのように主張している人もいます)、もともとどっちにしても面倒な和暦を「公表時期が遅いから面倒なことになる」と言っている感じがするのです。
マスコミは、社会生活への影響の代表格として、カレンダー印刷業者を取材し、業者は「困る、困る」と言いますが、業者同士条件は同じだし、これほどカレンダーが注目される年もないわけで、業界としてはうれしい悲鳴だと思いますが・・。
システム改修するSEの対応期間が1カ月しかないことも問題視されていますが、私のシロウト考えなので見当違いかもしれませんが、もともと元号というのはある日突然変わる性質のもので、システムなど最初からそれに対応するように作られているのではないかと思うし(その意味で、2000年問題とは若干意味合いが異なると思われる)、ある日突然変わる前提のものが今回は1年以上前から「変わりますよ~」と予告されているのであって、元号をまたぐような日数計算だって、今のシステムはそもそも年月日を西暦で認識しているのでは? あとは変換の問題で、システムは大抵コード処理とかするものだと思うので、例えば明治が「1」で、大正が「2」で、それで行くと、新元号は何になろうとコードは「5」なわけで、元号コード「5」が新元号に変換されるよう1カ月前に設定すればよいだけの話ではないのかなと、これはシロウト考えなのでしょうか。
新元号に対応する様式を体裁を整えてシステム出力できるような調整が必要と記述している記事もあったけれど、新元号が漢字何文字になるのか未定ならともかく、まあ漢字2文字だろうし、イニシャルも明治から平成までの頭文字に重ならないよう配慮されているという噂なので、全然問題なしです(笑)。
それよりも、今回公表時期が4月1日と決まったことばかりが取り上げられていますが、改元日が5月1日と決まったことの方がSE的には重要な気がします。先月までは、改元日が5月2日になるような雲行きでした。5月1日に新天皇が新元号を公布すると、物理的に施行日はその翌日になるというのがその理由です。新元号は新天皇が公布すべきと主張する自民党保守強硬派の主張に配慮すれば、その可能性は大でした。
改元日が5月1日と決まったことで、元号コード「4」の最大値を「4310430」(平成31年4月30日)と設定でき、「4310501」(平成31年5月1日)以上はエラーとなるよう設定できます。一方、元号コード「5」の最小値を「5010501」(新元号5月1日)と設定できるわけです。SE的には、新元号が何になるかよりも、こっちの方がよっぽど重要なのでは? これとて、改元日の成り行きによって最大値と最小値を変えれば済むだけの気もしますけどね。でも、これはシロウト考えなのでしょうね。
ま、そんなわけで、テレビでは新元号予想とかやってますが、予想までするほど新元号が何なのか待ちきれないということは全くなく、発表されたら淡々と受け入れるのみです。何になったとしても最初は耳慣れないことは、平成のときに経験済みですので。
そういえば、昨夜午前0時に所用で繁華街を歩いていたら、さすがに午前0時だったので、すれ違う人が軒並み若い人たちばかりで、全員平成生まれに見えました。少子高齢社会とは言うものの、昭和生まれはこれからどんどん死滅して行って、世の中は平成生まれの天下になるんです(笑)。
だいたい、我々以上の年齢の人なら誰しも日本最高齢者「泉重千代さん」というお名前を知っているのですが、あの方は江戸時代生まれ(慶応生まれでしたっけ?)ですからね。今の若い人からすると、江戸時代生まれの人と少しでも同じ時代を生きた経験がある我々の世代ですら、もはや「歴史の生き証人」なのかもしれません(苦笑)。
Posted at 2019/01/06 23:46:17 | |
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2019年01月06日
1年ぶりに映画「でーれーガールズ」のDVDを見てみました♪ ちょうど1年前に繰り返し見たことを思い出したもので・・。なお、「でーれー」というのは岡山弁で「すごい」という意味です。
もともと、この映画は2014年にオール岡山ロケで制作されたので、当時岡山では話題となっていました。まだ世の中で「あまちゃん」ブームの余韻が残る中、「あまちゃん」出演者の足立梨花(アメ横女学園のセンター役)と優希美青(GMTの仙台出身のメンバーの役)がW主演で、ウチの近くでもロケが行われると聞いていたので、当時少し気にはなっていたけれど、ロケは平日の昼間だったので、まあ仕事もあったし、ロケを見に行くこともなく、その時はテレビのローカルニュースでロケの様子を見た程度でした。
やがて映画が完成し、岡山で先行公開や出演者の舞台挨拶もあったけれど、タイトルからして岡山を前面に出し過ぎているし、岡山市長がチョイ役で出演していることもあって、どっちかというと岡山の地域おこし的な映画なのかと思って、映画そのものにはそんなに関心がなく、「まあそのうちテレビで放送されたら見てみようか」程度のノリでした。
それから約3年、今からちょうど1年前の正月の深夜に岡山・香川エリアでようやく放送されたので、見てみると・・、意外や意外、物語に引き込まれます。私が青春時代を過ごした1980年代が舞台となっていることもあり、オール岡山ロケで、見慣れた風景が続々と登場することもあり、また、過去と現在が交錯するようなストーリー展開はもともと私は好きです♪
そんなわけで、一度だけでなく何回か繰り返し見ました。よく見ると、ウチの職場や、昔のウチの実家も映画の中に映っていました。ウチの親はこの映画の舞台となった山陽女子高校のすぐ近くに住んでいたことがあるのです。
こうなると、ロケ地巡りをしてみたくなりました。私は気に入った作品のロケ地巡りは結構好きです。かつてはローマに行って、ひとりで「ローマの休日」ロケ地巡りをしてきました。ローマは遠いけれど、今回のロケ地はウチの近隣なので、思い立ったらいつでもすぐ行けます♪
※ここからは岡山のローカルな地名が続きます(笑)。
まずは岡山駅西口奉還町商店街。歩いていると、映画の中に出てきたお店や風景が続々と出てきます。岡山市長が店主役をしていた果物店も発見。こんなとこでロケしてたのか~。ちなみに、全然関係ありませんが、私はこの岡山市長を仕事で先導して道案内したことがあります。これは余談。
続いて、岡山駅東西連絡地下通路。ロケの時はここを封鎖して撮影したんでしょうね。それから、須賀健太と優希美青が座り込んで話をしていた地下階段も発見。ここはやや見つけにくい場所です。そして、岡山駅東口の桃太郎像の前、ここは有名。
次は、物語のキーとなる鶴見橋とその周辺。ここでは、別れのシーンでタケミ(足立梨花)が泣きながら橋を渡ってフレームアウトして行くのですが、制服姿の足立梨花が泣きながら歩いてきたので、ロケをしていることを知らない観光客が見て驚いていたというエピソードがあります。
次に岡山城。私は岡山城へ行くのは、まだ広島に住んでいた小学生のころに行って以来40年ぶりです。地元の人はわざわざ岡山城へはあまり行かないので、この日も訪れていたのはほとんど外国人でした。
大手まんぢゅうのお店があって、タイトルバックにも使われた川を渡る路面電車のシーンが何度も出てくる橋があって、最後は山陽女子高校周辺です。東山電停や山陽女子高校正門前。映画の中に映りこんでいたウチの昔の実家。そして、撮影に使用された山陽女子高校の校舎は建て替えられてしまいましたが、体育館はそのまま残っていました。
短時間でこれだけのロケ地を巡ることができました。自分が見たテレビ放送では、作品が少しカットされている感じだったので、フルバージョンを見たくなり、帰りにDVDショップに立ち寄って作品のDVDを買ってきました。ロケ風景の特典ディスクなどもついていたので、それも魅力です。
帰宅してDVDを見ようとしたところで事件が発生しました。しばらく外部入力モードにすることのなかったプラズマテレビを数年ぶりに外部入力モードに切り替えた途端、テレビが起動しなくなり、いくら時間を置いてリセットしてもテレビが起動しなくなりました。DVD自体はパソコンで再生できたので鑑賞できたけれど、プラズマテレビが起動しない問題は別問題として困りました。
修理に出せば直るような気はしたけれど、保証期間は過ぎているし、もともとフルハイビジョンでないし、テレビの耐用年数は通常8年ぐらいとされていて、私は物持ちがいい方なのでテレビ8年は短いとは思うけれど、まあ最低限の仕事はしてくれたのかなということで、買い替えることにしました。テレビがないとたちまち困りますしね。これが、先月ブログに書いた有機EL4Kテレビ購入の顛末です。
で、映画の方の話に戻って、作品は意外に良く、すぐにロケ地巡りに行こうと思い立ったくらいハマったわけですが、ここではあえてダメ出しを列挙しておきます。
1. 岡山の地元民であるという設定の足立梨花の岡山弁が一部不自然。
完成後のインタビューで足立梨花が「岡山弁が難しかった」と言っていたが、この映画は岡山弁がキーポイントなのだから、スタッフはそこはこだわってほしかった。私は就職してから岡山に住み始めたクチなので、岡山弁ネイティブではないのだが、その私でも不自然に感じるセリフがあった。当然方言指導のスタッフはついていたはず(スタッフロールでは、方言指導が6人もいるようになっている)なのに、なぜ? 監督は岡山弁はわからないだろうから、タイトな撮影スケジュールの中、監督が一度「ОK」を出してしまったシーンをひっくり返すのは難しいのかな。
ちなみに、この映画は脇役には岡山出身者を多用しており、桃瀬美咲やタケミが入院している病院の看護士役(いずれも岡山出身。さらに桃瀬美咲はこの山陽女子高校出身)の岡山弁は当然ながら自然で良かった。この2人の演技が作品の質を高めていると感じた。
2. そのタイミングでタケミが亡くなるか?
これはネット上の感想の中にもあったが、私もそう思った。まあ上映時間2時間の物語だから、仕方ないか。ネット上では、「いっそのこと現代のシーンをなくして、1980年だけのお話にしても良い物語が作れたのでは?」という意見も。
3. 設定の話で言うと、タケミが母校の人気教師になっていた、という設定にも違和感を感じた。タケミはクラスの中でちょっと浮いた、陰のある女子高生という設定で、どう考えても、母校に戻って教師、それも人気教師になるタイプの人物とは思えないのだが・・。
4. 時代考証。1980年の設定でロケをするにあたって、いちばん困るのは、「クルマ」だと思う。バックに現代のクルマが映ってしまうと、それだけで時代感が損なわれる。だから、1980年の設定のシーンは、奉還町商店街とか、地下通路とか、橋の上とか、建物の中とか、バックに行きかうクルマの映らない場所を選んでロケをすることとなる。
しかし、体育の授業のバレーボールのシーンは、バレー好きから見るとちょっと残念だった。まず、下端に白帯(はくたい)のあるネット。これは最近の用具で、1980年当時は白帯は上にしかない。下端に白帯のないネットは今でもたくさんあるので、今でも簡単に調達することはできたと思うが、恐らく山陽女子高校にあるネットをそのまま使ったのだろう。そこはまあよい。ボールは現在のカラーボールではなく、当時の白色ボールを使用していた。これは時代考証が入って白色ボールを用意したものと思われる。問題はサーブ。サーバーがラインクロスしているように見えるが、まあそれは置いといて、エンドライン後方の中央からサーブしているではないか。これがルールで認められるようになったのは1995年からだ(笑)。それまでは右側3m幅からしかサーブができなかった。たぶんサーブしているのは山陽女子高校バレー部の子だろうが、彼女らの世代はそれが1980年当時認められていなかったことなど知らないだろう。ならば、スタッフサイドで時代考証しておきたかった。白色ボールを用意していながら、その辺は詰めが甘かったと言える。
こんなことは、映画のストーリー上、全く関係のないことで、この点を指摘したブログもインターネット上では全く見当たらない。しかし、ただのバレー好きの私ごときでさえ気がつくことで、用具の調達などの問題もなく、ただもう少し右側からサーブすれば済む話なので、私をバレー場面だけでも時代考証担当として現場に置いてくれればよかったのに・・、などと思うのであった(苦笑)。
あ、いま見ていて、もうひとつ発見。地下通路で須賀健太が500円を支払うシーン。コインを1枚出しているが、実際に500円硬貨が発行されたのは1982年から。従って、1980年にコイン1枚で500円の支払いは出来ないはず。アラ探しするつもりはありませんが、いろいろと詰めが甘いですな(笑)。
あと、これはダメ出しではありませんが、山口百恵の歌を随所に散りばめて効果的に使用した映画だったな、と。見れば、この映画はホリプロ制作で、足立梨花も優希美青もホリプロの女優でした(もちろん山口百恵もホリプロ)。ちなみに、私の中学時代のお友達もホリプロ所属の女優となりましたが、その話はまたの機会に。あ、そういえば、そのお友達がドラマで京都弁をしゃべっていたときもヘンな京都弁だったのを思い出しました。やはり方言は難しいものです。
それから、山陽女子高校全面協力で、ともすれば山陽女子高校のプロモーションビデオのような映画になっています。これを見たら、なんだか山陽女子高校に入学したくなりますね。クラスメイトのエキストラは実際の山陽女子中・高校の生徒を起用しているとのことで、選ばれた子はさぞかし良い思い出となるでしょうね~♪
最近はドラマや映画のロケ地として岡山が人気らしく、「広瀬すずが岡山で自転車に乗っていた」とか「土屋太鳳が岡山駅前にいた」とか目撃情報がいろいろネット上を賑わしていました。広瀬すずとか土屋太鳳とか、今もっとも旬な女優たちが近所にしばらく滞在してロケを行っていたとは興味深いことですが、その作品(広瀬すずは「先生!、、好きになってもいいですか?」、土屋太鳳は「8年越しの花嫁」)はまだ見ておらず、例によってそのうちテレビでオンエアされたら見ようかな、という感じです。見たら急に盛り上がって、また公開から数年の時間差を置いてロケ地巡りをすることになるのかもしれません♪
Posted at 2019/01/06 07:51:02 | |
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日記 | 音楽/映画/テレビ
2019年01月01日
今回も例年どおり滋賀県の実家で年を越して、先ほど岡山に帰ってきました。元日の夜にして早くも日常生活に戻っています。
かつては、私にとって滋賀の実家は鈴鹿へ出撃する際の出撃拠点で、F1観戦の宿となったり、年末年始はチャレクラで鈴鹿を走りまくっていたので、その前後に立ち寄ったりしていました。そういえば、正月から鈴鹿に連泊してチャレクラを走ったこともあったな~。あの頃は年末年始に鈴鹿を走るために1年間働いていた、という感じでした。
今は鈴鹿へ遠征することなく、新幹線でササッと岡山から滋賀を往復するのみ。あまりにも呆気ない「帰省」です。ただ、今回は小学生の甥っ子に滋賀のゲームセンターでマリオカート対決を挑まれました。甥っ子はアイテムの使い方とかいろいろ技を用意してきたらしく、自信満々。こちらは何の予備知識もありません。
レースがスタートすると、私はアイテムをゲットしても使い方がよくわからないので、ただ淡々とアウトインアウト、スローインファーストアウトで走り続け、そのまま甥っ子に勝ってしまいました(笑)。後ろで観戦していた妹夫婦が「おじさん(私のこと)、ドラテクだけで勝っちまったよ」「バナナ持ったまま投げずにゴールしちゃったよ」と大ウケ。負けた甥っ子はガックリ(苦笑)。
十数年前まで、年末年始は本気で鈴鹿アタックをしていたのと比べると、なんとほんわかした年末年始の「サーキットバトル」だことか・・(苦笑)。
というわけで、まだ平成30年を振り返りきっていないうちに年を越してしまいましたが、みなさま今年もよろしくお願いいたします。
Posted at 2019/01/01 21:45:34 | |
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日記 | 日記
2018年12月30日
今季もまた初詣の時期が近づいてきましたが、先日某テレビ番組で、日本人の初詣という習慣の由来について興味深い話をやっていました。
それによると、もともと日本に初詣という習慣はなく、川崎大師への臨時列車を運行する鉄道会社が初詣を呼びかけたところ、それが全国に広まっただけなのだそうです。
我が家はもともと、大混雑する初詣にあまり行くことがなく、毎年初詣に行くのが当たり前だった義弟は、初詣に行かない我が家を見て驚いたらしいのですが、初詣は日本古来の伝統文化だと思っている日本人は多いのではないでしょうか。それが鉄道会社のただのキャンペーン企画だったとは・・。
バレンタインデーのチョコレートの風習も製菓会社の策略だし、5月連休をゴールデンウィークと呼ぶのも映画会社のキャンペーンだし、日本人の習慣として定着しているものの由来が、意外と民間会社のただのキャンペーン企画だったりすることが往々にしてあるわけです。
ついでに言いますと、18年前の5月連休にイギリスへ行ったとき、確かロンドン・ヒースロー空港だったと思いますが「ゴールデンウイークおめでとうございます」と日本語で書かれた横断幕が掲げられていたのには笑いました。
日本では、祝日は確かに「祝う日」なんですが、正月に「新年あけましておめでとうございます」とは言いますが、それ以外の祝日であんまり「おめでとうございます」と挨拶することはなく、ましてや祝日が連なって連続休暇がとりやすくなっているだけの大型連休を「おめでとうございます」と祝う人はいません。しかし、日本のことを中途半端に知っている外国人からすれば、日本で「祝日」がたくさん連なっている大型連休はさぞかしめでたい祝日なんだろうとカン違いしてしまうのですね。あるいは、中国における春節が祝日で、毎年その時に多くの中国人が海外旅行するので、それと混同していたのかもしれません。
で、話は初詣の話に戻って、あまり初詣に行かない我が家も、東京に住んでいた時は東京都心の初詣の風景を見るべく、家族で出かけていました。と言っても、明治神宮なんかに行くとそれこそ大混雑するので、行くのは、大抵港区赤坂の日枝神社。芸能人もよく初詣に行く小さな神社です。
今はどうだか知りませんが、当時のお正月の東京都心は、多くの人が地方に帰省している期間なので意外と閑散としていて、普段見られない静かな都心の姿を見ることができました。しかし、当時の日枝神社のすぐ近くにはまだあのホテルニュージャパンが、あの大火災のときの生々しい姿のまま残されており、日枝神社に行くたびに、あの悲惨な大火災の記憶が呼び覚まされるのでした。現在はすでに取り壊されているはずです。
というわけで、自分が直接出会うことのできる先祖はせいぜい三代前の人までで、それよりも昔、自分の何代も前から続いていることは、大昔から続いていることとカン違いしやすく、例えば、日本人は比較的土地の所有に固執しがちで、「先祖代々の土地を守る」という言い方をする人がいますが、我が国において私有財産制が始まったのは明治以後のことですから、「先祖代々」と言ってもそんなに長い歴史があるはずはないのです。
それにしても、日本人の初詣の習慣の由来がまさかそんなことだったとは、私も驚きでした・・。
Posted at 2018/12/30 03:39:03 | |
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日記 | 日記