2021年11月16日
思い出がたくさんありすぎて、何から書いたら良いのかわかりません。現役時代は長嶋と首位打者を争っていたらしいですが、さすがに私も現役時代のことは知らず、昭和50年涙の初優勝の年に監督に就任されたのですが、私が広島に転居したのは昭和52年のことでした。
広島に転居すると、ウチの小学校のすぐ近くに古葉監督はご自宅を構えておられて、私のひと学年上に息子さんが在学しておられました。父親参観日に古葉監督が来られた時には学校中が大騒ぎ。
当時小1だった私は、古葉監督のご自宅にサインをもらいに押しかけたこともありましたが、丁寧にサインしてくださいました。
私が6年間他県に住んでまた広島に戻ってきた昭和60年は結果的に古葉監督の広島監督最後の年になりました。シーズンオフに私の母校の小学校で行われた野球教室には、近隣にお住いのカープ選手が来てくださり、投手担当は大野豊投手、捕手担当は達川光男捕手、外野手担当は山崎隆造外野手、そして内野手担当は古葉竹識監督、という豪華布陣でした。全然関係ないですけど、ここの小学校はPerfumeかしゆかの母校でもあります(笑)。
古葉監督の采配にはいろいろな評価がありますが、江夏と心中する面はあったと思います。最後、江夏に託して負けた試合も決して少なくないです。それにもかかわらず、あの江夏の21球の時には、マウンドに江夏がいるにもかかわらず、池谷や当時新人だった北別府をブルペンに向かわせて江夏のプライドに火をつけます。
昭和60年は私が人生で唯一広島カープの試合をテレビ・ラジオで130試合全部追いかけた年です。翌年の阿南監督がレギュラーを固定して9人野球をしたがるのと比べて、前年の古葉監督は若手を登用しました。捕手には達川と同程度山中を使い、原伸次、斎藤、伊藤も使い、原や衣笠を2番に据えたオーダーは私はなかなか好きでした。
甲子園で名古屋電気の工藤と投げ合った北陽の高木宣宏を見て「あの投手を獲れ」と言ったとされ、昭和60年に高木が前半戦ハーラートップを走る大活躍をしたことは忘れられません。
◆当時の広島カープメインオーダー
1.高橋慶 遊
2.山崎 右
3.小早川 一
4.山本浩 左
5.長嶋 中
6.衣笠 三
7.木下 二
8.達川または山中 捕
9.(先発)大野、川口、高木のサウスポートリオ、北別府と、津田もまだ先発でした。
広島カープが最後に日本一になったのは昭和59年、古葉監督の時です。あの頃は広島市民もカープが優勝することにすっかり慣れてしまい、昭和60年のシーズンオフに監督退任が発表された時も広島市民は割と冷めていました。一部の地元解説者が「あの、広島カープの優勝に多大な貢献をした古葉監督が辞めると言っているのに、広島市民は冷めすぎている」と苦言を呈されていたことを覚えています。
あとからあとから、いろんなことが思い出されますが、間違いないことは、広島カープの歴史を語る上で古葉監督の存在は欠かすことのできない存在であったということです。いろいろとありがとうございました。
Posted at 2021/11/16 19:31:44 | |
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昔話 | スポーツ
2019年04月29日
さ~、平成も間もなく終わってしまうので、先を急ぎましょう。2011年3月11日の午後、岡山県内も若干揺れたらしいのですが、全く気付かず仕事をしていたら、職場の人が「東北の方が大変なことになっているらしい」と言い出して、テレビをつけました。
すると、太平洋側に軒並み大津波警報が出ていて、やがて津波が到達。次々に津波に飲み込まれていく東北の町が空撮で生中継されていました。これは大変なことになりました。
津波は瀬戸内海にも及ぶ可能性がありました。ウチの会社の施設も津波が来ればやられてしまいます。ウチの会社にはこんな時の災害当番があって、私はここの事務所にいた数年の間に1度しかこの当番が回ってこなかったのに、なんと、ちょうどその日が当番に当たっていました。
夕方、食事をとるためにいったん職場を離れた後、その日の夜から徹夜で朝まで当番勤務です。津波が来る可能性は低いものの、そのまま朝まで水島地区の潮位を見守り続けました。
夜中にテレビを見ていると、原発がヤバいということで急遽原子力の専門家が呼ばれて出演していましたが、普段あまりテレビに呼ばれることのない原子力の専門家たちが突然テレビ局から重宝されることになって、ともすると「うれしそうに」一般人には理解できないような専門分野の話をまくし立てている姿が印象的でした。それが午前4時台とかそんな時間帯の出来事です。
こちらは予想もしない急な徹夜勤務でとにかく眠くて眠くて仕方なく、朝になって次の交代勤務者が来て、ようやく帰宅することができました。津波は確か数センチ程度観測されただけで済みました。
そこから先は、みなさんもよくご存知のことと思います。確か、金曜午後の震災発生から日曜いっぱいまで、すべてのテレビ局がCMなしの特別放送体制となりました。
震災から何日か経過して、東京の友人から「ミネラルウォーターのペットボトルが全く入手できなくなったので、もし岡山で入手できるようなら買っておいてほしい」というメールが来ました。東京で水や乾電池が商品棚から消えていることはテレビでも報道されていました。岡山でもミネラルウォーターは品薄になっていたものの、まだ少しは入手できたので買っておきました。
しかし、別に東京で断水しているわけではなく、普段ミネラルウォーターで生活しているとしても、岡山からミネラルウォーターをわずか数本宅配便で送っている間があれば、東京で水道水を(どうしても生水がイヤなら)煮沸して飲んだ方が手っ取り早いのでは?とメールしたところ、「そう言われればそうだ。気がつかんかった」という返答が来ました(苦笑)。突然の災害は人々の思考も狂わせるようです・・。
3月下旬以降、ウチの会社からは東北支援に向かう支援隊が組まれ、交代で東北に赴きました。私は自分の仕事の関係上それに立候補することはできなかったけれど、災害後の早い時期に行った人は特に、大変な現場だったようです。
というわけで、あの災害の影響は今も当然残っているし、戦争を体験した世代ならいざ知らず、少なくとも戦後生まれの世代にとっては、初めて「この先、日本がどうなっちゃうんだろう」ということを考えた、我が国戦後最大の出来事でした。
次回(最終回)は、1994年5月1日に起きたあの出来事を振り返ります。
Posted at 2019/04/29 02:48:46 | |
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昔話 | 日記
2019年01月17日
今日は1月17日です。私が平成の30年間で驚いた大事件を順に振り返っていますが、今日はやはり、これしかないでしょう。
平成7年1月17日午前5時46分。私は前夜からずっと起きていて、大学の卒論の仕上げをしていました。このころの私は完全に夜型生活で、毎日朝方まで起きていたのです。
つけっ放しにしているテレビで地震速報が流れました。近畿地区のようです。表示されている中での最大震度は京都の震度5。「京都か!?」と思いました。大事件が起こった時の発生直後の情報の混乱は、リアルタイムで経験した者でないとわからないものがあります。日航機御巣鷹墜落も、松本サリン事件も、地下鉄サリン事件も、発生直後の情報の混乱は忘れられません。
阪神淡路大震災のときの初期の情報の混乱は、のちにNHKが検証番組を放送しています。それによると、発生直後に一瞬だけ「神戸震度6」という表示が出たらしいです。しかし、なぜかすぐに消され、しばらくの間、「京都震度5」が最大震度として表示されていました。私もその「神戸震度6」は見落としていたので、「京都か!?」と思ったのです。
やがて、NHK神戸放送局の防犯カメラで宿直職員が布団の上で激しく揺さぶられる映像が入ってきて、「神戸だ!!」と判明します。ただ、早朝のまだ外が暗い時間帯で、断片的な情報しか入ってきません。
ようやく外が明るくなって、ヘリコプターから空撮の映像が入ってきて、日本中の人ががく然としました。高速道路が倒壊し、三ノ宮のビルが道路に倒れ、神戸の街が崩壊していたのです。
大変なことになりました。とりあえず、朝イチから授業があったので、大学へ向かいました。ところが、こんな大変なことが起こっているというのに、朝イチの授業の先生は、そのことにひと言も触れず、いつも通り授業をして去っていきました。この先生にとっては近畿で起こっている災害なんて他人事なのか。
この先生の次回の授業の際にこの謎が解けました。この先生は外部講師で、ウチの大学に授業をしに来るときはかなり早朝に家を出るらしく、当日は大震災が起きていることを知らずに授業していたのだそうです。スマホやインターネットはおろか、ケータイもほぼ誰も持っていない時代でした。
当時、ウチの親は転勤で福岡に住んでいましたが、たまたまその日、ウチの母は倉敷市に帰省していました。大阪に住む私の妹の安否確認のため電話をかけ続けたそうですが、その日の夜まで電話がつながらなかったらしいです。
この震災は、隣県である岡山県にも影響を与えました。私の周辺でも、就職を機に神戸へ出ていた人たちが会社を辞めて岡山県の実家に戻ってきました。京阪神からの利用客が多い美作・湯郷温泉は、震災以後客足がガックリ落ち、回復しないまま四半世紀が経過してしまいました。
4月には2回目のF1パシフィックGPがTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)で予定されていましたが、震災で延期されました。その年の秋に延期されて、鈴鹿日本GPと2週連続開催となったのです。このときのF1パシフィックGPには私は観客としてではなく業務で行ったのですが、もし4月に予定通り開催されていたら、まだ入社直後で、恐らく行くことはなかったと思うので、結果的には震災延期が原因で私のF1業務参加が実現してしまったことになります。
震災から2年ほど経過して、ウチの親がまた転勤で神戸勤務となりました。家は三ノ宮のNHK神戸放送局の近くです。震災から2年が経過した神戸の街は、がれきがすっかり撤去され、本当に2年前にあの惨状となった街とは思えないくらいきれいになっていましたが、よく見ると、街中の至る所に更地があり、建物が倒壊するなどして解体された痕跡が見受けられました。
NHK神戸放送局の前を通ると、そこも更地になっていました。あの日、宿直職員が激しく揺さぶられていた映像は間違いなくここで撮られたのです。京都ではなく神戸が震災の中心であることを日本中に伝えた映像でした。
あれから20年ほど経過して、今から数年前の1月17日。バレーボールVリーグ神戸大会があって、観戦に行きました。広島における8月6日、長崎における8月9日が特別であるように、神戸にとっての1月17日は特別です。それなりの思いを持って神戸に入り、試合開始前に会場全体で黙とうしました。6400人が命を落としたあの震災から復興して、バレーボールの試合を楽しめる今日があることに感謝しつつ・・。
Posted at 2019/01/17 21:17:42 | |
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昔話 | 日記
2019年01月02日
今年も箱根駅伝が盛り上がっていますね♪ 日テレアナウンサー陣の気合い入り過ぎの実況が若干鼻につくものの、完全に日本のお正月の風物詩として定着しました。「箱根」は、優勝争いだけでなく、下位は下位で、シード権争いとか、繰り上げスタートとの戦いとか、今はなくなったけれど踏切での電車待ちとか、いろいろな要素があるのが魅力です。
そして、何と言ってもあのコース設定。東京都心をスタートして、湘南海岸沿いを走って、箱根の山を登っていって、富士山を望む芦ノ湖で往路ゴール。実にお正月向きの出来すぎたコース設定。復路は、箱根の山の上からスタートして、だんだんと都会に戻ってきて、東京都心でゴールテープを切ります。F1で鈴鹿とモナコが特別であるのと同様に、あの舞台設定は超重要。
私にとっては、「箱根」の沿線は学生時代の思い出の土地で、横浜市鶴見(生麦)は友人の下宿があって、わけあって泊まれる部屋がたくさんあったので、かなり入り浸っていました。また別の友人が横浜の大学に行っていたので、横浜駅周辺にもよく遊びに行きました。少し西へ進んで往路4区(復路7区)で通過する二宮には友人の自宅があり、富士スピードウェイに行くときには出撃拠点として泊まらせてもらったものです。
それから、私の広島の高校生時代、体育の若い先生が元「箱根」を目指していたランナーで、1980年代連覇していた全盛期の順天堂大学駅伝部に在籍していたそうです。その先生は結局補欠止まりで、一度も箱根を走ることはできなかったそうなのですが、その走力は凄まじく、フルマラソンは楽々3時間切り。一度体育の授業中にクラスメイトがその先生に持久走で挑みましたが、ほぼ全速力で200mくらいついていって、簡単に振り切られていました(笑)。
そんな先生でも、長距離界では実績を残せず(ただし、競歩では広島県記録の保持者でした)、一度も走ることができなかった「箱根」。兄貴のような良い先生でした。そんなことを思い出しながら、今年も「箱根」を見ています♪
Posted at 2019/01/02 22:03:04 | |
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昔話 | 日記
2018年12月26日
さて、私は右側通行の国ではまだ運転したことがないのですが、右側通行の道路では、ただ真っ直ぐ走るだけの時はいいのですが、交差点で曲がったりしたときに、とっさのときに混乱して逆走してしまいそうな気もします。
それと、右側通行ということは左ハンドルとなり、これもAT車ならまだしも、MT車だとなんだか混乱してしまいそうです。シフトノブが右側になって、足元のペダル配列は右ハンドル車と同じなんですよね?
そういえば、若いころ左ハンドル車(AT車)に乗る知人がいて、一度「運転してほしい」と言われたことがありましたが、なんか自信がなくて断ったことがあるのを思い出しました。なので、私は日本国内でも左ハンドル車の運転経験がありません。
私は免許を持たない頃からF1を見ていて、1991鈴鹿日本GPを現地観戦して感化されて教習所に入ったクチです。F1は右手シフトでしたから、私の頭の中では、最初は、シフトチェンジは右手で行うものというイメージがありました。右手でシフトチェンジを行うオンボードカメラ映像をずっと見てきたもので。
平成生まれのみなさんはご存知ないかもしれませんが、セナの時代のF1はマニュアルトランスミッションで、あの狭いコクピットの中でクラッチペダルとシフトノブを操りながらドライブしていたんです。人間業とは思えませんね。モナコGPではレース中のシフトチェンジ回数が膨大な回数となり、ドライバーの右手のひらの皮がめくれていたらしいですもんね。
というわけで、私は最初はF1の右手シフトから入ったくせに、今ではすっかり左手シフトに慣れてしまい、もし右手シフトのクルマで今タイムアタックをしなくてはいけなくなったとしても、左手シフト車と同等のタイムは絶対に出せないでしょうね。
そういえば、サーキットで様々なチューニングカーのタイムアタック請負人となっている木下みつひろ選手は以前、どんなクルマでも対応できるように、日頃からFR、FF、4WD、右ハンドル車、左ハンドル車などいろいろなクルマに乗るようにしている、と言われていました。
で、話はイギリスでの私のドライブ旅行に戻りまして、運転初日の幹線道路でパーキングエリアみたいなところに頭から突っ込んで駐車して少し休憩し、バックギアで駐車帯から出ようとしたところ、バックギアが入らないんです。うわ~っ、と思って、説明書を探したりしたけど見つからず、最悪の場合は駐車するたびにニュートラルにして車体を手で押してバックさせながら1週間過ごすことになるかと思いましたが、シフトノブの周りにあるリングみたいなのを上に押し上げながらバックギアを入れたら入りました。こんなのは、日本国内でもルノー車に乗った経験があれば当たり前のことだったのかもしれません。
リバースギア(バックギア)禁止のピットレーンでリバースギアに入れて黒旗失格となったのはマンセルですが、私の場合は危うくリバースギア禁止で1週間過ごすところでした。
あと、18年前のことで記憶が薄れつつありますが、確かイギリスの道路の制限速度標識はマイル表示です。でも、クルマのスピードメーターもマイル表示なので、別に換算する必要はありません。ただ、イギリスの警察は海外旅行者にも容赦なく速度違反を取り締まってくるらしいので注意が必要です。これも18年前の、古い情報です。
そうはわかっていましたが、最終日の帰りの飛行機の出発時刻が迫ってきて、最後は結構焦りました。前回書いたように、ガソリン満タン返ししなくてよい特約をつけていたので、ロンドン・ヒースロー空港のレンタカー事務所に乗りつけ、そのまま返却。なんとか帰りの飛行機に間に合いました。
ロンドンみたいな大都市を観光する場合は公共交通機関が発達しているのでレンタカードライブは必要ありませんが、このときの私はコッツウォルズと呼ばれる小さな町をいくつも巡ったので、レンタカードライブは必須でした。公共交通機関はほぼないし、団体旅行で観光バスで巡るツアーはあるかもしれませんが、こういう小さな町に観光バスで団体で(しかも日本人の集団で)乗りつけるのでは旅の風情が台無しです。
道路地図片手に自分の運転で小さな町を巡りながら、それぞれの土地で安宿を見つけて宿泊する気ままな旅は実によいもので、またいつか行ってみたいものです。
Posted at 2018/12/26 21:30:58 | |
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