2019年04月30日
というわけで、こうして見ますと、平成の時代に起きた印象的な出来事というのは、ドーハの悲劇、イモラの悲劇、阪神淡路大震災、東日本大震災、いずれも良くない出来事ばかりでした。良かったニュースよりは、こういった出来事の方が強く心に残るのかもしれません。
でも、もちろん、自分としては、DC5号と出会い、こうしてブログを開設し、みなさんと情報交換し、サーキットを50回以上走り、今なおDC5号が好調なのは、実に楽しい経験でした。平成が始まったとき(東京の高校生だった)、今の生活を想像できたでしょうか。
クルマ買い替え問題がずっと続く中、新しい時代にどんなクルマ生活が待っているか、今から楽しみです・・。
Posted at 2019/04/30 21:24:55 | |
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日記 | 日記
2019年04月29日
事故の原因は当時いろいろと言われ、裁判にもなりました。セーフティカー導入でタイヤが冷え、空気圧も落ちていたのでは、とか、今宮さんは舗装の補修によるギャップを指摘していました。当初はドライビングミスを指摘する声もありましたが、タンブレロは高速とは言え、F1マシンにとってはベタ踏みで抜けていけるので「コーナー」とは言えず、セナほどのドライバーが単純なドライビングミスをするとは考えられないということになりました。
結局マシンのステアリングトラブルが有力で、事故現場が警察によって封鎖される前に現場を訪れた川井ちゃんは、「コンクリートウォールにセナのヘルメットの黄色い跡がくっきり残っていた」と証言しています。中嶋悟さんは、あの速度で脳が振られたら、例え何かにぶつからなくても人間の脳は減速Gに耐えられない、と指摘していました。
本当のところはよくわかりませんが、とにかくF1界は、ある日突然、一瞬にしてセナという存在を失ってしまったのです。
私自身は、以前にも当ブログで述べたように、当初は強すぎるセナよりはライバルのプロストを応援していて、セナがリタイアしたときは喜んでさえいました。それが、1991年の初めての鈴鹿でセナの動きを常に追いかけている自分に気がつき、いつかセナと一緒に仕事をしたいと思いました。
1995年の2回目となる岡山パシフィックGP。私は念願通り仕事でF1会場を訪れることになるのですが、セナはもう天に召された後でした。
1998年に初めてヨーロッパを訪れたとき、ローマ近郊の高速道路で交通死亡事故による渋滞に遭いました。ドクターヘリが高速道路に着陸し、負傷者を乗せて離陸しました。上昇していき、前進するために機首をグッと下げた瞬間、私の脳裏にあの日の記憶がフラッシュバックのように甦りました。あの日のセナも事故現場からヘリで上昇したあと、全く同じように機首をグッと下げて飛び去って行ったのです。そう、ここはイタリア。セナもわずか4年前のここイタリアで、ヘリに乗せられて天に召されて行ったのです。
2001年のモナコGP。フェンスに貼られた手書きの「SENNA ...still the best」の張り紙。思わずシャッターを切りました。それが当ブログの「愛車紹介」の「フォトギャラリー(フォトアルバムの方ではない)」の中にある写真です。
2002年、セナがコックピットから見た景色を求めて国際サーキットを走るようになりました。岡山国際サーキットはセナのコースレコード1分10秒に対して41秒落ちの1分51秒。鈴鹿は、今でこそコースレコード1分26秒台に迫ろうかという勢いですが、私が観戦に行った1991年のベルガーのPPタイム(1分34秒700)が長年コースレコードとして君臨していたので、恐らくはその年にセナが出した2番手タイムがセナにとっての鈴鹿ベスト。1分35秒弱くらいなのかな。対して私は2分35秒だったので、60秒落ち。
たぶん2004年だったと思いますが、例によって鈴鹿に走りに行ったとき、鈴鹿サーキットレストランの「カンパネラ」というイタリアンレストランでディナーをとりました。ここはセナが鈴鹿を訪れた時に必ず利用していたレストランで、セナにとって最後の鈴鹿となった1993年、セナが鈴鹿最後の夜に座った席は「セナシート」として記念プレートが張られていました。私は入店するとセナシートを希望し、往年のセナの鈴鹿での走りに思いをはせていました。
そして、今から4カ月前の2018年暮れ。セナがかつて岡山・湯郷温泉に宿泊した時の旅館でのある忘年会に呼ばれて行きました。以前、この旅館のフロントには、セナを中心にして旅館のスタッフが写った記念写真が飾られていて、今でも飾ってあるかな~と思いながら久々に行ったのですが(旅館のフロントに飾られた記念写真を見に行くのは、映画館のロビーに飾られた記念写真を見に行くくだりがある映画版「砂の器」にどこか共通するものがあります)、あのセナの記念写真はすでに取り外されて無くなっていました。セナの記憶も年々風化されていっているようで、寂しい限りです。
明後日、5月1日は、我が国にとっては令和への改元初日なのですが、私にとっては、セナ没後25年の命日です。
いろいろなことがあった平成の30年間は、こうして幕を閉じます・・。
Posted at 2019/04/29 18:58:08 | |
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F1 | 日記
2019年04月29日
今年も5月1日が近づいてきました。平成を振り返るシリーズの最終回は、やはり1994年(平成6年)の「あの日」のことです。
1990年、91年あたりは毎レースごとに食い入るようにF1中継を見ていた私。91年鈴鹿日本GPを現地観戦して、92年以降もF1中継は必ず見ていたものの、だんだんと「ながら視聴」となっていき、1994年のシーズンを迎えました。
この年はアイルトン・セナがマクラーレンからウイリアムズに移籍し、開幕戦地元ブラジルGPはリタイア。次戦はなんと!!岡山県で開催されたパシフィックGPで、F1御一行様が合併前の美作町の湯郷温泉にやってきました。セナのいるウイリアムズチームが宿泊した旅館は連日大フィーバー。この時にセナがマークした1分10秒は、いまだ岡山国際サーキット(当時:TIサーキット英田)のコースレコードなはずです。
しかし、決勝レースは、スタート直後の1コーナーでセナがコースアウトして、そのままリタイア。まるで90年の鈴鹿のように、1コーナーの観客以外はセナの決勝での走りを全く見れないまま終了してしまったのです。もちろん、この時は、わずか2週間後にあんなことが起こるとは誰も想像だにしていません。
それからわずか2週間後のサンマリノGP(イモラ)。それはまさしく「呪われた週末」でした。まず、金曜の最終コーナーでバリチェロが大クラッシュ。命を落としていても全く不思議ではないほどの大クラッシュでした。同じブラジル出身のセナは、すぐさま病院のバリチェロを見舞いに行っています。
土曜にはトサの手前でラッツェンバーガーが大クラッシュ。ほぼ即死でした。長年F1では死亡事故が起きておらず、1987年に日本でフジテレビがF1全戦中継を始めて以降ももちろん死亡事故は皆無。カーボンモノコックで守られたF1マシンの安全神話はすでに確立されていたところでした。
そんな中でとうとう起きてしまった12年ぶりのF1の死亡事故。私も関係者も誰もが大ショックでしたが、セナもまたそのレース人生において初めて経験するドライバーの死亡事故だったようです。そんなわけで、セナは相当ナーバスになっていました。F1でもやはり死亡事故は起こる。それでも、セナにだけは絶対にそんなことは起こらない、という根拠のない確信が、私も含めてまだ皆の心の中にはありました。
日曜の決勝前、セナは恋人に「走りたくない」と告げたそうです。スタート直前のグリッド上では、テレビ局の放送ブースに座る「宿敵」プロストと無線で会話を交わします。
当時の日本のフジテレビF1中継は生放送ではありません。私は日曜の夜、友人(のちにモナコGPを一緒に観戦に行った友人)と電話で雑談していたところ、フジテレビのスポーツワイド番組がセナの大クラッシュの映像を速報で伝えました。これから録画放送するF1中継の内容をフジテレビ自らが先に流してしまうことは異例中の異例。それだけでも大変なことが起きたことがわかります。私の友人は電話口で「あ~、レースの結果を先に知ってしまったぁ~」などと言っていました。まだ、事の重大さに気づいていないようです。もうレースの結果なんか問題ではないような大事件が起きたことが映像から見てとれました。「とにかく今夜の中継を見てみよう」と言い合って電話を切ったのを覚えています。
そして、フジテレビの中継開始。私の記憶ではいきなり生放送で現地から大クラッシュの映像を伝え、ひと通り伝えたあとに、通常の中継のようにレースのスタート前からの映像が流されました。
レースはスタート時にクラッシュがあって、その時に跳ね上げられたパーツやタイヤが観客席に飛び込み、複数の負傷者が出ました。とうとう観客にまで負傷者が出る大荒れのGPとなってきました。
すぐさまセーフティカーが入り、PPスタートのセナ、2番手のシューマッハ(ベネトン)の順番のまま周回を重ねます。セーフティカーがピットインしてレースが再開されて間もなくの出来事でした。高速タンブレロをセナが直進し、そのままコンクリートウォールに激突したのです。
その映像は、速報で見た瞬間から深刻な結果を予想させました。少なくともセナの選手生命は絶たれたかに見えました。赤旗中断となって、セナはコース上で緊急切開手術を受け、ヘリコプターで病院に空輸されました。私の見立てでは、即死だったのだと思います。
再開後のレースでは、片山右京は激走しました。しかし、この週末、もはやレースの結果は問題ではなくなっていました。再開後のレースを中継していた途中で突然映像が生中継に切り替わり、三宅アナからセナの死亡が日本に伝えられました。声を失う川井ちゃん。そして、その中で今宮さんが号泣しながら絞り出すように述べた「セナはいませんが、F1は続いていくわけです」という名言は、伝説のF1中継となりました。
あまりの出来事に眠れない夜を過ごして、朝になると、大学の友人から何人か電話がかかってきました。携帯電話のない時代、普段電話なんかしてこない友人が電話してきて、ポツリと「大変なことになったな」と言われました。
午後のフジテレビのワイドショーでは、全くモータースポーツの知識のないコメンテーターが、アクティブサスが禁止になって迎えたシーズンで起きた事故であるという話を受けて「安全装置を禁止するからこういうことになる」みたいな見当違いのコメントをしていて、「そうじゃねーだろ」と思ったりしました。
フジテレビ月曜19時からの「今夜は好奇心」は中止となり、急遽セナ追悼特番となりました。私はその映像を今も持っていますが、たまたまスケジュールが空いていたのか、森口博子がセナファンの代表のように出演していました。私は森口博子自体は好きだけれども、にわかファンの森口博子がそこで出てくることに何か違和感を感じたりもしていました。
数日後、国葬のためイタリアからブラジルへ空輸されたセナの遺体。ブラジル上空に差しかかると、何機ものブラジル空軍戦闘機が飛んできて、セナを乗せて飛ぶ航空機の護衛のために周囲につきました。すごい光景でした。彼はまさに国の英雄だったのです。
(後編へ続く)
Posted at 2019/04/29 18:57:21 | |
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F1 | 日記
2019年04月29日
さ~、平成も間もなく終わってしまうので、先を急ぎましょう。2011年3月11日の午後、岡山県内も若干揺れたらしいのですが、全く気付かず仕事をしていたら、職場の人が「東北の方が大変なことになっているらしい」と言い出して、テレビをつけました。
すると、太平洋側に軒並み大津波警報が出ていて、やがて津波が到達。次々に津波に飲み込まれていく東北の町が空撮で生中継されていました。これは大変なことになりました。
津波は瀬戸内海にも及ぶ可能性がありました。ウチの会社の施設も津波が来ればやられてしまいます。ウチの会社にはこんな時の災害当番があって、私はここの事務所にいた数年の間に1度しかこの当番が回ってこなかったのに、なんと、ちょうどその日が当番に当たっていました。
夕方、食事をとるためにいったん職場を離れた後、その日の夜から徹夜で朝まで当番勤務です。津波が来る可能性は低いものの、そのまま朝まで水島地区の潮位を見守り続けました。
夜中にテレビを見ていると、原発がヤバいということで急遽原子力の専門家が呼ばれて出演していましたが、普段あまりテレビに呼ばれることのない原子力の専門家たちが突然テレビ局から重宝されることになって、ともすると「うれしそうに」一般人には理解できないような専門分野の話をまくし立てている姿が印象的でした。それが午前4時台とかそんな時間帯の出来事です。
こちらは予想もしない急な徹夜勤務でとにかく眠くて眠くて仕方なく、朝になって次の交代勤務者が来て、ようやく帰宅することができました。津波は確か数センチ程度観測されただけで済みました。
そこから先は、みなさんもよくご存知のことと思います。確か、金曜午後の震災発生から日曜いっぱいまで、すべてのテレビ局がCMなしの特別放送体制となりました。
震災から何日か経過して、東京の友人から「ミネラルウォーターのペットボトルが全く入手できなくなったので、もし岡山で入手できるようなら買っておいてほしい」というメールが来ました。東京で水や乾電池が商品棚から消えていることはテレビでも報道されていました。岡山でもミネラルウォーターは品薄になっていたものの、まだ少しは入手できたので買っておきました。
しかし、別に東京で断水しているわけではなく、普段ミネラルウォーターで生活しているとしても、岡山からミネラルウォーターをわずか数本宅配便で送っている間があれば、東京で水道水を(どうしても生水がイヤなら)煮沸して飲んだ方が手っ取り早いのでは?とメールしたところ、「そう言われればそうだ。気がつかんかった」という返答が来ました(苦笑)。突然の災害は人々の思考も狂わせるようです・・。
3月下旬以降、ウチの会社からは東北支援に向かう支援隊が組まれ、交代で東北に赴きました。私は自分の仕事の関係上それに立候補することはできなかったけれど、災害後の早い時期に行った人は特に、大変な現場だったようです。
というわけで、あの災害の影響は今も当然残っているし、戦争を体験した世代ならいざ知らず、少なくとも戦後生まれの世代にとっては、初めて「この先、日本がどうなっちゃうんだろう」ということを考えた、我が国戦後最大の出来事でした。
次回(最終回)は、1994年5月1日に起きたあの出来事を振り返ります。
Posted at 2019/04/29 02:48:46 | |
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昔話 | 日記
2019年04月28日
女子ダブルス決勝、惜しかったですね。1、2ゲーム連取したときは勝ったかと思いましたが、あれで中国ペアがギアを一段上げてきました。以前、世界選手権団体決勝の1番手で伊藤美誠がリュウシブンに勝ったあと、中国が本気を出してきて圧倒されたことを思い出しました。中国はまだまだ奥に引き出しを持っています。
ただ、5ゲーム目終盤のあの判定はビミョーでしたね。あれがどうにかなっていたら・・。「たられば」は禁物ですけど、悔やまれます。
勝てば「52年ぶり」ってことは、前回は私の生まれる前ということになります。ただ、1979年の男子シングルスで小野誠治が郭躍華に勝って優勝したのを私はテレビで見ていましたので、個人戦全般という意味では52年ぶりではありません。
もっと言えば、混合ダブルスは吉村(真)・石川ペアが前回2017年に優勝してますが、前回までの混合ダブルスは、中国が本気で取り組んでいなかったので、ちょっと余興的な要素がありました。混合ダブルスが東京五輪の正式種目に決まったので今大会は中国も優勝を狙いに来ましたよね。
で、先ほど述べた1979年の小野誠治対郭躍華の決勝は、郭躍華が足を痛めて試合中に棄権してしまっての優勝決定だったので、今回は中国ペアを倒しての優勝が見れるかと思ったのですが・・。
ちなみに、郭躍華は決勝を棄権したこの大会のあと、2大会連続世界王者となりました。そして、引退し、日本全国で卓球教室を開催して回りました。それを受講したのが、当時島根県の中学生だった私。当時私のラケットケースに書いてもらった郭躍華のサインが、今もきれいに残っています。
というわけで、世界選手権か五輪で、団体戦でも個人戦でもよいので、私の生きているうちに、中国を倒して優勝するシーンを見たい、というのが私の夢で、この夢はまた次回送りとなりました。丹羽くんも惜しかったね・・。
Posted at 2019/04/28 23:30:18 | |
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