2019年04月29日
事故の原因は当時いろいろと言われ、裁判にもなりました。セーフティカー導入でタイヤが冷え、空気圧も落ちていたのでは、とか、今宮さんは舗装の補修によるギャップを指摘していました。当初はドライビングミスを指摘する声もありましたが、タンブレロは高速とは言え、F1マシンにとってはベタ踏みで抜けていけるので「コーナー」とは言えず、セナほどのドライバーが単純なドライビングミスをするとは考えられないということになりました。
結局マシンのステアリングトラブルが有力で、事故現場が警察によって封鎖される前に現場を訪れた川井ちゃんは、「コンクリートウォールにセナのヘルメットの黄色い跡がくっきり残っていた」と証言しています。中嶋悟さんは、あの速度で脳が振られたら、例え何かにぶつからなくても人間の脳は減速Gに耐えられない、と指摘していました。
本当のところはよくわかりませんが、とにかくF1界は、ある日突然、一瞬にしてセナという存在を失ってしまったのです。
私自身は、以前にも当ブログで述べたように、当初は強すぎるセナよりはライバルのプロストを応援していて、セナがリタイアしたときは喜んでさえいました。それが、1991年の初めての鈴鹿でセナの動きを常に追いかけている自分に気がつき、いつかセナと一緒に仕事をしたいと思いました。
1995年の2回目となる岡山パシフィックGP。私は念願通り仕事でF1会場を訪れることになるのですが、セナはもう天に召された後でした。
1998年に初めてヨーロッパを訪れたとき、ローマ近郊の高速道路で交通死亡事故による渋滞に遭いました。ドクターヘリが高速道路に着陸し、負傷者を乗せて離陸しました。上昇していき、前進するために機首をグッと下げた瞬間、私の脳裏にあの日の記憶がフラッシュバックのように甦りました。あの日のセナも事故現場からヘリで上昇したあと、全く同じように機首をグッと下げて飛び去って行ったのです。そう、ここはイタリア。セナもわずか4年前のここイタリアで、ヘリに乗せられて天に召されて行ったのです。
2001年のモナコGP。フェンスに貼られた手書きの「SENNA ...still the best」の張り紙。思わずシャッターを切りました。それが当ブログの「愛車紹介」の「フォトギャラリー(フォトアルバムの方ではない)」の中にある写真です。
2002年、セナがコックピットから見た景色を求めて国際サーキットを走るようになりました。岡山国際サーキットはセナのコースレコード1分10秒に対して41秒落ちの1分51秒。鈴鹿は、今でこそコースレコード1分26秒台に迫ろうかという勢いですが、私が観戦に行った1991年のベルガーのPPタイム(1分34秒700)が長年コースレコードとして君臨していたので、恐らくはその年にセナが出した2番手タイムがセナにとっての鈴鹿ベスト。1分35秒弱くらいなのかな。対して私は2分35秒だったので、60秒落ち。
たぶん2004年だったと思いますが、例によって鈴鹿に走りに行ったとき、鈴鹿サーキットレストランの「カンパネラ」というイタリアンレストランでディナーをとりました。ここはセナが鈴鹿を訪れた時に必ず利用していたレストランで、セナにとって最後の鈴鹿となった1993年、セナが鈴鹿最後の夜に座った席は「セナシート」として記念プレートが張られていました。私は入店するとセナシートを希望し、往年のセナの鈴鹿での走りに思いをはせていました。
そして、今から4カ月前の2018年暮れ。セナがかつて岡山・湯郷温泉に宿泊した時の旅館でのある忘年会に呼ばれて行きました。以前、この旅館のフロントには、セナを中心にして旅館のスタッフが写った記念写真が飾られていて、今でも飾ってあるかな~と思いながら久々に行ったのですが(旅館のフロントに飾られた記念写真を見に行くのは、映画館のロビーに飾られた記念写真を見に行くくだりがある映画版「砂の器」にどこか共通するものがあります)、あのセナの記念写真はすでに取り外されて無くなっていました。セナの記憶も年々風化されていっているようで、寂しい限りです。
明後日、5月1日は、我が国にとっては令和への改元初日なのですが、私にとっては、セナ没後25年の命日です。
いろいろなことがあった平成の30年間は、こうして幕を閉じます・・。
Posted at 2019/04/29 18:58:08 | |
トラックバック(0) |
F1 | 日記
2019年04月29日
今年も5月1日が近づいてきました。平成を振り返るシリーズの最終回は、やはり1994年(平成6年)の「あの日」のことです。
1990年、91年あたりは毎レースごとに食い入るようにF1中継を見ていた私。91年鈴鹿日本GPを現地観戦して、92年以降もF1中継は必ず見ていたものの、だんだんと「ながら視聴」となっていき、1994年のシーズンを迎えました。
この年はアイルトン・セナがマクラーレンからウイリアムズに移籍し、開幕戦地元ブラジルGPはリタイア。次戦はなんと!!岡山県で開催されたパシフィックGPで、F1御一行様が合併前の美作町の湯郷温泉にやってきました。セナのいるウイリアムズチームが宿泊した旅館は連日大フィーバー。この時にセナがマークした1分10秒は、いまだ岡山国際サーキット(当時:TIサーキット英田)のコースレコードなはずです。
しかし、決勝レースは、スタート直後の1コーナーでセナがコースアウトして、そのままリタイア。まるで90年の鈴鹿のように、1コーナーの観客以外はセナの決勝での走りを全く見れないまま終了してしまったのです。もちろん、この時は、わずか2週間後にあんなことが起こるとは誰も想像だにしていません。
それからわずか2週間後のサンマリノGP(イモラ)。それはまさしく「呪われた週末」でした。まず、金曜の最終コーナーでバリチェロが大クラッシュ。命を落としていても全く不思議ではないほどの大クラッシュでした。同じブラジル出身のセナは、すぐさま病院のバリチェロを見舞いに行っています。
土曜にはトサの手前でラッツェンバーガーが大クラッシュ。ほぼ即死でした。長年F1では死亡事故が起きておらず、1987年に日本でフジテレビがF1全戦中継を始めて以降ももちろん死亡事故は皆無。カーボンモノコックで守られたF1マシンの安全神話はすでに確立されていたところでした。
そんな中でとうとう起きてしまった12年ぶりのF1の死亡事故。私も関係者も誰もが大ショックでしたが、セナもまたそのレース人生において初めて経験するドライバーの死亡事故だったようです。そんなわけで、セナは相当ナーバスになっていました。F1でもやはり死亡事故は起こる。それでも、セナにだけは絶対にそんなことは起こらない、という根拠のない確信が、私も含めてまだ皆の心の中にはありました。
日曜の決勝前、セナは恋人に「走りたくない」と告げたそうです。スタート直前のグリッド上では、テレビ局の放送ブースに座る「宿敵」プロストと無線で会話を交わします。
当時の日本のフジテレビF1中継は生放送ではありません。私は日曜の夜、友人(のちにモナコGPを一緒に観戦に行った友人)と電話で雑談していたところ、フジテレビのスポーツワイド番組がセナの大クラッシュの映像を速報で伝えました。これから録画放送するF1中継の内容をフジテレビ自らが先に流してしまうことは異例中の異例。それだけでも大変なことが起きたことがわかります。私の友人は電話口で「あ~、レースの結果を先に知ってしまったぁ~」などと言っていました。まだ、事の重大さに気づいていないようです。もうレースの結果なんか問題ではないような大事件が起きたことが映像から見てとれました。「とにかく今夜の中継を見てみよう」と言い合って電話を切ったのを覚えています。
そして、フジテレビの中継開始。私の記憶ではいきなり生放送で現地から大クラッシュの映像を伝え、ひと通り伝えたあとに、通常の中継のようにレースのスタート前からの映像が流されました。
レースはスタート時にクラッシュがあって、その時に跳ね上げられたパーツやタイヤが観客席に飛び込み、複数の負傷者が出ました。とうとう観客にまで負傷者が出る大荒れのGPとなってきました。
すぐさまセーフティカーが入り、PPスタートのセナ、2番手のシューマッハ(ベネトン)の順番のまま周回を重ねます。セーフティカーがピットインしてレースが再開されて間もなくの出来事でした。高速タンブレロをセナが直進し、そのままコンクリートウォールに激突したのです。
その映像は、速報で見た瞬間から深刻な結果を予想させました。少なくともセナの選手生命は絶たれたかに見えました。赤旗中断となって、セナはコース上で緊急切開手術を受け、ヘリコプターで病院に空輸されました。私の見立てでは、即死だったのだと思います。
再開後のレースでは、片山右京は激走しました。しかし、この週末、もはやレースの結果は問題ではなくなっていました。再開後のレースを中継していた途中で突然映像が生中継に切り替わり、三宅アナからセナの死亡が日本に伝えられました。声を失う川井ちゃん。そして、その中で今宮さんが号泣しながら絞り出すように述べた「セナはいませんが、F1は続いていくわけです」という名言は、伝説のF1中継となりました。
あまりの出来事に眠れない夜を過ごして、朝になると、大学の友人から何人か電話がかかってきました。携帯電話のない時代、普段電話なんかしてこない友人が電話してきて、ポツリと「大変なことになったな」と言われました。
午後のフジテレビのワイドショーでは、全くモータースポーツの知識のないコメンテーターが、アクティブサスが禁止になって迎えたシーズンで起きた事故であるという話を受けて「安全装置を禁止するからこういうことになる」みたいな見当違いのコメントをしていて、「そうじゃねーだろ」と思ったりしました。
フジテレビ月曜19時からの「今夜は好奇心」は中止となり、急遽セナ追悼特番となりました。私はその映像を今も持っていますが、たまたまスケジュールが空いていたのか、森口博子がセナファンの代表のように出演していました。私は森口博子自体は好きだけれども、にわかファンの森口博子がそこで出てくることに何か違和感を感じたりもしていました。
数日後、国葬のためイタリアからブラジルへ空輸されたセナの遺体。ブラジル上空に差しかかると、何機ものブラジル空軍戦闘機が飛んできて、セナを乗せて飛ぶ航空機の護衛のために周囲につきました。すごい光景でした。彼はまさに国の英雄だったのです。
(後編へ続く)
Posted at 2019/04/29 18:57:21 | |
トラックバック(0) |
F1 | 日記
2009年11月04日
昨日に続くF1ネタだが、今日はみなさんご存知のニュースから。トヨタF1撤退とのこと。昨日の新聞にBSの来季限り撤退が報じられていたことも今日知った。さらに中嶋一貴のシート喪失・・。トヨタの山科さんの涙を見るにつけ、どれほど無念だったことだろうと思う。
今、モータースポーツに投資することは「悪」になってしまっている。モータースポーツに理解のある現在のトヨタ社長をもってしてもその流れは変わらなかった。長らく「不況」と言われ続けてきたが、モータースポーツを取り巻く状況がここまで悪化したのは私にとっても初めての経験である。
状況がひとつの方向へ傾くと連鎖反応のように悪いニュースが続く。逆に90年代初頭のバブル期には連鎖反応のように良いニュースが続いた。F1はホンダエンジンの絶頂期。セナは日本で「セナ様」と呼ばれ、スバルやヤマハも参戦。エントリー台数はふくれ上がり、予備予選が行われた。ミハエル・シューマッハが全日本F3000にスポット参戦したかと思うと、1ヶ月後にはあの衝撃のF1デビュー。その全日本F3000もエントリー台数がふくれ上がり、予選はA組とB組に分けられるほどの大盛況ぶり。中嶋悟がF1引退を発表すると、代わって片山右京がF1参戦決定。服部尚貴が1991年鈴鹿とアデレードでF1に乗り、中谷明彦がブラバムからF1参戦決定・・。
もうあんな時代は二度と来ないのかもしれない。
Posted at 2009/11/04 20:12:25 | |
トラックバック(0) |
F1 | クルマ
2008年12月05日
撤退のニュース自体にも驚きましたが、マスコミの取り上げ方が意外に大きいことにもっと驚きました。先ほどオンエアされたNHK夜7時のニュースでも意外に大きな取り上げ方。F1に関することがそんなニュースバリューがあるのかと思いましたが(だって、新聞におけるモータースポーツの扱いって、F1のレース結果が翌日ちょこっと載るだけで、FポンやGTに至っては、レースの翌日も全く記事にならず、存在自体が無視されてるぢゃないですか)、今回のニュースは、F1のニュースというより、「世界的金融危機の影響」という意味でのニュースバリューだったんですね。
我々はF1ニュースとして、ニック・フライがどうのこうの、これで佐藤琢磨のF1復帰がどうなるのか、せっかく鈴鹿隔年開催になったのがまた富士に行ってしまうんじゃないかとか、そんなことを考えがちですが、今日のマスコミの報道は、金融危機による雇用情勢とか大企業のスポーツ・文化活動撤退という視点でした(ま、当然ですかな)。
でも、今回こういう形でホンダが撤退しても、我々はセナ・プロ時代の無敵を誇ったホンダエンジンを決して忘れることはありませんよ。私がホンダ党なのも、ホンダの第二期F1黄金時代の影響そのもの。
私はあの時代の影響をいまだに引きずっていて、国産車はホンダ、外国車はフェラーリ、カメラはキヤノン、ガソリンは昭和シェル、好きな国はモナコ、サーキットは鈴鹿・・・、全部F1の影響です。マクラーレンホンダのノーズの先端に「少年ジャンプ」のロゴがついた時はタマげたな~。
というわけで、私が現在DC5で鈴鹿を走る魅力にとりつかれているのも、原点は「あの頃」のF1なんです。そんなことを考えた、今日の撤退ニュースでした。
Posted at 2008/12/05 20:19:11 | |
トラックバック(0) |
F1 | クルマ
2008年08月03日
最近、1990年のF1DVDを少しずつ見て行っています。当時フジテレビから発売されていたF1ビデオをそのまままとめて再販しただけの内容で、当時何度も見たことのある自分としては、再販するにしてももう少し何か工夫して欲しかったと思いましたが、それはさておき、やはり1990年のF1はおもしろいです。
そしたら、素人@営業さんのところでF1マシンのデザインが話題になっていましたので、今日のテーマはそれ。
セナの時代にF1の世界に魅了された自分にとって、最近のF1マシンはどんどん小型化、没個性化してきていて、残念です。車両幅の縮小でサスペンションアームが目立たなくなり、タイヤ幅も縮小、グルーブドタイヤもカッコ悪い。エンジンも排気量縮小で小型化。安全対策とはいえ、ドライバーがどんどんコクピットに潜って行って、ドライバーの動きが見えなくなってしまいました。
1991年の鈴鹿日本GP予備予選で最終コーナーを駆け下りてくるフットワークポルシェ(V12エンジン)を見て、怪物マシンが全開で走るド迫力に度肝を抜かれたものですが、10年後の2001年鈴鹿日本GPでスターティンググリッドに並ぶF1マシンを見て、なんだか小ぶりだな~、F3マシンみたいだな~、と感じました。
F1マシンがカッコ悪くなり始めたのは、がみぃさんのおっしゃる通り、フロントウイングが吊り下げ式になった1991年あたりから。チーム別に言うと、フェラーリはやはり1990年の641/2(プロスト、マンセル)がいちばん好き。最初見たときはあのカモノハシノーズがカッコ悪く見えたけど、慣れてくると違和感もなくなりました。1989年型の641(マンセル、ベルガー:セミオートマの先駆け)の方がいいと思っていたらば、慣れるに従って641/2のあの丸みを帯びたボディラインが芸術的に見えてくるんです。最後は鈴鹿でのセナの体当たり攻撃に敗れましたが、ポテンシャル的には1990年の最速マシンでした。
マクラーレンは、1988年型のMP4/4(セナ、プロスト:ターボ最終年度)が一般的に評価が高いですが、私はNAとなりエアインテークが上に移設されたMP4/5(1989年型:セナ、プロスト)の方が好き。何年か前に鈴鹿Fポンの余興としてMP4/5のデモランが行われ、私はピットウォール上でそれを見て興奮!! 私がF1の走る姿に興奮したのは、このデモランと1991年予備予選のフットワークなんです(笑)。
ウィリアムズは1991~1992年(マンセル、パトレーゼ:FW14でしたっけ?)。これは異論のないところでしょう。ウイリアムズは当時吊り下げ式フロントウイングを採用しなかったし、それでいて、最速マシンでした。1991年は鈴鹿で2コーナーの砂塵に埋もれ、1992年モナコではセナを「どんなにしても」抜けませんでしたが(笑)。
ティレルは、1970年代の「6輪たいれる」も良かったですが、1991年の020(ホンダV10:中嶋悟の最終年、モデナ)がカッコ良かった。ホンダエンジンを手に入れてかなり期待したのですが、結果は惨敗。モデナがモナコで予選2位とか取りましたけどね。中嶋悟いわく、かなり乗りにくいマシンだったらしいです。今となっては、前年の019(アレジ、中嶋悟)の方がカッコ良く思えます。吊り下げ式のきっかけとなったアンヘドラルウイング。若き日のアレジが非力なエンジンで大暴れしてくれました。
セナが乗っていた頃のロータスもカッコ良かったですね。キャメルイエローになる前の黒いロータス。セナの初優勝マシンです。雨のポルトガルでしたね。
そして、私がいちばん好きなF1マシンは、1990年のレイトンハウスCG901(カペリ、グージェルミン)。まだ高評価を受ける前だった空力の奇才エイドリアン・ニューウェイデザインの引き締まったボディラインと鮮やかなレイトンブルー。神経質なマシンで下位を低迷していましたが、1990年フランスGP、路面再舗装が行われたポール・リカールの路面にドンピシャ当たってまさかのワンツー走行。最後はグージェルミンがリタイアし、カペリもプロストに抜かれましたが、2位フィニッシュで泣いて喜んでました。
過去の名レースを振り返る企画の中でこのレースが取り上げられることはほとんどありませんが、下位チームでもドンビシャ当たると突然トップを走行できるおもしろさ。私がF1の魅力にますます引き込まれるきっかけとなったレースです。
Posted at 2008/08/03 17:45:30 | |
トラックバック(0) |
F1 | クルマ