2019年01月20日
今年も全日本卓球選手権が終わりました。私は遠く及ばなかったけれど、日本で卓球競技に取り組む者にとって「全日本」は特別なステージです。今回開催の大阪市中央体育館は、先月所用で近くを通って目にした会場なので、親近感も湧きます。
昔はテレビできちんと卓球の試合が放送されることはほとんどなく、1年に1度、唯一放送されるのが全日本選手権の決勝でした。今では、テレビ東京が力を入れているので、地上波でも年がら年中放送され、全日本選手権は初日から注目選手の結果が一般ニュースの中で報道され、そして、大会終盤の土日はNHKがBSと地上波をリレーして全面中継体制です♪
土日は当然バレーボールVリーグの試合も複数あるので大忙し。家のテレビやPCを総動員して、卓球、バレー合わせて4種類くらいの試合を同時にテレビ観戦します。土曜の夜は自分のバレーの練習もあるので、もう大変。
で、全日本選手権でテレビに映るのはほんの一部の上位選手だけなのですが、一体どれだけの選手が出場しているかご存知ですか? 全日本に出場するだけでも「地元じゃ敵なし」の猛者ばかりなのですが、それが男女ともシングルスで240人以上出場しているのです。それがトーナメント戦であっという間に淘汰されていき、4回戦からスーパーシードの選手が出てきます。1回戦から勝ち上がって勢いのついた選手が、初戦でまだ調子の上がらないスーパーシードの選手を撃破するのも全日本の魅力。そうしてわずかに残った男女各4人が最終日の準決勝に駒を進めます。
今日はまず女子準決勝「伊藤美誠対早田ひな」に注目しました。ぐんぐん力をつけてきており、今大会でも石川佳純を倒して勝ち上がってきた早田ひなだけに伊藤美誠にかなり迫るのではないかと思いましたが、伊藤美誠は早田に力を出させない戦いぶりで完勝してしまいました。決勝も伊藤が圧倒してましたね。
男子は、豪快なドライブと驚異的なフットワークを武器としてプレーする大島のプレースタイルが私は好きなのですが、さすがに張本には負けると思いました。それがあの熱戦で見事大島が勝利し、決勝は「大島対水谷」となりました。私がいちばん望んだ決勝のカードです。
男子のフットワーク力のあるドライブ主戦型同士の対戦は、「これぞ卓球の醍醐味」。好ゲームとなりましたが、やはり水谷が上。以前のように後陣でロビングを上げることもなくなり、台についたまま水谷が勝ち切りました。私はあのロビングも好きだったのですが・・。
試合後の水谷の突然の「全日本引退宣言」には、会場も実況席も戸惑っていましたね。私もまだ真意を図りかねますが、来年も出場してほしいと思います。
ところで、この週末のメディアを駆使した複数試合観戦の中で、いろいろ機器をいじっていたら、新たな発見がありました。まず、スマホの画面を家のテレビに映すことに成功。それから、スマホの音声をカーナビで出すことにも成功しました。いまだスマホの画面をカーナビに映すことはできません。みなさんからするとものすごく初歩的なことなのかもしれませんが、最近の機器に疎く、いろいろ調べるのも面倒な私としては、スマホの機能も全く使いこなせず、少しずつ少しずつの前進です(苦笑)。
来週末はまたバレーボールVリーグ岡山大会なので、また忙しいです♪
Posted at 2019/01/20 19:28:33 | |
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スポーツ全般 | スポーツ
2019年01月17日
今日は1月17日です。私が平成の30年間で驚いた大事件を順に振り返っていますが、今日はやはり、これしかないでしょう。
平成7年1月17日午前5時46分。私は前夜からずっと起きていて、大学の卒論の仕上げをしていました。このころの私は完全に夜型生活で、毎日朝方まで起きていたのです。
つけっ放しにしているテレビで地震速報が流れました。近畿地区のようです。表示されている中での最大震度は京都の震度5。「京都か!?」と思いました。大事件が起こった時の発生直後の情報の混乱は、リアルタイムで経験した者でないとわからないものがあります。日航機御巣鷹墜落も、松本サリン事件も、地下鉄サリン事件も、発生直後の情報の混乱は忘れられません。
阪神淡路大震災のときの初期の情報の混乱は、のちにNHKが検証番組を放送しています。それによると、発生直後に一瞬だけ「神戸震度6」という表示が出たらしいです。しかし、なぜかすぐに消され、しばらくの間、「京都震度5」が最大震度として表示されていました。私もその「神戸震度6」は見落としていたので、「京都か!?」と思ったのです。
やがて、NHK神戸放送局の防犯カメラで宿直職員が布団の上で激しく揺さぶられる映像が入ってきて、「神戸だ!!」と判明します。ただ、早朝のまだ外が暗い時間帯で、断片的な情報しか入ってきません。
ようやく外が明るくなって、ヘリコプターから空撮の映像が入ってきて、日本中の人ががく然としました。高速道路が倒壊し、三ノ宮のビルが道路に倒れ、神戸の街が崩壊していたのです。
大変なことになりました。とりあえず、朝イチから授業があったので、大学へ向かいました。ところが、こんな大変なことが起こっているというのに、朝イチの授業の先生は、そのことにひと言も触れず、いつも通り授業をして去っていきました。この先生にとっては近畿で起こっている災害なんて他人事なのか。
この先生の次回の授業の際にこの謎が解けました。この先生は外部講師で、ウチの大学に授業をしに来るときはかなり早朝に家を出るらしく、当日は大震災が起きていることを知らずに授業していたのだそうです。スマホやインターネットはおろか、ケータイもほぼ誰も持っていない時代でした。
当時、ウチの親は転勤で福岡に住んでいましたが、たまたまその日、ウチの母は倉敷市に帰省していました。大阪に住む私の妹の安否確認のため電話をかけ続けたそうですが、その日の夜まで電話がつながらなかったらしいです。
この震災は、隣県である岡山県にも影響を与えました。私の周辺でも、就職を機に神戸へ出ていた人たちが会社を辞めて岡山県の実家に戻ってきました。京阪神からの利用客が多い美作・湯郷温泉は、震災以後客足がガックリ落ち、回復しないまま四半世紀が経過してしまいました。
4月には2回目のF1パシフィックGPがTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)で予定されていましたが、震災で延期されました。その年の秋に延期されて、鈴鹿日本GPと2週連続開催となったのです。このときのF1パシフィックGPには私は観客としてではなく業務で行ったのですが、もし4月に予定通り開催されていたら、まだ入社直後で、恐らく行くことはなかったと思うので、結果的には震災延期が原因で私のF1業務参加が実現してしまったことになります。
震災から2年ほど経過して、ウチの親がまた転勤で神戸勤務となりました。家は三ノ宮のNHK神戸放送局の近くです。震災から2年が経過した神戸の街は、がれきがすっかり撤去され、本当に2年前にあの惨状となった街とは思えないくらいきれいになっていましたが、よく見ると、街中の至る所に更地があり、建物が倒壊するなどして解体された痕跡が見受けられました。
NHK神戸放送局の前を通ると、そこも更地になっていました。あの日、宿直職員が激しく揺さぶられていた映像は間違いなくここで撮られたのです。京都ではなく神戸が震災の中心であることを日本中に伝えた映像でした。
あれから20年ほど経過して、今から数年前の1月17日。バレーボールVリーグ神戸大会があって、観戦に行きました。広島における8月6日、長崎における8月9日が特別であるように、神戸にとっての1月17日は特別です。それなりの思いを持って神戸に入り、試合開始前に会場全体で黙とうしました。6400人が命を落としたあの震災から復興して、バレーボールの試合を楽しめる今日があることに感謝しつつ・・。
Posted at 2019/01/17 21:17:42 | |
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昔話 | 日記
2019年01月15日
この週末はまたVリーグ岡山大会でした。今回は、岡山地区では、地上波(OHK)、CSガオラ、インターネット中継(ダ・ゾーン)と三種類のソースで生放送されたので、ヤバいかなと思っていたら、案の定、今日は職場で「あんた、めっちゃ映っとったで」と言われました。てゆーか、当日会場にいる段階ですでに「あんた映ってるで」というメールが来てました(苦笑)。
土曜のシーガルズは苦手の東レ相手に何度もマッチポイントを握られながら、フルセットの末、執念の逆転勝ち。久々に地元で良い試合をしました。場内のこの盛り上がりは、何年も前に超満員の岡山会場で久光相手にフルセット勝ちしたあの試合以来かもしれません。ところが、この終盤の盛り上がった部分が岡山ローカルの地上波では放送時間に入りきらず、すでに中継終了してました・・。
第2試合のJT対デンソーを最後まで見て、すぐさま自分のバレーの練習のため脱出。練習会場へ急ぎます。地上波しか見てない人は東レが勝ったものと思い込んでいて、「シーガルズ勝っちゃいました」と伝えたら、びっくりされました。
練習を終えて深夜に帰宅し、自分がどれほど映っていたのか地上波を録画したものを全部確認していたら午前4時になってしまい、数時間寝たらまた日曜のジップアリーナです。
日曜のKUROBE戦は危なげなく勝利し、試合としては第2試合の東レ対デンソーの激しい打ち合いの方が楽しめました。その中でも東レのクランと黒後愛のスパイクは音もスピードも別格です。よくこんなチームにシーガルズ勝てたな~、という感じ。
あと、11月はシーガルズ選手のハイタッチの列の先頭で番園さんがハイタッチしていたのですが、いろいろブログを検索していると、「あの先頭でハイタッチしていたお姉さんは誰?」と書いてあるブログがあって笑えました。で、今回土曜は選手だけでハイタッチされていて、日曜は番園さんが先導するものの番園さん本人はハイタッチに加わっていなかったので、私が番園さんをハイタッチの列に巻き込んでおきました。私以降にハイタッチされた方は、番園さんともハイタッチされたことと思います♪
でもまあ、応援席の中心で大活躍されていた当時の番園さんを知らない方にとっては「誰?」っていうことになるかもしれませんね。神田さんだって、かつてはシーガルズ唯一の全日本選手だったのに、今は試合会場で雑用をされているので、最近の人はまさかこの人が全日本選手だったなんて知らないですよね。神田さんの横を素通りする観客のみなさんを見るたびに「この人、元全日本選手なんですよ~」と叫びたい気持ちになります(笑)。
2週間後にまた岡山大会があります。今季はホーム&アウェー方式となって、ジップアリーナ開催がたくさんあります♪ お客さん少ないですけど・・(苦笑)。
Posted at 2019/01/15 22:23:07 | |
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バレーボール | スポーツ
2019年01月06日
昭和が終わった日のことについては先月の当ブログで言及しましたが、新元号の公表時期について、4月1日となることが先ごろ発表されましたね。それに対するネット上の多数意見は、「決まっているならもったいぶらずにさっさと発表しろよ」だとか「システム改修するSEの立場を考えろ」というような感じでした。
私は、一部の自民党保守強硬派(新元号は新天皇が即位してから公表すべき、と強硬に主張している)寄りでもなく、「もう元号なんてやめて西暦一本にしちまえ」と主張する派でもなく、まあどうでもよいというか、あるがままを受け入れるスタンスなのですが、そのスタンスから思うことを書き連ねてみます。
私自身は両刀使いというか、西暦と和暦をサクサク変換できることを目指していて、周囲の人たちより西暦と和暦の変換が得意だと感じています。これは、すべての年号を両方で覚えているのではなく、特定の事象が起こった年を両方で覚えていて、そこから足したり引いたりすることで西暦と和暦を変換するのです。
さすがに私も明治や大正はよくわかりませんが、古くは、世界大恐慌が1929年で、それが昭和4年だと覚えています。次が、終戦の昭和20年イコール1945年。次が東京五輪で、昭和39年イコール1964年。自分が生まれて以後はもっと細かく覚えていて、例えば、1987年が日本におけるF1元年と呼ばれており(フジテレビによる全戦テレビ中継開始、鈴鹿での日本GP開始、日本人初の中嶋悟フル参戦開始)、それが昭和62年でした。そんな感じで、1980年代以降は、そんなに足し算引き算をしなくても、割と容易に変換できるわけです。
ただ、和暦というのは海外から見れば奇異に感じるだろうな~とは思っていて、知人に「元号なんて、海外の人から見れば、ガミラスにおけるデスラー暦みたいなもんだよね」と言ったら、「そこでデスラー暦が出てくるか!!」と結構ウケましたが、海外の人から見れば、同じようなもんだと思います。
ちなみに、ウチの親はいまだに平成を昭和換算していて、今年は昭和94年のようです(笑)。平成になったばかりのころはそういう人がたくさんいたけれど、いまだにこんな人が一体どれだけいるのでしょう?
一方で、この年末年始に会った小学生の甥っ子に自分の生まれた年を尋ねたところ、西暦では即答できるのに、和暦では「わからん」と言いおったのです。今どきの小学生(高学年)は、自分の生誕年を和暦で言えないのか、ただ単にウチの甥っ子がちょっと変わっているだけなのか(笑)。
で、今回新元号の公表時期を4月1日としたのは、自民党保守強硬派に配慮しつつ、社会生活に与える影響をできるだけ少なくするための最大公約数的なギリギリの結論だったと思うのですが、それに対する冒頭に書いたようなネット上の反応は、気持ちはわからないでもありませんが、いまひとつそのスタンスが不明な気もします。
すなわち、自民党保守強硬派の主張は、国民の社会生活なんか二の次で、最優先されるものは天皇の権威であるという点で、良いか悪いかは別として、一応筋が通っています。そもそも、和暦(元号)はその性質上面倒なものなのです。それなのに、ネット上の反応は、「和暦なんかやめちまえ」と言うでもなく(もちろん、そのように主張している人もいます)、もともとどっちにしても面倒な和暦を「公表時期が遅いから面倒なことになる」と言っている感じがするのです。
マスコミは、社会生活への影響の代表格として、カレンダー印刷業者を取材し、業者は「困る、困る」と言いますが、業者同士条件は同じだし、これほどカレンダーが注目される年もないわけで、業界としてはうれしい悲鳴だと思いますが・・。
システム改修するSEの対応期間が1カ月しかないことも問題視されていますが、私のシロウト考えなので見当違いかもしれませんが、もともと元号というのはある日突然変わる性質のもので、システムなど最初からそれに対応するように作られているのではないかと思うし(その意味で、2000年問題とは若干意味合いが異なると思われる)、ある日突然変わる前提のものが今回は1年以上前から「変わりますよ~」と予告されているのであって、元号をまたぐような日数計算だって、今のシステムはそもそも年月日を西暦で認識しているのでは? あとは変換の問題で、システムは大抵コード処理とかするものだと思うので、例えば明治が「1」で、大正が「2」で、それで行くと、新元号は何になろうとコードは「5」なわけで、元号コード「5」が新元号に変換されるよう1カ月前に設定すればよいだけの話ではないのかなと、これはシロウト考えなのでしょうか。
新元号に対応する様式を体裁を整えてシステム出力できるような調整が必要と記述している記事もあったけれど、新元号が漢字何文字になるのか未定ならともかく、まあ漢字2文字だろうし、イニシャルも明治から平成までの頭文字に重ならないよう配慮されているという噂なので、全然問題なしです(笑)。
それよりも、今回公表時期が4月1日と決まったことばかりが取り上げられていますが、改元日が5月1日と決まったことの方がSE的には重要な気がします。先月までは、改元日が5月2日になるような雲行きでした。5月1日に新天皇が新元号を公布すると、物理的に施行日はその翌日になるというのがその理由です。新元号は新天皇が公布すべきと主張する自民党保守強硬派の主張に配慮すれば、その可能性は大でした。
改元日が5月1日と決まったことで、元号コード「4」の最大値を「4310430」(平成31年4月30日)と設定でき、「4310501」(平成31年5月1日)以上はエラーとなるよう設定できます。一方、元号コード「5」の最小値を「5010501」(新元号5月1日)と設定できるわけです。SE的には、新元号が何になるかよりも、こっちの方がよっぽど重要なのでは? これとて、改元日の成り行きによって最大値と最小値を変えれば済むだけの気もしますけどね。でも、これはシロウト考えなのでしょうね。
ま、そんなわけで、テレビでは新元号予想とかやってますが、予想までするほど新元号が何なのか待ちきれないということは全くなく、発表されたら淡々と受け入れるのみです。何になったとしても最初は耳慣れないことは、平成のときに経験済みですので。
そういえば、昨夜午前0時に所用で繁華街を歩いていたら、さすがに午前0時だったので、すれ違う人が軒並み若い人たちばかりで、全員平成生まれに見えました。少子高齢社会とは言うものの、昭和生まれはこれからどんどん死滅して行って、世の中は平成生まれの天下になるんです(笑)。
だいたい、我々以上の年齢の人なら誰しも日本最高齢者「泉重千代さん」というお名前を知っているのですが、あの方は江戸時代生まれ(慶応生まれでしたっけ?)ですからね。今の若い人からすると、江戸時代生まれの人と少しでも同じ時代を生きた経験がある我々の世代ですら、もはや「歴史の生き証人」なのかもしれません(苦笑)。
Posted at 2019/01/06 23:46:17 | |
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日記 | 日記
2019年01月06日
1年ぶりに映画「でーれーガールズ」のDVDを見てみました♪ ちょうど1年前に繰り返し見たことを思い出したもので・・。なお、「でーれー」というのは岡山弁で「すごい」という意味です。
もともと、この映画は2014年にオール岡山ロケで制作されたので、当時岡山では話題となっていました。まだ世の中で「あまちゃん」ブームの余韻が残る中、「あまちゃん」出演者の足立梨花(アメ横女学園のセンター役)と優希美青(GMTの仙台出身のメンバーの役)がW主演で、ウチの近くでもロケが行われると聞いていたので、当時少し気にはなっていたけれど、ロケは平日の昼間だったので、まあ仕事もあったし、ロケを見に行くこともなく、その時はテレビのローカルニュースでロケの様子を見た程度でした。
やがて映画が完成し、岡山で先行公開や出演者の舞台挨拶もあったけれど、タイトルからして岡山を前面に出し過ぎているし、岡山市長がチョイ役で出演していることもあって、どっちかというと岡山の地域おこし的な映画なのかと思って、映画そのものにはそんなに関心がなく、「まあそのうちテレビで放送されたら見てみようか」程度のノリでした。
それから約3年、今からちょうど1年前の正月の深夜に岡山・香川エリアでようやく放送されたので、見てみると・・、意外や意外、物語に引き込まれます。私が青春時代を過ごした1980年代が舞台となっていることもあり、オール岡山ロケで、見慣れた風景が続々と登場することもあり、また、過去と現在が交錯するようなストーリー展開はもともと私は好きです♪
そんなわけで、一度だけでなく何回か繰り返し見ました。よく見ると、ウチの職場や、昔のウチの実家も映画の中に映っていました。ウチの親はこの映画の舞台となった山陽女子高校のすぐ近くに住んでいたことがあるのです。
こうなると、ロケ地巡りをしてみたくなりました。私は気に入った作品のロケ地巡りは結構好きです。かつてはローマに行って、ひとりで「ローマの休日」ロケ地巡りをしてきました。ローマは遠いけれど、今回のロケ地はウチの近隣なので、思い立ったらいつでもすぐ行けます♪
※ここからは岡山のローカルな地名が続きます(笑)。
まずは岡山駅西口奉還町商店街。歩いていると、映画の中に出てきたお店や風景が続々と出てきます。岡山市長が店主役をしていた果物店も発見。こんなとこでロケしてたのか~。ちなみに、全然関係ありませんが、私はこの岡山市長を仕事で先導して道案内したことがあります。これは余談。
続いて、岡山駅東西連絡地下通路。ロケの時はここを封鎖して撮影したんでしょうね。それから、須賀健太と優希美青が座り込んで話をしていた地下階段も発見。ここはやや見つけにくい場所です。そして、岡山駅東口の桃太郎像の前、ここは有名。
次は、物語のキーとなる鶴見橋とその周辺。ここでは、別れのシーンでタケミ(足立梨花)が泣きながら橋を渡ってフレームアウトして行くのですが、制服姿の足立梨花が泣きながら歩いてきたので、ロケをしていることを知らない観光客が見て驚いていたというエピソードがあります。
次に岡山城。私は岡山城へ行くのは、まだ広島に住んでいた小学生のころに行って以来40年ぶりです。地元の人はわざわざ岡山城へはあまり行かないので、この日も訪れていたのはほとんど外国人でした。
大手まんぢゅうのお店があって、タイトルバックにも使われた川を渡る路面電車のシーンが何度も出てくる橋があって、最後は山陽女子高校周辺です。東山電停や山陽女子高校正門前。映画の中に映りこんでいたウチの昔の実家。そして、撮影に使用された山陽女子高校の校舎は建て替えられてしまいましたが、体育館はそのまま残っていました。
短時間でこれだけのロケ地を巡ることができました。自分が見たテレビ放送では、作品が少しカットされている感じだったので、フルバージョンを見たくなり、帰りにDVDショップに立ち寄って作品のDVDを買ってきました。ロケ風景の特典ディスクなどもついていたので、それも魅力です。
帰宅してDVDを見ようとしたところで事件が発生しました。しばらく外部入力モードにすることのなかったプラズマテレビを数年ぶりに外部入力モードに切り替えた途端、テレビが起動しなくなり、いくら時間を置いてリセットしてもテレビが起動しなくなりました。DVD自体はパソコンで再生できたので鑑賞できたけれど、プラズマテレビが起動しない問題は別問題として困りました。
修理に出せば直るような気はしたけれど、保証期間は過ぎているし、もともとフルハイビジョンでないし、テレビの耐用年数は通常8年ぐらいとされていて、私は物持ちがいい方なのでテレビ8年は短いとは思うけれど、まあ最低限の仕事はしてくれたのかなということで、買い替えることにしました。テレビがないとたちまち困りますしね。これが、先月ブログに書いた有機EL4Kテレビ購入の顛末です。
で、映画の方の話に戻って、作品は意外に良く、すぐにロケ地巡りに行こうと思い立ったくらいハマったわけですが、ここではあえてダメ出しを列挙しておきます。
1. 岡山の地元民であるという設定の足立梨花の岡山弁が一部不自然。
完成後のインタビューで足立梨花が「岡山弁が難しかった」と言っていたが、この映画は岡山弁がキーポイントなのだから、スタッフはそこはこだわってほしかった。私は就職してから岡山に住み始めたクチなので、岡山弁ネイティブではないのだが、その私でも不自然に感じるセリフがあった。当然方言指導のスタッフはついていたはず(スタッフロールでは、方言指導が6人もいるようになっている)なのに、なぜ? 監督は岡山弁はわからないだろうから、タイトな撮影スケジュールの中、監督が一度「ОK」を出してしまったシーンをひっくり返すのは難しいのかな。
ちなみに、この映画は脇役には岡山出身者を多用しており、桃瀬美咲やタケミが入院している病院の看護士役(いずれも岡山出身。さらに桃瀬美咲はこの山陽女子高校出身)の岡山弁は当然ながら自然で良かった。この2人の演技が作品の質を高めていると感じた。
2. そのタイミングでタケミが亡くなるか?
これはネット上の感想の中にもあったが、私もそう思った。まあ上映時間2時間の物語だから、仕方ないか。ネット上では、「いっそのこと現代のシーンをなくして、1980年だけのお話にしても良い物語が作れたのでは?」という意見も。
3. 設定の話で言うと、タケミが母校の人気教師になっていた、という設定にも違和感を感じた。タケミはクラスの中でちょっと浮いた、陰のある女子高生という設定で、どう考えても、母校に戻って教師、それも人気教師になるタイプの人物とは思えないのだが・・。
4. 時代考証。1980年の設定でロケをするにあたって、いちばん困るのは、「クルマ」だと思う。バックに現代のクルマが映ってしまうと、それだけで時代感が損なわれる。だから、1980年の設定のシーンは、奉還町商店街とか、地下通路とか、橋の上とか、建物の中とか、バックに行きかうクルマの映らない場所を選んでロケをすることとなる。
しかし、体育の授業のバレーボールのシーンは、バレー好きから見るとちょっと残念だった。まず、下端に白帯(はくたい)のあるネット。これは最近の用具で、1980年当時は白帯は上にしかない。下端に白帯のないネットは今でもたくさんあるので、今でも簡単に調達することはできたと思うが、恐らく山陽女子高校にあるネットをそのまま使ったのだろう。そこはまあよい。ボールは現在のカラーボールではなく、当時の白色ボールを使用していた。これは時代考証が入って白色ボールを用意したものと思われる。問題はサーブ。サーバーがラインクロスしているように見えるが、まあそれは置いといて、エンドライン後方の中央からサーブしているではないか。これがルールで認められるようになったのは1995年からだ(笑)。それまでは右側3m幅からしかサーブができなかった。たぶんサーブしているのは山陽女子高校バレー部の子だろうが、彼女らの世代はそれが1980年当時認められていなかったことなど知らないだろう。ならば、スタッフサイドで時代考証しておきたかった。白色ボールを用意していながら、その辺は詰めが甘かったと言える。
こんなことは、映画のストーリー上、全く関係のないことで、この点を指摘したブログもインターネット上では全く見当たらない。しかし、ただのバレー好きの私ごときでさえ気がつくことで、用具の調達などの問題もなく、ただもう少し右側からサーブすれば済む話なので、私をバレー場面だけでも時代考証担当として現場に置いてくれればよかったのに・・、などと思うのであった(苦笑)。
あ、いま見ていて、もうひとつ発見。地下通路で須賀健太が500円を支払うシーン。コインを1枚出しているが、実際に500円硬貨が発行されたのは1982年から。従って、1980年にコイン1枚で500円の支払いは出来ないはず。アラ探しするつもりはありませんが、いろいろと詰めが甘いですな(笑)。
あと、これはダメ出しではありませんが、山口百恵の歌を随所に散りばめて効果的に使用した映画だったな、と。見れば、この映画はホリプロ制作で、足立梨花も優希美青もホリプロの女優でした(もちろん山口百恵もホリプロ)。ちなみに、私の中学時代のお友達もホリプロ所属の女優となりましたが、その話はまたの機会に。あ、そういえば、そのお友達がドラマで京都弁をしゃべっていたときもヘンな京都弁だったのを思い出しました。やはり方言は難しいものです。
それから、山陽女子高校全面協力で、ともすれば山陽女子高校のプロモーションビデオのような映画になっています。これを見たら、なんだか山陽女子高校に入学したくなりますね。クラスメイトのエキストラは実際の山陽女子中・高校の生徒を起用しているとのことで、選ばれた子はさぞかし良い思い出となるでしょうね~♪
最近はドラマや映画のロケ地として岡山が人気らしく、「広瀬すずが岡山で自転車に乗っていた」とか「土屋太鳳が岡山駅前にいた」とか目撃情報がいろいろネット上を賑わしていました。広瀬すずとか土屋太鳳とか、今もっとも旬な女優たちが近所にしばらく滞在してロケを行っていたとは興味深いことですが、その作品(広瀬すずは「先生!、、好きになってもいいですか?」、土屋太鳳は「8年越しの花嫁」)はまだ見ておらず、例によってそのうちテレビでオンエアされたら見ようかな、という感じです。見たら急に盛り上がって、また公開から数年の時間差を置いてロケ地巡りをすることになるのかもしれません♪
Posted at 2019/01/06 07:51:02 | |
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