2020年01月18日
私は学生時代、コンサートのイベンター会社のアルバイトをしていました。時給は驚くほど安かったけれど、とても刺激的な現場でした。いつか書いてみようと思っていたコンサート会場の現場の1日を、森高千里さんのライブの時(1993年)の記憶とともに書いてみようと思います。
イベンターというのは、興行会社のことです。アーティスト側はコンサートの開催に際してイベンターと契約し、イベンターは会場の確保からチケット販売、アーティストの現地滞在中のお世話など、ありとあらゆる現地コーディネイトを行います。
私はそのイベンターのアルバイト学生だったわけです。今から四半世紀前の話なので、今と異なっている部分もあるかと思いますが、これを読むと一応コンサート会場の1日の流れがわかっていただけるかなと思います。
我々は朝8時ごろにコンサート会場に集合します。まだ会館の開館時刻より前なので、いつも外で点呼を受けます。ツアートラックが会場の楽屋搬入口に横づけされ、開館時刻と同時に搬入作業開始です。
大抵の機材はキャスターのついた音楽機材専用ボックスに入っています。今回カルロス・ゴーンさんが隠れたので一気に有名になったああいうボックスです。それ以外の大道具的な舞台セットはみんなで手で運ぶしかなく、中にはめちゃめちゃ重いものもあるので、このアルバイトは男性限定となっていました。今は時代が変わったので、力仕事に自信があれば女性でも応募可能なのかもしれませんが。
中でも死ぬほど重いのがPA卓。客席のセンター後方に機材を置いて、ライブ中に音声調整をしているスタッフの席を見たことがあると思います。あれがPA席で、そのメインの音声調整卓がPA卓です。これは手で持つのは無理なほど重くて、どうやって運ぶかと言うと、我々アルバイト学生がPA卓の下に潜って首の後ろの付け根のところで支えながら狭い客席を歩かされるのです。
ひとつのPA卓の下に10人以上のアルバイト学生が潜らされるのですが、客席の通路は狭くてスロープや階段があったりして、非常に運びづらく、荷重が特定の人間にかかると、もう首が折れそうなつらさです。なんでコンサートホールってPA卓が簡単に運べるような設計になっていないのでしょう。コンサート会場でPA席を見るたびに、あの重かったPA卓の記憶が蘇ります。
ひととおりトラックから機材を出し終えると、アルバイト学生はそれぞれの担当スタッフに分かれてついて作業をします。例えば、ギターを扱える知識のあるバイト学生は楽器担当スタッフについて箱からギターを取り出したりします。この仕事は力仕事でもないし、ギター好きな人にとってはプロのギター機材を扱えるので、めちゃめちゃ幸せな仕事らしいです。
私はそういう心得がないので、「その他大勢」の扱いです。森高千里さんLucky7ツアーのときは、最初は舞台セット設営のセクションにいました。Lucky7ツアーのセットの舞台中央にあるらせん状の階段を組み立てるのを手伝った記憶があります。なので、Lucky7ツアーのビデオで森高さんがあの階段を昇降するたびに、「お~、私が組み立て(るのを手伝っ)た階段を森高さんが昇降してるぞ~!!」と、ワクワクします(笑)。Lucky7ツアー程度の舞台セットは、まあ大規模でもなく小規模でもなく、普通レベルのセットでした。どっちかと言うと軽めかな。
舞台セットを大体組み上げると、今度は私はマイク担当になりました。箱に入っているたくさんのマイクを指定の場所にセッティングしていきました。「これが森高さんの使うマイクか~!!」と思って、ドキドキしました(笑)。なので、Lucky7ツアーのビデオで森高さんが握りしめているマイクは、たぶんその時に私が扱ったマイクです。これもビデオを見るたびにワクワクします(笑)。
こうして、舞台セットが組み上がり、ひととおりの機材が所定の場所に配置されると、次はその調整です。山ほど配置された照明を、ひとつひとつ丁寧に角度と色の調整をしていきます。今思えば当然な気もしますが、初めて見た時は、わずか数時間後にバラされてしまう照明を、その日のライブのためだけにあんなに丁寧にひとつひとつ調整していくんだな~と驚きました。あんなに手間暇かけて調整していって、数時間後にはもうバラされちゃうんです。
この辺で時刻は、舞台セットの規模にもよりますが、正午とか13時前後でしょうか。我々バイト学生は楽屋で交代で昼の幕の内弁当を食べます。ちゃんとバイト学生用の楽屋もあるんです。その頃に、時々バイト学生が何人か呼ばれてステージ上に行きます。照明調整の最終チェックのときに、バイト学生が出演者のダミーとしてバミリ位置に立たされるのです。
チャゲ&飛鳥(当時人気絶頂)の時に私も呼ばれて、どうせなら飛鳥の立ち位置に立ちたいじゃないですか。飛鳥の身長は知りませんけど、大体本人と身長が同じくらいのバイト学生が立たされるので、結局私は飛鳥ではなくバックバンドのメンバーの位置に立たされました。でも、「YAH YАH YАH」を歌うときに2人が浴びる向かい風は、私も飛鳥の立ち位置を通過するときに少しだけ浴びましたよ(笑)。
これで、ステージ上はアーティスト本人のリハーサルを待つだけの状態となります。朝イチには何もなかった空間に、舞台セットが組まれ、無数の照明がつるされ、足元には無数のケーブルが張り巡らされています。バイト学生は、ロビーでお客さんの入場時に配布するチラシを準備したりします。力仕事ではないですけど、チラシを2千セット以上準備するのも、そこそこ大変です。
何人かのバイト学生は、アーティスト本人のお迎えに行きます。私は、B’zや工藤静香をホテルにお迎えに行ったり、空港にドリカムをお迎えに行って吉田美和の後ろを警護しながら空港ロビーを歩いたりしました。渡辺美里公演のときに、バックバンドのドラマーとして小田原豊さんが来られていたことがあって、小田原さんが会場入りされるときにタクシーを降りた場所が楽屋入り口から数十m離れていて、当日雨が降っていて、小田原さんが濡れながら歩いておられたので、私が慌てて走っていって小田原さんに傘をさしてあげて楽屋まで誘導しました(そのために傘を持って待機していた)。小田原豊さんというのはあのレベッカのドラムの人ですよ。レベッカは森高さんが高校時代に組んでいたバンドでコピーしていた伝説のグループですよね。森高さんはドラム担当でしたよね。ということは、森高さんは小田原さんをコピーしてたわけです。私は、森高さんがコピーした相手を傘にいれて相合傘みたいになって歩いたことになりますね(笑)。とりあえず、何でも森高さんにこじつけて話を展開する私・・。
アーティストにもよりますが、15時ごろからリハーサルですかね。我々バイト学生は基本的にはリハーサルには立ち会いませんが、ロビーにいると音は聞こえてきます。このころにはお客さんが会場に集結してきているので、何人かのバイト学生が拡声器を持って出て行って、開場時刻などの案内を叫びます。「ガナリ」と呼ばれる仕事です。
何人かのバイト学生は楽屋の警備担当になります。私の記憶では、B’z、佐野元春、今井美樹、さだまさし、福山雅治、米米クラブなどのときに楽屋警備をしました。アーティストは当然ながら楽屋廊下を普通に歩いていて、こっちは内心「うわ~っ!!」と思いますが、仕事なので表情には出しません。仕事ですから、こっちからアーティストに話しかけたり握手を求めることなど厳禁です。
ところが、米米クラブのときはカールスモーキー石井さん(石井竜也さん)の方から警備中の私に話しかけてこられました。ライブのMCで話すネタを考えておられて、地元の名所・名物のことをいろいろ尋ねられたのです。私も知っている範囲で精一杯答えてあげると「ありがとう、助かったよ!!」と言ってくれました。
この日はライブ中も私はずっと楽屋前の警備担当だったので、米米のステージは全く見られませんでした。しかし、音声だけはモニタースピーカーを通して楽屋廊下にも聞こえるようになっていて、MCになると、なんと石井さんが先ほどの私との会話をステージ上で披露し始めました。「さっき、楽屋前の警備をしているお兄さんとこんな話をして、お兄さんがこんな話をしてくれて~」と言っているではありませんか。音声だけでしたが、とてもうれしかった記憶があります。あのカールスモーキー石井さんが、数千人の観客の前で、私との会話の様子をMCとしてしゃべってくれたのです。ライブを終えて楽屋に戻ってきた石井さんと目が合ったときに、私は無言のまま感謝を込めて笑顔で会釈しました。
さて、話は戻って、お客さんの入場が始まる前にミーティングがあり、その日の各人の配置場所の割り当てが発表されたり、ライブ中の注意事項が告げられたりします。森高さんのときは、このミーティングの時に、私が最前列警備わずか2名のうちのひとりとして割り当てられたことが告げられ、身の引き締まる思いでした。
注意事項は、「本編〇曲、アンコール〇曲で、おおむね2時間で終了予定」というようなことが告げられます。「本人が気分がノればダブルアンコールの可能性あり」というような未確定情報のあったアーティストはほとんどありませんでした。ま~、どのアーティストもツアー最終日とかではなかったので、どんなに盛り上がっても追加で歌うことはなかった、ということです。
森高さんのときのミーティング内容は覚えていませんが、実際にダブルアンコールまでやっていますので、ミーティングのときにも「ダブルアンコールまでやる予定」と言われたのだと思います。
あと、他のアーティストの時ですが「〇曲目の〇〇という曲で花道に出るので、お客さんと接触しないように注意」というようなことが言われたことがあります。ステージ中央から花道に出る部分には大抵スピーカーが鎮座しているので、アーティストは細い隙間を通って花道に出ないといけません。で、そこの部分は客席と距離が近くて、最前列の両端のお客さんは手を伸ばすとアーティストに接触できちゃうんですね。
話は脱線しますが、今回の森高さん「この街」ツアーのセットを見てみると、スピーカーで完全に道をふさいでいて、森高さんが花道には出られないようになっています。少なくともNHK大阪ホールはそうでした。小さい会場が多いので物理的にスペースがないのかもしれませんが、少しでも花道に出てきてくれた方がお客さんは喜ぶと思うんです。過去の作品映像を見ても森高さんが花道に出た映像は見た記憶がないのですが、森高さんって花道には出ないことになっているのでしょうか?
で、話は戻って、いよいよお客さんの入場です。この時の我々は作業着からスーツに着替えています。多くのバイト学生は入場口でお客さんの対応をします。当時は一切のカメラ、録音機材の持ち込みが禁止でした。「写ルンです」ですら持ち込み禁止。今の若い人は「写ルンです」と言われてもわからないと思いますが、使い捨てカメラのことですね。
そのため、会社の人からは入場口の荷物検査で「客にイヤがられても、化粧ポーチの底まで手を突っ込んで調べろ」と指示されていました。実際、化粧ポーチの底にカメラをこっそり忍ばせて持ち込もうとするお客さんはちらほらいました。しかし、時には生理用品が出てきたりして、お互い気まずい思いをすることもしばしばあり・・。
あと、この時に思ったのが、女性の荷物の中にはなんでこんなにお菓子が入ってんだ?ということでした。男性の荷物の中には基本的に食料は入っていないのですが、女性の荷物の中には、ポッキーだとかチョコレートだとか、なんかお菓子が入っているのでした(笑)。
私はこのコンサートスタッフ時代から25年ぶりにおととしライブもの(B’z)に行ってみて、入場時の荷物検査がめちゃめちゃ緩くなっていることに驚きました。全員のスマホを取り上げることは物理的に不可能だからそこはあきらめるとしても、荷物の中に手を突っ込まれることなど皆無で、正直言って撮影・録音機材の持ち込みは簡単にできちゃいます。ちゃんとした一眼レフカメラなどの大きな機材の持ち込みは無理だとしても、今は小さくて高性能な撮影・録音機材はいくらでもあるはずです。四半世紀前、お客さんにイヤがられながら化粧ポーチの底まで手を突っ込んで「写ルンです」を取り上げていた我々の苦労は何だったのでしょう(苦笑)。
そうして、いよいよ開演時間が迫っていきます。楽屋警備をしていると、アーティストとバンドメンバーが円陣を組んで「今日もやるぞ~!!」とか叫んでいる姿を間近に見ることができます。さだまさしさんなんかは、入念に発声練習をされてましたね~。
客席が埋まり、客電が落ち、そして、1曲目が始まります。我々も含めてすべてのスタッフが、この瞬間のために朝からずっと準備してきたわけです。観客だけでなく、スタッフとしても、開演の瞬間の緊張感は独特です。
最前列警備のことは、当ブログで森高さんの岡山公演レポの時に少し書きましたので重複する部分もありますが、通常は最前列にロープを張って、我々バイト学生がそれを持って観客の方を向いて座ります。
ロープを持つバイト学生の数は、アーティストによって変わっていって、B’zだとか長渕剛だとか人気絶頂のころのチャゲ&飛鳥だとかは、最前列警備の人数も多いし、最前列のお客さんが前に出ようとしてくるので、常に我々と押し合い状態になります。
森高さんの時には、森高さんのスタッフサイドの意向でソフト警備志向だったらしくて、ロープがないどころか、最前列警備はわずか2名ということになりました。上手と下手の端に1名ずつです。私は下手側担当です。下手側の端で横を向いて座って、基本的には客席の動きを注視しながら、横目でずっと若かりし頃の森高さんを見ることができました。
あの頃は森高さんも人気絶頂だったころで、不審者がステージに駆け寄ることだってありえないことではありません。万が一の時、正規スタッフはステージ脇にいるので間に合わないし、不審者から森高さんを守る最後の砦は我々バイト学生2名なわけです。
実際に、昨年の「この街」ツアーでもどこかの会場で興奮した年配のお客さんが後方からステージ前まで近寄ってきてしまったらしいですよね。28年くらい前のプリンセスプリンセスのライブに私が観客として行ったときも、興奮した若いヤンキー兄ちゃんみたいなのが後方からステージ手前まで駆け寄る事件があって、数日後の奥居香さんのラジオを聞いていたら、その時のことを話していて「怖かった」とおっしゃっていました。ステージに立っていて、得体の知れない人が通路を走って駆け寄ってきたら、何されるかわからないから、そりゃ怖いですよね。
そんなわけで、もしも不審者が現れたら自分が身を挺して森高さんを守らないといけないという責任と使命感。ドキドキの2時間でした。私は当時は森高さんは好きだったけれども、アルバムの曲を聴くほどまでには至ってなくて、本当に大ファンだったらバイトではなく観客としてライブに行くわけで、ま~当時はまだその程度だったわけです。それでも、「わたオバ」とか、知ってるシングル曲はたくさん歌われたはずなのに、この日の2時間で歌われた曲を全く覚えていません。ある意味、警備業務という仕事に忠実に、観客席を注視していた結果なのかもしれません。そのくせ、当日の森高さんの衣装はよく覚えているんです。
ライブが終わると、我々は撤収作業のスタンバイです。客席からお客さんが退場していき、最後のひとりが客席を出て扉が閉じる瞬間をみんな待って、その瞬間に一斉にステージ上に飛びかかります。撤収作業は1分1秒を争う戦いです。
その間に、アーティストご本人は帰っていきます。中島みゆき公演の時に目の前でダミ声のオバさんが「お先に失礼しま~す!!」と叫んだのでよく見たら、中島みゆきさんご本人でした(笑)。
会場の周囲にはまだたくさんのファンが残っているので、時にはダミー作戦を使うこともあります。TUBE公演の時には、楽屋出口にそれっぽいクルマを置いてTUBEのメンバーが出てくると思わせてファンを引きつけておいて、私がTUBEの4人を別の出口から連れ出して暗闇を先導して、別のクルマに乗せたこともあります。あの時はTUBEのメンバーの4人だけだったな~。マネージャーもいなかった気がします。
撤収作業が1分1秒を争う戦いなのは、会館の閉館時刻までに撤収完了しないといけないという制約だけでなく、どのスタッフも疲れている中、1秒でも早く終わらせて休みたい。その中で、どこかのセクションの撤収作業が遅れたら、全体の終了時刻がそれだけズレこむわけです。そうならないよう、みんな必死の撤収作業。あんなに丁寧に調整した照明類も全部撤収です。
急いで慌ててやる作業の中では事故の危険性が高まります。物を運ぶときの「後ろ通ります」「手を離します」「段差あります」などの声かけはめっちゃ重要です。このときの経験は今でも実生活において役に立っていますね。
こうして、搬入作業の時の数分の1の時間で撤収作業完了。ツアートラックの扉が閉まって、我々もようやく長い1日が終わります。もう22時とか23時です。でも、好きなアーティストの日だったかどうかにかかわらず、2千人が集う会場を朝から設営して、ライブ本番を経て、必死の撤収作業を終えて、みんな結構テンションは高くなっています。時給は安いけど、刺激的なバイトです。
そんな森高さんのLucky7ツアーから26年。この年末年始にようやくパラヴィに加入し、Lucky7公演の映像をフルで見ました。舞台セットや森高さんの衣装はよく覚えているのに、歌った曲は全く覚えていなかったので、あ~、こんなん歌ってたんだ~、とか思いました。
そして、映像は最終公演のものだったので、あのラストの森高さんの感極まる姿は感動的でした。森高さんは、歌い終わると、最後の挨拶もそこそこに、涙をこらえてステージ袖にひっこんでしまいます。あのLucky7ツアーが森高さんにとってかなり過酷だったことは耳にしています。
そして、映像は、興奮冷めやらず、なかなか帰ろうとしないお客さんたちの姿を映しながらのスタッフクレジットロール。BGMとして流れる「渡良瀬橋」のインストゥルメンタルがまた感動的です。すると、スタッフクレジットの中に、私が勤めていたイベンター会社の名前も出てきました。「そっか~、ただの現地アルバイトとは言え、一応Lucky7ツアーでの私は、お客さんではなくてスタッフ側の人間の端くれだったんだな~。微力ながら、一応あのツアーを支えたひとりだったんだな~」と。自分の携わったツアーが、最後あんな感動的な形で終わっていたことを26年後の今年になって知って、26年越しで自分の中のLucky7ツアーが完結したような思いになりました・・。おわり
かなりの長文におつきあいくださり、ありがとうございました♪
Posted at 2020/01/19 05:09:28 | |
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森高千里 | 音楽/映画/テレビ
2020年01月12日
今回の東京オートサロンのホンダブースに、ついに、FK8のマイチェン版がサプライズ登場しました。現時点で判明していることを列挙しておきます。
外観では、フロントとリアのダミーグリルのところが修正されて、白いフィンみたいなものがつきました。あと、フロントの開口部が広がって、より走行風を取り入れやすくなっています。冷却性能アップに貢献しそうです。
フロントブレーキディスクが2ピースになって、ドリルドローターでなくなっています。2ピースになったのでドリルドにする必要がなくなったようです。
内装では、ステアリングがアルカンターラ巻きになり、シフトノブが従来の球体から垂直方向に長いドロップ型になりました。見栄えは球体の方が良いですが、使い勝手はドロップ型の方が良さそうです。
あと、ホンダセンシング搭載だそうです。これは柿沼さんが明言していたので間違いないです。個人的には、ホンダセンシングはいらないですけど・・。なお、ニュルのタイムアタックはまだこれからだそうです。
噂されたカーボンルーフにはなっていませんでした。ホイールも20インチのままで、外観的にはほんのスモールマイチェンという感じです。生産国は不明で、日本なのかアメリカなのか中国なのか。相変わらず英国生産という噂もあります。
今回は外観だけの発表でしたが、性能面でもいろいろとモデファイされているそうです。その詳細の発表はまた後日で、新型の登場時期は今年の夏ごろ、とのこと。情報を小出しにして注目を引きつけておいて、ニュルでメガーヌのタイムを上回ってまたFF世界最速の座を奪い返して、満を持して新型登場!!という目論見なんでしょうね。
Posted at 2020/01/12 17:57:46 | |
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クルマ選び | クルマ
2020年01月10日
昨日、その情報は入ってきました。数年前から激ヤセされていたので、心配していたのですが・・。
ネット上のコメントを見ていると、最もみなさんの記憶にあるGPはやはり94年イモラ。この日のことは、私も平成が終わるころに当ブログに書いています。
次に出てくるのが92年モナコ。この92年モナコの中継のことは、私は当ブログに2009年11月に書いていて、いまだに毎日のように誰かしらのアクセスがあり、私のブログの中でアクセス数ナンバーワン記事となっています。この記事は、私が当日の今宮さんと川井ちゃんの叫び声を文字に起こした記録で、今回の今宮さんのニュースを受けてまたアクセス数がグッと増えました。
あとは、91年鈴鹿。あのレース決着に今宮さんが実況席で涙で声を詰まらせました。このときは私は鈴鹿のコメンタリーブースのすぐそばの席にいたので、放送を終えてブースを出てきた直後の今宮さんを至近距離で目撃しています。
思えば、このときの鈴鹿ではフジテレビF1クラブのファンミーティングに私は参加したのですが、そのときのメンバーから、有賀さつきさん、そして今回今宮さんと、若くして旅立ってしまったことになります。当日走ったドライバーも含めれば、アイルトン・セナとミケーレ・アルボレートも若くして旅立ってしまいましたね。
それから4年後の95年岡山パシフィックGPは私は仕事で会場入りして、今宮さんのトークショーに立ち会いました。あのときいたケン・ティレルも旅立ってしまいました。
それから6年後の2001年に私がモナコに行ったときは、セッションごとにパドックとピットを往復する今宮さんの姿を目撃しました。その姿は当ブログのフォトギャラリー(フォトアルバムの方ではない)に掲載してありますね。そのときのメンバーの中では、昨年のニキ・ラウダに続いて、今宮さんが旅立ってしまったことになります。
その後、何度か鈴鹿にF1を見に行きましたが、今宮さんにお会いした記憶はないので、結果的にはモナコでお見かけしたのが最後となってしまいました。
多くの方が書いていらっしゃるように、私も同じ言葉を送ります。
「今宮さんはいませんが、F1は続いていくわけです」
ご冥福をお祈りいたします。
Posted at 2020/01/11 00:18:16 | |
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日記 | 日記