2019年01月17日
今日は1月17日です。私が平成の30年間で驚いた大事件を順に振り返っていますが、今日はやはり、これしかないでしょう。
平成7年1月17日午前5時46分。私は前夜からずっと起きていて、大学の卒論の仕上げをしていました。このころの私は完全に夜型生活で、毎日朝方まで起きていたのです。
つけっ放しにしているテレビで地震速報が流れました。近畿地区のようです。表示されている中での最大震度は京都の震度5。「京都か!?」と思いました。大事件が起こった時の発生直後の情報の混乱は、リアルタイムで経験した者でないとわからないものがあります。日航機御巣鷹墜落も、松本サリン事件も、地下鉄サリン事件も、発生直後の情報の混乱は忘れられません。
阪神淡路大震災のときの初期の情報の混乱は、のちにNHKが検証番組を放送しています。それによると、発生直後に一瞬だけ「神戸震度6」という表示が出たらしいです。しかし、なぜかすぐに消され、しばらくの間、「京都震度5」が最大震度として表示されていました。私もその「神戸震度6」は見落としていたので、「京都か!?」と思ったのです。
やがて、NHK神戸放送局の防犯カメラで宿直職員が布団の上で激しく揺さぶられる映像が入ってきて、「神戸だ!!」と判明します。ただ、早朝のまだ外が暗い時間帯で、断片的な情報しか入ってきません。
ようやく外が明るくなって、ヘリコプターから空撮の映像が入ってきて、日本中の人ががく然としました。高速道路が倒壊し、三ノ宮のビルが道路に倒れ、神戸の街が崩壊していたのです。
大変なことになりました。とりあえず、朝イチから授業があったので、大学へ向かいました。ところが、こんな大変なことが起こっているというのに、朝イチの授業の先生は、そのことにひと言も触れず、いつも通り授業をして去っていきました。この先生にとっては近畿で起こっている災害なんて他人事なのか。
この先生の次回の授業の際にこの謎が解けました。この先生は外部講師で、ウチの大学に授業をしに来るときはかなり早朝に家を出るらしく、当日は大震災が起きていることを知らずに授業していたのだそうです。スマホやインターネットはおろか、ケータイもほぼ誰も持っていない時代でした。
当時、ウチの親は転勤で福岡に住んでいましたが、たまたまその日、ウチの母は倉敷市に帰省していました。大阪に住む私の妹の安否確認のため電話をかけ続けたそうですが、その日の夜まで電話がつながらなかったらしいです。
この震災は、隣県である岡山県にも影響を与えました。私の周辺でも、就職を機に神戸へ出ていた人たちが会社を辞めて岡山県の実家に戻ってきました。京阪神からの利用客が多い美作・湯郷温泉は、震災以後客足がガックリ落ち、回復しないまま四半世紀が経過してしまいました。
4月には2回目のF1パシフィックGPがTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)で予定されていましたが、震災で延期されました。その年の秋に延期されて、鈴鹿日本GPと2週連続開催となったのです。このときのF1パシフィックGPには私は観客としてではなく業務で行ったのですが、もし4月に予定通り開催されていたら、まだ入社直後で、恐らく行くことはなかったと思うので、結果的には震災延期が原因で私のF1業務参加が実現してしまったことになります。
震災から2年ほど経過して、ウチの親がまた転勤で神戸勤務となりました。家は三ノ宮のNHK神戸放送局の近くです。震災から2年が経過した神戸の街は、がれきがすっかり撤去され、本当に2年前にあの惨状となった街とは思えないくらいきれいになっていましたが、よく見ると、街中の至る所に更地があり、建物が倒壊するなどして解体された痕跡が見受けられました。
NHK神戸放送局の前を通ると、そこも更地になっていました。あの日、宿直職員が激しく揺さぶられていた映像は間違いなくここで撮られたのです。京都ではなく神戸が震災の中心であることを日本中に伝えた映像でした。
あれから20年ほど経過して、今から数年前の1月17日。バレーボールVリーグ神戸大会があって、観戦に行きました。広島における8月6日、長崎における8月9日が特別であるように、神戸にとっての1月17日は特別です。それなりの思いを持って神戸に入り、試合開始前に会場全体で黙とうしました。6400人が命を落としたあの震災から復興して、バレーボールの試合を楽しめる今日があることに感謝しつつ・・。
Posted at 2019/01/17 21:17:42 | |
トラックバック(0) |
昔話 | 日記