2019年05月12日
今回の件は本当に痛ましいとしか言いようがありません。今回の事故ではトリアージが使用され、「黒」判定をする側の苦悩がネットニュースとなっていました。「黒」判定をする、というのは、「助かる見込みがないので手当てをしない(その人を放置して、他の助かる可能性のある人の手当てをする)」ということを意味します。合理的な仕組みながら、その判定は実につらいものです。
今回の事故現場は実はウチの実家からそんなに遠くなく、私自身は現場を通ったことがあるかどうかわからないけれど、ウチの両親はクルマでの行動範囲に恐らく入っているのではないかと思われ、事故の一報を聞いた時はドキッとしました。
また、これは単なる偶然なのですが、私はブログにも書いたように、当日大阪出張をしていて、実際にはもうすでに事故は発生していたけれど私がまだ事故のニュースを知らない段階で、大阪のある駅でどこかの保育園の遠足を見かけました。その様子を見ると、保育士さんが両手でそれぞれ園児の手を握り、つまり、2人の園児に1人の保育士がついて移動していました。これだと園児の人数の半分の保育士が必要で、「保育園の遠足は大変だな~」と思いました。普段保育園のことなんか全く考えることがないのに、たまたまその日にそんな様子を見て、そんなことを思っていたらば、その直後に事故のニュースを聞いて、偶然ながら驚きました。
今回の事故では、ドライバーの運転の問題、保育園の散歩のあり方、そして、マスコミのあり方が話題となりました。ドライバーの運転の問題については思うところはいろいろとありますが、これは高齢者のアクセル踏み間違い暴走の件と合わせていずれまた語ってみたいと思います。
一方で、マスコミが保育園の会見で、保育園を責め立てるような質問の仕方をしていたとして、批判されており、これは、池袋の暴走事故では加害者が元キャリア官僚だったので、その点が格好の攻撃材料となったものの、今度の事故では加害者が攻撃するに足りる相手ではなかったので、マスコミがその攻撃対象となった、という見立てがあります。この、何かあると誰かを攻撃対象として激しく非難しないと気が済まない風潮は残念です。
私はあの会見でマスコミが保育園の散歩の仕方を次々に質問し、保育園側がそれに答えていく中で、保育園の散歩の仕方に問題のないことが明らかになっていった、という意味では、あの質問もそれなりの意義があったと思います。
問題なのは、マスコミが「号泣する園長」を「おいしい画面(「がめん」と書いて「え」と読む)」と捉えて、園長に質問を集中させたことです。「号泣する園長」は視聴率を取れる。視聴率を取れるのは、結局それを見たいと思っている視聴者が多くいるから。マスコミのモラルの問題、と言ってしまえばそれまでだけど、この構造的な問題を考え始めると、私もよくわからなくなってしまうのです・・。
Posted at 2019/05/12 19:05:18 | |
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2019年05月12日
「今日は何の日?」というワイドショー番組のコーナーにありそうなタイトルで、最近当ブログでは過去の事件事故を振り返る企画が恒例になってきてしまった感がありますが、今日というか昨日5月11日は紫雲丸事故から64年目の命日でした。
紫雲丸事故とは、昭和30年5月11日に、香川県高松港沖で国鉄の宇高連絡船が沈没し、修学旅行生を多く含む168名が命を落とした、国鉄史上2番目の大惨事のことです。ちなみに、国鉄史上最大の惨事は、この前年に発生した洞爺丸事故(青函連絡船)で、この2つの大惨事を経て、国鉄の連絡船の構造や運用が大きく見直されることとなりました。
また、この紫雲丸事故で瀬戸大橋建設の機運が高まったと言われ、さらには、修学旅行生が泳ぐことができなくて多くの犠牲者を出したことから、全国の小中学校へのプール設置と水泳の必修化が進んだんだそうです(※諸説あります)。
なので、最近の若い人は国鉄(JRの前身)とか連絡船とか言われてもピンと来ないかもしれませんが、今、みなさんが当たり前のように利用している本州四国連絡架橋や、当たり前のように全国の小中学校に設置してあるプール、そこで行われる水泳の授業が、実は過去のこのような事故の犠牲を経て、存在していることを忘れてはいけません(※諸説あります)。
これらはもちろん私の生まれる前の出来事なのですが、先ほど述べたように世の中の仕組みを変えるような大惨事だったので、私は小学生のころから、洞爺丸事故も紫雲丸事故も知っていました。
で、私は小6に上がるときに鳥取市から島根県松江市の小学校へ転校し、転校直後に修学旅行がありました。修学旅行の数日前に6年生が体育館に集められ、先生が「みなさんには絶対に忘れてはならないこの小学校の先輩方の修学旅行で起きた出来事があります」と言い始めました。なんと!!この小学校こそが、あの紫雲丸事故で当時の6年生のおよそ半数を失った小学校だったのです。
私はもともと紫雲丸事故を知っていただけに衝撃でした。後で知ったのですが、学校の敷地には事故の慰霊碑がありました。この小学校の修学旅行は、事故以前は連絡船で海を渡って香川県の金刀比羅宮などを巡っていたそうですが、事故があってからは船に乗る経路を中止し、岡山・広島方面へ行くようになりました(その割には広島・宮島航路で国鉄の連絡船には乗っていましたが・・)。
岡山で水島の当時の川崎製鉄(現:JFE)の工場見学をしてから、新倉敷駅で新幹線に乗って広島へ移動します。私もまさか四半世紀後に自分が水島に住むことになるとは思っていませんでしたが、新倉敷駅なんぞ祖父母宅があって毎年何度も利用しているし、広島だって以前住んでいたし、私にとっては全く目新しさがありません。
しかし、同級生たちの多くは生まれて初めて見る新幹線に大騒ぎ。私は同級生たちが新幹線を今まで見たことがないことの方に驚きましたが、今考えてみると、昭和50年に新幹線岡山‐博多が開通してからこの時まだ7年後。まだまだ山陰には新幹線を見たこともない人たちがたくさんいたのです。
さらには、我々の前年度までは、その修学旅行で水島の工場見学の前に岡山市の池田動物園に寄っていました。我々の年度からは池田動物園が経路から外れて、その代わり旅行の最後に広島の安佐動物園に、とってつけたように立ち寄りました。なぜそうまでして、とってつけたように動物園に寄りたがるのかと思っていたのですが、それから何十年もたって大人になってから気がつきました。島根県には動物園がないので、小学校の修学旅行でどうしても動物園に寄って子どもたちに見せてやりたかったのです。
今でも島根県には新幹線もないし、たぶん動物園もないけれど、今はあの頃ほど新幹線を見たことも動物園に行ったこともない子はいないと思われ、これは今となっては時代を感じさせる昔話かもしれません。
紫雲丸事故に遭ってその後の行き先の変更を余儀なくされ、子どもたちを新幹線に乗せてやり、動物園を見せてやるという使命を帯びたあの小学校の修学旅行が、今はどこを訪れているのだろうと思ったりしたのでした・・。
Posted at 2019/05/12 16:03:28 | |
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