まるで支那を神国のように扱う民主党の鳩山だが、チベット、ウイグル等を知っていれば少なくとも神国のような扱いはできないはず。
ましてやいまから70年以上も前に支那人は日本人を惨殺したのを知っていればこの様な危険な連中に友愛なんて言葉が全く無意味なのがわかるはずである。
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、突如約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110 名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の3つの説が存在している。
1. 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復で起こったとする説[1](しかし誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっている事実も存在している[2]) 。
2. 中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるために「日本が大敗した」と嘘のラジオ放送をおこない、冀東保安隊がそれに踊らされたという説[2][3]。
3. 1986年に冀東保安隊長であった張慶餘の回想録が公表され、また中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触しており、「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説[4]。
上記の一つの原因だけでなく、これらの原因が複合して保安隊が虐殺行為に走ったとも考えられている。張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[5]。
なお、中国側では「抗日蜂起」と看做されている。
Wikipediaより引用
盧溝橋事件から僅か三週間のち、即ち昭和12年7月29日に「通州事件」は起きた。通州は明朝時代に城壁が築かれ、天津から集荷の拠点として栄えた。交通の要衝、運河の街でもある。北京の郊外、東へおよそ18キロ。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされた。なぜなら親日派の「冀東防共自治政府」が通州、天津などを治めており、日本人を妻とする「殷汝耕」が長官だったからだ。
この自治政府は付近から雑兵を掻き集めて、一応、9千人の「保安隊」を組織していた。お人好し日本は自治政府が親日であることを信じて疑わず、保安隊の軍事訓練まで施していた。たまたま事件前夜まで、南宛に向かう萱島連隊が通州を兵站基地をして、盧溝橋事件十日後から駐屯していた。だから居留日本人は二重に安心していたのだ。
しかし通州には反日派の頭目「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊、合計で三千の軍が野砲で武装して駐屯していた。ひとつは城内に、もう一つの部隊は城外(といっても南門のすぐ脇)に。しかも張らは親日政府=キ東防共自治政府保安隊のなかに密かに潜り込ませた反日分子と接触を絶やさず、また親日派のはずの保安隊のなかに共産党の細胞まであった。彼らは反日では団結する。反日分子たちは日本軍が通州で空になる機会をじっと窺っていた。
一方、南京の国民党政府は通州に「冀察政務委員会」を設置していた。事実上の影の政府だが、委員長は中国第二十九軍の「宋哲元」だった。冀は河北省、察はチチハルを意味する。かれらは極秘裏に居留日本人の住所、家族構成を調べ上げ、リストを作成していた。
絶好のチャンスがきた。盧溝橋事件から二十日後の7月27日、無敵を誇る萱島連隊は作戦のため多数のトラックに弾薬を積んで出発した。ただし萱島連隊は南門城外に不気味に居座った第二十九部隊が武装解除、撤退に応じないため、先に攻撃してからの通州出発だったが。残留の日本軍守備隊は自動車中隊、憲兵などを含め僅か百十人だった。駐屯するはずの藤尾小隊は大部分が天津に出張中だった。
二十九日午前三時、冀東防共自治政府の保安隊は突如、日本軍を襲撃した。不意をつかれた日本兵は獅子奮迅の防戦をするも、死者三十人あまり。この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束し、同時に日本人民間人の虐殺を開始した。居留日本人四百人のうち、二百六十人あまりが惨殺されるのだ。
大局的戦況はといえば、日本軍が蒋介石軍を大破し、南宛を占領した。「北京を死守する」と豪語していた宋哲元は遥か南方の保定まで逃げ込んだ。それを知らない張慶餘と張硯田ら中国軍と保安隊は日本人の非武装民間人を虐殺し続け、夕方に萱島部隊がもどったと聞いて逃亡、北京へ向かった。ところが北京付近で翌三十日に日本軍と遭遇、忽ち粉砕され、張慶餘も張硯田もさっと「便衣服」に着替え、一目散に逃げた。部下らは置き去りにされた。こういう卑劣な戦闘指揮をとるのは中国特有であり、日本軍人に殆んど例をみない「規律」である。
道時刻、惨状を聞いた日本軍の第二連隊はおっとり刀で通州の現場に到着、あまりのむごたらしい惨殺死体に驚嘆、愕然、唖然となった。
浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は凌辱された後女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、五人の女店員は射殺されていた。食堂・旭軒の女店員八人も強姦のあと裸体にされ、陰部には銃剣がさし込まれていた。他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、口の中に砂を入れられたりして殺されていた。なかには死体から内臓がはみ出し、蝿がたかった現場もあった。
通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中四人が射殺後に凌辱され、天井裏に隠れていた宿泊客十一人は北門付近まで数珠繋ぎにされて連行されたあと虐殺された。ことき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云の体で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことができた百二十人だけが助かった。
殷汝耕は、その後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により「親日分子」の烙印をおされて処刑、悲運を辿った。
虐殺の指揮をとった張慶餘と張硯田は、その後も戦争中を生き延び、とくに張慶餘は中将にまで出世、1986年にはしゃあしゃあと回想録まで出版、デタラメなことを書いている。
だが、「通州の虐殺が中国側の謀略だった証明ははからずも最近中国で出版された『盧溝橋事変風雲編』という書物にあり、そのなかには、張慶餘と張硯田と宋哲元との間に盧溝橋事件以前から密約が存在していた事実が書かれている。しかも張慶餘と宋哲元とを結びつけたのは哥老会であった」
(岡野篤夫「通州事件の真相」より抜粋、『正論』平成二年六月号)。
つまり支那人に日本が売国された場合、第2、第3の通州事件が起きてもおかしくはない。それほどまでに支那人は残虐非道である。
まさに沖縄ヴィジョンによる1国2制度が採用された場合、すでに米軍による悲劇をみた沖縄が再度支那人による悲劇を見かねない。
新たな通州事件を起こさないためにも売国政党による政権奪取はなんとしてでも阻止しなければならない。