【関西事件史】日本赤軍女性最高幹部逮捕(下)風化した「革命」
たばこを吸う際の「キセル吸い」が決め手となって、「謎の女」が海外で数々の武装闘争を指揮したとされる日本赤軍の最高幹部、重信房子とわかり、大阪府警は沸き立った。
当時の府警本部長はのちに警察庁長官となる漆間巌、警備部長は警視庁現副総監の高橋清孝。高橋は公安3課の捜査員らをこう激励した。
「君たちの実力はよく知っています。存分にしっかりとやってください」
捜査態勢は増強され、女が別の場所で飲んだコーヒーカップから指紋を採取することにも成功した。果たして指紋は重信と一致した。
11月7日夕、重信は大阪府高槻市のホテルの8階の一室に入った。
「ホテルをチェックアウト後速やかに逮捕せよ」
高橋の指示を受け、十数人の捜査員がホテルの内外に張り込んだ。
8日午前10時35分、ホテルをチェックアウトして、支援者の男2人とともに玄関を出てきた重信を複数の捜査員が囲んだ。
「奥平(重信の本名)やな?」
捜査員が声をかけると重信はハッとした表情を浮かべたが、「うん」とうなずいた。国際指名手配されたハーグ事件での逮捕監禁容疑で重信の手に手錠がかかった。
重信は高槻署での取り調べに対し「黙秘します」とだけ話し、午後2時すぎに新大阪駅から新幹線で東京へ移送された。ホームに詰めかけた報道陣に親指を立ててグッドマークを作り「断固闘うからね!」と意気揚々と語った。
だが、居合わせた若い記者たちは沸き立つどころか、英雄気取りの女性闘士に「何だ、このおばさんは?」とばかりに奇異の目を向けた。
日本を出国して29年9カ月。長い歳月は彼女を記憶の彼方に追いやるばかりか、彼女が信奉する「革命」という言葉さえ風化させてしまっていた。
国会議員もシンパ
重信が潜伏生活を続けていた西成区のマンションは警察当局にとって宝の山だった。押収品はノートパソコン2台、フロッピーディスク20~30枚、コンパクトフラッシュ、他人名義の偽造旅券2通、携帯電話7台、多数の手書きメモなど約270点に及んだ。
メモ類は同志をコードネームで呼んだり、携帯電話の番号の一部を変えて記載するなどさまざまな偽装が施されていたが、ほどなく解析された。
重信は平成9年10月に極秘帰国し、逮捕されるまでの約3年間に偽造旅券を使って北京、上海、青島、マカオ、ホーチミンなどに計8回出国していた。
さらに、平成3年に日本赤軍「人民革命党」を結成していたことも分かった。その基本目標として「第1次(91~93年)地域司令部機関体制機能の確立」「第2次(93~95年)建軍・兵站強化」「第3次(95~97年)陣地戦の強化」「第4次(97~99年)地域司令部機関体制の再確立」「第5次(99~01年)全党体系の確立」を定めていた。重信はこの目標に沿って国内組織の基盤を固めるために帰国したようだ。
だが、逮捕によりその夢は潰えた。重信が残した多数の証拠品により、重信の支援組織はほぼ全容を解明され、日本赤軍幹部らが次々に犯人隠避の疑いで逮捕された。病院職員もいれば会社社長、教諭、医師もいた。支援組織が活動拠点としていた大阪府北部の病院や農場、企業なども次々と強制捜査を受けた。
日本赤軍が社民党への浸透を図っていた実態も明らかになった。押収資料には「社民党との共同と工作」と題した文書もみつかり「社民の積極的役割である理念と国政の役割に対して、よりその力が発揮できるよう工作していく」と記されていた。
強制捜索先で押収された多数のコンピューターは、重信の逮捕後にハードディスクが初期化され、重要データは消去されていた。支援組織はこれで証拠隠滅できたと思っていたようだが、警察当局は特殊なソフトを使って消去したデータも復元していた。
重信逮捕により日本赤軍は活動停止に追い込まれたが、警察当局は知り得た情報をすべて立件したわけではない。一部関係者を泳がせて新左翼ネットワークのさらなる解明を狙ったからだ。ハードディスクの復元技術だけでなく、公安警察の捜査手法や情報網を公判で開示したくないという判断もあったようだ。
重信と接触しながら立件を免れた人物も少なくない。その中には国会議員も含まれていた。この議員は民主党政権となり、今も政権中枢に入り込んでいる。
自責の念
平成13年4月23日、東京地裁で重信の初公判が開かれた。重信は法廷で「日本赤軍の使命は終わった」と日本赤軍の解散を宣言した。裁判長に職業を尋ねられるとよどみなくこう答えた。
「生きざまとしては日本赤軍兵士ですが、なりわいとしては無職です」
東京地裁は平成18年2月、重信に懲役20年の判決を下した。重信は直ちに控訴したが、東京高裁は19年12月に控訴棄却。22年7月に上告も棄却され、刑が確定した。
21年6月、重信は東京拘置所で産経新聞の取材に応じた。
「現実を変革する運動は楽しく創造性があった。現状を変えたいという思いで、いろんな人が話し合える環境があった」
重信は学生運動に身を投じた昭和40年代半ばをこう振り返った上で自責の念を打ち明けた。
「世界を変えるといい気になり、多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためならば何をしても良いという感覚に陥っていた。運動が行き詰まったとき武装闘争に走った。故郷に戻り運動を続けていれば違った結果になったかもしれない…」(敬称略)
◆日本赤軍◆
日本赤軍は昭和46年2月、「国際根拠地論」に基づきパレスチナに活動基地を作ろうと中東入りした共産主義者同盟(共産同)赤軍派の重信房子らが創設した。創設当初は「アラブ赤軍」などと名乗ったが、49年に「日本赤軍」を正式名称とした。
レバノンのベカー高原を主な拠点にし、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などと連携。「テルアビブ空港乱射事件」(昭和47年5月)「ドバイ日航機ハイジャック事件」(同48年7月)「シンガポール事件」(同49年1月)「在クウェート日本大使館占拠事件」(同49年2月)「ハーグ事件」(同49年9月)「クアラルンプール事件」(同50年8月)「ダッカ日航機ハイジャック事件」(同52年9月)-など国際テロ事件を次々と起こした。
冷戦終結後は反政府組織からの資金協力が細り、丸岡修ら主要メンバーが次々に逮捕され、壊滅状態に追い込まれた。最高幹部の重信は偽造旅券で日本に極秘帰国していたが、平成12年に潜伏先の大阪で逮捕され、13年4月に日本赤軍を正式に解散した。
産經新聞より
未だに民主党や社民党の様なテロリスト政党を支持している事自体異常なんですけどね。
> 日本赤軍が社民党への浸透を図っていた実態も明らかになった。押収資料には「社民党との共同と工作」と題した文書もみつかり「社民の積極的役割である理念と国政の役割に対して、よりその力が発揮できるよう工作していく」と記されていた。
> 重信と接触しながら立件を免れた人物も少なくない。その中には国会議員も含まれていた。この議員は民主党政権となり、今も政権中枢に入り込んでいる。
まぁこの議員、誰だかわかりますよね?
わからなかったら
社民党 日本赤軍 第三書舘 北川明
でググってみて下さい。
社民党は日本赤軍、民主党は市民の会経由で北朝鮮&民団経由で韓国とまぁ
売国奴、テロリスト
なんですが、そこに票を入れると言うのは間違いなく
売国奴、テロリスト
を支援、支持していると言う事なんですけどね。でもなぜか、未だに民主党や社民党に期待をかけていたりしている人間が多数いるんですけどね。それ以前に
誰がやっても同じと言う意識を捨てない限り愚行はいつまでも続くのですが