久々の歴史関係の話題です。この話を語るに際して
朝鮮人は息を吐くように嘘をつく
これを念頭に置いておいてください。
さて松代大本営をご存じの方もいらっしゃれば、何それ?という方もいらっしゃるでしょう。
先ずはWikipediaにおいてどのように説明されているのでしょうか。
松代大本営跡
松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策
皇居には1935年頃、鋼鉄扉の防空室=地下金庫室が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器のうち剣と印)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。
さらに1941年4月12日に御文庫が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
戦況が悪化したため、1945年6月頃にさらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。
概要
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は養蚕が重要であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた(疎開補償費を元住民が半額返金した)。当該地区一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となり、疎開は東部軍の指示により1945年4月から行われた。田畑の耕作は許可されていたため多くは付近の親戚や知人宅を頼った。大規模な移動が起こっていないように偽装するため、家、庭木、庭石などはそのまま、畳の持ち出しは3枚までに制限されていた。終戦後は漸次9月9日までに自宅に戻り、修理されていた家もあった[1]。
1944年11月11日、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が12時間二交替で工事に当たった。最盛期の 1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組鹿島組県土木部工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円[2]。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている[要出典]。しかし、1945年8月15日の敗戦により、進捗度75%の段階で、工事は中止された。
昭和天皇の神器を奉じて帝都を動かずとの考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王(今上天皇)、義宮(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったと言われる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者が訪れ、内大臣の木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。
松代大本営建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内及び朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った。満州国からの第4639部隊や、賢所工事には鉄道省静岡隧道学校の若者も当たり、付近の住民は勤労奉仕隊としてズリなどの運搬に、また当時の屋代中学、松代商業の生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに学徒動員され、国民学校初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った[1]。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。朝鮮人労務者は体が丈夫なせいかあまり風邪を引かず、規則正しく礼儀正しかったと言われる[1]。家族ぐるみで働きに来ているものもおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った[3]。朝鮮人労務者の食事事情は(密殺した)牛肉を食べるなど、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較して待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。
なお、松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合国軍が南九州に上陸するとの想定のもと[4]、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。詳細については天理の大本営跡を参照。
慰安所
壕周辺に慰安所は3ヶ所あり4~5人の朝鮮人の慰安婦がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。ただし、トラックで来た兵隊や支那服のようなものを着た女性が町の方から大勢来たのを覗きに行って怒られた子供の逸話もある[3]。
そのうちの一つは六本製糸本社の女工のための娯楽室だったものが1938年倒産後物置になったり1944年9月からは労務者宿舎建設工事の合宿所となっていた建物を、周辺婦女子とのトラブル防止目的の慰安所として貸し出されたもので、11月に朝鮮人一家5名と日本語の通じない接客婦3名(朝鮮の高官が朝鮮人労務者のために本国から連れてきたとされる)、雑役1名が岩手県釜石市より移住し慰安所、博打場として営業を開始した[3]。売春行為が行われていたかははっきりしない。終戦後9月、一家と使用者は帰国し、その後の建物には先の朝鮮人一家の弟夫婦が半年ほど住み着き、博打場のように使われた。弟夫婦立ち退き後、建物は医院として貸し出され、閉院後は1991年に解体されるまで再び倉庫となっていた。となっていた。
Wikipediaより引用
では、その地元である長野ではどういう風に伝わっているのかと言いますと…
「松代大本営」工事に動員された朝鮮人労働者
大本営の現場作業は、強制連行されたり、日本各地の工事現場から移された朝鮮人労働者や、勤労動員された日本人が当たった。固い岩盤を相手に発破(はっぱ)を使う、昼夜二交替の最も過酷な労働を強いられたのは朝鮮人労働者たちであった。その数は今だに定かではないが、7,000人以上ともいわれている。
そうした朝鮮人労働者の一人で、戦後も松代に住んでいた故・崔小岩さん(チェ・ソアム、韓国・慶尚南道出身)の証言では、不発の発破に触れて仲間4人が吹き飛んだという。
「穴の中でバラバラになった仲間の遺体を必死に集めたが、どうしても頭が一つ見つからない。と、上から水のようなものが落ちてきたと思って見たら、その人の首が天井の板に挟まっていた」
という壮絶な日々だった。食事はコーリャン七分、米三分の粗末なもの。空腹のため、ダイナマイトに使ってあるモチ米を食べたという。
大本営工事の犠牲者の数は全く明らかにされていない。「多い日には5、6人が死んだ」などの証言もあるが、遺体の埋葬場所さえほとんどわかっていない。
「松代大本営」工事に伴っておかれた「慰安所」
アジア・太平洋戦争末期、松代を中心に天皇や軍、政府の中枢を移転させるための巨大な地下壕掘削工事(「松代大本営」工事)が行われた際、工事を指揮する人々のために「慰安所」が作られ、年若い朝鮮人女性たちが「慰安婦」として性的サービスを強要されていた。
松代町西条の民家の敷地内にあった建物が借り上げられ、「慰安所」とされた。持ち主の証言によると、開設した1944年の秋までに、3~4人の朝鮮人女性が「慰安婦」として連れてこられた。この建物は本来、工場の娯楽室や蚕室として使われていたものだったが、やってきた警察官に「国策に協力できないのか」と脅され、借り上げられたという。
連れてこられたのはいずれも20歳前後の若い女性で、客は日本人や比較的高い地位にいた朝鮮人だったという。関係者の証言では、このうち「金本順子」という日本名をつけられていた女性は、慶尚南道の農村出身で、「役場の人に特殊看護婦になれると言われて」強制的に日本に連れて来られたと語っていたという。日本の敗戦後、女性らは母国へ引き上げていったらしいが、その後の消息は知れない。
この「慰安所」として使われた建物は、1991年まで残っていたが、現在は解体され「歴史館」建設のために保管されている。
いずれも
「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会より
こちらの
サイトに行っていただくと写真も多々あるのですがその中にある長野市側の説明書きを見ると
三百万人の住民および朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され(以下略)
といかにも強制労働をさせたと言わんばかりの書き方になっております。
また追悼碑のところはあえてここには書きませんが、これまた日本が悪いという感じで書かれております。
さてこれだけ長野県民が民主党支持層である以上、少なくとも、長野の学校で教えられている歴史は上記の実行委員会のものに近いのが教えられていると思います。自分も長野にいた際は、どちらかと言うとこの自虐史観っぽいドキュメンタリーを見た覚えがありますので(数年前の話ですが)
ではこの実行委員会が出しているのが真実なのか検証したいと思います。
1)朝鮮人労働者が強制連行され、過酷な作業にあたり、食事も粗末だった。
まず食事ですがこちらの動画をご覧ください
実行委員会側では3合の米が配給されたとなっておりますが、実際には7合の米が配給されております。
ちなみに当時の日本人は食うに困った時代であるにもかかわらず、7合も配給されるというのは破格の待遇でしかなりません。
またWikipediaの記述を見ると
> 勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。
> 終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。
つまり日本が行ったのは強制連行や強制労働ではなく徴用であり、それも破格の待遇で行ったことになります。
2) 朝鮮人は発破の作業に巻き込まれ死亡者が大量に出た
これまたWikipediaによる記述ですが
> 総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組鹿島組県土木部工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円
発破による作業遂行があったのは間違いないですが、これだけ人数等のデータがある以上、死亡事故が起きたのであれば必ず記録がどこかに残っているわけです。
にもかかわらず、委員会側の発表だと
> 大本営工事の犠牲者の数は全く明らかにされていない。「多い日には5、6人が死んだ」などの証言もあるが、遺体の埋葬場所さえほとんどわかっていない。
ちなみに過酷と言われた黒部ダムの殉職者が171人、青函トンネルが34人である以上、全くないとは言いませんが、犠牲者の数がない、埋葬場所がないという時点で、限りなく0に近かったのではないのでしょうか。強いて言えば、慰霊碑に書かれてる人名や人数を見る限り犠牲者は4人だけの可能性が高いと思われます。
3) 慰安所が作られ、慰安婦が性的サービスを強要
上の動画にも出ていましたが慰安所は3つあり、慰安婦と言われている人間は朝鮮人です。
> 客は日本人や比較的高い地位にいた朝鮮人だったという。
ちなみに日韓併合中は朝鮮人も日本国籍保有者です。
上にも出ていましたが象山の工事に最大7000人の朝鮮人、3000人の日本人と言う事は当時の国籍で考えると
1万人の日本人
となるわけです。
それにこれまたWikipediaの記述になりますが
> 朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。
と言う事は相手にしていたのは日本人ではなく朝鮮人であったと言う事になります。
となると
1)松代大本営の慰安婦(売春婦)は朝鮮人の為に用意された
2)その慰安婦は朝鮮人によって斡旋された
> 六本製糸本社の女工のための娯楽室だったものが1938年倒産後物置になったり1944年9月からは労務者宿舎建設工事の合宿所となっていた建物を、周辺婦女子とのトラブル防止目的の慰安所として貸し出されたもので、11月に朝鮮人一家5名と日本語の通じない接客婦3名(朝鮮の高官が朝鮮人労務者のために本国から連れてきたとされる)、雑役1名が岩手県釜石市より移住し慰安所、博打場として営業を開始した
3)1と2を鑑みると日本政府、並びに日本人は直接関与していない以上、日本政府に謝罪と賠償を要求するのは論外である
これを鑑みると、長野県民は
1)偽りの歴史に長年騙されてきた
2)帝都の移動候補地となるというのは非常に名誉な事であること
3)少なくとも松代大本営は恥じるべき場所ではなく、当時の技術の粋が注ぎ込まれた誉れ高き場所という認識
と考えを改めなくてはならないといけないと思います。
忌むべき存在は松代大本営や日本軍などではなく
偽りの歴史を吹聴し、長野県民の誇りを奪い続けた在日朝鮮人、日教組
ではないのでしょうか。
そしてその日教組は民主党の支持母体です。
つまり民主党を支持し続けると言う事は
長野県民の誇りを失い続けたままでもいい
と言う事になります。
自分はあえて明言します
自分は長野という土地が好きである以上、長野県民、長野出身者として誇りを持ちたい。故に長野県民を長年だまし続けてきた在日朝鮮人、日教組は断固として許しません。
長野県民の皆様、長野県民の誇りを取り戻しましょう。
また松代の行くのであれば是非とも
長野電鉄屋代線
を利用してください。屋代線の存亡は他でもない、我々ユーザー次第なのですから。屋代線沿線を過疎化にするのも活発化させるのも我々長野県民、長野市民、千曲市民次第なのですから。
それとも、長野県民としての誇りを捨てたまま在日朝鮮人や日教組の言いなりのままでいいのでしょうか?このままパチンコをやり続けて、我々長野県民をだまし続けてきた朝鮮人を肥やし続けていいのでしょうか?あなたのお子さんも長野県民であることを恥じるような教育を受け続けていいのでしょうか?
自分は絶対に嫌です。
敢えて言いますよ、長野県は朝鮮人に汚染されている。そう思っている方が他県に多々いますから。その汚名を晴らすことができるのも放置するのも長野県民次第なのです。
最後になりましたが、この場をお借りしてお友達の
みのやま様に心より御礼を申し上げます