*封印された30度バンク。確かに速く走れるラインは1本しかない!
ふと、気づいたことがあります。筆者として白羽の矢をたてた内藤国夫さんについて、簡単に、ニュージャーリズムの旗手とだけしか説明していなかった、ということです。
創刊して3年目を迎えた「ベストカー」が、まだ「ベストカーガイド」という古めかしい誌名をまとっていた1980年、富士スピードウェイが閉鎖される、という仰天のニュースが取り沙汰されます。西の鈴鹿と並んで、東のモータースポーツのメッカと謳われたFISCOとはいったい何だったのか、もう一度、問い直してみようじゃないか。そこで「実録モータースポーツ」の連載を企画。筆者には、専門外の内藤国夫さんにしたらどうか、と閃くものがありました。
内藤さんは昭和12年生まれ。1999年に62歳で鬼籍の人となってしまったが、毎日新聞在籍当時は「警視庁」や「都庁」のクラブキャップを務めるなど花形記者として活躍し、病める巨大組織創価学会にメスを入れた功績は大きかった。ところが、取材情報源となった顧問弁護士が学会に対して三億円を恐喝した、しないというスキャンダルが表面化し、ついには内藤さんも毎日新聞に辞表を叩きつけてフリーとなったばかりだった。かつて、ぼくが「月刊現代」編集長だった時代(1974~77)、創価学会・公明党のあり方にターゲットを定めた長編論文をお願いし、それが内藤さんの創価学会批判に火をつけてしまったという因縁もあって、フリーになった内藤さんに新境地を拓いてほしい――それはモータースポーツの世界だ、と口説いたのである。
*左が内藤国夫さん。この取材の後、ルマンに飛ぶなど、とにかくアグレッシブ!
執筆にあたって、とにかくFISCOに行ってみようよ。内藤さんのフットワークは軽かった。徳大寺さんにもつき合ってもらって、ぼくらはFISCOへとクルマを走らせた。
「あれは何ですか! あの白い墓標が肩を寄せ合っているようなものは?」
グランドスタンドに陣取った内藤さんがいきなり指をさす。眼下の直線コースが第1コーナーへと湾曲するポイントの向こうに広がる異様な風景。レース中のアクシデントを契機に立ち入り禁止となっている「30度バンク」の存在を、敏腕ジャーナリストは目敏く発見した。
さっそくFISCO側に交渉して、「30度バンク」への立ち入り許可をもらった。右回りのすり鉢型のバンクは荒れたまま、風に揺れるススキの穂に縁取られていた。
「まるで古戦場のようだ」
*30度バンク手前で衝突音。つづいて白煙が……。(「ベストカーガイド〉81年3月号より)
そんな感想を口にした内藤さんが絶句する。1974(昭和49)年6月の富士グランドチャンピオンレース第2戦。ここで発生したアクシデントによって二人のドライバーが命を失い、以後、閉鎖されたことと、その事故の引き金となったスタードライバーが悪役扱いをされ、レース界を追放されてしまった事件を、徳さんから聞かされたのである。
「その消されたレーサー、黒沢元治は、いまどうしているのかな? 逢えませんか!」
* * * * * * *
「いまから考えると、自分の読みが甘かった。というか、誤り、つまずきの一歩だった」
ガンさんの述懐です。ガンさんは強すぎた。富士グラチャンで圧倒的な勝利を重ねた。
ところが73年に、ファクトリー・ドライバーも参加できるようになった。「打倒・黒沢」で日産チームが燃えた。そして次の年の第2戦で30度バンクを舞台に、あのいまわしい惨事が発生してしまう。
「2ヒート制で午前中のレースはマシンのバランスが悪く、2位でフィニッシュしたため、午後のレースはクニさん(高橋国光)が前で、北野(元)が後ろで、そのすぐあとに長谷見(昌弘)がいたのかな。とにかく周りはみんな日産の連中ばかりでした」
日産現役チームvs.一匹狼のガンさん。30度バンク入り口での、1本しかないベストラインをめぐる壮絶な競り合い。高橋国光がトップで飛び込んだ。黒沢と北野が並走しながらつづいた。
「30度バンクに限らず、どんな広いコーナーでも、ベストラインは一つしかない。右側から入ったぼくの方が少し前に出ていた。当然、北野君が退くと思っていた。ところが彼は芝生にタイヤを出しながら、そのまま入って来た。彼にしても後ろに高原かだれかがいたらしく下がりにくかったんだろうが、ぼくと接触した。ぼくの方はそのまますっと抜けたんだけど……当時のフィルムがTBSあたりに保存されているでしょうから、もう一度確かめたいですね」
ガンさんは、その直後に起こった惨事(註:コースを横切ってスピンをする北野マーチに鈴木誠一のローラTがぶつかり、はずみでガードレールにつっこんで炎上。風戸裕のシェブロンも北野マーチと接触し、ガードレールに激突、そのままに空中に舞い、コース外の路面に叩きつけられて炎上)も知らずに先行するクニさんを追って一周し、再び30度バンクにさしかかる。
「それでビックリした。すごい事故になっているので。だけど、その事故がなんで起きたかわからず、そのまま走り抜けようとした。レース中止を知らせる赤旗も振られてなかったし……ところが北野君が血相をかえてコースの中に飛び出して来た。ともかく、マシンを止めたら、いきなりぶん殴られた。なんで怒っているのかも、そのときのぼくは分からなかった。あとになってぼく一人が悪者にされ、黒沢が寄せたんじゃないか、ぶつけたのではないか、と問題にされた。故意にぶつけるなんて、自分の生命だって危険にさらされるわけで、あり得るはずがない。それにそういう時、ちょっとでも後になったクルマが下がるのがルールです」
しかし、事故の責任はガンさんだけに押しつけられ、JAFにライセンスを返上する羽目に。
ガンさんがどんなルール違反を犯したというのだ。内藤さんが指摘した。「まるで中世の魔女狩り裁判だね」と。
「亡くなったお二人は気の毒なことをしたと思います。しかし、レースである以上、時に事故が起こるのも当たり前。自分だっていつ死ぬかわからない。それがイヤなら最初からレースをやるな、という考えでしたから、タイヤテストで鈴鹿を走ったところ、非難がすごかった。黒沢は図々しくも次のレースをやろうとしている、人でなしだ、などと。亡くなった選手の葬儀に参列しようとしても、お前なんか来るんじゃない、って門前払いを食わされたり。ぼくがまるで人を殺したような話になった。それでも風戸君のお父さんをはじめ、別に黒沢がやったんじゃない、たまたま不幸な事故に巻き込まれたんだ、という理解ある態度に触れられたのが、せめてもの救いでした」
*語り終えたガンさん。赤いシビックで夜の町へ帰って行った。
それが次なる挑戦へのスタートとなる。
まさに『6年目の血を吐く告白』だった。1年後、一度はレースに復帰したものの、スポンサーを失ったガンさんに、トップを走る戦闘力はなかった。レース界から身を退かざるをえなくなり、そのまま消息は絶えた。山高ければ、谷深し。そこから不死鳥のように蘇ったガンさんは新境地を切りひらき、たくましく羽ばたいて復活するのだが、それからのひたむきな、見事な生き様については、このあと、ガンさんの「ベストモータリング」を主軸とした活躍をトレースしながら、書き継ぎたい。
ついでながら、富士スピードウェイ(FSWと改称)はトヨタ自動車の手によってリニューアルされ、2007年には一旦はF1を開催する国際コースト格上げされた。そして「30度バンク」はFISCOの歴史を語る1ページとして整備され、「メモリアルパーク」として蘇っている。
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/05 15:04:53