*2010年3月に徳大寺有恒さんの撮影で立ち寄ったときの「30度バンク」。子供たちの遊ぶ平和な光景です。
ここからは、中部博さんの「連載レポート」の順番に随うことにします。
――富士霊園から富士スピードウェイへむかうと、すぐに昔のメインゲートが左側に姿をあらわす。旧来のレースファンにとって、ここが馴染みの富士スピードウェイ正面玄関であったが、現在は違う。2003年からの大きな改修工事で、コース・レイアウトが変更され、メインスタンドとピットビルが新築され、いくつかの小さなコースが併設されるなど、富士スピードウェイはリニューアルされた。だが、不思議なことに、旧メインゲートは、そっくり残されていて、まるでモニュメントのようである。
その旧メインゲートを通り過ぎ、しばらく道なりに走ると、現在のメインゲートがある。かつてサブゲートと呼ばれた裏門があった場所ではないか。きれいさっぱりと大工事を受け、風景がかわってしまい判断がつかない。ここには昔の富士スピードウェイがひとつも残されていない。まるで新しいサーキットが建設されたかのような印象。あのFISCOがたたえていた殺伐とした緊張感といいたくなるような空気はどこに行ったのか、という中部さんの戸惑った様子が伝わります。
*折鶴をイメージしたグランドスタンド。背後から富士の霊峰が顔を見せると、さらに見事な構図となる。
折り鶴をイメージしたというシルエットをもつグランドスタンドにはいって、中部さんは第1コーナー寄りの観客席に腰をおろす。そして、初めてカーレースを観戦した少年時代の記憶を呼び覚ます。1968年(昭和43年)の第5回日本グランプリ。ニッサンR381の北野元が優勝したレースだった、という。それを自分の目で見た。それから39年が経って、同じグランドスタンドに腰をおろしていると、そのときの富士スピードウェイの光景は見あたらないが、あのときの興奮を思い出す。ストレートを疾走するレーシングカーの1台1台を凝視し、なんて速いのだと思った。そんなことを思い出していると富士スピードウェイのグランドスタンドのどこかに13歳の自分がいるような感覚をもった……。
そんな感傷をふるい落として、筆者の「悲惨なレース事故」の現場検証がはじまる。当ブログでは、さきに「内藤国夫の実録モータースポーツ」で、事故の概要はすでに伝えてあるので、客観的な部分は、簡略になぞることとしたい。
中部さんは、当時の唯一のカーレース専門誌であった隔週刊誌「AUTOSPORT」の7月15日号レースレポートから、その検証をスタートさせていた。当時、このレース事故がどのように伝えられてきたかを知る、重要な作業です。
「6月2日の富士で行われたGC第2戦・グラン300は、トップ・ドライバーふたりが焼死するという惨事にゆれた。事故は第2ヒートのスタート直後のスタート直後に起こり、出走した17台のうち7台がそれに巻き込まれ、4台が炎上、鈴木誠一、風戸裕両選手が死亡したのである。レースはもちろん中止。けっきょく、第1ヒート・15周レースがそのまま最終結果と決まり、高橋国光(マーチ735/BMW)がGC初制覇を成し遂げた。(観客5万6000人、車両1万6500台。正午の気温25・7度、湿度57%、気圧947mb、南の風5m、晴)」
以上がレースレポートのリード文で、そのメインカットは炎上事故の現場を望遠レンズで撮影写真だ。いっせいに第1コーナー方向を見つめるスタンドの観客がいて、そのむこうに大きな煙があがっている。ただそれだけの写真で、レーシングマシンの姿は1台もうつっていないが、どのような大事故が起きたかのかを見事に伝えたくるモノクロームの写真だ――と、中部さんは紹介した上で、実はここを伝えたかったのだ、とこちらが頷く仕掛けとなっていました。
同号はレースレポートとは別に「ドキュメント・炎上事故の一部始終」が用意されていた。当時の「AUTOSPORT」はジャーナリズム志向が濃厚だった(正岡註:その時の編集長が、ガンさんとぼくらを結び付けてくれた功労者の故・久保正明さん)。記者が 現場で知りえたネタをストレートに展開するところがあったにもかかわらず、このときの事故原因の報道については、きわめて慎重な姿勢をとっていた、と中部さんは指摘し、それは事故死したふたりのドライバーの尊厳を守ろうとしているからだろう、と筆をすすめる。
したがって事故の経緯についての報道に「関係者、目撃者の話を総合して推理すると」という注釈をつける。そして「AUTOSPORT」はこう書いた、と忠実に書き写す。多分、当時の事故状況の認識は、この内容が唯一、信じられるものだったろう。
*「レーシングオン」2007年11月号該当記事で紹介された「AUTOSPORT」誌
ローリング2周、グリーン・フラッグが出て本スタートを切った。まず⑧高橋が飛び出す。うしろに黒沢がすばやくつき、その左横に北野、やや遅れて高原、左斜後に風戸という布陣がしかれた。鈴木はかなり後方だ。そして黒沢と北野の接触がはじまる。7番ポスト(500m地点)まで3~4回当たり、そこで北野はグリーンに落ちてバランスをくずし、中団グループに突っ込む。下の写真でもわかるだろうが、北野が風戸、鈴木の間に割ってはいる。そして風戸(北野車の前)、鈴木、漆原車(後ろ2台)ともつれ、その右では米山と川口が接触している。
このあと、風戸はグリーンを走ってガードレールを支柱ごとなぎたおし、フェンスまでとんで炎上。いっぽうの鈴木も右(中部註:原文のままだが、誤植と思える。おそらくは「左」だろう)へ進行、風戸がなぎたおしたガードレールに突っ込み、切れた部分へ〝くしざし〟、燃えあがった。
また北野はイン側(ショートカット入口)まで漆原ともつれるように飛び込み、漆原が上に乗ったかたちでストップ。北野は漆原車のスキから脱出、漆原をコックピットから引き出したあと、火が激しく燃えあがった。そのほか、川口、高原、米山車が現地付近でストップしたが、いずれも無事だった。
古い記事を読むだけで身の毛がよだつ。この記事にそえられた写真を見ると、炎上した4台はマシンの原型がわからないほど破壊され燃え尽きている。おそろしい事故だったというほかない。――これが中部さんの率直な想いだったろう。
その事故現場は、当時の第1コーナーにあたる30度バンク直前である。現在の富士スピードウェイのコースに、30度バンクはない。その一部が残されていて記念公園になっている。
大幅なコースレイアウトの変更をしているので、現在の第1コーナーは(閉鎖された)30度バンクよりずっと手前にあり、それはヘアピン・カーブのように小さく右にまわりこんでいる。その第1コーナーには、長いストレートを走ってきたレーシングマシンが、なんらかのトラブルでスピードを落とせなかった場合にそなえて、ランオフエリアが大きく確保されている。その先は切り通しとなっていて、下に道路がある。さらにそのさきに30度バンクが記念公園あるという構造だ。
*富士スピードウェイのリニューアルにともない、かつての30度バンクは一部が残され、
記念公園になっている。写真はバンク脇に設けられた「30度バンクメモリアルパーク」の説明版
グランドスタンドの第1コーナー寄りにいる中部さんは、その場所から、多分現在の第1コーナーと30度バンク公園のちょうど中間、つまり切り通し道路あたりが、事故現場だろうと見当をつけた上で、その場所にむかい目を閉じ、黙祷をささげる。目を閉じた目の中で33年前(執筆は2007年)の嘆きがよみがえった、という。
「なぜ、こんなひどい事故が、おきるのだろう」
第1コーナーからもうもうと上がる煙、そのイメージがどうしてもはなれない。
ここまでは、中部さんに導かれてきた、「封印された魔の30度バンク」事件のおさらいとも言うべき助走部分であり、じつは率直に告白しておきたいことがある。これまでの「内藤国夫レポート」や「黒沢元治告白」に触れながら、事故発生現場を「30度バンク」の中、というより、バンクの入口で発生したものと、ある時期まで思いこんでいたことです。
パックリと口をあけ、ドライバーを飲み込んでしまう魔界を「30度バンク」にイメージしていたのです。だから内藤さんが黒沢さんから聞き出したコメントにあった、30度バンク入り口での、1本しかないベストラインをめぐる壮絶な競り合いと、そのあとの北野車のスピンアウト、それが引き金となった凄惨な事故も、すべてが30度バンクが舞台だった、と錯覚していたのです。だから惨劇の舞台は封印されたのだ、と。
ところが違っていたのです。富士スピードウェイのフラットで、長いストレートでの出来事だった。ことが、30度バンクのたった1本しかないベストラインをめざしてのバトルだったというのなら、不可解な部分がぐっと狭められるではなかろうか。ぼくは、そう受け止め、さらに中部さんの後からついていくことにする。中部さんがまず逢いに行ったのは、レース現場に居合わせて遺体収容を手伝った人物でした。
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/31 01:15:19