当「みんカラSPECIAL BLOG」の執筆メンバーのひとり、吉田匠さんから嬉しいメッセージをいただいた。
以下、ご本人の了承を得て、そのやりとりの主要部分を記録しながら、「封印された30度バンク」にかかわる「あの多重レース事故はなぜ起こったのか」という命題に、新しい視点・資料を加て、さらにアプローチをつづけたい。
*匠さんのイメージは「Special bolg」から拝借
抑制のきいた匠さん(以下、吉田匠さんを親愛の想いをこめてこう表記させていただく)のメッセージは、9月8日の午後、「1974年CGシリーズ第2戦のこと」と題して、届けられた。
「モータージャーナリストの吉田 匠です。ブログ、いつも拝見しています。
前から気にはなってはいたものの、あまり参考にならないかと思って敢えて連絡をとりませんでしたが、ここに至って思い切って連絡させてもらいました。
実は例の1974年富士GCシリーズ第2戦、当時僕は『CG』誌でグラチャンシリーズの担当でして、あのレースも現場で取材し、1974年8月号の『CG』にリポートを書いていました。
それに関してメールしたいことがありますので、もしもご興味があれば、メールをいただけませんか。折り返し、こちらからメールを差し上げます」
即座に、メールを送信させていただく。
「確かに、CGというメディアが「1974.06.02」の出来事をどう捉えていたか、これは欠かしてはならない視点でした。その現場取材を、匠さんがリポートされていたとは。
すぐにでも、国会図書館へ飛んでいきたい気持ちです。
是非、お聞かせください。この出来事に対するぼくのスタンスは、ブログを開いていただいているとのことなので、説明は略してもいいですか?」
午後6時を過ぎたところで、匠さんからメールが着信しました。
「早速の返答、ありがとうございます。以下に、そちらのブログのマイページにメッセージを残した理由をお伝えします。
当時の『CG』は、入社から数年の新人編集部員がロードインプレッションなどの試乗記を書く他に、内外のモータースポーツの記事も担当する慣わしになっていたのですが、当時入社して3年目だった僕は、国内スポーツに関しては富士GCシリーズ本戦の記事のみ担当していました」
そのシステムのことは、知っていました。『CG』のシンボル、小林彰太郎さんも近著「小林彰太郎の日本自動車社会史」(講談社ビーシー/講談社刊)で、こう懐かしく、そして誇らしげに記述しています。
*小林彰太郎さんの近著。ぜひ一読あれ!
「一般論として、自動車専門誌の場合外部のライターに原稿を依頼するのが普通である。だが『CG』では、すべて社内原稿で制作する方針を選んだ。だから新進気鋭の記者12名を擁し、新車テストはもちろんのこと、重要なレースや各種イベントを漏らさず社内スタッフでカバーしていた」
余談ですが、ある時期、『CG』は業界最速の走り屋集団でもありました。『CGレーシングチーム』を結成して、ドライビング・スキルを磨くよう、小林編集長が奨励していました。だから、鍛え抜かれた、どの編集者も、クルマに関する見識は勿論のこと、走ることにも優れ、群を抜いていたものです。ぼくが45歳で自らレースに取り組むようになったのも、『CG』の方針に刺激されてのことだったかもしれません。
匠さんはつづけます。
「したがってあのレースのリポートは僕が書いたわけですが、ご存知のように『CG』はモータースポーツ専門誌ではなく、僕自身も当時からモータースポーツよりはクルマのロードインプレッションを書くことを自分の本業と認識していましたから、正岡さんが引用されている中部博さんのように、あのアクシデントについて深く突っ込んだ取材をしているわけではありません。
*『CG』1974年8月号所載
端的にいって、あの日、FISCOの現場にいて知り得たこと、および自分が実感したことをベースにして書いたのが『CG』1974年8月号の「GC第2戦レースリポート」、およびモータースポーツのための提言コラム的性格をもっていた「PIT SIGN」の記事でした。(中略)
けれども、正岡さんのブログをきっかけにして当時の自分の記事を読み返してみたら、37年前のあのとき僕が書こうとしたのは、「どうしてああいう事故が起きてしまったのか?」という視点からだったということを再認識しました。
だからその点に関しては、ヒート1のローリングラップの進み方、同レース展開、ヒート1とヒート2のあいだのインターバルに起こっていたこと、同じくヒート2前の臨時ドライバーズミーティングと、そこでの各ドライバーの発言、そしてヒート2のローリングラップの異様性など、あの事故を誘引する原因になり得た可能性を持つ事実について、僕なりの表現でそれなりに細かくリポートしています。(中略)
なお、誤解のないように付け加えておきますが、黒沢元治さんとは現在、例えば試乗会の会場などでお会いすれば挨拶し、場合によっては軽い冗談などを交わすごく普通の間柄で、10年近く前の沖縄が舞台の試乗会ではガンさん一人でいた席に手招きで呼ばれ、いっしょに朝食をとったこともあります。
37年前にリポートを書いたときには、ヒート1ローリングラップの不運と不遇が引き金としてあったにせよ、あの悲しむべき事故の恐らく最大の要因を生んだであろう人物として見ていたという記憶はありますが、現在のガンさんに対しては、運転が抜群に巧い自動車界の先輩という事実以外、特別の認識はもっていないことを明言しておきたいと思います」
最初に「抑制のきいた」とことわった匠さんの表現力の質の高さが、充分にお分かりいただける内容です。実はぼくの方から匠さんに、昼食でも摂りながら、話を訊かせて貰えないか、とプロポーズしたいたのですが、これも見事な御断りの返事となっていました。
「主に事故の原因の部分でちょっとだけお手伝いできればとおもっただけなので、どうかご心配なく。
僕としては、あの時点で分かったことや感じたことはすべて『CG』に書いてしまったのに加えて、現在あの事故に関して特別の感情や思いを持っているわけではなく、たまたま正岡さんのブログを見てそういえばあの時のことは自分もかいていた、と思い出しただけなので、お会いしても新しいことは何も出てこないと思います」
さて、その翌日、いそいそと国立国会図書館へ足を運んだのは当然でした。満たされた想いで、帰宅すると、匠さんからすでにメールが着信していました。
「こんばんは。国会図書館では、当時の『CG』閲覧できたでしょうか? せっかく足を運んだのに得るものは何もなかったよ、ということにならなければいいが、と心配しています。得るものはなかった、という回答を含めて、何がしかの感想をお知らせください」
英国紳士を連想させる匠さんの、なんというあたたかい心配りだろう。早速、報告書を書きあげなくっちゃ。
ところで、この稿のタイトルをはじめに「うれしい連携」としましたが、お互いが連携し合って何かをしようというわけでもありませんので、「告知」あるいは「伝言」かな、と推敲して「嬉しい伝言」と改めました。
ついでに当時との距離感を出すために、サブタイトルに「当時の」を追加しています。