9月3日の『メディア対抗4時間耐久」に第1回から欠かさず出場の津々見友彦さん
このブログをスタートさせたのが、6月15日。4歳の時のぼくの「ファーストラン」にはじまって、それから数えてみると、129日。その間、ブログをアップすること、56回。打率、0.4341か。多いのか、それとももっとテンポよくアップさせた方がよいのか。いろいろと悩んでおります。でもたくさんの「みんカラ友達」に恵まれ、励まされ、75歳の青春をたっぷりと愉しんでいるところです。
悩んでいるといえば、例えば前回の「君のいないサーキットの秋深し! 風に消されたトオルは(Ⅱ)」などは、今にして思えば、2度に分けた方がよかったのかな、と反省しています。たとえば、誘惑の章、別れの章ときたら、その回は、「ヘアピンには、まず星野がきた。続いて高橋国光の赤と黒のマシン。徹がいない!」で止めておいて、すぐ次の日に、「赤旗が出た。レース中断だ。マーシャルカー、救急車、レッカー車が禍々しいサイレンを鳴らしながら最終コーナーへむかった。ぼくも駆けた。バドックの金網フェンスに沿って。」からはじめてもよかったな、とも。
恐らく、つづく「鎮魂の章」、2冊の著書や、彼の事故に巻き込まれて命を落とした観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に起こした民事訴訟と、その結末まで一気につき合わせてしまって、申し訳なかったとさえ考えています。率直な感想、ご意見をいただければ、おおいに、今後の参考にさせていただきます。どうぞよろしく、というところで、今回は津々見友彦さんの話から。
津々見さんのことをマカオのモータースポーツファンは「チュンチュンキ」(この発音、違っていたかな?)と親しみをこめて、こう呼ぶ。マカオGPには早い時期から出場し、カウボーイ・ハットに、チャールス・ブロンソンばりの口髭をたくわえた風貌、いかにもテクニシャンらしい走り。マカオでの彼の人気は、嫉妬したくなるほど熱かった。
その津々見さんと、久しぶりに筑波サーキットでお会いした。当年70歳で、まだメディア対抗ユーノス耐久に出場していたのです。さっそく、この日の津々見さんのチーム・メートである桂伸一君(愛称、コボちゃん)も加わって、肩を組んでの記念撮影。津々見さんには、大昔、スペイン・バレンシアでのカペラ海外試乗会に招かれた際、一緒になる機会があって、タック・インの使い方を教わったことや、ベストカー創刊号で作家の村上龍さんをフォーミュラーカーに同乗させる企画が持ち上がり、FISCOで津々見さんに無理をきいてもらったことなど、数え上げたらキリがないほど縁のある人物。
その人が『1974・06・02』の証言者の一人だという。中部さんの記述からも冷静で丁寧な対応と、筋の通った論理がうかがえ、いずれこちらから時間を頂戴するこころづもりをしているが、さすがにサーキットでその約束をとりつけるのも憚られた。
そうやって、モタモタしているうちに、貴重な津々見さんの寄稿記事を発見した。
『投稿「テレビで事故を見た!」消えた記録映像をめぐって』で紹介した読者の声と同載の「AUTO SPORT」8月1日号に、強烈なアピール力をたたえた内容だった。
「2度と同じ”あやまち”は繰り返さない」というタイトルがつけられていた。
以下、ともかく、この一文をよんでいただきたい。
ぼくのレース歴のなかで思い出したくないことがあるとすれば、6月2日に行なわれたGC第2戦である。もちろんレースにアクシデントはつきもの。そんなアクシデグントを乗り越えてわれわれは、ここまでやって来たのである。
しかしわれわれは、貴重なわれわれの宝であるビッグ・ツーを一度に失ってしまった。風戸君はわれわれのカンバン男であった。あのノーブルなキャラクターは、多くの若いレース・ファンの心をとらえ、育てていたのである。そしてもうひとり、ベテラン鈴木誠一さん。この人はぼくの育ての親でもある。彼の存在はちょうどレース界の重鎮ともいうべきもので、まるでいぶし銀のような花やかではないが、鈍く力強く光る底力があった。彼の人生こそ、まさにモーターススポーツそのもので、次の彼の仕事は、この愛すべきスポーツをもっと力強く花咲かせることであったのである。将来、彼にどんなに、底辺の育成に貢献し、また安価なマシンを提供してくれたことかと思うと、思わず目の前がまっくらになってしまう。
プラクティス走行中にクラッシュしたため、ローラT212から急遽ローラT290のコクピットにすわる
「レーシングオン」2008年6月号所載より
さて、このふたりのアクシデントはまったくのもらい事故であった。前方を走る2台のマシンの接触。そしてアウトに飛びだしたマシンがスピンし、後続の群の中に突っ込んだのである。そして数台のマシンが入り乱れて飛び散り、不幸にもこのふたりのマシンはガードレ一ルに激突、もっともひどい結果となったのだった。
われわれはこのさい謙虚に、ふたつの反省をせねばならない。そのひとつに、ドライバー自身のレースに対する受けとりかたである。
いくら勝つためとはいえ、必要以上のヒートは許されないのだ。そこには暗黙のうちにある約束ごとが、マナーという言葉で存在するはずある。たとえば、バンクの入り口で、2台のマシンがまったく並進していたような時には、あきらかにアウト側のマシンに優先権があり、このばあいイン側のマシンは進路をゆずるというのが原則なのだ。
なぜならばイン側のマシンはそのラインでは速度を落とさずに、バンクを通過することはできないからである。
しかし逆にヘヤピン・コーナーではまったく反対になる。2台のマシンが並進してとび込んだばあい、イン側のマシンに優先権が与えられる。なぜならイン側のマシンがターンした時、わずかに鼻先を出すことになるからである。つまり先ほどのバンクの例では、すでに直線のアプローチで、アウト側を取った者のほうが、有利なポジションをすでにつかんでおり、この時点ですでにイン側のマシンは負けているわけだ。
ヘヤピンの例もそれで、アプローチで、イン側のほうがそれだけ勝っていることになる(いずれの例も並進しているばあいで、つまり頭はまったく同列にあるばあいをいう)。
もしこの原則を無視して、そのまま2台のマシンがラインをめいめい進んだとすると、
必然的に接触してしまうことになるだろう。接触するレースは最低といえる。なんらかのトラブルで、やむなく接触したのは別として、追い越しのテクニックに、接触させるなどとんでもない。
うまいドライバーは紙一重で接触をさける。だからこそ神技と呼ばれるわけで、接触させてしまうことなんか、免許取りたてのドライバーなら誰でもできる。レースはメンタルなテクニックで戦うべきもので、互いに心理的なかけ引きや、あっというまにスルリと抜きさるのが、ハイテクニックであろう。ドタドタとした重トラックのぶつかり合いじゃない。互いに相手をいたわって最後の一線は残してやるのが真のレーシング・ドライバー・スピリットだろう。
ぼくが予選の日の朝、横山コーナーで自分のオイルを踏んでスピン、ガードレールにクラッシュした時、すぐに止まって助けようとコクピットから出たふたりのドライバーがいた。僕はとても嬉しかった。同じレースにすべてをかけあっている者にしかわからぬ友情をひしひし感じ取ったからなのだ。そのふたりのドライバーとは黒沢選手と北野選手だったのである。
さて、いっぽうマシンのほうも、安全対策をほどこすべきである。なんといっても、クラッシュするとすぐに火がつく。鈴木さんのマシンもコース上で、クラッシュしたとたん火を吹いてしまったのである。
セーフティ・フューエル・バツグも、ボディ両サイドにあったんじゃたまらない。なにしろクラッシュするとまず、この側面が真っ先きにふっ飛んでしまい、ガソリンがキリ吹きみたいに吹き出し、一種のキャブレターになってしまう。あとは空気中の酸素を得て大爆発! つまりセーフティ・バッグなど、クソの役にも立たない。中野選手の事故も、ガードレールに激突したとたん、火につつまれてしまっている。もう絶対に火を出すべきではない。火さえ出さなければ、中野君も、風戸君も、そして誠さんもたすかっていたにちがいない。いや絶対に助かっていた。
だからタンクの位置を、中央部に移動すべきなのだ。理想的なのはエンジンとシートとの間だが、手取り早くはコ・ドライバー・シートにタンクを置くことだろう。ここであればまず、99%、タンクが破裂することはなかろう。もし、ここまでシャシーのダメージがあるのなら、残念ながらドライバーはあきらめなければならないだろう。つまり、どちららにしてもだめな時だ。しかし過去の例で、ここまでダメージを受けたことをぼくは知らない。(中略:この後、消火器について提言している)
とにかく、われわれはこのあやまちを2度とくりかえしてはならない。ふたり、いや3人の死をむだにしないためにも、安全で楽しいレースにするのがわれわれに課せられた使命であろう。
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/10/25 02:08:58