
『レーサーの死』の著者・黒井尚志さんが「偏見に満ちた記事」と指差した朝日新聞は、どんな報道だったのか。その検証からはじめたところ、右肩上がりの連続で、すっかり精神の抑制が利かなくなっていたあの時代の記憶が蘇ってくる……。
1973(昭和48)年11月24日の朝日新聞は、第3面を「〈渋い連休〉ノー・ガソリンデー初日」と題して各地の話題を集めていた。なにしろ、日本道路公団(当時)のハイウェー計40か所をはじめ、全国約4万3000か所のガソリンスタンドの多くが休業、ドライバーの給油がシャットアウトされたのだから、その騒動ぶりは容易に想像できる。
*1973年11月24日の「朝日新聞」朝刊第3面
この日の交通量は全国的にみると3割減で、東名高速道路は、浜名湖サービスエリアの駐車場がいつもと違って空間が目立ち、6,7割程度の利用。静岡県小山町の富士スピードウェイではグランプリと同じくらい人気のある富士グラン・チャンピオン最終戦の決勝レースが行われたが、つめかけたマイカーは約4000台(御殿場署調べ)で、いつものレースの3分の1だった。――と前置きして、各地の道路で燃料切れに呆然とする車が続出するなか、トランクに予備ガソリンの容器を積んだちゃっかり組に、それがいかに危険な行為であるか、警告を発するスタイルをとって、「社会の公器」としての使命を果たしていた。
また第21面の「東京」欄では、「消えたネオン 消えぬ社用族」という大見出しで、節減令どこ吹く風の「夜の銀座」の狂騒ぶりを辛辣に、そしていささか、自嘲気味に伝える。
「夜10時、外苑通りの日航ホテル前にハイヤーがどっと集まってきた。駐車場所を確保するため、けたたましくクラクションを鳴らし合い、陣取り合戦。約50メートルの長さの駐車場所に、ざっと15台の車が斜め駐車し、その外側にも身を寄せるように車が列をなし、たちまち30台。
かっぷくのいい紳士が3人、4人と車から降り、クラブやバーに消えると、かしこまっていた運転手らは外に出て背伸び、「お客さんが出てくるまで2時間は待たされるだろうな」「エネルギー危機なのにムダだって? ムダはわかるけど、こうやって使ってもらわないと食っていけないよ」
そばでタコ焼きの屋台を出しているおばさんが、こうした光景を、冷めた目で見続ける。
11時を過ぎると、客を降ろす車、迎えに来た車の往来が一段と激しくなった。
大手ハイヤー会社の銀座営業所。ここだけで92台の車を置いているが、1日平均400件の利用があって車庫に車が遊んでいることはめったにない。大手建設、商事会社などがお得意さん。朝のお出迎えにはじまって、昼は商談、夜は12時から1時ごろまで接待、というケースが多いようです、と営業所の係が話す。この営業所だけで、1日入ってくるハイヤー料金は計200万円、使うガソリンは約3000リットルだそうだ。
こんなスケッチも。
「店がはねる11時半過ぎ、家路を急ぐホステスと客が歩道を埋めた。有楽町や新橋駅へ向かう電車帰りの人たちだ。買い込んだトイレットペーパーを抱えるホステスもいる。流しのタクシーは「新宿まで1500円だよ」と、相変わらずの乗車拒否。
近くのタクシー乗り場に長い行列ができたが、止まらない車が多く、30分以上も待ち続けるのはザラだ。そんなイライラを横目にハイヤー族が車に乗り込む。午前零時過ぎ、外堀通りは客を家まで送るハイヤーと、身動きできずにいら立つタクシーがひしめき合い、サイレンを鳴らした救急車が立ち往生、救急車はサイレンを鳴らすのをあきらめた。
この間、銀座の大きなビルのネオンは消えていた。
同夜、銀座に集まったハイヤーや高級車は延べ1000台以上、やっと駐車場所からハイヤーが姿を消したのは午前1時をまわっていた。
そして23ページ目にある「社会面」は10段のスペースを使って、富士スピードウェイ炎上事故の詳細を掲載している。
「恐怖のカーレース」「激突炎上し4人死傷」「テレビ実況中 惨事、茶の間へ」
もう見出しを並べただけで、内容もわかってしまうようなものだった。
――約10年前から始まった日本の自動車レースで4人が一度に死傷するという大事故は初めてだが、このレースはテレビで実況中継されていたため惨事の瞬間がテレビでそのまま茶の間にも送り込まれ、ブラウン管を赤々と染める火災と黒煙が大きなショックを与えた。
すでに前回、読売の報道で事故の模様は紹介済みなので、重複する部分は省略するとして、「朝日」ならではの指摘部分については、極力拾い上げたつもりである。
その書き出しは新聞記事というより、雑誌的な「情緒」をたたえたものだった。
「さる3月からシリーズで行われてきた排気量2リットルのレーシングカー・レース、富士グラン・チャンピオン・レースの最終戦、富士ビクトリー1200キロ(6キロコース33周)は、2万4000人=主催者調べ=のファンが見守る中で同日午後零時45分スタートした。競技長の振るスタートのフラッグを合図に34台の車が耳がつんざくような爆音をあげて一斉にスタート。約1キロの直線コースを、各車が先を争って飛び出した。コースはそこから右に急カーブ。しかも走路が、右下がりに30度も傾いている難所のバンク。主催者側の発表によると、第2集団にいた生沢選手が、バンクに入って間もなくスピンを起こし、その後ろにつけていた中野選手が、よけようとして、これもスピン。コース上部のガードレールに激突して車体がバラバラになり、あっという間に火炎につつまれ、走路を下へと落ちて行った」
そこへ後続の3台があいついで追突。この3台も燃えあがり、一緒に転落していった、という。描写がつづく。が、事故の発生場所こそずれているが、半年後に起こったあの惨事と酷似しすぎる。
*当時の30度バンクのレースシーン(1974年6月2日の富士GC 東京12Ch放送録画より)
*同上放映シーンより、事故現場へ走る観客
「事故が起こったのは、スタート後1分足らず。もくもくとあがる黒煙に場内は一瞬静まり、すぐどよめきに変わった。現場を目ざしてファンがすすきの野原を走る。消防者と救急車がけたたましくサイレンの音を響かせて現場へ。この異様なふん囲気に、関東をはじめ、中部、関西から集まった“カーキチ”たちも、ただだまって見守るだけ」
レースはそのまま続行されたが、観客のほとんどはレースなど見ていなかった。事故から2時間後、中野選手の死亡が公式に発表される。選手たちの話によると、病院に向かう前に中野選手は死亡していた、という。
事故発生と同時に御殿場署は現場検証を行い、業務上過失致死牀の疑いがあるかどうか、関係者から事情を聞いているが、同署は「レース中の事故なので、刑事上の責任を問うのはむずかしい」とみている。
それが半年後、黒沢・北野の両選手の接触が招いた多重事故の際の取り組みは、随分と温度差がある。そこが当事故を「序奏曲」と想定して、ながながと「朝日」「読売」の報道記事をおさらいする所以であり、池田英三さんが「引き金」と指摘したのも、肯けるではないか。
辛辣で、率直な記事がつづく。改めて横書きの見出しで、こう謳う。
「マシンは高性能 追いつけぬ技術」「選手は賞金に血まなこ」
――4台が炎上するという大事故の現場に残っていたのは、焼けただれた醜い細い鋼鉄製の棒だけだった。高性能を追及するクルマ、それに追いつけない選手の技術、選手を血まなこにさせる賞金と商品、それにつけこむコマーシャリズム――事故は起こるべくして起こった。
そして、マシンの高性能さの裏に潜む危うさに、こう言及する。
「死亡した中野選手の車は、排気量1975ccのシェブロンB23。エンジンは決められた排気量の中で、スピードがめいっぱい出るように改造され、車体も極端に軽くしてある。外見はいかにもカッコいいが、普通の車と違ってレーシングカーの中身は細いパイプばかり。そのうえ外装も軽金のマグネシウム合金の板。手で押せばへこみそうなほどチャチなもので、火に弱い。中野選手がガードレールに激突した瞬間、クルマ全体が火に包まれていたという」
この危険性については津々見友彦選手をはじめ、心ある関係者は強くアピールしていたのは、事故後のAUTO SPORTの特集号でもうかがえる。その手当をしないまま、富士グラン・チャンピオンシリーズは、新しい1974年のシーズンに突入する。その状況を踏まえて、中部博さんの『炎上』が店頭に並んだ。
どこを、どこまで書き込んだのだろう。心弾ませて、ぼくはページを開いた。