
かねてより、呼び声ばかりが聴こえていた「ミラージュCUP同窓会」が、やっと開かれる運びとなった。3月23日、新宿のホテルが予定されている。ドライバーばかりではなく、レーシングガレージ、メカニックで関わった昔の仲間にも声をかけます、と幹事役の久保健さん(CATVスポーツ専門チャンネルの営業責任者として活躍中)から報告があった。幹事長は「新人ドライバー殺し」で有名な、あの小幡栄さん。幹事役に佐藤久実、田部靖彦といった「戦友」の名前が並んでいる。
その報が伝わると、Facebookを中心にお互いの消息を確かめ合う交流がはじまっている。そこで、この際、昨年5月でフリーズしたままのレース参戦の記憶を、もう一度、呼び醒ますことにした。そのセピア色の記録から、何が伝えられるのだろうか。
三菱ミラージュCUPが始まったのは1985年。あっという間に、華やかなワンメイクレースとして、モータースポーツファンを惹きつけた。
翌年、そのエントリークラスとして、フレッシュマンレースが全5戦でスタートし、わたしも参戦した。そのとき50歳。あのころの若さ(?)と情熱が懐かしいし、自らを「ドン亀」と称しながらも、それなりのプライドも持ち合わせていた。
が、その初年度、それまでの4戦の戦績は第2戦の富士スピードウェイを舞台にしたときだけがポイント4点、あとの筑波(1、3、4戦)では各1ポイントずつという寂しい有様。合計7ポイントで、シリーズ12位。目標のベスト10入りには、最終戦で7位くらいに位置しないことには、届かない。
さて、困った。しかもそのころは新雑誌の創刊やら、映像マガジンの準備やらで、ロクに走りこみもできていない。その上、最終戦も苦手の筑波。結果は見えているじゃないか。
そこでスタッフから名案が出た。
「局長(いまでも、そのころのレース仲間はこの愛称で呼んでくれる)には荷が重いだろうけど、ミラージュの上のクラス(ちょいと気障にエキスパートと呼ばれていた)に出てみたら? ちょうど9月13、14日に第3戦が筑波であるから、いい練習になると思うよ」
それは名案である。すぐに採用した。
9月13日の土曜の朝、勇んで筑波に乗り込んだ、と思っていただきたい。わたしのベストカーミラージュ(1987年まで。ベストモータリングミラージュは88年度から)は、すでにテスト&サービスのスタッフの手によって、奇麗に磨きあげられ、出動を待っていた。
チーフメカの宇賀神〈大明神〉が、いつもの柔和な笑顔で、ドキッとするようなことをのたまう。
「エンジンは最高に回っています。ブレーキパッドも特製の秘密兵器でバッチリ。1分12秒台はいけるはず」
そら、きた。期待されているが故のプレッシャー。それも、今では懐かしい。
さてコースイン。それからの1時間のフリー走行で上のクラスのミラージュスペシャリストたちに、さんざんに可愛がられてしまった。
*ゼッケン⑧はTSの鬼と謳われた真田睦明選手
とにかくメンバーが凄い。TSの鬼、真田睦明がいる(以下、敬称、略)。そのころ、ハコに乗せたら一番速いんじゃないかと注目されていた中谷明彦がいる。清水和夫、小幡栄、小宮延雄、横島久、伊藤清彦。このほか、名前を聞いただけでも、なるほどと唸るドライバーばかり。
各コーナーでコキーン、パキーンとぶち抜かれる。それでもなんとか離されまいと右足で踏んばるのだが、とくに最終コーナーの100Rにくると圧倒的に気圧される。マシンの向きが違うのだ、こちらは辛うじて、マシンが左へ流れるのをステアリング修正で抑えている程度なのに、彼らはマシンの行きたい方向へ、勝手に行かせながら、タイヤの向きを存分に左へ切って、快適なスピードで立ち上がっていくのだ、彼らは10秒台、こちらは12秒台後半を、時折マークする程度であった。
1時間が終わって、こんなに疲れたのははじめてで、「どうでした?」と問われても、返事する元気もないほどだった。
*レース前のインタビュー
一夜が明けて、筑波は快晴、なにしろ、この日のレースのメインイベントがミラージュCUPだったから、待遇のいいこと。決勝の30分前に、予選の結果順にインタビューつきの選手紹介が用意されているという。予選出走が25台、どん尻に壇に上がることだけは避けたい。
そうは思ったものの、結果が出てみると、23位。タイムも1分13秒2、とフレッシュマンの時とさほど差はないから、当然の順位だった。ま、フレッシュマンとのダブルエントリー組が6人ほどいたから、どん尻は、辛うじて免れただけ。手近な目標は、なんとか米山二郎に追いつくこと。なぜか。彼はフロムAポルシェで、Cカーに乗っているドライバーじゃないか。
*18周目、後ろから迫るのは中谷選手。ということは……。
レースは、第1コーナーでドン尻に落ちた。なにしろ、クリスマスツリー式の慣れないスタートとあって、わたしの周りは青ランプが点く前に。飛び出している。つまりフライング。こちらが2速に入れた時には、後ろから出たフレッシュマン仲間の照沼毅、高橋一仁の2台とも、わたしの前へ。
ダンロップブリッジ下で、保田薫がミスってくれたり、標的の米山旦那がフライング組の代表でピットインさせられたり、村松康生、遠藤栄作の両選手がどこかでしくじったらしく、20周を走り切った時には、スタートと同じ、23位に戻っていた。
*シャンペン・シャワーを浴びる中谷、向かって左が真田選手
*8位の清水和夫選手は左コーナーごとに凹んだ左ドアを抑えてドライブ
それにしても、18周目の第1ヘアピンで、トップの中谷明彦に追いつかれたのには 、腰をぬかした。その時のわたしは先行する高橋車をどうやってもパスできないので疲れ果てていた。
「よし、中谷の抜くところを見てやろう。いいチャンスだ!」
右手を出して 、中谷に合図を送る。右側から抜いてくれ、と。ダンロップブリッジ手前の右折コーナーで、中谷がスイと前へ出る。と、あっという間に高橋を抜いたばかりか米山旦那までゴボー抜き。あんまり鮮やか過ぎて、何の勉強にもなりゃしない。
レースが終わって、ヘアピンで観戦してくれた舘内端さんが寸評してくれた。
「前戦の時より、コーナーを出るとき、アクセルを踏み過ぎて、タイヤをひっかくようなことがなくなったのは〇。でも、コーナリングで、ブレーキを解くのが早過ぎるのが×。あと、ひと息、遅らせれば、もっとスムーズマシンの向きを変えられると思うよ」
そんなわけで恥をしのんで志願した特訓レースは無事終了した。が、どうやら、わが「闘走心」に火がついてしまったらしく、つづくFISCOのエキスパート戦に、再びエントリーしてしまう。そこで待っていたのは、真田睦明親分の強烈な「特訓しごき」なのだが、それは次回の更新で。
と同時に、久保君にメールを入れた。「同窓会の連絡を、真田睦明さんに済ませましたか?」と。なんだか、とっても彼に逢いたくなったのである。
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ミラージュCUP 闘走の記憶 | 日記
Posted at
2013/02/27 14:24:06