~『ベストカー』'86年5月26日号の不思議~
なには措いても、約束通りにガンさんの追悼文『東北・菅生で萩原光(あきら)が風になった日』をつづけよう。1986年4月7日の朝、菅生サーキットのウィナーズサロンで、《レイトンハウス》のチームメイト、萩原光と冗談を言い合いながら、テスト走行の準備をしていたところまでは、紹介済みだった。
着替えがすむと、ぼくたちはピットに入った。
グループA第1戦(西日本サーキット)でスカイラインとデッドヒートを演じてくれた本番車と、4月5日に購入したばかりのニューカー、MB190-2・3が並んでいる。
「どっちに乗るんだ?」
ぼくが訊くのに、光はすかさず、答えた。
「本番車でたのみます」
*’86年度GrA第1戦、西日本サーキットにて。ガンさんのドライブで7番手から出て、2位まで上がったのだが……。右端の光のソックリさんが任(まこと)マネジャー
彼はチームのファーストドライバーだ。ニューカーのテストは「当然、ぼくの仕事です」と、その目が語っている。
「よっしゃ」
ぼくはMBに乗りこむと、先にコースに出た。7、8周したろうか……。59秒台が出たのでいったんピットインすることにした。スプリングとギアのレシオがいまいちでもあったから。
その間、光は走っていた。聞くところによると、彼は一度ピットインしたらしい。
だが、その走りっぷりは攻撃的で、しかも、繊細。ニューカーとの入念な対話がうかがえて、テスターとしても満点だ。《本番車》の調整のために、メカニックが部品を探している。
レイトンハウスの赤城社長が「部品が届くまで乗ってきたい」という。ギア比の問題点をちょっぴりレクチュアして、ぼくは赤城社長の乗る《本番車》をピットから送り出した。
*GrA第1戦、西日本サーキットを沸かせた、長谷見昌弘との大バトル
コースでは光のMBとトッペイちゃん(都平)のスカイラインがテール・トゥ・ノーズで周回している。快調に飛ばしている。
「やるじゃないか」と、ぼくは思わずニンマリとしたものだ。
光のタイムが上がってきた。トッペイちゃんのスカイラインを引き離していく。
突然、サーキットからエクゾーストノートが消えた。しかも、全車とも戻ってこない。おかしいなあ……ピットで誰かれとなく、つぶやきはじめたとき、コースの管理者がすっ飛んできて叫んだ。
「誰か、赤旗を降ってくれ! たのみましたよ!」
と、消火器をもって彼もピットを飛び出していった。メカニックの若者が赤旗をもってコースにでたもののそれはなんの意味もなかった。1車たりとも戻ってこないのだから……。クラッシュだな、いったい、誰だろう――。
レイトンカラーの16番が全開でピットロードを突進してきた。赤城社長が運転する《本番車》だ。
「消火器! 消火器を出してくれ! 光らしい。光みたいだ」
クソ! ちっぽけな台所用の消火器しかない。ぼくとメカニックはMB16番に飛び乗って《現場》に飛んだ。
すごい風だ。吹き荒んでいる。
火が舞い上がる。もう、恐ろしいほどの火だ。クルマの中の黒い陰影、あれが光なのかっ!
はやく! はやく火を消せ!
――ところが、消火器程度で消えるシロモノじゃない。まったく、手がつけられない状態である。光を包みこんだ炎が風にあおられて、右へ、左へ!
……30分ほど経過しただろうか。やっと鎮火した。火は消えたが、光は、サーキットの風になった。
つい先刻まで、満開の桜のように輝いていた青年が、炭化して、真っ黒な物体に変っている。狂ったような炎に包まれて光は悲鳴ひとつあげることもできず、コクピットの中で、孤独な最期を迎え、あげく、無残な遺体になった。
★ ★ ★ ★ ★
もっていきようのない怒りがこみ上げる。がンさんは心の中で光に、詫びながら、誓っていた。
「強風と、なんの役にも立たなかったちっぽけな消火器。光の若い命を救えなかった原因は多々ある。けれども、なによりも先に、光に詫びなければならない。プロフェッショナル・レーシング・ドライバーと呼ばれるぼくたちが、それを仕事としたときから実行しなかった安全対策、ドライバー間の相互連絡機構など、先輩としての《やり残し》が次から次に、ぼくの頭に浮かんでくる。光、聞いてくれるか。きみの死を無駄にしないためにも、モータースポーツ界の矛盾を掘り起し、まず第一に取り組まなければならないのは、レーシングドライバーの安全対策だ。せめて飛行場にある化学消防車を各サーキットに配置してもらうよう運動したい」
ガンさんには、あの富士スピードウェイでの多重アクシデントをはじめ、不幸な過去がある。彼自身が死に直面したレーシング事故もある。星野一義、松本恵二らと語らって、それからのガンさんが精力的に動いたのを、わたしは記憶している……。
その前後の記憶を確かめるために、ベストカーのバックナンバーを洗うことにした。そして、驚いた。1986年5月26日号(発売は4月26日)、この1冊に「風になったプリンス」にかかわる、確かめたかったものがゴッソリ、集約されて掲載されているではないか。
その時の編集関係の総責任者は、わたしだった。表紙は当時、カネボウのCMで売出し中だった浅香唯さん。
いきなり巻頭のカラーグラビア6ページを割いて『ニュルブルクリンク発 ポルシェ959世界初試乗』。ドライバーズシートには徳大寺有恒が……。締め切りの時点でフィルムと原稿はまだ空の上。担当の宇井副編集長が絶望の悲鳴を上げていたのを思い出す。
そんな綱渡りも日常茶飯事だった。そのポルシェ959に魅せられて映画まで創ってしまったのが「レイトンハウス」だったという絡み合い。
活版ページは51Pから始まる。そこは「目次」が当てられていて「萩原光炎上死、その時何が起こった!?……115P」というタイトルが、わたしを誘ってくれている。が、ペラペラとめくっていく途中、見覚えのあるページが待ち受けていた。
「FRI・フォーカス」としゃれた題をつけ、見開きで萩原光の告別式の模様を伝えたのは、このページだったのか。アキラ専用だったF2マシンに花々を供え、アキラのパネル写真が飾られている。この葬儀は、あたかも鈴鹿・富士のパドックを再現したかのようだった。
「光にレースを許したとき、いつか、この日のくることはわかっていた。覚悟はしていたけれども、親として、この子だけはと……。お世話になった皆さんにご恩返しもできないまま、光は死んでしまった。でも、恩返しは弟の任(まこと)が光に代わってやってくれるでしょう」
4月12日、告別式のあいさつで父、萩原本之さんが痛恨の胸中をのぞかせていた。
そうだった、この記事は、葬儀に出席したわたしが書いたものだと、記憶が蘇えってきた。小田原市の小高い丘に並ぶ墓標のひとつに、若い石肌をみせる光の永眠の場がある。光を弟のように可愛がっていた星野一義は、その墓石に水をかけたとき、はじめて「光の死」を実感したと漏らす。そして、菅生の事故の前日にも、光は鈴鹿でマシンが燃えてしまうアクシデントに見舞われていて、不吉な予感がしてならなかったと明かしていた。
「信じる、信じないじゃなくて、いっぺん神社へ行った方が……」
エエ、と光は肯き、弟の任もウンウンという具合に首を縦に振ったという。
そんなくだりを、「連載・シリーズ闘う男」のなかで、触れている。そして、モノクロのグラビアページ(157P) で、鈴鹿のピットロードで燃えているニッサンR86 Vを見せている。もちろんドライバーは光である。
115ページ。「闘う男」の中で、ドキュメント風にこう記されている。
*4月6日(日)=鈴鹿*朝のウォーミングアップでアクシデント発生。アキラの駆っている日産グループCカーが炎上した。ちょうどストレートのオーロラビジョンの前に並行するピットロードでストップ、火を噴いた。レース出場は断念。耐久レースのスタートを見送る。スタート直後、マネージャー役でもある弟の任くんの運転で小田原の自宅へ。PM1時着。PM10時、東京。任君のマンションで仮眠をとる。
*4月7日(月)=AM5時*白のMB500を駆って一路、菅生へ。レイトンハウス取締役の八島正人氏、レーシングドライバーの影山正彦くん、それに任君の3人が同乗、交替でハンドルを握る。
▼AM8時45分▼菅生着 モーニングコーヒーを飲みながら、スタッフと雑談。そこへ黒澤さんが仙台から到着。ウィナーズルームで、ふたりで着替える。
ここでやっとガンさんの追悼文とドッキングできたわけだが、ふっと気がついた。4月7日の命日は過ぎてしまったが、近く、小田原の萩原光クンの眠るあの高台の墓標を訪れてみようと。
あの笑顔が、今でも鮮やかに甦ってくる――。
「シリーズ 闘う男」のMEMO風ドキュメントをもう少し、つづけよう。
▼AM10時▼コースイン ガンさん《本番車》で周回。アキラはMB190-2・3のニューカーに搭乗。
▼AM10時30分▼MB190-2・3、第2コーナー沿いの山肌に激突、炎上。テール・トゥ・ノーズでアキラを追っていた都平選手の目前で火花が散った。駆けつけたレイトンハウス社長、赤城氏はホイールの色でアキラのクルマと判断。3月末到着したばかりのニューカーはカラーリングも白のままだったが、ホイールだけはチーム用を履いていた。
*4月8日(火)*AM1時、遺体となったアキラ、小田原の実家に着く。
*4月9日(水)*火葬。
*4月11日(金)PM7時、通夜。戒名・曹洞宗=新帰元超雲光徹居士。レース関係者が続々詰めかけて、アキラの死を悼む。そこはまるでパドックの再現だ。1昨年事故死した高橋徹選手の母の姿も……。
*4月12日(土)*本葬。桜の花が散る中、アキラ天に昇る。
▼PM6時▼忌中祓いの席上、あいさつに立った星野、慟哭、無言。
ベストカーの122P、出版したばかりの萩原光の「俺だけの運転テクニック」が遺稿のかたちで広告されていた。わたしたちが、どれほど彼に期待していたか、一緒に夢をみようとしていたか。それがうかがえる。