トンネルを抜けると「ゆかりの場所」が待っていた!
【左のレリーフは『小説 村上海賊の娘=和田竜』の本屋大賞受賞を記念して地元特産の大島石で制作したもの】
この7月16、17日の二日間にわたって、松山市で開かれる「第4回正岡祭」の最終準備・実行委員会は、さいわい午前中で抜け出すことができた。
九州・秋月の取材で把握した「正岡一族」の意想外な展開を報告し、これから、その追跡調査で「越智大島」へ直行したい、まず「村上水軍博物館」に行って、そこの学芸員との面談を取り付けてあるから、と。
*実行委員会の面々、「まさおかサーン」と呼んだら、全員が「はい」と答える不思議な?グループです
それなら、どうぞ、すぐにでも。「正岡一族二〇一六」の本の出来上がり、楽しみにしていますぞ。同じ正岡姓の会長も氣持ちよく送り出してくれる。
挨拶もそこそこに、道後山の手ホテルからスイフトで「しまなみ海道」を目指した。道後湯月城に隣接する「正岡子規記念館」を右手に見ながら、温泉街を抜け、国道317線(以下、R317) に入ろうとして、にわかに空腹を覚える。そうか、朝からまともな食事を摂っていなかった。
と、石手川を渡る石橋のたもとに、それらしい茶屋風の店構えが目に入った。
「水車」か。恐らく、かつてはこの旧街道を行く旅人たちの憩いの店があって、水車がまわっていたのではないだろか。「天ざるうどん」の「並み」を注文。讃岐うどんの流れを汲んだ麺はコシの強さで、ここはやっぱり四国だな、と喜ばせた。天婦羅のパリッとした揚げ方も悪くなかった。
R317は松山市の中心部、勝山の交差点をスタートして道後の温泉街のそばをすり抜け、今治市へむかって山間部を抜けていくルートで、今治からは一旦、来島海峡に始まる海上部を「西瀬戸自動車道」(これが、有料)のしまなみ海道で大島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島と瀬戸内海に浮かぶ島々をわたり、広島県尾道市に至る。松山道後から、「村上水軍博物館」のある大島・宮窪瀬戸までは、およそ70kmと見当をつけていた。
改めてR317に入る。2車線の整備された登り一辺倒の路面が、段々と狭まり、荒れてきた。奥道後温泉ホテルを過ぎた。山の斜面に石を積み上げて、やっと暮らしのスペースを確保している幾つかの集落も現れなくなると、いよいよ本格的な山間部へ。
走行距離5万kmオーバー、3代目スイフトの「K126」1.2ℓエンジンと副変速機付きのCVTの組み合わせは、結構、ちょっとした走りの気分を楽しませてくれた。これで「XSグレード」なら「マニュアルシフト」が選べるという意味も、よくわかった。シフトセエレクターは「D」と「L」でそれぞれに「OD」ではなく「S」と表示せれるボタンがついていて、シフトダウンに好適だった。
この秋頃にはモデルチェンジして、4代目の登場が取り沙汰され始めたが、インド生まれの「BALLENO」との兄弟喧嘩が楽しみだ。お互いのDNAがいい方向で競合しているのを、期待していいだろう。
ついでながら、この辺の雰囲気を伝えるべく、過日、「RJC」のホームページに
「SUZUKIバレーノ試乗記 『帰国子女』を乙女峠のワインディングに誘う」を掲載しているので、是非是非、タイトルをクリックして、ご一読を。
松山市民のための水甕「石手川ダム・白鷺湖」の左岸をかすめると、いよいよ水ケ峠の真下を抜けるトンネルだった。
全長、2800メートルあまり。四国では、寒風山トンネルに次ぐ長さである。 このトンネルが完成したのは20年ほど前の平成9年。それまではクルマだと、松山から今治へは海沿いの道で迂回した、という。たかだか標高700メートル程度の古い峠だったが、松山側からも、今治側からも、越すとなったら厄介で、その辺りがいわば「伊予の秘境」として、外敵の侵入を阻む、絶妙な地帯となっていた。
ライトON。このトンネルがほとんど真っ直ぐに伸びているのが、よくわかる。不思議な霊気を、ここに入るたびに感じてしまう。キュッと身も心も引き締まる感じ。やがて光の束が大きくなって、トンネルを抜けた。
R317は一気に下りはじめて、緑の世界がたっぷり視界を押し包んだ。右側を蒼社川が渓流となって元気良く、岩を噛んでいる。ここからは今治市玉川町。つい先日までは越智郡と呼ばれ、実は中世・戦国時代の終焉まで、この地方の領主・河野氏を補佐して「正岡氏」が首領となって治めていた「ゆかりの故地」であったのだ。
時計を見る。まだ午後1時前か。「水軍博物館」には3時までに着けば大丈夫だと計算した。途端に、スイフトの車速をダウンさせる。
この先は昭和45年(1970)に蒼社川を堰き止めてできあがった「玉川ダム」。その手前でちいさな石橋を渡った川の対岸に「渡瀬(わたぜ)」と呼ばれる特別の場所がある。戦国末期、正岡氏が野に下ったあとも、その支族が秘命を帯びて「再興の基地」とした城館址に、やっぱりご挨拶もしないで、通過するわけには行くまい、と。ここだけは辛うじて湖底に沈むのを免れ、「正岡氏の記憶」をわたしたちに伝えてくれる、大事な場所の一つである。
はたして。虫が知らせたというべきか、「ゆかりの城館址」に、どなたかの手で窯場が出現し、煉瓦つくりの煙突がにょっきりと天をつく姿を目撃することになる。
そそり立つ石垣の脇を、あわてて駆け上がる。無人の窯場が出現していた。 4年前に訪れた時、ここは栗林に雑草の広がる、何もない場所だったはずなのに。これでは、7月の「正岡祭」での「史跡めぐり」で案内するのは、いささかはばかれるのではないか。う〜ん。腕を組んで、しばらくその光景を眺めるしかなかった。
さて「海賊の島」まで、まだ50km近くはあるだろう。ここは明日、松山の戻る際にもう一度、立ち寄ることにして、再びR317に復帰した。
午後2時を少しばかり回ったところで、今治から来島海峡を渡り「しまなみ街道」大島南ICで降り立った。と、そこもまたR317の標識が。そうだった。この国道は海に分断されながら、西瀬戸の島々を渡りながら、尾道まで繋がっているのだった。
あと、9キロ。「日本最大の海賊」能島村上氏に逢いに行く旅は、やっと目的地に近づいただけだった。なぜ能島村上氏にこだわるのか。その説明もまだできていない。もう少し、時間をお貸しいただきたい。
それにしても、過日、現地で手にした《今治市 村上水軍博物館》のパンフレットの「解説」の出来のよさに感心している。この際、遠慮なく引用させていただくことにして参考に供したい。題して、「よみがえる村上海賊の記憶」。
村上海賊(村上水軍)、は14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族である。後世には三島(さんとう)村上氏などと呼ばれ、能島(のしま)・来島(くるしま)、因島(いんのしま)に本拠をおいた三家からなり、連携と離反を繰り返しつつも、互いに強い同族意識をもっていた。
彼らは、海の難所である芸予諸島で育まれた海上機動力を背景に、戦国時代になると、瀬戸内海の広い海域を支配し、周辺の軍事・政治や経済の動向をも左右した。
来島城を本拠とする来島村上氏は、伊予国守護の河野氏の重臣として活躍した。因島村上氏は、周防国の大内氏に仕え、のちに中国地方の覇権を握った毛利氏の有力な海の勢力となった。そして宮窪に本拠を構えた能島村上氏が独立性が高いとされ、とくに村上武吉の時代には、毛利・大友・三好・河野といった周辺の戦国大名たちと、時に友好関係、時に敵対・緊張関係となりながらも、独自の姿勢を貫いた。日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、能島村上氏を“日本最大の海賊”と称した。
武吉および息子の元吉(もとよし)、景親(かげちか)の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は北部九州から東は塩飽(しあく)諸島に至る海上交通を掌握した。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割りを果たした。戦時には船舶を巧みに操り、「ほうろく火矢」など火薬を用いた戦闘を得意とした。また茶や香を嗜み、連歌を嗜む文化人でもあった。(中略)
一般に「海賊」と聞けば、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者、いわゆる「パイレーツ」がイメージされるかもしれない。しかし(当)展示室をめぐるとき。「海賊」と呼ばれた人々が、必ずしもマイナスイマージで語られなかった時代があったことに気づくだろう。
ジャスト15時。宮窪瀬戸に着いた。海が光っていた。その向こうに小さな島影。あれが能島か。海沿いの道を少しばかり右へ。突き当たる。白い旗が爽やかにはためいている。「祝 日本遺産認定」の文字。一目でそれとわかる「村上水軍博物館」だった。甲冑をまとい、腰に刀をさした武将が腕を組んで、海に向かってに屹立した石像。しかし、全てが真新しく感じられたのが、気になった。ともかく、入館受付を済ませなくては……。 (以下次回更新へ」
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ルーツ探訪 | 日記
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2016/05/23 17:03:36