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正岡貞雄のブログ一覧

2018年07月11日 イイね!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!消えた『A・セナの命日にめぐり逢えた
《あの時代》』との不思議な連環〜



《この人に逢いたい》という「ブログカテゴリ」で、これまで5人のビッグに登場を願っている。

 第1回目はノンフィクション作家の佐野眞一さん。お目にかかったのは2011年7月3日。佐野さんの講演があるから聴きに来ないか、と「日向読書会」から誘いを受け、開業の迫っていたスカイツリーの真下にある代表的な東京下町の一つ、東向島の図書館まで赴いている。

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 講演のテーマは東日本大震災後の日本人の生き方。東電のもつ「隠ぺい体質」を本当に暴けるのは、大文字の論評ではなく、たとえば原発から1キロと離れていない地点にあるほうれん草農家を探し当てることからはじまる小文字のノンフィクションレポートではなかろうか、という取り組み方に同感した。

 当時の佐野さんは『週刊ポスト』でソフトバンクの社長・孫正義の生き様ドキュメントを連載している注目の書き手だった。彼のルーツについても、佐野さんは徹底的に取材する。韓国の大邱(テグ)まで足を伸ばす。そこまで御存知なら、と孫正義も笑顔で認め、むしろ積極的に取材に応じるようになったという。

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  講演会が終わると、近くの蕎麦屋の二階で『佐野さんを囲む会』があるというので、そちらへ移動。出席者は25人ほどにしぼられていた。幸い、佐野さんの隣りにわたしの席が設けられていて、彼の単行本のタイトルのつけ方や、共通の友人の近況など、結構、踏み込んだ話をすることができた記憶がある。

  彼の好きな言葉は、宮本常一の「記憶に残ったものだけが、記録にとどめられる」を言い換えて「記録にとどめられるものしか、記憶にのこらない」と。……いい仕事を積み重ねている人に逢いに行くシリーズ。その始まりであった。(詳しくは、こちらを参照に)

●ノンフィクション作家 佐野眞一さん
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23029597/

その4日後は「七夕祭りの日」だった。逢いたい人に、逢いに行く。その第2回目に選んだ人との約束の時間には、まだ20分ほどある。

  改装工事中の歌舞伎座を横目でみながら東銀座をめざす。電通別館を過ぎると「銀だこ」。ここのたこ焼きと鯛焼は、通りがかるときにはかならず買ってゆくのだが、この日は残念ながら、パス。そのかわり、その地点から携帯電話で、訪問先に確認の連絡を入れる。

  1Fにうなぎ屋さんのあるビジネスビルの6F。エレベーターが停まると、もうそこは訪問する事務所の入り口だった。声をかけ、ドアを開けると、こちらを振り向く男性。片山右京君の陽焼けしてひきしまった顔がそこにあり、それがぱっと笑顔に変わる。

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 そんな、心を弾ませ、足取りも軽いイントロ部分があって、『片山右京・不死鳥伝説の美学』を書き上げている。

  その頃の右京君は、2009年暮れ、富士登山の訓練中に遭難し、同行した友人二人を失い、以後、活動を休止するという失意の状況に追い込まれていた地点から、再び新しい挑戦のテーマを設定して、翔び立とうとしているところであった。
いや、片山右京は確実に蘇っていた。未来を担う子供たちから「ほんものの元気を引き出す」チャレンジスクール、自転車レース参戦、モータースポーツでの新しいスタイルによる活動(スーパーGT)など……。

 別れ際、右京君から嬉しい誘いの言葉が……。
「今度の菅生に来てくださいよ」

  そうだ、ご無沙汰したままの菅生へいこう! 右京君がスポーティングデレクタ―をつとめる「グッドスマイルレーシング」は、さきごろのマレーシア・セパンサーキットでのGT300クラスで優勝したばかり、つまり凱旋レースをどう闘うのか、ぜひ、見てみたいし、何よりもエースドライバーの谷口信輝君は、ガンさんの「ドラテク特訓道場・中山サーキット編」で、一躍注目を集めたべスモ卒業生。加えて、「初音ミク」をあしらった痛車デザインのマシン、個人スポンサー制度など、この目で「新しい風」を確かめたい。

  当然、7月31日の菅生を観戦するために、その前日、わたしはプログレを駆って東北自動車道を北上していた。

●片山右京・不死鳥伝説の美学
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23082768/

  ☆    ☆         ☆         ☆

  それから2年後の7月10日、3人目の「この人に逢いたい」に登場するのが、女優の長谷直美さんだった。《『美女と野獣の凸凹コンビ』30年ぶりのデート》と題して……。

 なぜ、そんな嬉しい時間がやってきたのか。説明の要があるだろう。ことの起こりは「みんカラ」にあった。およそ2年前の8月14日付けのBLOGで《「新・編さん」の茨の道》の第2回として『雨中の激走! 美女と野獣の凸凹コンビ』というレース挑戦にひきずり込まれてゆくレポートを紹介しているが、その時の伴走者として、当時、眩しい青春のシンボルだった長谷直美さんを起用。なかよく「日産レーシングスクール」を受講したものだった。

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 その翌年、凸凹コンビは日産レーシングスクールをそろって修了し、それぞれのカテゴリーからレースデビュー。とくに直美さんは、日産がラングレーのレ―シング仕様でレディース軍団「チーム・エンジェル」を結成した際に、専属ドライバーの一人に抜擢され、スポットライトを眩しく浴びたものだが、あれから30年近く経って、いまはどうしているのだろうか。聞くところによれば、幼馴染と結婚してフランスに住み、ルマン24時間レースのどこかのチームの広報担当として活躍しているらしい。1956年生まれか。逢いに行きたい人の候補としてリストアップしておこう……などと、フレッシュマンレース時代のエピソードにかこつけて、ひそかにラブコールを謳いあげていたものだ。

 それがなんと、つい一月前に、わたし宛にこんなメッセージが、みんカラBLOGを通して届けられた。

——ご無沙汰です。長谷直美です。
大変ご無沙汰しています。お元気のご様子、何よりです。こちらはいろいろあって、長い外国暮らしから、昨年日本に帰ってきました。正岡さんのブログ、時々拝見しています。先だっては懐かしい頃のお話を書いていただき、ありがとうございました。今日は、実はお願いがあり、思いきってメッセージさせて頂きます。正岡さんとモータスポーツを楽しんでいた頃の、私の写真がありましたら、お借りできないでしょうか? TBSの番組内で使用させて頂きたく、お願いメッセージしました。これを機会に、またよろしくおねがいします。
                            直美

そこで7月9日の暑い午後、有楽町で待ち合わせたわけである。

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そのあたりの微妙な息遣いは「こちら」からどうぞ。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/30553806/

 そして第4回目は、いまは亡き徳大寺有恒さんである。足取りのしっかりした徳さんの姿は、この時が最後だったような気がする。

 
『2014年版 間違いだらけのクルマ選び』&NAVI CARS vol.10 巻頭特集「徳大寺有恒、という生き方。」刊行記念トークイベント+サイン会が代官山蔦屋で催行され、その開幕前に「ちょっと一服」と前置きしてあるが、すでに徳さんの影は薄かった。

●『徳大寺有恒、という生き方。』ドラマの共演者たち
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/32270393/

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 お読みいただくなら、その1ヶ月前に、代官山蔦屋でのトークショーの予告をかねて、久しぶりに用賀まで逢いいに行った日の「徳さん」がいい。

●もう一度、徳さんと一緒に仕事がしたくなった!
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/32178147/

 そして、第5回。TOYOTAの豊田章男社長から2017年のルマン24時間耐久レースで、ポルシェの後塵を拝する結果に終わったことを詫びるコメントがメールで届いた。
一読、胸が熱くなった。ここまでモータースポーツの本質を理解され、すでにそれが血となり肉となっている61歳のメッセージであった。そこで、そのまま、そっくり、手を加えずに「みんカラ仲間」にお届けたもので、こちらがインタビューした訳でもない。だから、このカテゴリーには馴染まない。

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   したがって、これから仕上げようとしている『この人に逢いたい』は、正確には第5回に当たるのだが、困ったことに、ゲストはお二人。さて、どうしたものか……というところで、やっと「7月4日12:00」に予告しておいた「何シテル?」に繋がったわけである。

——梅雨明けというのに、空は厚い雲がのさばったまま。風も強い。が、この日の夕刻は楽しみが待っている。富士スピードウェイで同時代のモータースポーツ・ライフを共有した男3人でお喋りを。どんな話が俎上に載るか。石臼挽きの自家製手打ち蕎麦、庭の盆栽が評判のこの店で。徳大寺さんも好きだったな。

 元「オートスポーツ」編集長の熊谷睦さんと、ひたすら富士フレッシュマンを撮り続けたアマチュアカメラマン、安川肇さんと、徳さんの好きだった荻窪の 『本むら庵』に集合し、あの時代の魅力や裏話、今だから話せる特ダネものを、この際公開し合おうじゃないか、という趣向であった。

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  いそいそと約束の15分前には駐車場着。で、お店の暖簾をかきわけて案内を乞うと、すでに熊谷君が席についていて、こちらに会釈を送ってくるではないか。軽快なポロシャツ姿。久しぶりに顔を合わせるクマさん。やっぱり若いや。と、感心していると、背後に人の気配。振り向くと、そこにはトレードマークの、背広にピシッとネクタイを締め込んだ安川さんの柔らかい笑顔があるではないか。

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  さて、この組み合わせがここにやって来るまでの舞台裏を、次回にはぜひまとめ上げたいものだが、そのきっかけは5月22日に《不思議なこともあるもんだ!!》として、その2週間ぶりに開いたわがPCを襲った大異変、『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』がすっぽりと抜けていたあの日に立戻らなければならない……。     
                                                                                      (以下、次回の更新へ)

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2018年07月02日 イイね!

55歳でレース出場の夢・叶えられた純情譜

55歳でレース出場の夢・叶えられた純情譜〜第1コーナー土手上指定席で育んだ「フレッシュマン」讃歌〜

『EXA純情歌集』とタイトルで謳いながら、なかなか本題に届かないのが、もどかしくてならなかった。

幸い、手元に1冊だけ生き残っていた『’84年富士レッシュマンレース・第2戦』の公式プログラムを参考に、どんなカテゴリーのレースがあったのかを確かめていくと、その第2レースで、当時19歳だった近藤マッチの FISCOデビューのレースが浮かび上がってきた。それは揃って予選落ちの苦い記憶であったが……。

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*1984 年6月24日 マッチの富士フレッシュマン・レビューレース #19がこの日の主役だった

つづく第3レースは、NPオープンレース Ⅱクラス(1301cc〜1600cc)とⅣクラス(2001cc〜3000cc)の混走で、あの土屋圭市がカーNo.2 「ADVANキャロット倉田トレノで出走、格上のスカイライン勢をきりきり舞いさせ、今でも語り草となっている凄い走りが思い出された、というところで一服させていただいたわけである。

 そのインターバル休息の効能だろうか、その間合いを盛り上げるように、以下のような「コメント」が当該BLOGに寄せられ、パワーを失いかけていた心が、もっこり、奮い立ってきた。

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*第1コーナーを、目一杯インを使って攻めて見るベストカーPULSUR。乗り手はもちろん・・・。

投稿者の「マースケGT」氏とは友達登録をし合っている仲でもないし、ましてや「ベストモータリング同窓会」のメンバーでもない。ただ注目すべきは55歳になって、たった1戦だけどレース参戦の夢を果たしたとおっしゃる方、と言う点にあった。いずれご本人の了承を得てからでないと、コメントを勝手にBLOGにアップすることはできないが、これこそ「富士フレッシュマンレース純情歌集」の一例として、ぜひ紹介したい「情念=こころ」に溢れていて、あえて引用させていただく次第。

   ☆     ☆          ☆

差出人 マースケGT
2018/06/17 22:00:10
初めてコメントさせて頂きます。

懐かしいお名前に青春の1ページが蘇ってきます。初めて観戦した時にはGCやF2以上の衝撃を受けました。
1981年、19歳の時です。

勇気と情熱と努力が足りなかった私の指定席は1コーナーを見下ろす土手の上でしたが、毎戦必ずプログラムを購入し、観戦出来ない時は専門誌で結果を確認していましたので常連ドライバーのお名前は今でもよく覚えています。
プロドライバーより大きな憧れを抱いていたかもしれません。


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*富士フレッシュマン・パルサーレース。

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 *#14がマジョルカ軍団に紛れ込んで参線のベストカーEXA       PHOTO by 安川肇

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                                                                                              PHOTO by 安川肇

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   *併催のGOLFポカールレース                                                      PHOTO by 安川肇

私のレース出場の夢が叶ったのは36年後の55歳の時です。レースカーを走らせながら、その昔自分が居た辺りを見た時には万感胸に迫るものがありました。

たった1戦ですが、その経験が局長の参戦記をさらに楽しいものとし何度も読み返しています。

願わくはサーキットで局長の勇姿をもう一度…

   ☆      ☆             ☆

  早速、40分後に「マースケGT」コメントへのわたしからの返信を送った。浮き浮きと。 

2018/06/17 22:49:52
こんばんは。とっても嬉しいコメントです。あなたの指定席だった第1コーナーの土手の上は、わたしにとっても大事な場所でした。1981年といえば、わたしの45歳、 FISCOデビューの年でもあります。それはこんな具合でした。
もし、お読みでなかったら、こちらからどうぞ。

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*レース本番前日のスポーツ走行に早朝から駆けつけたフレッシュマンたち

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*日産レーシングスクールの辻本征一郎校長と第1コーナーから観戦

●そして、FISCOデビュー戦 ~「新・編さん」の茨の道③~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23505801/

 今もFWSで走っていらっしゃるのですか。詳しい話を、ぜひ「メッセージ」で、お聞かせいただけますか? お待ちしています。

 三日後の深夜、「マースケGT」氏からのメッセージが届いた。が、残念ながらその前日から、5月の半ばに「驚きの賓客」と名付けて紹介した真っ黒のロードスターを窓越しに眺めた場所へ、その前日から、経過観察のために収容されていた。ここではPCではなく、iPadで受信しなくてはならなかった。そのため、メッセージの文章分は読めても、同封されていたレースシーンの動画は確認できなかったのである。

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*あの「驚きの賓客」をもう一度!

 四日後、平常の生活に復帰して、真っ先にPCに取り組む。やっとマースケ氏の初レース動画を拝見できたのである。深く、大きな感動が高波となって押し寄せた。ともかく、マースケ氏のメッセージを紹介しよう。

     ☆        ☆               ☆

差出人 マースケGT 2018/06/20 23:37:56

こんばんは。夜分遅くに失礼致します。コメントへのご返信ありがとうございます!(中略)

レース挑戦の経緯ですが、ご縁があって応援や裏方をさせて頂いていたインタープロトのオーナーよりオファーがあり、清水(きよみず)の舞台から飛び降りる覚悟で2017年シリーズ第5-6戦に挑みました。

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私が初めてFSWを走ったのが3年前のこと。
マイカーで年に2〜3回程度のスポーツ走行の経験しかありません。

フォーミュラに近い挙動の本格的レーシングカーを操るには明らかにスキル不足で不安も大きく、出来るだけ走り込んでレースに挑むつもりでしたが、諸事情により初乗りから正味2時間の練習で決勝日を迎えることになりました。

素人オヤジがインタープロトで何処までやれるのか⁉︎
もうそんな話です。

●【公式練習日最終セクションの様子です】
https://youtu.be/iwh002kfGe4


予選はハーフウェットの微妙なコンディションをスリックで、決勝はスタート直後に降り出した雨のためレインに。
どちらも未経験のぶっつけ本番です。

スプリントのインタープロトでは滅多にない緊急ピットインからのタイヤ交換でしたので各ピットは大混乱です。

再スタート。1レースで1シーズン分の様々な出来事を経験出来たような気がします。

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局長もデビューの際にいろいろとあったようですね……。

決勝ではスピンをして最後尾まで順位を下げるなど「競走」としては見るに堪えないものでしたが、それでも人生最初で最後になるであろうレースシーンをしっかりと心に焼き付け、夢が叶った幸せを感じながら走りました。

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ラストの数周はメカニックの方やサポートしてくれたスタッフと一緒にゴールするつもりで慎重にマシンをコントロールして何とか完走……。

チェッカー後も各ポストのオフィシャルの方が拍手で迎えてくれる姿を見て本当に多くの方に支えられていることを改めて実感しました。

第6戦は荒天により中止となりましたので、私のレース挑戦はこれで終わりです。

  ●決勝レース動画

【レースをあまりご存じない《みん友さん》向けに面白可笑しく作った決勝動画です。簡単に編集しましたので、荒い造りですが】
https://youyu.be/dkaVMRkpfHE

インタープロトは少々特殊なフォーマットですので、私の経験が他のカテゴリーに当て嵌るのかわかりません。
でもレースを継続するために、どれだけの情熱と努力が必要であるかはわかったつもりです。

そしてこの経験によって局長をはじめ、あの頃に憧れたフレッシュマン・ドライバーの方々へのリスペクトの念が、さらに強くなりました。

私の「みん友」である「らぶ☆ロバ」さんも、あの頃のドライバーのひとりで、過去の愛車紹介などの項目に当時の面白いエピソードを書き綴っています。
それから文章を纏めるのが得意ではありませんので長文お許しください。

    ☆     ☆          ☆

 レース動画の内容は、おそらく然るべき制作プロが手がけたものだろう。外絵も車載もキチンと抑えるべきところは見せてくれる。55歳の初レースを単なる記念物として扱っていない、そしてマースケ氏のドライビングスキルもさることながら、そこまで余裕のある、真っ直ぐな取り組みに、深い連帯感を覚えてしまう……。

 それから3日後、わたしのFISCOデビュー戦を記録していた「ドン亀奮闘録」の項に、その読後の感想が「コメント」として書き込まれであった。

フレッシュマンレースは毎回予選落ちが出るほど大盛況でしたね!

予選不通過も結果の一つだと思いますので、その後の局長のご活躍を思えば貴重なご経験だったのではないでしょうか。

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現在の設備の整った富士とは違い高速サーキットに不釣合いな狭いランオフエリアでしたし、カテゴリー問わず重大事故も度々起きていましたね。

不幸な事故は起きて欲しくありませんが、あの何処か殺伐とした雰囲気の富士も私には魅力的でした。

レースに挑戦するにあたり「死」を意識することはありませんでしたか?

コメントへの返答を、わたしも大急ぎで書き込む。

あの頃のFISCOの殺伐とした、どこか魔界の空気を
漂わせた様子を、よく覚えていらっしゃいますね。

1コーナーの入り口左側の窪み、防ぎどころのない100Rの出口、雨の日の300R。

ヘアピンでは2度も亀の子を演じてしまいました。

一度機会があれば、お話ししたいと願っています。

   ☆     ☆ ☆

 5月最後の土曜日、神奈川県丹沢山麓の『丹沢そば本店』に集合、かつての富士フレッシュマン戦で青春を競い合った連中の「同走会」を舞台に、新しい動きが始まっている。

Facebookの非公開グループではあるが、すでに登録済みの『富士フレッシュマン』を舞台に、お互いが手持ちレース写真や消息を投稿するなど、新しい交流の場として、活性化しつつあるようだ。わたしも折に触れ、参加させてもらっている。みんなドライバーであったとか、チーム仲間であったとかで、富士スピードウェイは、まさに青春の聖地であった。
しかし、マースケGT氏のように、土手の上の指定席からの「慕情」は、いささか趣が違った。



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*Facebook非公開グループ「富士フレッシュマン」はメンバー数630を超えた。手持ちの秘蔵写真を、こうやって・・・。
何度か同じステージを共有し「同走会」で再開した綱島伸二さんの投稿。

まあ、ともかく、閲覧可能な彼の「初レース」の動画を鑑賞していただきたい。この項、いささか長くなった。あの時代のFISCOには第1コーナー土手上のポイントだけが見所ではない。それぞれ、ヘアピンコーナ丸見えのネット脇とか、ドライバーズサロン前の芝生とか、お好み次第だった。

その辺を絡めて、次回こそ、「無名戦士の青春譜」をお届けしたい。
あ! 報告が遅れてしまった。つい先刻、「マースケGT」氏から、コメント使用承諾の連絡が入った。加えて静止画像もたっぷり送られてきた。ありがとう。

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2018年06月17日 イイね!

『富士フレッシュマン戦』に捧げる「EXA純情歌集」

『富士フレッシュマン戦』に捧げる「EXA純情歌集」  〜もう一度、あの『FISCOの青春』を
        「再生」したくなった〜
 


 東名高速・東京料金所から西へ50km、秦野中井ICで降り立ち、北方向に待ち受ける丹沢山塊を目指して駆け上ること10kmあまり。「丹沢そば本店」で催された『富士フレッシュマン同走会』には、ある時代をサーキットに情熱を注ぎ込んだ、かつての若者30人余が集い、時間の経つのも忘れて、交歓の夜を愉しんだ。

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*突き出している中2階からの撮影。これから定番のポイントになりそう。何度数えても総員31だけど・・・

 あの日から、あっという間に丸々3週間が経ってしまった。
そのインターバルのお陰で、パーティがはじまると真っ先に挨拶に来てくれた、ファミリアレースの女王、三野輪良子さんのお立ち台での晴れ姿や、スターティング・グリッドでの様子を伝える「貴重画像」、さらにTSサニーのチャンピオン、関達彦さんのドスの効いた迫力走りを思い出させる写真が、この日の出席者から届くなど、前回のわたしのブログに、彩りと膨らみを添えてくれたのである。

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*P-1600Aファミリアレースの三野輪良子さん。雨のレース。でもPPだから有利だったね。

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*お見事! ボディウムの中央だよ。この後、TSにも挑戦しましたね。


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*こんな集合ショットがあったとは! 正美君の向かって右隣が「丹沢そば本店」の石井店主。B110で闘走した仲間。

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*ゼッケン17のTORIIサニー。ドライバーは言わずと知れた関さんだよ。
  嬉しくなって、持ってきた「がんさんサイン入り」のPORSCHE偏愛グラフィティをプレゼント!
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 それにしても、と懐旧の想いが立ち上がってくる。富士スピードウェイから「富士フレッシュマンレース」という名前が消えてしまってから、どれくらいの月日が立つのだろうか、と。

 早速、手元の資料(「富士スピードウェイ−最初の40年」林信次著=三樹書房刊)で確かめる。

 1966年、富士スピードウェイ開業。アマチュアレースの富士ホリデーレースを開催。
 翌1967年に、富士チャンピオンレースと改称し、シリーズ制となる。
 1970年、富士フレッシュマンレースと改称。最盛期には年間8戦が開催されて、アマチュアレースとして長い歴史を誇り、プロレーシングドライバーを数多く輩出することになる。特に1970年代から1980年代にかけては若手ドライバー育成の舞台として有名だったが、不景気や若者のモータースポーツ離れにより、1990年代以降はドライバーの高齢化が進んで、1998年には、富士チャンピオンレースに再び改称。
 そして、この舞台の申し子として、和田孝夫、土屋圭市、織戸学 飯田章 影山正彦、正美兄弟らの名をあげている。

☆       ☆      ☆

 おお、そうであった。最盛期には富士スピードウェイを活動基盤とする、JAF傘下の公認モータースポーツクラブ(FISCOクラブ、ビクトリーサークルクラブ=VICICをはじめ、トヨタ、ニッサン、マツダのメーカー系クラブ)が寄り合って、年間8戦のフレッシュマンレースを主催していたのを思い出す。
そして必ず1戦だけ、例えばパルサーなら、そのグループはお休みしなければならなかった。それほどに各カテゴリーに参加車が殺到し、それを捌くのに各主催クラブが知恵を絞った時代でもあった。

 幸い、辛うじて手元に『’84年富士レッシュマンレース・第2戦』の公式プログラムが1冊だけ生き残っていたので、それを参考にして、どんなカテゴリーのレースがあったのか、思い出して見ることにする。

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 表紙を飾っているのはEXA。中春のエースナンバー「3」を背負っているのは、確か、内田慎司であったはず。次の年から田部靖彦が引き継いだ。主催は「ニッサンスポーツカークラブ」。開催日が6月24日か??? 第2戦なのに随分と開催日が遅いなあ。そのわけが、このあと、突然、明らかになるのだが……。

 第1レースは「P-1300A スターレット」で参加台数39、ワンデーレースだから公式予選(10分)は8:45。ということは参加確認が7:00、車両検査=7:30、出走前点検・ドライバーズミーティング:8:15と、とんでもなく早朝に始まり、加えて慌ただしい。
前日の土曜日にスポーツ走行し、富士山麓のどこか(御殿場とか須走)に宿泊できる連中はいいが、そんな余裕が許されない若者には、当日の夜明け前から、まことにハードな試練が待ち受けているわけだ。そして、8時45分になって、予選アタックのためにコースインできる、というわけだ。
 
第2レースは「P-1600B エクサ・サニー」で参加台数は40台。エントリーリストが、2ページにわたって載っている。順にチェックしたくなる。
カーNo.1 蒲原芽里(24) 車名、平田RS-OISO、とってもよく知ってるぞ。
カーNo.2 長島秀夫 (21) 長島自動車、このあとミラージュCUPにステップアップしても張り合う仲。
カーNo.3 内田慎司(28)、No.4 高杉好成(20)、No.5 佐藤宗作(28)は揃ってフレッシュマンの名門「RS中春」からのエントリーだし、No.9 森田和範(27)、No.10 稲葉章治(24)、No.11 田中重臣(21)の3人は竹平素信率いる「チームマジョルカ」の面々。そしてNo.19が近藤真彦(19)。そうだった。マッチのFISCOデビューのレースだったのだ。ということはわたしもNo.55で参戦したあのレースとして、ちょっと詳しくレポートしたくなってきた。

幸い、当BLOGカテゴリーで《サーキットに生きる》に一纏めにしてあるので、そちらからアクセスしていただくのも一興だが、差し当たって、以下の3項目にお立ち寄りいただければ、富士フレッシュマン戦に捧げる純情歌集の意図するところの「前説」にはなるはず。どうぞ、ぜひ!


2012年03月07日
●パルサーEXAにのめりこんだ日々 
~わが青春のFISCO熱走~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25685614/

この項のさわりは、パルサーで修業中だったわたしが、第1コーナーに赴いて、EXAに魅入られたあの瞬間だろう。

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−−−−第1コーナーで彼らの走りを観察したことがある。トップ争いの5台が一塊になってインをとろうとして、そのうちの1台が右側のマシンと接触して弾かれた。で、ほかの2台も大きくスピンしてイン側のグリーンへ飛び出そうとする。第1コーナーに陣取った観客は思わず目をつぶった。が、彼らはなにごともなかったように仲よくコースに復帰し、レースを継続したのである。この瞬間、ぼくはパルサーをやめ、彼らの仲間に入れて貰おうとこころに決めた。

 そして、ここからが「第2レース」の、わがレポートである。

2012年03月15日
●マッチ狂想曲 ~わが青春のFISCO熱走・EXA編②~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25766203/

この項は、中段からはじまる以下の章が肝になるので、その部分を抽出しておいたので、ここからお入りいただいてもいい。

■近藤真彦でFISCOは3万8000人の大観衆
 筑波でマッチのマーチを走らせた余勢を駆って、6月24日の富士フレッシュマン第4戦(といっても、雪にたたられてのやり直し戦だから正確には第2戦にあたる)へ。
 もちろんFISCO入りはレース前日の6月23日。パドックはすでに同じ格好をしたローティーンの女の子であふれ返っていた。サーキットでこんな異常な風景を見たのははじめてだ。日産大森の関係者がぼくを手招きする。パドックの手前にある日産チームのガレージ控室へどうぞ、と。人垣を掻き分けて中へ。部屋の主は近藤真彦クンだった。19歳の若さが匂い立つ。ともかく、初めてのレース、誰かリード役をお願いしなくては、というので最年長のぼくに白羽の矢が立ったのだろう。

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当日の観客数は主催者側発表が3万8000人。サーキットが女の子の占領された、異変の日でもあった。パドックも人が溢れ、もうみんなが異常。せっかく早めに予選スタートできる位置にマシンを並べたのに、オフィシャルはなにを血迷ったのかマッチのクルマを中心に混雑している側から、どんどんコース・インさせてしまう。クレーム(文句)をつけようにも、こちらはヘルメットをかぶっているから大声もたてられない。やっとドン尻あたりからスタート。もう先頭に飛び出したグループに1周はハンディをつけられた勘定であった。

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 ムカムカして1周し、ピットサインをみると、なんと、2分5秒台を知らせてくる(このタイム、トップクラスのもの!)。これは凄いぞ! おれもずいぶん速くなったもんや。あとはマシンを大切に……なんぞといい気分で予選15分を無事走破、予選結果の発表をゆったりとドライバーズ・サロンで待ったわけである。

1時間後、ライトグリーンの紙に刷られた予選結果をみて、わが目を疑う。なんと34位で予選落ちじゃないか!(出走40台)あの近藤真彦クンは2分08秒31で33位、ぼくは、それに遅れること0・04秒。ああ! なかよく、予選落ち。(以下,略)

 その後日談が、こちら。

2012年03月18日
●マッチの本音が訊けた『博多の夜』 
~FISCO熱走・EXA編③~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25795824/

 さてプログラムの第3レースは、NPオープンレース Ⅱクラス(1301cc〜1600cc)とⅣクラス(2001cc〜3000cc)の混走で、土屋圭市がカーNo.2 「ADVANキャロット倉田トレノで出走、格上のスカイライン勢をきりきり舞いさせ、今でもFISCOの語り草となっている凄い走りを披露するのだが、恐縮ながら、ここで一服させていただく。

 富士フレッシュマン戦を舞台にした青春の軌跡。この際、紹介したい無名の若者たちの目の光と情熱を、もっと語らせて欲しい。

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Posted at 2018/06/17 03:49:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年05月30日 イイね!

富士フレッシュマン同走会・燃え燃えの夜の始まり

富士フレッシュマン同走会・燃え燃えの夜の始まり〜つい口ずさむ《愛しき日々》〜

 18年間も連れ添った老友プログレNC300のご機嫌が、近頃、「すこぶる」つきでよろしくない。ODOメーターも113,000kmに達してからは、一向に伸びていないのがご不満らしい。

5月最後の土曜日の12時05分に《Facebook》で、パルサーとパルサーEXAのフレッシュマンレース時代の走り写真を添えて、以下のように、ちょっとばかり動向を流してみた。

――丹沢山麓で本物志向の蕎麦を用意している店「丹沢そば本店」で、本日(5/26)午後5時から、かつての富士フレッシュマン戦で青春を競い合った連中が「同走会」を催す。「同窓会」ではなく「同走会」としたところに、想いが籠められている。店主もサニーB110で腕を磨いたという。そこでかつてのフレッシュマン仲間、元オーテク編集長の飯塚昭三さん(現在は日本自動車研究者ジャーナリスト会議=RJC会長)を誘って参加。久しぶりに会える《元フレッシュマン戦士》たち。そして久しぶりの東名高速走り。ワクワク、ウキウキしています……。

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 同行する飯塚さんとは午後3時に、同じ私鉄沿線に住んでいることもあって、最寄りの駅前ロータリーで待ち合わせ、プログレNC300で丹沢山麓へ向かう約束だった。となると満タン、タイヤのエア圧チェック、洗車をしておくのは当然のマナーだろう。

 午後1時、KEYホールダーをブラブラさせながら、1Fの駐車場へ向かう。
「しばらく」と老友に声をかけながら、ワイヤレス・リモコンスイッチをプログレに向けて、ピッと「openマーク」を押す。と、いつもなら元気よく「ドアロック」を解く音と、方向指示ライトのウインクで応えてくれるはずの老友が、弱々しくドアロックを解く音を発した後は、ムスッと黙ったままである。

「やばいな。1週間ほどお相手をしなかったから、やっぱりバッテリーが上がってしまったのか!?」

 慌てて、ドライバーズシートに腰を落とす。そしてエンジンがかかってくれることを祈りながら、こわごわとスタータースイッチをひねる。ククッと弱弱しくセルが反応しかかったものの、それ以上のパワーは伝わってこなかった。同じことを3度ばかり試みたものの、結果は変わらない。

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「弱ったぞ。でもこれが出かける間際でなくて助かった。さてどうしようか」
 ともかく、トランクから赤と黒の「ジャンピングコード」を取り出す。次にエンジンフードを持ち上げ、バッテリー装着箇所を確認する。と、そこへ、幸いというべきか、2台隣に駐車契約をしている、顔馴染みのSUBARUフォレスターのオーナーが出かけるためにやってきた。ここは頭を下げて、ともかく協力をお願いするしかなかった。

 幸い、エンジンは一発で回復してくれた。

 午後3時になる5分前に、洗車をすませ、エア圧も2,2で揃え、ETCカードもセットし、もちろん30分ばかり、プログレをクルージング・ランさせ、充分にバッテリーを回復させたところで、約束の駅前ロータリーへ。すると、どうだ。すでに飯塚昭三さんが待機していて、こちらへ向かって軽く手を挙げている。
6歳年下(1942年生まれ)の飯塚さんとの付き合いは長い。何しろわたしがポンコツのサニーB110で「富士フレッシュマン」にデビューした1981年12月6日当時は、飯塚さんはTSサニーでFISCOを疾駆する「走り屋編集者」として、すでに知られる存在だった。

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 それから3年後、MAZDAファミリアが売れ売れた時代で、ファミリアNP仕様のワンメークレースがスタートした。そこでプレス専用車を用意することになり、FISCOでシェークダウンテストが行われ、そのドライバーに選ばれたのが飯塚さんとわたし、それとCARトップの鈴木俊治君が選ばれた。詳しくは「みんカラ」で『プレス専用ファミリアの快挙』とタイトルして紹介済みなので、この際、ぜひご一読願いたい。何しろ富士フレッシュマンレース第3戦・P1600-Aに出場したわたしが、なんと第7位でフィニッシュする鼻高々のレポートとなっている。ま、当時のフレッシュマンレースの雰囲気がどんなものだったかを感じていただけたら幸いだ。

2012年01月29日掲載
●プレス専用ファミリアの『怪挙』 
~これにてドン亀パルサーを卒業~


 丹沢山麓までのルートは、Car Naviに任せてあった。目的地まではほぼ75km。環八・用賀から東名高速に入り、港北SAでCOFFEEブレーク。そこからは飯塚さんにハンドルを譲った。特段の渋滞もなく流れは順調。プログレ君も、久しぶりのPowerモード走行で、時折、クオーンと直6DOHCが吼えるステージを与えられて、機嫌もなおったようである。飯塚さんも試乗車以外でFR車を走らせるのは久し振りだ、と◯印を出した。

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 厚木ICを過ぎたあたりで、やっと前方に大山山系がどっしりと黒い姿を現わした。次の秦野中井IC で東名を降り、下道を西北方向へコースをとる。「夢庵」のあるT字路を左折。そこからは『はだの桜みち』と呼ばれる緑に覆われた登り道が6キロほど続く。左手に渋沢丘陵、神奈川県で最も長い桜並木道で、いま売り出し中の観光スポットだとか。途中、右手に秦野の中心市街地を見下ろすポイントがあったりと、結構、変化に富んだ景観が楽しめた。

 小田急小田原線のガードを潜ったり、R246と交差したりしたが、ともかくNANIの指示通りに進むうち、ぽっかりと広い駐車スペースの奥に、かつては藁葺きの旧家だったのを、今風に改築したと思われる赤い屋根の建物が、集合場所の「丹沢そば本店」だった。時計を見ると、定刻の午後5時ジャスト。すでに5台ばかりのクルマが適当な間隔をとって並べられ、出席者とおぼしき10人近くが店の前で談笑している。
この時から、時計の針はいっきに30余年、巻き戻ることになる。
プログレから降り立ったわたしたちを認めて、何人かが笑顔満開で出迎えてくれる。その中の、スレンダーなー、長い髪の品のいい中年女性に、見覚えがあった。

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「お判りですか? 三野輪良子です」
「あ、ファミリアレースの女王!」
「ありがとうございます。雨の日のレースレポートで褒めていただいたのが嬉しくて、いまでも覚えていて、感謝しています」
「そうだ、そうだ。ぼくは自分のレースを終えた後、第1コーナーへ行って驚いた。押すな押すなの盛況で、中でも1600-Aで予選と決勝も1位となった女性ドライバーへの声援が大きかった。それがあなたのことだった。確か、1600−Cの方で、秋山武VS.志賀正浩の芸能人対決があったりして……」

 30年の空白が一気に消滅していく。そして暖かい記憶の衣(ころも)に包まれていく。還暦を過ぎたのを記念して企画された中学時代の同窓会。あの時のそわそわした気分が思い出される。

 受付をすませる。会費は後刻、中締め時に割り勘で精算します、とかなりザックリした構え。然らば今のうちに定刻を守って来たものだけで、集合写真を撮って置こうと声をかけた。

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「そうしましょう」と応じたのがこの会の世話役、板橋徹さんであった。細面のその顔に、少しは年齢を重ねているが見覚えはある。何しろ、参戦したばかりのミラージュカップフレッシュマンレースが舞台を筑波からFISCOに舞台を移した第2戦の最終周、8位までせり上がって来たわたしが、先行するゼッケン61の白いマシンのお尻を間近に見つめながらチェッカーを受けたと言うレポートを残している。そのドライバーが板橋さんなのだ。
 その辺りに関わるレポートを、やっぱり「みんカラ」に収録済みなので、こちらからぜひどうぞ。

2012年05月16日
●中谷直伝「しなやかに牙を剥け!」 ~ミラージュFISCO戦で開眼~


 この3月、Facebookを介して「富士フレッシュマン」で走った仲間の集まりを催すので、丹沢まで来ないか、と誘ってくれたのも板橋さん。この後、じっくり、久闊を叙する、とするか。

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*世話人役の板橋さん

 午後5時30分、やっと開会に漕ぎ着けて、「同走会」が始まった。参加者も40名近くに膨らんでいた。

 店内はL字型の仕切られているため、参加者は思い思いのテーブルに着席して、たっぷり用意された料理に箸をつける。ご自慢の丹沢産の十割蕎麦は、料理の最後に用意されているという。

 賑やかなおしゃべりタイムが、あちこちのテーブルで始まった。と、三野輪良子さんが改めての挨拶にやって来た。今は結婚して「鈴木姓」だという。ご主人はミュージシャンで、レースで注目されていた頃の彼女のことは知らないとか。
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*向かって左端がチームエンジェル時代の「ファミリアレース」の女王。前列中央に長谷
直美さん。その左が下山恵子さん。この時も、飯塚さんと一緒だったのか。

「ぼくの記憶では、旧姓で呼んでごめんね、三野輪さんはレースをやるきっかけは日産がラングレーのPR用に“チームエンジェル”を結成、下山恵子と長谷直美をドライバーにして、可愛い子ちゃんをピット要員に揃えた時の……」
「はい。そのメンバーに受かったのがきっかけで、レースをやりたくって、」ファミリアからはじめ、TSまでステップアップしました」
「そうだ。赤坂の“島”というサパークラブで、チームエンジェルの打ち上げをやった時、一緒だった」
「はい、お相撲の輪島さんが合流して…•」
「あ、その時の写真があったはずだ」
「はい、あたし、持っています」

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*TS乗りの関さん、変わらないね。

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*この後、影山正美君が、わたしの「逆噴射事件」がミラージュCUPの時と勘違いして
 いたことが判明。

 そんな話に夢中になっているところへ、板橋さんがTSサニーのチャンピオンを張った関達彦さんやら、スーパ−500のチャンピオンにもなった影山正美君を挨拶に連れて来て、話は大いに盛り上がるのだが、この項はここらで一旦、一休みを摂らせていただく。

 富士フレッシュマン時代。その頃のことを思い浮かべて、プログレを走らせていると、つい「口ずさむ」歌がある。堀内孝雄の「愛しく日々」である。

  🎵 いとしき日々の 儚さは 消え残る夢 青春の影

 そうだ、ひさしぶりに、カラオケに行きたくなったなあ。(この項、続く)


2018年05月22日 イイね!

不思議なこともあるもンだ!!

不思議なこともあるもンだ!!
〜2週間ぶりに開いたわがPCに信じられない「大異変!」〜


【左のロードスターはメディア対抗4時間レースの常連となった《みんカラチーム》】

 2週間ぶりに我が家に帰って、4階にある仕事部屋から、南西に向かって広がる朝の空をしみじみと眺めていられるその時間。やっぱり落ち着くなあ。

 午前、4時半。しっとりと朝の空が、バラ色に染まり始める。数日前に見たダイナミックな日の出に比べると、パンチには欠けるものの、この瞬間が、なぜこんなに愛おしいのか。無事、オーバーホールを終え、やっと「還暦+22歳の青春」を楽しめる状況に復帰できる保証を得て、浮き浮きしている己れ。

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*5月になって3回目の日曜の朝。東の空は見えないが、うっすらと薔薇色に染まり始めたくもの様が、何とも愛おしい。


 2週間、PCから隔離された時間は辛かった。インタネット接続を有料で使えると聞いていたので、dynabookを持ち込んだものの、それは1Fの決められたコーナーで備え付けのPCからだけが使用可能とあって、全く使い物にならなかった。

 やむなく、iPhoneのテザリング機能に頼って、iPadから辛うじて「みんカラ」に『驚きの賓客』を投稿するのがやっと。そのほか、『何シテル?』をわずかに2回。たとえば5月15日午前7時51分の投稿はこうだった。

「ここに滞在して9日目。4時30分。白々明けの東の空がダイナミックに勢いを増す。久しぶりにサンライズに同化できた。元気が湧いてくる。ヨッシャ!」

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*こちらは滞在して10日目の「夜明け」。7Fにお邪魔して東の空を拝む。


 その程度で、どうして満足できようか。不本意で消化不良の日々。
それが今、そんな状態からやっと解放されたのだ。
『みんカラBLOG』では「驚きの賓客」のもった詳しいフォトをお見せしたいし、その際に立ち寄ったB1で、久しぶりの飲んだスタバのカプチーノの懐かしい味。それらを直ぐにでもBLOGアップしようと張り切ってデスクトップのPC2台の電源をONにして、それぞれが目覚めるのを待った。

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 やがて、サインIN。真っ先に手がけたのは三つのアカウントを持つメールのチェックである。総数、766通。これを一つ一つ、開封いていけば1日仕事ではこなしきれない。止むを得ない。これはというものだけをクリックし、あとはまとめて削除させていただいた。

 その中には緊急を要するものもある。あ、これは間に合うかしら?と慌ててチェックしたのは「McLaren Senna Japan Premier PR事務局」からのメッセージだった。

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 何しろ、つい先日、ジュネーブモーターショーで発表した伝説のドライバー、アイルトン・セナの名を冠した究極のサーキット仕様モデルでありながら、公道での走行も可能となるMcLaren Sennaをいよいよ日本国内でお披露目することになった、というのだ。場所は芝・増上寺の特設会場。

 5月22日、11時から12時30分か。行けなくはない。が、次の1行を読んでガックリ来た。申し込みの締め切りは5月10日の午後6時とあるではないか。とっくに過ぎている。がサポートしている事務局の名前を見て、何とかなるという気になった。
ともかく適当な時間に電話を入れてみるか。当たって砕けろ、だ。久しぶりに、セナに関わる世界に足を運ぶとするか。

 さて、「みんカラ」BLOGの方はどうなっているのかな。
 開いて見て「???」であった。iPadから何とか送稿した『驚きの賓客』(5月13日21時57分)の真下にあるはずの『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』がすっぽりと抜けているではないか。あるのは、4月21日にあげた『ニュー911 GT3 RS《緑の地獄》攻略映像!』。そんなはずはない!

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「みんカラ」編集部から、たとえば何らかの事情で削除したいという連絡もない。それでいてあらゆるチェック機構で洗って見ると、見事に足跡を残さずに該当記事は消えていた。PVレポート欄からも、鮮やかに消されている。

 こんな不思議なことがあっていいのだろうか。一気に風船の空気が抜けてしまった。ともかく「みんカラ編集部」に照会して見なくては。生憎の日曜日とあって、今はそれができないでいた。イライラと業務開始時間を待つしかなかった。                       
                                                 (この項、すぐに更新)
Posted at 2018/05/22 02:05:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
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「調子を落とした翔平とドジャースに比べてマジックをドンドン減らす虎軍団の紙面は踊ってる。この快音が聞きたかった。みんながこのアーチを待っていた、と3試合で無安打だったサト輝の32号ソロに大はしゃぎ。加えて才木が後半戦負けなしの5連勝とか明るいニュースばかり。このあとの横浜戦に注目。」
何シテル?   08/26 00:57
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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