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正岡貞雄のブログ一覧

2020年04月20日 イイね!

西麻布・霞町慕情2020

西麻布・霞町慕情2020序章としての「タンボフレンド撮影会」
PART②
 


【ベスモ組。大井、山本、本田の3人が欠けたものの、この笑顔が嬉しい】


*『みんカラフレンド』の皆さま、恙(つつがな)きや。このコロナウィルス厄災との闘いは、それぞれが耐え抜くしかありませんが、どうかメゲないで、平和を取り戻しましょう。それぞれの健闘を期待します。そして明るく、健康な日々を取り戻しましょう。

 さて、前回からの《序章としての『タンボフレンド撮影会』》を書き継ぐとしよう。
        
      ☆     ☆          ☆          ☆

 大都会のド真ん中‥‥。たとえば六本木ヒルズ森タワーの鼻面を舐めるように、東西へ横切っている首都高速3号渋谷線沿いに併走する、西麻布方向への下り坂をぶらり歩きでもわずか10分か。そこへ青山1丁目から青山斎場傍を広尾方面へ抜ける外苑西通りが、谷底あたりで合流してくるのが西麻布交差点である。

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*GOOGLE Mapより

 ‘60年代の終わり頃までは「霞町」と呼ばれ、一軒家のフランス料理店で女性連れにぴったりだった「クイーンアリス」や、アメリカの大統領と日本の首相がお忍びで鮨をつまみに来た「居酒屋 権八」とか、洒落た隠れ家カフェバーも点在し、夕方以降に不思議な魅力を持つ一帯であった。

 カメラマンの北畠主税さんがいい出した『おともだち撮影会』の舞台が、この西麻布交差点の角にあるマンション2階にある『スタジオ・カッシー』だと、田部靖彦君に伝えられた時、
「ああ、昔の霞町だね」
 と答えたが、六本木で遊んだ後、芸能界の住人やマスコミ人が流れていく、ちょいと胸の悸(とき)めく町だったと、もう彼の世代あたりは知らないらしい。

「霞町ですか?」
「うん、時間があったら、ちょっとぶらり歩きをしたいなあ」
「わかりました。早めにお迎えにあがります」
 相変わらず、キビキビとした田部君のレスポンスが嬉しかった。

 それから1週間が経って‥‥‥3月15日の午後4時。約束の時間ぴったりに田部靖彦君が、迎えにきてくれた。

「さあ、どうぞ」と助手席側にまわって、ドアを開いてくれる。ダークグレーのマーチである。その、ちょっと狭めなナビシートに納まりながら、問いかけた。
「あれ、B MWのX3はどうしたんだい?」
「ああ、X3ではなく、いま乗っているのは3シリーズのツーリング(正岡註:
セダンのみだった3シリーズのラインナップに加わった、ワゴンモデル)ですが、ソータ(正岡註:愛息の創汰クン=今春、無事に四国・今治にある船員養成の専門短大を卒業)が免許をとって乗り回し、あっちこっちをやっちゃって修理に出した代車です」

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*田部クンのお宝が見事に孵化。おめでとうさん。

「そうか。それにしてもマーチとは懐かしい。憶えているかい? 筑波レース・ド・日本のマーチレース。ぼくはマッチ(近藤真彦君)のマーチを借りて1戦だけ走った。その時の3位がキミで、そのマーチのシリーズチャンピオンになった勢いで、次の年はEXAレースで富士フレッシュマンに、きみはデビューしたんだから」
「ご縁です‥‥ね」
遠い目をする田部君。あの頃は彼のヘッドも黒々としていて、その若武者ぶりは際立っていたのに‥‥‥。思い出したように早口で報告し出した。

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*マッチのマーチ#12を試乗ドライブ。(1984年)

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*本番はニスモのマシン(#23)に乗り替えたものの結果は15位だった

「あ、大井(貴之)さんはイベントをやっていて、撮影の時間には間に合わないみたいで。山本(亨)ちゃんは娘さんの卒業式が重なり、本田(俊也)君もちょっと体調不良でN Gです。だから、杉野(勝秀)ちゃんと3人組でお願いします」
折角の機会なのに、残念だな。6人が揃えばそれだけでニュースだし、久しぶりの賑やかな時間を期待していたのに。

 田部君のドライブするマーチは、目白通りを都心に向かって東進する。
 彼にとっても「勝手知ったる」ルートらしく、早稲田を過ぎたところでT字路を右折、柳町、四谷3丁目、信濃町とそれぞれのポイントをパスし、HONDAの本社ビルのある青山1丁目をグイグイと、真っ直ぐに抜けていく。右側に青山墓地。これで外苑西通りに流入したわけだ。一気に広尾方面に駆け下りる。
 南青山方面から418号線が合流してきたところで、かつての霞町の交差点だ。

 躊躇(ためら)いなく、高速道路真下の交差点を右折した田部君のマーチは、そのまま高速道路下の有料駐車場へ。どうやら田部君もスタジオ・カッシー西麻布を何度か使っているらしい。
 マーチから降りると、目ざとく獲物を見つけたように駐車場の奥を、田部君は指差した。白いボディの横ッ腹に、チェッカーフラッグに見立てて赤いステッカーを貼り付けたようなデザインのスポーツセダンが駐車している。

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*筑波での限界性能テスト(ドライバー;松田次生)で59秒361を叩き出した日産GT-R NISMO 2020モデル

 うん!? どこかで見た記憶がある。横浜ナンバーの日産GT−R NISMO 2020年モデルじゃないか。もしかして、つい先日、筑波で1分切りをした話題の怪物かもしれない。

 田部君も気付いていたらしく、「(タンボフレンド)撮影会にきた同業者ですね」といってから、ニヤリと‥‥‥。つまり日産の広報車、というわけか。だれが乗って来たのだろう?

 駐車場を出ると、目の前が「スタジオ・カッシー西麻布」のあるマンションだった。そういえばタンボさんの招待告知の中に「パーキングから徒歩30秒」と明記してあった。

 時計を見る。わがグループに割り当てられた時間まで、40分 近くの余裕がある。「お茶しますか?」わかっているね、さすが田部君。しかし、一歩踏み出した霞町界隈は、まだ眠ったままだった。適当にコーヒーを注文できるような店などありはしない。スターバックスくらい、あってもいいじゃないか。そういえば、昔からそうだった、と思い出す。

 3月の夕暮を吹き抜ける風は冷え冷えとしていて、コートなしにはこたえる。
コーヒーを断念して、早めに「スタジオ・カッシー西麻布」に顔を出すことにして、「外苑西」の大通りを戻りかかって、ひょいと向かい側に視線を向けると、懐かしいガソリンスタンドが目に飛び込んだ。石坂浩二さんが浅丘ルリ子さんと広尾のマンションで暮らしていた時代に、よく使っていた。創刊時の『ベストカー』に《なぜフェラーリに惹かれるのか》と熱い想いを寄稿してもらって318を撮影に持ち出した時、いつもここを使っているんですよ、と立ち寄った遠い記憶。

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*1978年当時、石坂浩二さんの愛車F318

 そういえば、この大通りの広尾寄りに『ミケロッティ』のショールームがあって、その頃乗っていたBMW320につけるフォグランプを買いに行ったリ、サーキットキャップを調達した記憶が蘇ってきた。挙げ句の果てには、ガンさんをドライバーに鈴鹿のシビックレースに遠征するときめ、五木寛之さん、徳大寺有恒さんと『風の仲間』を結成、そのファッションスポンサーにミケロッティJAPANを指名したはずだが、どこかに確認できる写真があったかな。よっしゃあ。探してみせるぞ。

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*五木レーシングチームを結成して鈴鹿CIVICワンメークレースに参戦。このミケロッティのキャップがお気に入りだった。

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*チーフメカの小野昌朗さんとお揃いのブルゾンを。五本の木をあしらったデザインは林ミノルさんのものである。

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*その頃のヒット作《四季 奈津子》にも協賛を。

 気を取り直して、交差点まで戻り、いよいよ、タンボさんの待つスタジオへ。出迎えてくれたのは「ベストモータリング」の3代目編集長をつとめてくれた杉野勝秀君だった。その前身は『GT-Rマガジン』(交通タイムス社刊)の創刊編集長。
「ということは‥‥‥」
  杉野君があの怪物でやって来たのか。
「いえ、いえ」
 慌てた感じで田部君が割って入って、杉野君と談笑していた長身の紳士を紹介しようとする。
「こちら、ご存知でしょう? GT−Rのチーフ、田村(宏志)さんです」


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*田村宏志さんのFBページより

 あ、そうなんだ。腑に落ちた。早速、名刺の交換。日産商品企画部チーフ・プロダクト・スペシャリストの肩書が眩しい。が、こちらはこれから撮影が始まるので、あまり踏み込んだ話はできない。ただし、短い時間の間に、彼がハコスカに憧れて日産に入社しながら、思うところがあって、在籍2年で桜井真一郎さんの創ったオーテックに転籍、そして今、GT−Rを任される立場にある、とご本人から伺ったのは大収穫だ。

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*インドでのワールドプレミアから

 こちらの撮影が終わるまで、お待ちいただけると嬉しいのだが‥‥‥。
(以下、次回更新まで)

●追記 こんな時こそ電子書籍☆2000円分が当たる☆キャンペーンが届いています。こんな時だからこそ、ぜひどうぞ! ガンさんや中谷君のドラテク教本をぜひGETTされたし! こちらからどうぞ!!

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https://contendo.jp


Posted at 2020/04/20 18:51:11 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年04月04日 イイね!

『S U Z U K I創業100年』と『わが初恋』の関係

『S U Z U K I創業100年』と『わが初恋』の関係 その序章としての『タンボフレンド撮影会』

 こんなにも重々しく、禍々(まがまが)しい日々は真っ平だ。「みんカラ」の方も『天国のノムさんへの報告』を始めたのはいいが、もう一つ、その続きを仕上げるパワーが湧いてくれない。心に灯火が点いてこない。

 それでも「Face Book」とみんカラの「何シテル?」のような小回りの効くコラムスタイルをステージに、「生存の証し」としてチョロチョロとわが消息を発信してきた。
 そこで考えた。その両方をドッキングさせて「つれづれの記」の一端にしてみたらどうなるか? ともかくやってみようか。

 ことの火付け役はいつものように「ベストモータリング」の元幹部、田部靖彦君である。その舞台となったF Bのメッセンジャー欄をコピーしてみると‥‥。

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*デイトナで取材中の田部靖彦君 

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2020/01/13/ 17:02
「こんにちは。時間がある時にタンボさんのFBを覗いて下さい。みんな(註:ベスモグループ)で撮りたいとお願いしました。とりあえずスケジュール空けおいて下さい!」

 早速、「タンボさん」こと北畠主税クンのF Bページへ。ベストモータリングの創刊とともにV I D E Oパッケージの表紙写真を撮り続けてもらった関係である。なるほど、このところ「グランツーリスモ スケープスツアー」の依頼で世界中の僻地を飛び回っていた仕事が一段落したので、ご無沙汰しているCARメディアのフレンドたちへの感謝の意味もあって、スタジオを借りてタンボ撮影会を催したいというのだ。
やるねぇ、タンボちゃん。以下のコメントも洒落ていて、ジーンときた。

「3/15日に、タンボフレンド撮影会をやります。スタジオカッシーを1日お借りして。よろしければ、是非是非。1人30分って感じです、15人限定で。参加費は、ケーキ4個です。コーヒー付きです。田んぼは、皆さん、ご存知でしょうが、どちらかというと、人の写真は、苦手です。《そんなの知ってるよ》って方だけでお願いします」

 一読、確認後、田部君にメッセージを返す。
「参加を伝えました。君の命令だから。いつも、ありがとう」

 このタンボ企画は大受けだったのはいいが、タンボご本人が悲鳴をあげたらしい。2日後、こんな「お詫び」のページが掲載されていた。

「タンボフレンド撮影会についてのお詫びです。
凄い数の申し込みのメールをいただきました。が、想定数を大幅に上回り、もう処理ができない数になってしまいました。

 なので、本当に申し訳ないのですが、3月14〜15日の撮影会は、やはり最初に書きました限定数15名で締め切らせて下さいませ。1〜15までの方です。

 それ以降の番号の方は、期待させて本当にごめんなさい。何だよな−−−!ってお思いでしょうが、予想より多く来過ぎちゃいました。どうぞお許し下さいませ。最初の会なので、まずは僕との付き合いの長い方から始めさせてもらえたらと思います。第2弾は改めて声をかけさせて下さい」

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 そのあと、ご本人は羽田からフランクフルト経由で合計30時間を掛けて南米大陸へ飛んで、ウルグアイ、アルゼンチン、パタゴニアとハードな撮影旅行に。
フレンド撮影会の雲行きも怪しくなった。田部君からも、その後の連絡はない。
だからこちらも、いつしか「当てにしないで待っていよう」という気分になっていた。

 ところが、3月8日の朝8時に田部君から、メッセージがやっと入った。
「お待たせしました。3月15日(日)は17:30から柏田くんのスタジオで撮影になります。余裕を見て16:00過ぎにお迎えに上がります。できればスーツかジャケットにネクタイでお願いします。参加予定は大井(貴之)、山本(享)、本田(俊也)、杉野(勝秀)にぼくの6名です」

 おお、タンボちゃんの話は忠実に守られるのだ。それにこのメンバーが一堂に会するとは! 嬉しいじゃないか。ポッと心のともし火が、久しぶりに点灯してくれた。

 早速、「ありがとう。 お待ちしています」とメッセージを返し、1週間後の3月15日を待った。その間も新型コロナウィルス禍で、世の中が周囲に気を使って縮こまっている。世界の自動車業界も揃って大変な局面を迎えつつあった。

 そして待ちわびた3月15日の朝が来て、わたしは朝日新聞の第5面を拡げて、S U Z U K Iの一ページ広告に見入っていた。創業100周年を迎えられたことを、内外に向かって深く感謝の意を述べていた。すでにMAZDAがこの年の初めに100周年を迎えているし、SUZUKIからも鈴木修会長、俊宏社長の連名で挨拶状をいただいていたから、100周年そのものは耳新しくはないが、この時期に1ページ広告をうつSUZUKIの心意気には、感じるものがあった。

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 無駄のない静かな佇まいが、まず気に入った。
 上段で2行、この特大活字のコピーが胸を搏(う)つ。

 感謝。感謝。感謝の100年でした。

 そのコピーの真下に創業者鈴木道雄氏の、叙勲を受けた記念の肖像写真を飾り、その両側を1952年に世の中へ送り出した自転車『パワーフリー号』にはじまって、1955年10月、この国の軽自動車の先鞭をつけた『スズライト』(2サイクル360cc)を配している。

 そしてスズライトの真下には、10年後に新分野進出を目指して船外機用エンジン『D55』(2サイクル55馬力)、さらにそれを支えるようにして、ああ懐かしや、海外市場を席巻した新型二輪車『GSX1100S』(1981年1月)の勇姿だ。

 お客さまのためなら、どんなことをしてでもこたえろ。
頑張れば、できるもんだ。  創業者 鈴木道雄

  創業100年。SUZUKIが今、改めて「物づくりの原点」として、噛みしめている言葉。その真下に真紅のボディカラーの『アルト』(1979年=2サイクル550cc)。それからのSUZUKIのクルマに託した想いがわかる配置だった。締めはやっぱりSUZUKIの原点である織機だ。A 44 片側四梃杼織機(かたがわ、よんちょうひ、しょっき)とよむ、まるでオルガンのような骨組みに、赤い櫛と歯ブラシを組み合わせたようなそのマシーンが、この軽自動車中心に発展してきた会社の原像を素直に演出していた‥……。なんだかハスラーのフロントマスクと似ていないか。  
 そして、1面広告の最下段に28行でまとめたスズキからの感謝の言葉。気張らず素直な姿勢がいい。

 近年、R J Cのメンバーに加わってからは、スズキのNEWカーに試乗できる機会が増え、関わっているSUZUKIマンの方々との接触も増えた。試しに「何シテル?」を開いてみると、SUZUKIに関わる動静が多いのに、改めて驚く。たとえば‥‥‥。

2019/12/24 18:40
 珍しくボルドーの赤ワイン、シャトー・ラヴィゾンを引っ張り出し、
コルクを開け、家人と乾杯。Merry Xmas! 体調も回復しつつあり、それなりに活発に動くことができ始めた悦びからか。渋谷で催されたSUZUKI新型ハスラーの発表会へ。軽のクロスオーバー市場に強烈な新風が吹き込んだ!

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2020/ 01/30 21:50
 明日(1/31)は幕張を基地にして2代目ハスラーの試乗会が。そのためには何時に近くの私鉄駅から東京駅京葉線へ向かえばいいのか? いそいそと時刻表に取り組む。8:00の西武・有楽町線に乗れば悠々と9:00発の快速が待っているとわかる。クリスマスイブに発表された小さな怪物。楽しみだ!

02/02 21:35
 31日は11時から幕張を基地にハスラーを試乗し、夕方から芝のPホテルまで戻って三菱自動車の名物広報マンの定年退職を送り出す感謝パーティへ。さて、ハスラー試乗記とパーティ出席記のどちらを先に仕上げようかな、と思案しながら気がついた。胡蝶蘭が1年の眠りから覚めて、やあ暫く、と。花言葉は「あなたを愛す」か。なるほど。では!

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*スイフト HYBRID RS !.2ℓDOHC 2WD

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*佐倉城址にて Xbee(クロスビー)

 そうだった。SUZUKIのハスラーも、三菱自動車の名物広報マンの「卒業式」の模様も、結局、ブログにはいまだにアップしてなかった。近々、あのハスラーをスイフトやクロスビーと同様、幕張基地をスタートして佐倉までを往復した試乗記も何とかまとめあげたい。なにしろ今回のハスラーくらい日本=和の風景に見事に溶け込んでくれる車はない、と惚れ込んでしまったのだから。

         ☆    ☆     ☆     ☆
 
 3月15日。やっと午後4時になった。と、インターフォンのチャイムが鳴って、モニターに迎えに来てくれた田部君の律儀な顔が映っている。いよいよ『タンボフレンド撮影会』の章へ、時間が巻き戻された。『わが初恋』が登場するのは、まだずっと先になる。お許しあれ。
                (以下、次回へ)
Posted at 2020/04/04 22:22:35 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年03月05日 イイね!

天国の「ノムさん」への報告(その1)

天国の「ノムさん」への報告(その1)〜「マスクパンダ」と「予防ハンドブック」〜



  天国に逝ってからまだひと月にも満たないのに、オチオチ眠ってもおられん、と「ノムさん」はボヤいていることだろう。新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大禍への対応で、全てがテンヤワンヤで大揺れしている。学校閉鎖、スポーツ競技などのイベント自粛。プロ野球もオープン戦は全試合を無観客で実施することに決まった。

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 そうなると、3月8日の甲子園球場での対巨人オープン戦を「ノムさん」の追悼試合とする予定が吹っ飛んでしまったのも、当然の流れ。
「お客様がはいっておられない追悼試合っていうのも変な話。事実上、延期です」(阪神タイガース球団本部長談)
 それを追いかけるように、今度は息子で近親者だけで済ませた葬儀で喪主を務めた克則氏(楽天・作戦コーチ)が、プロ野球の開幕前に一般会葬者も出席できる本葬儀を東京・青山葬儀所で執り行う予定だったのを、シーズンオフに日程を考えている、と変更を明らかにした。

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「ま、その方がええわい。もう少し静かに眠らせてほしいわ」
そんな「ノムさん」の声が聴こえてくるようだが、同じ84歳同士。こちらからあなたに話して置きたいこと、伝えたいことがいくつかある。その辺を、わたしの身辺のつれづれ話なども交えて、もうひと頑張り、綴ってみよう。

   ☆   ☆   ☆   ☆

 全戸で62所帯、築37年のこぢんまりした5階建てマンションの管理組合理事長を引き受けてから満2年になる。共用部分の給水管更新工事や、宅配B O Xの導入、玄関入り口花壇の目配りから、「納涼の夕べ」「防災D A Y」といったイベントの開催など、結構様々な出来事に追いまくられるのを楽しんできた。

 それでも、今回の新型コロナウィルスの感染拡大禍への対応については、何一つ、理事長として役に立てないでいるおのれに、少々、腹を立てていた。せめて玄関ホールの自動開閉扉の出入り口に、除菌用のスプレーでも用意したいのだが、どうあがいても、その入手すら不能だった。

 そこで思い立ったのが、ともかく感染症にかからない、うつさないための「感染伝播予防」の基本をまとめたハンドブックはないものか、であった。

 探せば、やっぱりあるものだ。N H Kテレビで解説によく起用されている感染症学の権威・賀来満夫教授が監修し、東北医科薬科大学病院感染制御部・仙台東部地区感染対策チームが作成した『新型コロナウイルス感染症 市民向け感染予防ハンドブック』‥‥‥イラストを多用したA4カラー版19ページ構成のPDF。プリントアウトも問題ない。コピー用紙を裏表に刷り込めば10ページで仕上がる。ともかく大急ぎで見本を作ってみようじゃないか。
もうすぐあと1日で、閏年の2月が終わってしまう金曜日の夜の出来事であった。

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 ●『新型コロナウイルス感染症 市民向け感染予防ハンドブック』はこちらをクリック

 翌日、出来上がったばかりの「見本刷り」を見せながら、折から3月末に開催予定の通常総会の打ち合わせで、招集をかけていたベテラン理事2名と管理会社の担当者に「これを玄関掲示板の前に小テーブルを用意して、適当な部数、置いてみたらどうだろう?」と提案した。
 即座に、瀬戸内海海賊の末裔に多い姓を持つ管理会社の担当氏が反応してくれる。
「あ、いいですね。こちらも掲示板に貼ってもらうつもりで、首相官邸と厚生労働省の作成したポスターを持ってきましたが、ハンドブックをぜひお願いしたいです」
「それなら、ポスターも掲示して、ハンドブックの方はひとまず20部くらいを用意しておいて、希望者だけでも自由に持って行けるようにしましょう」

 話は決まった。午後からはハンドブックの制作に当って、まず自前の沖レーザープリンターのチェックに入る。20ページものを、仮に30部刷るとして、少なくとも600ページ分の4色トナーカートリッジとコピー用紙が最低必要となる。

 チェックしてみるとM(マイゼンタ)がすでに交換時期にはいっている。困ったことに、この手のトナーカートリッジは大手量販店でないと常時在庫をしていない。早速、池袋のビックカメラまで出向いて調達することにした。

 池袋駅の東口はいつもの雑踏と変わりなかった。が、不思議なことに人の波が渦巻くように一つの方向へ寄せている。そして押し返される人々の手にはビニール袋に包まれた白いマスクがひらひらと‥‥‥。何ごとか!? こちらも人の波の流れに任せて渦の中心に近づいてみると、お揃いの白いブルゾンコートをまとった若い男女の集団が、持ちこんだ段ボール箱からマスクを取り出して、どうぞお持ちください、と声をかけながら手渡しているではないか。

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 マスクやトイレットペーパーの供給不足で、かつてのオイルショック騒動が思い出される昨今、街行く人にマスクを無料配布する光景は異様といえた。それでも背後から押されながら、その流れに身を任せていると、ヒョイと白いマスクを手にした若い女性の前へ押し出された。
「マスクをどうぞ」
「ありがとう。でも、どうしてこのマスクを配ってくれるの?」
受け取った瞬間、お礼をいうのがやっとだったが、それでもこのボランティア活動について問い質すこともできた。
「武漢からの恩返しです」
日本語がたどたどしいな、と感じた瞬間、人の流れで渦の外へはじき出されてしまった。そのため、そのボランティア活動の様子をiPhoneで撮影することも忘れて、本来の目的である家電量販店のP C館に、あたふたと向かってしまった。

*どこかに、この日のマスクを配布したボランティア集団の記録はないかと「捜索」
したところ、『人民網日本』に収録されていました。それによれば‥‥‥。
 
 在日華僑華人が発起したボランティア団体「マスクパンダアクション」が2月29日、日本の東京・池袋駅前で道行く人々に無償でマスクを配り、中国の新型コロナウィルス感染による肺炎拡大時に日本各界が中国に提供した無私の援助への感謝の気持ちを示した。

 この記事に、4枚の写真が添えられていたので、紹介したい。

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 残念ながら、マゼンタ(赤系)のトナーカートリッジは珍しく品切れで、取り寄せになるという。それでは間に合わない。系列店で在庫しているところは? 店員に調べてもらうと、新宿西口ハルクにある系列店に1本だけあるという。これはもう、こちらから足を運ぶしかない。池袋からJ R山手線で新宿に向かうことにしたが、別の期待もあったから、つい運ぶ足にも力が入ってしまう。先刻のマスク無償配布集団の活動ぶりを、今度はぜひ撮影しておこう、と。

 午後4時、再び池袋駅東口に近づくにつれ、わが眼を疑った。あの白いブルゾンコートを纏った集団の姿は消えていた。いつもと変わらない雑踏がそこにあるだけで、あれは幻だったのか。しかし、行き交う人々の中には、白いマスクをひらひらと指に絡ませている姿も見られた。おそらく次の配布先にあの集団は移動したのだろう。
   ☆    ☆         ☆    ☆

 新宿西口ハルクの中の主要部をそっくり占領しているビックカメラ。かつての小田急デパートの繁盛ぶりを知っている世代には、時代の流れを思い知らされて、店内を歩いていても辛いものがあった。
それでも無事、求めていたマゼンタのトナーを入手し大急ぎで自宅へ取って返したが、この感覚をつい先日、正確にいえば11日前に味合わされたのを、実は「ノムさん」に報告したかったのだ。

彼の著書『ありがとうを言えなくて 妻・沙知代へ=愛惜の手記』(2019年4月1日 第1刷発行・講談社刊)を入手するために動いてみたところ、なかなか手に入れられず、意地になって都心をあちこち飛びまわってやっと入手、一読して、その真っ直ぐな内容に感じるところがあって、実はもっと早く紹介するつもりだったので、タイトルを《天国の「ノムさん」への報告》とした。が、その件は「その2」の方に譲って、じっくり書き込ませていただく。

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 さてもう一つの主題、「感染予防ハンドブック」は最初、30部を刷り上げた。うち9部は理事会メンバーに配り、残りの21部をトートバックに入れてエレベータ前の掲示ボードにぶら下げたところ、全てが消えるまでに2日とかからない、抜群の売れ行き(?)だった。そこで慌てて10部を増刷したところ、これも一晩たったら全冊消えて、さらに5冊を追加したが、3月5日の夜現在、たった1冊が袋の中で、誰かが攫っていってくれるのを待っている。
 ということは、何冊がわがマンションの居住者のもとへ、届けられたのだろうか。
                (報告〈その2〉をお待ちあれ)
Posted at 2020/03/05 23:24:52 | コメント(7) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2020年02月16日 イイね!

ノムさん、84歳。『同時代の花』の死に心騒ぐものあり

ノムさん、84歳。『同時代の花』の死に心騒ぐものあり〜「デイリースポーツ紙」の喪に服したページ創りに寄せて〜


 84歳(1935年6月生まれ)。虚血性心不全で、独りひっそりと、彼岸へ旅立っていった野村克也さん。同時代を生き抜いた巨人・長嶋が太陽を燦々と浴びた「ひまわり」なら、わしは所詮、月を仰ぐ「月見草」よ、とぼやいてみせたノムさん。その突然の死を悼んで、T V各局はもとより、スポーツ紙全紙が競って工夫を凝らした特集を組んでいた。

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 その中で、長嶋茂雄さんやノムさんと同じ時代の空気を吸いながら生きてきたわたしが、吸い寄せられてしまったのは「デイリースポーツ」。まるで喪に服したような異色の紙面づくり。現役時代の野村捕手(以下、ノムさんと呼ばせていただく)が二塁へ向かってスローイングしているモノクロ姿を大写した第1面だった。追悼の想いがたっぷり込められていた。そのノムさんに添えた追悼のコピーの黄色の文字も似合っていた。

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*デイリースポーツ第1面(2020年2月12日)

「ノムさん ありがとう  天国でサッチーとおしどり夫婦」
そして赤い文字が短冊のように添えられる。
「戦後初三冠王」「本塁打王9度」「史上最強捕手」「I D野球で日本一3度」
「ヤクルト、阪神で《野村再生工場》」「ボヤキや名言も数多く残し」……


「生涯一捕手」として野球を愛した男、ノムさんの経歴も丁寧になぞってあった。
 1954年、テスト生で南海(福岡ソフトバンクの前身)に入団、契約金0円の無名選手は人一倍の努力と洞察力で打撃を開花させ、65年に戦後初の三冠王を獲得、70年に選手兼任監督に就任。その後、ロッテ、西武に移籍し、80年に現役引退するまで、首位打者1度、本塁打王9度、打点王に7度輝いた。
 90年にヤクルト監督に就任。データ重視の「I D野球」で就任3年目の92年にリーグ優勝を飾ると、翌93年に球団史上初の連覇をかざると同時に15年ぶりの日本一に輝くなど、9年間で4度のリーグ優勝、三度の日本一と黄金時代を作り上げた。

 問題はここからだった。わたしがデイリースポーツの紙面づくりに吸い寄せられた本当の理由も「ここからの出来事」にあった。後年、ノムさんも「その時代」を痛く悔いていたものだ。
 
三顧の礼で迎えられ、99年に阪神監督に就任。「野村T O P野球」を掲げ、長く低迷するチームの立て直しを期待された。
「野村再生工場」では遠山を巨人・松井キラーとして再生させ、遠山−葛西−遠山−葛西の投手リレーや、新庄を投手との二刀流に挑戦させるなど話題を呼んだが、3年連続最下位に沈み、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕されたこともあり、01年オフに辞任した。

その時の阪神ファンの野村批判の声を真っ直ぐに反映させたのが、御用達メディアの「デイリースポーツ」であった。ノムさんが采配した3年間の虎軍団は、シーズンの前半こそ生き生きと闘うが、夏場からはがくんとモチベーションを喪うのが通例だった。その辺の悪しき症状にノムさんも対処するエネルギーを失って行った‥‥‥。

 これで「野村株」は急落し、それから5年後に楽天の監督に起用されるまでは、ノンプロチーム「シダックス」の監督を引き受けるなど、雌伏の苦々しい日々を送ることになる。

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*楽天時代の野村監督(TBSテレビ特番より)

 阪神での3年間を、ノムさんも「失敗だった」と認めたというが、その時の「デイリー」がどんな攻撃の矢を射ていたのか、近く国会図書館に行って調べてやろうか、などと思いつつ、2月12日発売の同紙をめくっていくと、あるわ、あるわ「ノムさん追悼」のページが9ページも割かれていた。

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 その中で、特にわたしが注目したのは、『野村監督歴代担当記者の思い出』集で、中でも1999年の阪神キャップだった中村正直記者の寄稿を、ぜひご一読願いたい。そこにはノムさん番ならではの交流が窺われ、◎印を付けさせていただいた一文であった。

■猛虎時代の到来を感じさせた『愚公移山』
青天の霹靂(へきれき)で阪神監督に就任した野村克也氏に、正月紙面の登場をどうお願いするか、かなり考えた。いまから22年前の1998年12月、阪神吉田義男監督の後任問題で“へま”をし、マンマと他紙に野村新監督を抜かれてしまった。せめて正月紙面ぐらい他紙にないものを企画しよう!と考えたのが、中国の故事から採った四字熟語『愚公移山』の1面、終面連版だった。
 歴史好き、書物好きの“ノムさん”をうならせる故事を探し出すのは苦労した。しかし『列子』という書物を読むうちに、当時の阪神にそっくりな逸話を見つけ出した。それが『愚公、山を移す』だった。
 これをノムさんに説明すると「ワシは知らんわ」と言いつつ、ニヤッと笑って快諾。後日、毛筆でこの『愚公移山』をしたためてくれた。
 1999年元旦、その文字がデイリーの1、終麺を飾り、野村監督による猛虎新時代の到来を感じさせた。しかし、時はまだ熟していなかったのだろう。さまざまな革新的な挑戦には感服したが、まだ劇的に当時の“ダメ虎”を変えるまでには至らなかった。ノムさんの“常識”に、当時の阪神がついていけなかった—というのが私の実感ではある。
 野村のおっさん……。デイリーは、いや、俺はイヤミな敵、だったかもしれない。しかし、ホント、本当に尊敬していた。山を動かそうとしていたおっさんこそ『愚公』かもしれない。冥福をただただ祈りたい。

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*デイリースポーツ編集部に貼ってある野村克也氏の『愚公移山』の書

 さて、本稿の本題はここから始まる。実は同世代のプロ野球選手で、これはと思われる光り輝いたプレーヤーとは「雑誌編集者」という仕事を通して、ほとんどインタビューしたり、対談をお膳立てしたり、あるいは連載ページをお願いしたりとナマでお逢いして来た。

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 「週刊現代」の創刊3号(1959年4月26日号)で、当時東映フライヤーズの新人選手の張本勲選手をグラビアページでクローズアップ(「創刊3号」と《駆け出し時代》の痛い記憶をクリック)するため、夜の東京駅プラットホームで撮影したのを皮切りに、国鉄スワローズの金田正一投手の特集グラビアで張り付き取材をしたのも自慢話の一つ。さらにいえば、長嶋茂雄、村山実、江夏豊といったレジェンドとも貴重な単独取材の時間があったりしたのに、なぜかノムさんだけはノータッチであった。
 なぜか。その心残りが今も悔やまれてならないが、次回はそのあたりから、始めようか。
Posted at 2020/02/16 01:47:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2020年01月30日 イイね!

中谷明彦君の「律儀さ」に呆れる

中谷明彦君の「律儀さ」に呆れる『北海道雪上試乗会』のハシゴやら、何ごとにも


【左は北京サーキットでRAV4をチェックする”律儀マン”。2019〜20年次日本カーオブザイヤーに選ばれたとあって彼の地でも大注目!】


 頃合いを見計らって浅草橋の中谷君のお見舞いに行くつもりが、こちらの方が左腰の変調からモタモタしていて、うまくいかない。それがやっと落ち着いてきたので、今週末あたりはどうだろう?と、彼の状況を把握すべくFace Bookをチェックしてみて驚いた。

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 なんとご本人は北海道にいるという。日産の雪上試乗会に参加しているという。N I S S A Nのスキー帽姿がこちらを向いている。左眼の傷痕をサングラスで隠しているところが、やっぱり痛々しいが‥‥‥。

2時間前 #日産雪上試乗会
リハビリ2日目は日産試乗会です。白いドローンを見てややP T S Dを発症気味です。

「PTSD??」‥‥‥心的外傷後のストレス障害。

 そうだろうな。その辺の短いコメントで、中谷君は律儀にコメントしている。多くの方がその後の症状を心配してくれているのを、彼はちゃんと弁えている。

 もうメディアの現役でないから、東京近辺のイベントでない限り、わたしには声はかからなくなったが、この週のはじめから北海道・千歳でV O L V Oが、日産が札幌のモータースポーツパークで、それぞれ「雪上試乗会」を催しているのは知っていた。しかし眼球治療中の中谷君が、その北海道まで足を運ぶのは予想もしていなかった。

 慌てて、彼のメッセージをさらに1日分、戻ってチェックしてみる。1月28日 21:54に投稿していた。

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*北海道・千歳VOLVO雪上試乗会

「リハビリを兼ねて北海道のボルボV60クロスカントリー雪上試乗会に参加してみました。クルマの良さはカートップ誌でレポートするとして、雪上カートでは目測を誤りスピンして下位に沈みました。まだまだリハビリが必要なようです」

 その「近況報告」に対して、わたしは気づいていなかったが、すでに400名を超す「お仲間」から「いいね!」が届いているではないか。

 悔しいから、もう一つ先に打ちこまれている彼のメッセージをチェックしてみる。「1月23火18:59」の投稿なのだが「いいね!」はただ一人の模様。
なんだか長たらしいインターネット・アドレスが添えてあるだけだったが、その下に「IXIGUA.COM」とある。ウン!? 試しにクリックしてみた。どうぞ、あなたにも同じことを試して欲しい。何が起こるのだろうか。

 そう、あの北京サーキットでの収録シーンが出来上がっていたのである。

「三国争覇――中日徳三国SUV哪家強?」

 このタイトルからおおよその察しはついた。中国・日本・ドイツ三国のコンパクトS U V品定め、いや「争覇」とあるからにはバトルをやらかそうというのだろうか? TOYOTA/RAV4の脇に立っているのは中谷君ではないか。
「徳」とは「獨逸」のことらしく、VWティクロンT S Iが動員されている。そして「中」代表は長安汽車製のCS75PLUS。

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 すでに44万強の視聴回数がカウントされており、「いいね!」も1600回を越えていた。さあ、こちらも大急ぎで「視聴者」の仲間入り‥‥。

28分38秒。画面のなかの中谷君は、いつもの「中谷明彦」だったが、共演の二人は「まあそんなものだろうな」で、特に感想はなし。ただ一つ、気になったのは「ドローンの体当たり」を受けたのはどのマシーンだったのか、という点であった。

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*種明かしをしておけば、ドローンが体当たりしたのはこちらではない、と中谷君から指摘あり。取り消します。

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*ドローンが体当たりしたのは、こちらでした。

 見終わって、ともかく中谷君に携帯電話でアプローチ。虚しくコールするだけだった。まだ北海道にいるのだろうか。
 そして、1時間が経って、iPhoneが中谷君からの受信を報せる。いつものことながら、なんという律儀さだ。
――ああ、中谷です。札幌から羽田に着いて、電車の中だったので、失礼しました。

 声にいつもの力感が蘇っていた。短く現況を確認し合う。週末は三菱自動車広報の功労者が定年退職するのを、メディア関係者の呼びかけで「感謝・激励する会」が用意されているので、その時にお会いしようと話はまとまった。

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*中谷明彦FBページより


 中谷君がCARTOP誌の編集者でありながら、レーシングドライバーとしての足場を固めさせてくれたのは三菱ミラージュカップであったのは広く知られている。その時からのバックアップ体制を推し進めた名物広報マンの送別会。中谷君にとっても「特別の人」。久しぶりに『ミラージュカップの昔話』で盛り上がる夜が期待できそうだ。        (この項、終わる)
Posted at 2020/01/30 11:12:54 | コメント(4) | トラックバック(0) | この人に逢いたい | 日記
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「巨人とのゲーム差13。球児の采配は先を見据えていて小気味いい。BSNHK中継の京セラでの対竜第2戦。開幕から5勝をあげながら、その後2か月、勝ち星から見放されている新人井原を起用。立ち上がりで2点を奪われてもひたすら熱投した左腕に『いいところまで戻ってきた』と合格点を。◎だね!」
何シテル?   08/21 12:43
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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