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正岡貞雄のブログ一覧

2019年01月02日 イイね!

初詣のお神籤は、3年連続の『大吉』なり!

初詣のお神籤は、3年連続の『大吉』なり!

2019年『元旦つれづれ日記』〜


頌春——しょうしゅん、と読む。『謹賀新年』や『迎春』と同じ、新しい年を寿ぐ賀詞に使われているが、ちょっと気取って、『みんカラ仲間』へのご挨拶に使わせていただいた。本年もよろしくおつき合いください。

 

 いまや流行語となった「平成最後」の大晦日は、6chの『SASUKE』に吸い寄せられたあと、年越し蕎麦と白のスパークリングワインをちょいとばかり愉しんでから、ベッドへ。横になると、枕元へどこからともなく除夜の鐘の音が流れてきた。ああ、2018年も決して無事とはいえないまでも、ひとまず通過出来たようだ。その安堵感からか、スムースに睡りの世界へと誘われて行った……。

 

 なんの屈託もなくパッと目が覚めた。時計をみると「6:00」。まだ窓の外はほの暗いが、しらしら明けの南の空が雲に覆われていないのを教えてくれた。咄嗟に「初日の出」が拝めるぞ、と思った。勢いよくベッドから離れる。


 

着替えと洗面を済ませ、リビングルームへ移り、TVの電源をONに。NHK2チャンネルで「みんなの体操」に合流し、何とか身体の動きをなじませる。ほぐれる。では、マンションの屋上から初日を拝もうか、とロッカーからNikon D5200300mmレンズを取り出したところで、5chでヘリコプターから特撮した《5000メートル上空からどこよりも早い富士山初日の出を全力中継!》がスタートしているのに気づいた。

雲海から富士の山頂が突き出しているシーン。凄いや! 加えてすでに雲海の東が明るみ始めていテ、日の出が間近なことを伝えている。直ちに風の強い屋上行きは中止。改めてカメラの焦点をTVのモニターに合わせることにした。


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6:45。まだ初日は顔を出していない。間に合った。ここからはテレビ朝日の《新春特大スペシャル:モーニングショー》のシーンにお任せする。中途で4chでも同じ趣向の番組がドラマチックに放映されていたので、それも参考までに付け加えよう。


    ☆   ☆


 特撮用のヘリコプターが「ご来光」を捉えたところで、羽鳥慎一キャスターが妙な提案をする。このご来光シーンに合わせてことしの運勢をどうぞ占ってみては?というのだ。早速、挑戦。と、どうだ!「大吉」と出た。


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  どんな遊びのような占いでも「大吉」は有り難い。ご機嫌な気分で、家人の用意してくれたおせち料理に箸をつける。お雑煮。餅が見事に伸びる。

「黒澤さんのお宅で搗いたお餅は、本当によく伸びて、美味しい」

 家人も嬉しそうに、餅の伸び具合を確かめている。平和で静かな元日の朝。

「これから、八幡様に初詣でに行こうか」

 仕上げに卵焼きを口にいれたところで提案する。確か、去年も、その前の年もお神籤は『大吉』だった、と気づく。景気づけに今年も『大吉』で行きたいものだ。


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  氏神様の高松八幡社までは北へ片道2キロあまりである。例年より1時間ほど早めに参詣したせいか、滞りなく神前へ。お賽銭を上げ、二礼、二拍、一礼。次に恭しく御神札をいただく。最後に念をこめてお神籤をひく。嬉しや、「十六番、大吉」とあった。元旦早々、二つ目の「大吉」である。

 

 〇色も香も おなじ昔に さくらめど 年ふる人ぞ あらたまりける

 〇願望 もとむるままなり  商売 儲け多し 急げ   病気 快癒速し


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お神籤は、社務所横に糸をはりめぐらせて特設した所定の垣に、しっかり結びつけた。帰りの足取りは、不思議と軽かった。が、わがマンションに帰り着いて、いつもの癖で視線がつい専用駐車場のプログレに向かったが、そこには見慣れない白いヴェゼールが、収まっていた。

 

そうなんだ。20181228日に、18年間連れ添ったプログレNC300 IRバージョンは、走行距離115,901kmをもって、わたしのもとを去っていたのだ。プログレとの別れ。それをどうやって、報告すればいいのか。そろそろ肚を固める必要がありそうだ。あ、その前に、1223日の『ガンさん邸、餅つき大会』も報告しなければ。


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Posted at 2019/01/02 01:25:16 | コメント(8) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年12月06日 イイね!

空白の『80日間』をお詫びする

空白の『80日間』をお詫びする『野牡丹コートダジュール』と『HV,Vol.155』に励まされて……
 
 花言葉は「ひたむきな愛」か。

 
 まるまる2ヶ月と20日もの間、『みんカラ』からご無沙汰してしまった。申し訳ない。チョロッと『何シテル?』でご挨拶はしているが……。

 2011年の6月15日に『ファーストラン』というタイトルで、このクルマ関係有数の専門SNSを舞台にして、Special Blog欄から『つれづれなるままにクルマ一代』をスタートさせた6年半近くの中で、もっとも長期にわたるエンストである。

 急激に退潮した健康のせいもあるが、3月半ばから引き受けてしまったマンション(ちょうどベストモータリング創刊にあわせて入居している)の理事長という役割が『青春+22歳』と強がっていたはずのわたしのエネルギーのほとんどを投入しないと対応できない「激務」だったということだろう。たかだか62世帯の築後36年の中型マンションに過ぎないのだが、とにかく理事長の役割を誠実に果たそうとすると、会社でいえば人事・経理・庶務、企画・広報・営業・渉外をまとめて自分の手で運営しなければならない。

 そうした日々の中で、1週間程度の入院生活も3回。それでもやっと夏の終わり頃から理事長職も軌道にのって、ホッと一息。気がついてみると、すっかり師走を迎えている……。

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*そんな日々の中で、11月18日はわがプログレと富士スピードウェイへ向かっている。

「さて、一回りするか」
 午前8時。今では朝のお決まりルーティンとなっているマンション内の巡回から理事長の1日がはじまる。エレベーターは使わずに、内階段を使ってまず最上階の5階居住区にあがって、順次、各階の様子を見てから、1Fの玄関エントランスホールへまで降りていく。この日も、まだ新聞受けから朝刊を取り出していない常連は別にして、特に異常はなさそうだ。管理員の清掃作業もすでに終わっていて、塵一つないのを確認した。さて、と。

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 エントランス玄関から戸外のアプローチ階段へ踏み出した。朝の光が柔らかく降り注いでくる。その玄関の両脇に設えられた花壇が、まるで照明を浴びているような鮮やかさで浮き立ち、花々の朝のご挨拶をこちらへ送ってくれる。

「お!」
 思わず、声が出た。プリンセティア、葉ボタン、ポインセチア、カラー、セロシアといった、秋から冬にかけて妍を競う季節の洋花たちに囲まれて、一輪だけ、紫紺の花が恥ずかしげに「からだ」を開いて、ヒョロリと伸びた白い「雌シベ」でこちらを手招きしているではないか。「野牡丹コートダジュール」である。10月の初めに近くの園芸店で手に入れた「お気に入り」……それが11月の終わりに散っていったはずなのに、また一輪だけ、再生してきたのだ。

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 よく見ると、そのすぐ隣で蕾がふたつ、さらに次なる開花の時を待っている。

 花言葉は「ひたむきな愛」「謙虚な輝き」。ぴったりな風情だ。
 はっと己の今を顧みる気分が、その紫紺の花をみている内に湧き上がってきた。元気を出してよ、と「野牡丹コートダジュール」が囁いてくれたような気がした。



 エントランスに戻り、郵便BOXを開いてみた。と、見覚えのある包装の『ゆうメール』がHot-Versionから届いているではないか。
 お、今月は随分、早く届いたな。いそいそと自室へ戻った。朝のお勤めはもういいだろう。早速、封を切る。ほう、2ℓセダンのクラウンが群サイで、Audi A4クワトロスポーツといった選ばれたスポーツカー達と対決か。ニュルで鍛えたからといって、どこまでついて行けるのかな。

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 それよりも、待望のコーナーがあるではないか!「メディア対抗ロードスター4時間耐久」である。なにしろ、レースのあった9月1日は、せっかく本田俊也編集長が、ゲストパスと駐車券を用意してくれていたのに、その前日から体調不良となって、筑波へは行けなくなって失礼してしまった。レースはゲリラ豪雨に見舞われ大混乱だったとは聴いているが、そのドキュメントをどうまとめてくれたのか、真っ先に「観戦」させて貰うことにした。

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 その模様を「みんカラ」で詳報したい! 衝き上げてくるものがある。やっとその気にさせてくれた、ひたむきな愛の妖精、野牡丹コートダジュールにお礼をいいたい。

 80日ぶりの再開。真っ先に喜んでいるのは、このわたし自身である。    (次回更新を待たれよ)
Posted at 2018/12/06 02:42:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年07月14日 イイね!

カサブランカ・アゲイン!

カサブランカ・アゲイン!〜サライ7月号・五木寛之さんの『男が人生を降りるとき』〜




 7月4日に横浜・白楽の花屋さんから届けられたカサブランカの一鉢。固く閉じられたままの蕾らしきものが11も葉裏に隠れていて、開花の日が楽しみなこちらを、焦らせ続けていた。

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*7月4日、今年も届けられた「花の女王』

 7月13日。誰かに呼ばれた気がして、ハッと目が覚めた。時計を見ると午前5時。カーテンの向こうはすっかり白んでいて、これで早起きの蝉の歌でも聴こえれば……。そうか、カサブランカが呼んでくれたのだ、と思い当たって、早速、リビングルームへ。
ちょうど1年前にも、全く同じ状況を楽しんだ記憶があった。

 間違いなかった。昨夜まで、きっちり、頑なに閉じていながら、真っ先にほころびはじめていたリーダー格の蕾の先ッポが、すでにポッコリと開いていて、濃い紫色の雌蕊まで覗かせている。特に香りが強いわけでもないのに、近寄ると、ちょっと悩ましくなるのはなぜだろう。

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*7月13日の朝、お目覚めの時が来た・・・
 このカサブランカの花が開いたら、すぐにやってみたいことを、前から心に決めていた。『カサブランカ・アゲイン!』とタイトルして……。

 5月の連休明けから、かねてから予定していた『改造計画』を実行するために1週間ほどの予定で、都内の大学病院で拘束状態に入っていた。

 持ち込んだノートPCは全く使い物にならなかった。やむなく、iPhoneのテザリング機能に頼って、iPadから辛うじて「みんカラ」などの様子をチェック出来る程度だったが、退院を一日延ばしにされて、
苛々が始まっていた5月16日のメッセージ欄に、見慣れぬ「みんカラネーム」が届いていた。

「モカ・シャミー」???

 はじめて見る「差出人名」。が「件名」に小学館から発行している「サライ編集部」の編集者名が記されているのだから、心配ないが。どんな要件だろう? すぐに開封する。

      ☆      ☆            ☆          

突然の連絡、失礼いたします。
現在、サライ誌にて五木寛之先生の連載「奇想転画異」を担当しています。

6月10日売り7月号の原稿で車の話題に触れられ、かつてマカオGPなどに参加されたことが記述されています。
記事中に入れる写真を探していたところ、正岡さんのブログ(2015年4月20日)に徳大寺さん、黒沢さん、五木さんが写られている写真が掲示されておりました。

その旨、記載したうえで五木先生に候補案の一つとして提案したところ、上記2015年4月20日付けのブログに掲示されている写真を使ってほしいと連絡を受けました。

上記の写真についての掲載のご許可をいただきたく連絡をさせていただきました。
「みんから」には未登録だったため、急ぎ登録する過程でニックネームを求められ、我が家で暮らす猫の名前にしてあります。失礼の段、お許しください。

お忙しいところ恐れ入りますが、ご検討いただきたくお願い申し上げます。

―――簡にして要を得たメッセージに、iPadからすぐに返信させていただく。

 わざわざありがとうございます。
BLOGに掲載されているファイルの大きさでいいのでしょうか。
もし、J-PEGでもっと大きいサイズをご希望なら、お申し付けください。

もちろん、返信する前に、該当する写真の掲載されたページは確認した。あ、こんな経過で話が「マカオGP」にまで発展していたのか。流れゆく日々を、こうやって記録していくことの有り難さを、改めて受け止めた瞬間でもあった。

 参考までに、「こちら」に「ご一読あれ」のお誘いを用意しておこう。

●『風の仲間』の盟主・五木寛之さんが週刊誌の表紙に!

https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/35496791/


 6月の中旬になって、ルマン24時間レースのTV―CS中継に惹きこまれていると、郵便受けBOXに『サライ7月号』が投函されていた。昭和

 早速、開封。ビジュアル重視のA4判マガジンらしく、ページ数は142とそんなに多くはないが、手にすると、ズッシリと重みが伝わって来る。

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 特集は『建築家の宿』。サブタイトルに「細部まで透徹した匠の創意に膝を打つ」と補足してあって、「おっ、これは必読!」と、こちらも膝を打ってしまったが、ターゲットの読者はアッパーミドル、あるいは人生の仕上げに取りかかっているシニア層。なるほど、ピントはピッタリ定まっている。

 さて、お目当ての五木さんは? 目次の2ページ目の2段目、『奇想転画異』92ページ、第三十二回、男が人生を降りるとき、とあった。

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 見開き2ページ。車好きが高じて「五木レーシング」としてレースにも参戦。中央左から徳大寺有恒さん、黒澤元治さん、筆者(昭和61年撮影、正岡貞雄さん提供)。写真の説明ネームがそのまま、リードの役割を担っていた。

 若い頃は、車の運転が趣味だった。
趣味というと品よくきこえるが、いわゆるカーキチの類(たぐい)だったと言うべきだろう。
自分の車を持てなかった時期は、写真を集めたり車のカタログを壁に張ったりしていた。

 そんな書き出しで始まるエッセイで、この人の車に溺れた(?)エピソードが次から次へと、万華鏡のように披露されている。

 最初に手に入れたのは、シムカ1000という中古のフランス車だった。月島の中古車ショウでひと目惚れして買い込んだ、というのは嘘で、要するに最も安い外国車だったのである。当時の値段で二十五万円だったと思う。
シートは布張りだし、エンジンは非力だし、シフトは中々入らないし、スピードも出ない。第三京浜を夜中に走っていると、全てのトラックに追いこされる始末だった。
しかし、私はその小型車を今でも懐かしく思い出すことがしばしばある。なんといっても外車なのだ。

(中略)
 それからはいろんな車に乗った。一時期、サーブ社と契約して、「CG」誌だけの広告に出たことがある。毎年、春になるとその年のサーブの新車が提供されるのが嬉しくて何年かつとめた。

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 レーシング・チームを作って、マカオ・グランプリに参加したこともあった。ホンダのシビックを改造してのワンメイク・レースだったが、名前だけのオーナーが私、総監督が徳大寺有恒さん、ドライバーが黒澤元治さんというチームだった。車体に『青春の門』とか、いろんなステッカーをべたべたはった奇妙な車だった。
(中略)
 やがて六〇歳を過ぎ、私のカー・ライフにも幕をおろすときがきた。車の運転を止めることは、男を止めることと同じ、いや、それ以上の淋しさだった。

 しかし、私には自分の限界がわかっていた。新幹線の「ひかり」に乗っていて、通過駅の駅名の標識が、流れて確認できないことに気づいたのがきっかけだった。それまでピタリと止まったように見えていたのが、一瞬、流れて注視できなくなったのである。動体視力の衰えは、運転には致命的だ。最後にはスティアリングをにぎったのは、六十五歳のときである。自分の人生が終わったように感じたことを覚えている。

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*五木さんはその頃の愛車BMW633CSiで、徳大寺さんは911Sで鈴鹿サーキットに乗り付け・・・。

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*その後、五木さんはメルセデスの450SELに乗り換えることになり、633CSiはわたしが譲り受けた。

 紹介が長くなった。五木さんの「その時」の心境を正確に見つめて欲しいので、こうなった。わたしの編集者生活の後半で、車に深く関わってしまったきっかけをつくったのは、紛れもなく五木寛之という四歳半年上の作家である。その人の言葉は、いつも的確に、生き方に関わってきた。
 かつて、「八十歳になったらポルシェを着たいですね」と唆したのは、五木さん、あなたではなかったでしょうか。わたしも心のどこかで、運転免許を返還する日を、迎えつつあるのを、もやもやと自覚し始めていただけに、ズシンとこたえる「五木さんの覚悟」であった。

 五木さんから届けられた「カサブランカ」の花が、大胆に開き始めたその朝、わたしは近くのBOOKストアに足を伸ばして、発売されたばかりの『サライ』の8月号を購った。

 特集は「高校野球」。表紙はあの太田幸司投手がピンと左足を跳ね上げたお決まりのポーズ。これはじっくり読めるぞ、と一安心したところで、五木さんの連載ページ「奇想天外」いや「奇想転画異」をチェックした。第三十三話は「邪道としての本の読み方」。

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 情報過多の闇夜の中で、一筋の光を与えてくれるのは、四半世紀前に発行された1冊の書だった、というテーマ。8年ほどに前に他界された免疫学者、多田富雄さんの『免疫の意味論』(1993年・青土社刊)がそれである。わたしには全く予備知識すらない領域の著書である。それを五木さんは「一冊の持つ異様な興奮は、時間の経過などとは関係なく読む人間を魅了し続けるだろう」と言い切っている。

 この夏、必読の書がまた1冊加わってきた。
ことしも五木さんから届けられたカサブランカが咲いている限り、この約束をわたしが忘れることはないはずだ。
                                                   (この項、終わる)
Posted at 2018/07/14 21:40:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年06月17日 イイね!

『富士フレッシュマン戦』に捧げる「EXA純情歌集」

『富士フレッシュマン戦』に捧げる「EXA純情歌集」  〜もう一度、あの『FISCOの青春』を
        「再生」したくなった〜
 


 東名高速・東京料金所から西へ50km、秦野中井ICで降り立ち、北方向に待ち受ける丹沢山塊を目指して駆け上ること10kmあまり。「丹沢そば本店」で催された『富士フレッシュマン同走会』には、ある時代をサーキットに情熱を注ぎ込んだ、かつての若者30人余が集い、時間の経つのも忘れて、交歓の夜を愉しんだ。

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*突き出している中2階からの撮影。これから定番のポイントになりそう。何度数えても総員31だけど・・・

 あの日から、あっという間に丸々3週間が経ってしまった。
そのインターバルのお陰で、パーティがはじまると真っ先に挨拶に来てくれた、ファミリアレースの女王、三野輪良子さんのお立ち台での晴れ姿や、スターティング・グリッドでの様子を伝える「貴重画像」、さらにTSサニーのチャンピオン、関達彦さんのドスの効いた迫力走りを思い出させる写真が、この日の出席者から届くなど、前回のわたしのブログに、彩りと膨らみを添えてくれたのである。

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*P-1600Aファミリアレースの三野輪良子さん。雨のレース。でもPPだから有利だったね。

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*お見事! ボディウムの中央だよ。この後、TSにも挑戦しましたね。


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*こんな集合ショットがあったとは! 正美君の向かって右隣が「丹沢そば本店」の石井店主。B110で闘走した仲間。

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*ゼッケン17のTORIIサニー。ドライバーは言わずと知れた関さんだよ。
  嬉しくなって、持ってきた「がんさんサイン入り」のPORSCHE偏愛グラフィティをプレゼント!
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 それにしても、と懐旧の想いが立ち上がってくる。富士スピードウェイから「富士フレッシュマンレース」という名前が消えてしまってから、どれくらいの月日が立つのだろうか、と。

 早速、手元の資料(「富士スピードウェイ−最初の40年」林信次著=三樹書房刊)で確かめる。

 1966年、富士スピードウェイ開業。アマチュアレースの富士ホリデーレースを開催。
 翌1967年に、富士チャンピオンレースと改称し、シリーズ制となる。
 1970年、富士フレッシュマンレースと改称。最盛期には年間8戦が開催されて、アマチュアレースとして長い歴史を誇り、プロレーシングドライバーを数多く輩出することになる。特に1970年代から1980年代にかけては若手ドライバー育成の舞台として有名だったが、不景気や若者のモータースポーツ離れにより、1990年代以降はドライバーの高齢化が進んで、1998年には、富士チャンピオンレースに再び改称。
 そして、この舞台の申し子として、和田孝夫、土屋圭市、織戸学 飯田章 影山正彦、正美兄弟らの名をあげている。

☆       ☆      ☆

 おお、そうであった。最盛期には富士スピードウェイを活動基盤とする、JAF傘下の公認モータースポーツクラブ(FISCOクラブ、ビクトリーサークルクラブ=VICICをはじめ、トヨタ、ニッサン、マツダのメーカー系クラブ)が寄り合って、年間8戦のフレッシュマンレースを主催していたのを思い出す。
そして必ず1戦だけ、例えばパルサーなら、そのグループはお休みしなければならなかった。それほどに各カテゴリーに参加車が殺到し、それを捌くのに各主催クラブが知恵を絞った時代でもあった。

 幸い、辛うじて手元に『’84年富士レッシュマンレース・第2戦』の公式プログラムが1冊だけ生き残っていたので、それを参考にして、どんなカテゴリーのレースがあったのか、思い出して見ることにする。

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 表紙を飾っているのはEXA。中春のエースナンバー「3」を背負っているのは、確か、内田慎司であったはず。次の年から田部靖彦が引き継いだ。主催は「ニッサンスポーツカークラブ」。開催日が6月24日か??? 第2戦なのに随分と開催日が遅いなあ。そのわけが、このあと、突然、明らかになるのだが……。

 第1レースは「P-1300A スターレット」で参加台数39、ワンデーレースだから公式予選(10分)は8:45。ということは参加確認が7:00、車両検査=7:30、出走前点検・ドライバーズミーティング:8:15と、とんでもなく早朝に始まり、加えて慌ただしい。
前日の土曜日にスポーツ走行し、富士山麓のどこか(御殿場とか須走)に宿泊できる連中はいいが、そんな余裕が許されない若者には、当日の夜明け前から、まことにハードな試練が待ち受けているわけだ。そして、8時45分になって、予選アタックのためにコースインできる、というわけだ。
 
第2レースは「P-1600B エクサ・サニー」で参加台数は40台。エントリーリストが、2ページにわたって載っている。順にチェックしたくなる。
カーNo.1 蒲原芽里(24) 車名、平田RS-OISO、とってもよく知ってるぞ。
カーNo.2 長島秀夫 (21) 長島自動車、このあとミラージュCUPにステップアップしても張り合う仲。
カーNo.3 内田慎司(28)、No.4 高杉好成(20)、No.5 佐藤宗作(28)は揃ってフレッシュマンの名門「RS中春」からのエントリーだし、No.9 森田和範(27)、No.10 稲葉章治(24)、No.11 田中重臣(21)の3人は竹平素信率いる「チームマジョルカ」の面々。そしてNo.19が近藤真彦(19)。そうだった。マッチのFISCOデビューのレースだったのだ。ということはわたしもNo.55で参戦したあのレースとして、ちょっと詳しくレポートしたくなってきた。

幸い、当BLOGカテゴリーで《サーキットに生きる》に一纏めにしてあるので、そちらからアクセスしていただくのも一興だが、差し当たって、以下の3項目にお立ち寄りいただければ、富士フレッシュマン戦に捧げる純情歌集の意図するところの「前説」にはなるはず。どうぞ、ぜひ!


2012年03月07日
●パルサーEXAにのめりこんだ日々 
~わが青春のFISCO熱走~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25685614/

この項のさわりは、パルサーで修業中だったわたしが、第1コーナーに赴いて、EXAに魅入られたあの瞬間だろう。

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−−−−第1コーナーで彼らの走りを観察したことがある。トップ争いの5台が一塊になってインをとろうとして、そのうちの1台が右側のマシンと接触して弾かれた。で、ほかの2台も大きくスピンしてイン側のグリーンへ飛び出そうとする。第1コーナーに陣取った観客は思わず目をつぶった。が、彼らはなにごともなかったように仲よくコースに復帰し、レースを継続したのである。この瞬間、ぼくはパルサーをやめ、彼らの仲間に入れて貰おうとこころに決めた。

 そして、ここからが「第2レース」の、わがレポートである。

2012年03月15日
●マッチ狂想曲 ~わが青春のFISCO熱走・EXA編②~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25766203/

この項は、中段からはじまる以下の章が肝になるので、その部分を抽出しておいたので、ここからお入りいただいてもいい。

■近藤真彦でFISCOは3万8000人の大観衆
 筑波でマッチのマーチを走らせた余勢を駆って、6月24日の富士フレッシュマン第4戦(といっても、雪にたたられてのやり直し戦だから正確には第2戦にあたる)へ。
 もちろんFISCO入りはレース前日の6月23日。パドックはすでに同じ格好をしたローティーンの女の子であふれ返っていた。サーキットでこんな異常な風景を見たのははじめてだ。日産大森の関係者がぼくを手招きする。パドックの手前にある日産チームのガレージ控室へどうぞ、と。人垣を掻き分けて中へ。部屋の主は近藤真彦クンだった。19歳の若さが匂い立つ。ともかく、初めてのレース、誰かリード役をお願いしなくては、というので最年長のぼくに白羽の矢が立ったのだろう。

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当日の観客数は主催者側発表が3万8000人。サーキットが女の子の占領された、異変の日でもあった。パドックも人が溢れ、もうみんなが異常。せっかく早めに予選スタートできる位置にマシンを並べたのに、オフィシャルはなにを血迷ったのかマッチのクルマを中心に混雑している側から、どんどんコース・インさせてしまう。クレーム(文句)をつけようにも、こちらはヘルメットをかぶっているから大声もたてられない。やっとドン尻あたりからスタート。もう先頭に飛び出したグループに1周はハンディをつけられた勘定であった。

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 ムカムカして1周し、ピットサインをみると、なんと、2分5秒台を知らせてくる(このタイム、トップクラスのもの!)。これは凄いぞ! おれもずいぶん速くなったもんや。あとはマシンを大切に……なんぞといい気分で予選15分を無事走破、予選結果の発表をゆったりとドライバーズ・サロンで待ったわけである。

1時間後、ライトグリーンの紙に刷られた予選結果をみて、わが目を疑う。なんと34位で予選落ちじゃないか!(出走40台)あの近藤真彦クンは2分08秒31で33位、ぼくは、それに遅れること0・04秒。ああ! なかよく、予選落ち。(以下,略)

 その後日談が、こちら。

2012年03月18日
●マッチの本音が訊けた『博多の夜』 
~FISCO熱走・EXA編③~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25795824/

 さてプログラムの第3レースは、NPオープンレース Ⅱクラス(1301cc〜1600cc)とⅣクラス(2001cc〜3000cc)の混走で、土屋圭市がカーNo.2 「ADVANキャロット倉田トレノで出走、格上のスカイライン勢をきりきり舞いさせ、今でもFISCOの語り草となっている凄い走りを披露するのだが、恐縮ながら、ここで一服させていただく。

 富士フレッシュマン戦を舞台にした青春の軌跡。この際、紹介したい無名の若者たちの目の光と情熱を、もっと語らせて欲しい。

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Posted at 2018/06/17 03:49:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年05月22日 イイね!

不思議なこともあるもンだ!!

不思議なこともあるもンだ!!
〜2週間ぶりに開いたわがPCに信じられない「大異変!」〜


【左のロードスターはメディア対抗4時間レースの常連となった《みんカラチーム》】

 2週間ぶりに我が家に帰って、4階にある仕事部屋から、南西に向かって広がる朝の空をしみじみと眺めていられるその時間。やっぱり落ち着くなあ。

 午前、4時半。しっとりと朝の空が、バラ色に染まり始める。数日前に見たダイナミックな日の出に比べると、パンチには欠けるものの、この瞬間が、なぜこんなに愛おしいのか。無事、オーバーホールを終え、やっと「還暦+22歳の青春」を楽しめる状況に復帰できる保証を得て、浮き浮きしている己れ。

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*5月になって3回目の日曜の朝。東の空は見えないが、うっすらと薔薇色に染まり始めたくもの様が、何とも愛おしい。


 2週間、PCから隔離された時間は辛かった。インタネット接続を有料で使えると聞いていたので、dynabookを持ち込んだものの、それは1Fの決められたコーナーで備え付けのPCからだけが使用可能とあって、全く使い物にならなかった。

 やむなく、iPhoneのテザリング機能に頼って、iPadから辛うじて「みんカラ」に『驚きの賓客』を投稿するのがやっと。そのほか、『何シテル?』をわずかに2回。たとえば5月15日午前7時51分の投稿はこうだった。

「ここに滞在して9日目。4時30分。白々明けの東の空がダイナミックに勢いを増す。久しぶりにサンライズに同化できた。元気が湧いてくる。ヨッシャ!」

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*こちらは滞在して10日目の「夜明け」。7Fにお邪魔して東の空を拝む。


 その程度で、どうして満足できようか。不本意で消化不良の日々。
それが今、そんな状態からやっと解放されたのだ。
『みんカラBLOG』では「驚きの賓客」のもった詳しいフォトをお見せしたいし、その際に立ち寄ったB1で、久しぶりの飲んだスタバのカプチーノの懐かしい味。それらを直ぐにでもBLOGアップしようと張り切ってデスクトップのPC2台の電源をONにして、それぞれが目覚めるのを待った。

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 やがて、サインIN。真っ先に手がけたのは三つのアカウントを持つメールのチェックである。総数、766通。これを一つ一つ、開封いていけば1日仕事ではこなしきれない。止むを得ない。これはというものだけをクリックし、あとはまとめて削除させていただいた。

 その中には緊急を要するものもある。あ、これは間に合うかしら?と慌ててチェックしたのは「McLaren Senna Japan Premier PR事務局」からのメッセージだった。

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 何しろ、つい先日、ジュネーブモーターショーで発表した伝説のドライバー、アイルトン・セナの名を冠した究極のサーキット仕様モデルでありながら、公道での走行も可能となるMcLaren Sennaをいよいよ日本国内でお披露目することになった、というのだ。場所は芝・増上寺の特設会場。

 5月22日、11時から12時30分か。行けなくはない。が、次の1行を読んでガックリ来た。申し込みの締め切りは5月10日の午後6時とあるではないか。とっくに過ぎている。がサポートしている事務局の名前を見て、何とかなるという気になった。
ともかく適当な時間に電話を入れてみるか。当たって砕けろ、だ。久しぶりに、セナに関わる世界に足を運ぶとするか。

 さて、「みんカラ」BLOGの方はどうなっているのかな。
 開いて見て「???」であった。iPadから何とか送稿した『驚きの賓客』(5月13日21時57分)の真下にあるはずの『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』がすっぽりと抜けているではないか。あるのは、4月21日にあげた『ニュー911 GT3 RS《緑の地獄》攻略映像!』。そんなはずはない!

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「みんカラ」編集部から、たとえば何らかの事情で削除したいという連絡もない。それでいてあらゆるチェック機構で洗って見ると、見事に足跡を残さずに該当記事は消えていた。PVレポート欄からも、鮮やかに消されている。

 こんな不思議なことがあっていいのだろうか。一気に風船の空気が抜けてしまった。ともかく「みんカラ編集部」に照会して見なくては。生憎の日曜日とあって、今はそれができないでいた。イライラと業務開始時間を待つしかなかった。                       
                                                 (この項、すぐに更新)
Posted at 2018/05/22 02:05:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「終戦の日から80年。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の玉音をラジオから聴き取った9歳の少年の記憶を今日こそ書き残して置こうと言い聞かせながらルーチンのデイリー買いに。虎軍団の巨人戦への昂ぶり。快し。それの比べて孤軍奮闘の翔平の痛ましさはどうだ! ま、パイレーツ戦に期待しよう。」
何シテル?   08/15 08:50
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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