~プロローグ・第3回正岡祭りのあとで~
マリナーズのイチローが新天地を求めて、ヤンキースへの移籍を自ら選んだのを、朝のTVニュースで知った。メジャー11年半で積み重ねた安打数が2523本。その38歳の「第2章」がはじまったわけだ。
イチローの「第2章」か。彼が大リーグ入りしたのは2001年だという。その1年前、新世紀である2000年に入った年の2月末に、株主総会を経て「ビデオマガジン」を主宰する責任者の椅子を、親会社である講談社からの後進に譲って、そのあとはなにをやってもいい身分を得ていた。とはいえ、ぼくを必要とする仕事は残っていた。
たとえば、筑波サーキットでのNEWカーを集めて、レースさながらに競わせる「バトル」企画の収録には、ぜひとも立ち会って欲しいとの現場からの要請もあって、欠かさず足を運んでいた。バトル・スタートの旗振り役である。もちろん、トラブルが起こったときのメーカーとの対応や、出演キャスターの調整は、ぼくがいると便利だという裏の事情もあったろう。
それでも、やっと、自由にできる時間がたっぷり生まれた。そこで、かねてから取り組みたかった「ルーツ探訪の旅」と、向かい合うことにした。
ついでに、それまで乗り継いでいたセルシオ、マジェスタの大型FR路線を、分相応にプリウスにしようかな、と迷った末にボディサイズ(全幅)が1,700cmのFR車、プログレを選ぶ。操縦性と走行性能に配慮しているというので、3リッター、直列6気筒DOHCのエンジン搭載のiRバージョンとした。いまでも正解だったと満足している。そのプログレは、これといったトラブルもなく、ずっと手もとにあって、オドメーターはまだ85000あたりで、近年はとみに走行距離が伸びなくなってしまった。
*納車されたばかりで四国の旅に駆り出されたときのプログレ
2000年10月、納車されたばかりのTOYOTAプログレを駆って、東京を離れた。東名、名神、中国、山陽の高速自動車道をひた走り、尾道から「瀬戸内しまなみ海道」を経て、四国・今治市まで、一気に……。念願の「ルーツ探訪の旅」が本格的にはじまった。
それから、10有余年が経って、オリンピック並みに4年に1度、発祥の地・愛媛県松山市北条で催される『正岡祭り』世話人の一人になってしまっている。その第3回目を、つい先日の7月14日(前夜祭)、15日(式典とゆかりの史跡めぐり)の2日間で終わって、ぼくは3日目の朝を、搭乗してきた航空会社経営の、松山城の真向かいにあるホテルで迎えていた。残念ながら、東京から片道で、900キロ近いドライビングは、もう許されないものらしい。空路、松山入りを余儀なくされていたのだ。
午前7時、朝食をとるため、14Fのレストランへ。ガラス窓越しに、松山城の本丸が目の高さで眺められる席が空いている。ホテルの部屋のドアに挟んであった地元の新聞を、期待をこめて、開く。
*2012年7月16日付けの「愛媛新聞」
正岡子規を生み出したお国柄だけに「正岡氏」に関するイベントは、それなりの話題を呼ぶ。第1回の時などは、地元の愛媛TVの取材カメラも回り、愛媛新聞はもとより、読売の記者の姿もあった。が、3日回目ともなると、珍しさはない。それでも、地元紙の若い女性記者が暑い日差しのなか、熱心に取材する姿が、いかにも好ましかった。
第8面。カラー写真を配した3段記事が掲載されていた。『「正岡さん」強まる絆 県内外70人集い交流』という見出しが目に飛び込んだ。ともかく、「正岡づくし」の記事である。あの若い女性記者のクレジットも添えられている。「正岡万弥」嬢か。いい名前だ。簡潔にまとめられているので、「正岡祭りって何?」という問いに答えるのに好都合だから、そっくりそのまま引用してみよう。
――正岡姓の人たちが集う「正岡祭り」が14,15の両日、松山市宮内の高縄神社などであり、県内や関東、九州などから約70人が参加。一族の歌の披露や、ルーツとされる史跡見学などで交流を深めた。
2004年から4年に1度開催し、3回目。大阪府立成人センター顧問の医師で「正岡会」会長の正岡徹さん(79)=大阪府池田市)=によると、中世の豪族・河野一族の北条経孝が約870年前の1136年、現松山市北条地区にある正岡郷に所領を受けて同神社神官となり、正岡姓を名乗ったのが起源という。
15日は記念式典があり、同神社の正岡重岩宮司(70)らが健康や繁栄を神事で祈った。徹会長は「第1回の祭りから8年たち、亡くなった人もいれば新しい生命も生まれた。全員が仲良く過ごせるよう願い、できれば870年さきまで続けたい」とあいさつした。
*高縄神社舞楽殿で「正岡一族の歌」を披露する正岡美津子さん
式典後、ソプラノ歌手正岡美津子さん(36)が「正岡一族の歌」を境内で披露。一行はバスで正岡氏ゆかりの城跡を巡った。
東京などから兄弟の4人で来た正岡孝紹さん(64)は「初めて参加したが、正岡氏の絆を感じて感激した。子孫にも伝えたい」と話した――。
読み終えたとき、出来過ぎた話に聞こえるだろうが、新聞記事の最後のコメンテーターである、正岡孝紹(たかあき)さんが「お早うございます」と朝の挨拶をこちらに送りながら、現れたのである。
「読みましたか? 昨日の記事が載っていますよ」
新聞をヒラヒラさせながら、ぼくは挨拶を返した。
「え!? もう記事が出たんですか」
孝紹さんが不思議がるのも無理なかった。前夜、彼の携帯電話に「お嬢さん記者」から補足取材のアプローチがあったのだから、まさか次の朝に、すでに活字になっているとは、予測できなかったのも無理ない。
「じゃ、ぼくはこれからORIXレンタカーの松山店までいって、クルマをピックアップしてきます。9時半スタートですから、ロビーでお待ちください」
*松山でレンタルしたカローラAXIO
実はこの日、ぼくの特別ツアーとして、正岡孝紹3姉弟と従妹の方を加えた4人を、ある特別な場所へ案内する約束だった。そのための足として、レンタカーを調達したわけである。その行先が、実はこれからのテーマとしたい「400年前の歴史の闇に光をあてる」という試みである。歴史の正史からはうかがえない、正岡一族に語り継がれてきた「秘話」を確かめようというのだ。
*木々の間から覗ける石垣の址。
*こんな山間の僻地に、なぜこんな立派な邸宅があったのか? 明治40年に描かれたものだ。それが幻のように消えている
*現在はご覧のように石垣だけが残されている。
ともあれ、ピックアップしたTOYOTAカローラアクシオでホテルまで取って返し、正岡秀章・孝紹兄弟に姉の巳奈子さん、従妹の伸子さんを乗せて、道後温泉のそばを抜けて行く国道317号線で、今治方向を目ざした。
水ヶ峠トンネルを抜けると、下りのワインディングがはじまる。右手の灌木越しに、谷川が走っている姿が、チラチラと覗きはじめた。もうすぐ最初の目的地が待っていたのである。最近入手した日本画に描かれた屋敷の址を訪ねようというのだ。いまは忍び返しのついた石垣が残っているだけなのだが……。
その謎解きは、次のアップまで、お待ちあれ。
Posted at 2012/07/25 14:31:50 | |
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ルーツ探訪 | 日記