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正岡貞雄のブログ一覧

2018年07月31日 イイね!

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草〜1987年10月18日 富士GC、3万7000の大観衆の前で〜

 ふた月前の「丹沢そば本店」での『富士フレッシュマン同走会』で、久しぶりにレーシングドライバーの影山正美君に再会した。
 握手した瞬間、その分厚い、力強い巨きな掌が妙に嬉しかった。
 わたしの記憶の中の「マチャミ君」はいつも兄の正彦君の影のような存在の少年だった。

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*素敵な「若者」に挟まれて
 
 1987年10月18日は富士グラチャンとあって、快晴の秋空の下、三万七〇〇〇の大観衆が詰めかけていた。ミラージュCUPエキスパート第6戦は、その前座に組み込まれていて、注目度も一段とアップ。眞田睦明、中谷明彦、清水和夫に小畑栄、横島久といったミラージュ乗り、それに金石勝智、影山正彦といった若手のホープに、フレッシュマン組から田部靖彦も挑戦していた。当時51歳のわたしもシニア代表(?)として、悠々と予選を通過、後ろに4台ばかりを引き連れて・・・。

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 マチャミ君に会うと、決まってこの日のことが思い出されるんだよ、と伝えると、彼もよく記憶していて、今や語り草となっているその日のことで大いに盛り上がった。そこで思いついた、その日のDVDが手元で眠っているはずだ、ということで、動画化を思いついた。やっと今、それが出来上がった。

 オープニングは想像を絶する予選の模様から。まず鉄砲玉の田部靖彦が、第1コーナーに飛び込んだ!

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*ヘッドフサフサ時代の田部靖彦君

 お楽しみあれ!

 動画制作・遠藤幸和


映像




 すでに詳しくは「ここ」に書き残してあるので、どうぞゆっくりとお読みいただければ、幸いです。

 題して「痛恨のクラッシュ ~「あの事故」と同じ舞台で体験したあの瞬間~」

今の後、引き続き、EXAレースなど「富士フレッシュマン」の実像を、引き続き動画に変換中です。ご期待ください。
2018年07月14日 イイね!

カサブランカ・アゲイン!

カサブランカ・アゲイン!〜サライ7月号・五木寛之さんの『男が人生を降りるとき』〜




 7月4日に横浜・白楽の花屋さんから届けられたカサブランカの一鉢。固く閉じられたままの蕾らしきものが11も葉裏に隠れていて、開花の日が楽しみなこちらを、焦らせ続けていた。

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*7月4日、今年も届けられた「花の女王』

 7月13日。誰かに呼ばれた気がして、ハッと目が覚めた。時計を見ると午前5時。カーテンの向こうはすっかり白んでいて、これで早起きの蝉の歌でも聴こえれば……。そうか、カサブランカが呼んでくれたのだ、と思い当たって、早速、リビングルームへ。
ちょうど1年前にも、全く同じ状況を楽しんだ記憶があった。

 間違いなかった。昨夜まで、きっちり、頑なに閉じていながら、真っ先にほころびはじめていたリーダー格の蕾の先ッポが、すでにポッコリと開いていて、濃い紫色の雌蕊まで覗かせている。特に香りが強いわけでもないのに、近寄ると、ちょっと悩ましくなるのはなぜだろう。

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*7月13日の朝、お目覚めの時が来た・・・
 このカサブランカの花が開いたら、すぐにやってみたいことを、前から心に決めていた。『カサブランカ・アゲイン!』とタイトルして……。

 5月の連休明けから、かねてから予定していた『改造計画』を実行するために1週間ほどの予定で、都内の大学病院で拘束状態に入っていた。

 持ち込んだノートPCは全く使い物にならなかった。やむなく、iPhoneのテザリング機能に頼って、iPadから辛うじて「みんカラ」などの様子をチェック出来る程度だったが、退院を一日延ばしにされて、
苛々が始まっていた5月16日のメッセージ欄に、見慣れぬ「みんカラネーム」が届いていた。

「モカ・シャミー」???

 はじめて見る「差出人名」。が「件名」に小学館から発行している「サライ編集部」の編集者名が記されているのだから、心配ないが。どんな要件だろう? すぐに開封する。

      ☆      ☆            ☆          

突然の連絡、失礼いたします。
現在、サライ誌にて五木寛之先生の連載「奇想転画異」を担当しています。

6月10日売り7月号の原稿で車の話題に触れられ、かつてマカオGPなどに参加されたことが記述されています。
記事中に入れる写真を探していたところ、正岡さんのブログ(2015年4月20日)に徳大寺さん、黒沢さん、五木さんが写られている写真が掲示されておりました。

その旨、記載したうえで五木先生に候補案の一つとして提案したところ、上記2015年4月20日付けのブログに掲示されている写真を使ってほしいと連絡を受けました。

上記の写真についての掲載のご許可をいただきたく連絡をさせていただきました。
「みんから」には未登録だったため、急ぎ登録する過程でニックネームを求められ、我が家で暮らす猫の名前にしてあります。失礼の段、お許しください。

お忙しいところ恐れ入りますが、ご検討いただきたくお願い申し上げます。

―――簡にして要を得たメッセージに、iPadからすぐに返信させていただく。

 わざわざありがとうございます。
BLOGに掲載されているファイルの大きさでいいのでしょうか。
もし、J-PEGでもっと大きいサイズをご希望なら、お申し付けください。

もちろん、返信する前に、該当する写真の掲載されたページは確認した。あ、こんな経過で話が「マカオGP」にまで発展していたのか。流れゆく日々を、こうやって記録していくことの有り難さを、改めて受け止めた瞬間でもあった。

 参考までに、「こちら」に「ご一読あれ」のお誘いを用意しておこう。

●『風の仲間』の盟主・五木寛之さんが週刊誌の表紙に!

https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/35496791/


 6月の中旬になって、ルマン24時間レースのTV―CS中継に惹きこまれていると、郵便受けBOXに『サライ7月号』が投函されていた。昭和

 早速、開封。ビジュアル重視のA4判マガジンらしく、ページ数は142とそんなに多くはないが、手にすると、ズッシリと重みが伝わって来る。

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 特集は『建築家の宿』。サブタイトルに「細部まで透徹した匠の創意に膝を打つ」と補足してあって、「おっ、これは必読!」と、こちらも膝を打ってしまったが、ターゲットの読者はアッパーミドル、あるいは人生の仕上げに取りかかっているシニア層。なるほど、ピントはピッタリ定まっている。

 さて、お目当ての五木さんは? 目次の2ページ目の2段目、『奇想転画異』92ページ、第三十二回、男が人生を降りるとき、とあった。

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 見開き2ページ。車好きが高じて「五木レーシング」としてレースにも参戦。中央左から徳大寺有恒さん、黒澤元治さん、筆者(昭和61年撮影、正岡貞雄さん提供)。写真の説明ネームがそのまま、リードの役割を担っていた。

 若い頃は、車の運転が趣味だった。
趣味というと品よくきこえるが、いわゆるカーキチの類(たぐい)だったと言うべきだろう。
自分の車を持てなかった時期は、写真を集めたり車のカタログを壁に張ったりしていた。

 そんな書き出しで始まるエッセイで、この人の車に溺れた(?)エピソードが次から次へと、万華鏡のように披露されている。

 最初に手に入れたのは、シムカ1000という中古のフランス車だった。月島の中古車ショウでひと目惚れして買い込んだ、というのは嘘で、要するに最も安い外国車だったのである。当時の値段で二十五万円だったと思う。
シートは布張りだし、エンジンは非力だし、シフトは中々入らないし、スピードも出ない。第三京浜を夜中に走っていると、全てのトラックに追いこされる始末だった。
しかし、私はその小型車を今でも懐かしく思い出すことがしばしばある。なんといっても外車なのだ。

(中略)
 それからはいろんな車に乗った。一時期、サーブ社と契約して、「CG」誌だけの広告に出たことがある。毎年、春になるとその年のサーブの新車が提供されるのが嬉しくて何年かつとめた。

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 レーシング・チームを作って、マカオ・グランプリに参加したこともあった。ホンダのシビックを改造してのワンメイク・レースだったが、名前だけのオーナーが私、総監督が徳大寺有恒さん、ドライバーが黒澤元治さんというチームだった。車体に『青春の門』とか、いろんなステッカーをべたべたはった奇妙な車だった。
(中略)
 やがて六〇歳を過ぎ、私のカー・ライフにも幕をおろすときがきた。車の運転を止めることは、男を止めることと同じ、いや、それ以上の淋しさだった。

 しかし、私には自分の限界がわかっていた。新幹線の「ひかり」に乗っていて、通過駅の駅名の標識が、流れて確認できないことに気づいたのがきっかけだった。それまでピタリと止まったように見えていたのが、一瞬、流れて注視できなくなったのである。動体視力の衰えは、運転には致命的だ。最後にはスティアリングをにぎったのは、六十五歳のときである。自分の人生が終わったように感じたことを覚えている。

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*五木さんはその頃の愛車BMW633CSiで、徳大寺さんは911Sで鈴鹿サーキットに乗り付け・・・。

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*その後、五木さんはメルセデスの450SELに乗り換えることになり、633CSiはわたしが譲り受けた。

 紹介が長くなった。五木さんの「その時」の心境を正確に見つめて欲しいので、こうなった。わたしの編集者生活の後半で、車に深く関わってしまったきっかけをつくったのは、紛れもなく五木寛之という四歳半年上の作家である。その人の言葉は、いつも的確に、生き方に関わってきた。
 かつて、「八十歳になったらポルシェを着たいですね」と唆したのは、五木さん、あなたではなかったでしょうか。わたしも心のどこかで、運転免許を返還する日を、迎えつつあるのを、もやもやと自覚し始めていただけに、ズシンとこたえる「五木さんの覚悟」であった。

 五木さんから届けられた「カサブランカ」の花が、大胆に開き始めたその朝、わたしは近くのBOOKストアに足を伸ばして、発売されたばかりの『サライ』の8月号を購った。

 特集は「高校野球」。表紙はあの太田幸司投手がピンと左足を跳ね上げたお決まりのポーズ。これはじっくり読めるぞ、と一安心したところで、五木さんの連載ページ「奇想天外」いや「奇想転画異」をチェックした。第三十三話は「邪道としての本の読み方」。

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 情報過多の闇夜の中で、一筋の光を与えてくれるのは、四半世紀前に発行された1冊の書だった、というテーマ。8年ほどに前に他界された免疫学者、多田富雄さんの『免疫の意味論』(1993年・青土社刊)がそれである。わたしには全く予備知識すらない領域の著書である。それを五木さんは「一冊の持つ異様な興奮は、時間の経過などとは関係なく読む人間を魅了し続けるだろう」と言い切っている。

 この夏、必読の書がまた1冊加わってきた。
ことしも五木さんから届けられたカサブランカが咲いている限り、この約束をわたしが忘れることはないはずだ。
                                                   (この項、終わる)
Posted at 2018/07/14 21:40:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年07月12日 イイね!

復刻! A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》

復刻! A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》〜続・不思議なこともあるもンだ!!〜




 どんな理由でそうなったのか。ただ、5月4日に掲載した『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』の記述がスッポリと抜けているのは、紛れもない……事実であった。なぜ消えてしまった? 

 5月17日にやっと拘束先から解放され、2週間ぶりに自宅のPCを 開いてみて、狐に包まれたような驚き、困惑の時間が始まった。
 
その状況については、5月22日になって、やっとアップした《不思議なこともあるもんだ‼︎!》に詳しい。

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 週が明けて、やっと「みんカラ」編集部と連絡が取れ、顔見知りの宇田川編集局長とも電話で状況を伝えることができた。30分ほど経って、宇田川局長から電話が入った。専門の部署にも調べさせましたが、確かに該当箇所は存在していません、その原因が何なのかも分かりません。それにセナに関わることだからといって、カービュー側が削除する理由もありません、という回答だった。では、なぜ? 原因がはっきりしないのは、なんとも落ち着かないが、ともかくカービュー側からの規制ではなかったと知って、安心した。ことの次第によっては、《みんカラ》での活動は断念しなければならない、と思っていただけに、正直、ホッとした。 さあ、エンジンがかかったぞ!

 早速、復刻に取り組んだ。サブタイトルは「〜悪夢のような記憶も24年が経ってみると〜」だったな。

 文章部分は、Wardに保存してあった。画像関係は、記憶を頼りに、当てはめていけばいいし、時間が立ったことで、若干の補強も、可能になった。では、始めようか。

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  黄金週間も中盤へ。天候が西から崩れ、いくつかのプロ野球ナイターも早々と試合中止が決まって、楽しみにしていた甲子園からの実況中継も無しに。

 そこで久しぶりに「Facebook」をサーフィンすることにした。友達限定のニュースフィードだから、このSNS特有の煩わしさはない。と、いきなり魅力的なページにぶつかった。モータースポーツ関係の書き手として存在感の著しい高桐唯詩さんのページである。アイルトン・セナの憂いを帯びた横顔が、なんとも切なげだった。

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 5月1日、10時10分の投稿か。目を通すうち、グイグイと心を奪われてしまった。余計な説明は要らない。そっくり全文をご賞味いただきたい。

     ☆     ☆          ☆

高桐唯詩

5月1日になりました。五月晴れです。
 24年前の今日、僕はフジテレビ内のサブ(調整室)でサンマリノ・グランプリのライブを見ていました。
 1回目のスタートで事故があり、スタートやり直し。
 そして悪夢のような瞬間がやってきました。セナ激突。
 容体がわからないまま、スポーツWAVEの構成と、続くグランプリ中継の準備に追われました。そしてNHKの速報。
 でもフジテレビ的にはセナの死は、発表できませんでした。

 あれから翌日の特番。セナ展の準備。追悼コンサート。さまざまなことで走り回ったことが思い出されます。
 写真はセナ展のパンフレットと中に書いた私の詩。金子博さんのセナカレンダー5月の映像など、お借りしてアップします。
 熊谷睦AS編集長と作ったセナの臨時増刊もいい思い出です。

            ☆    ☆          ☆

「音速の貴公子」の称号を持つF1ドライバーが、サンマリノGPの舞台、イモラサーキットの超高速コーナー「タンブレロ」で激突死した悪夢のようなその日を、24年が経ってしまった今、高桐さんは淡々と語り継ごうとしている。

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  素晴らしい作業じゃないか。高桐さんは土屋圭市くんの『ドリキン伝説』を扶桑社から出版した「功労者」である。そして、詩人でもある。改めて、同載されているアイルトン・セナに贈られた鎮魂歌に、心を添わせてみた。いいなあ。

何を探していたんだい
そんなに寂しい目をして。
何を求めていたのか
心砕き、血を流すまで。

 改めてその一節を、声を出して詠(よ)んで見た。眠っていたものが一斉にムクムクと起き出してきたようだ。ヨーロッパとの時差は8時間。現地の午後3時は、日曜日の午後11時に当たった。だから、その日のわたしは、ベスモ恒例の「SUPERバトル」の撮影ロケも無事済ませたところで、深夜から始まる「F1実況」を楽しみに、自宅で眠い目を励ましながら、待機していた。

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 そこへ、フジTV関連会社で制作ディレクターを務める遠縁の青年から、恐ろしい内容の電話が入った。「セナがクラッシュして、危ないらしい」と。絶句。

 これまで「風に消された男たち」に、何人か個人的に関わってきた。それぞれの顔が浮かぶ。高橋徹、萩原光。彼らの墓標としてわたしなりの記録を残してある。その追慕の証しとして、このあと、久しぶりに読み直して見たくなった。

 ◯高橋徹 風に消された23歳・高橋徹の光と影
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/24230229/

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君のいないサーキットの秋深し! 
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/24240059/


○萩原光 『レイトンブルー』は悲しい色やねン
 https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/29920162/


『風になったプリンス』への鎮魂の1冊

https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/29946791/

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  早朝になって、また一つ、巨きな星が消えてしまったことを正式に知らされた。わたしたちの手元には、セナがHONDAチームに属してくれていたお陰で、当時のF1サーカスの最終戦は鈴鹿に設定されていて、レースの終わった翌日には、決まって交流する機会が用意されていた。その時の「お宝映像」が、実は手元にあった。「セナ足」と呼ばれる、あの車載映像である。それをこの際、公開できるよう、公開できないものか。すぐに田部編集次長に、当たってもらうことにしたが、なぜかことが前に進まなかったように記憶している。結局、のちに「お宝映像」はセナ財団に寄付している。

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  その経緯については、以下のわたしのブログに収録されているので、この際併記しておこう。第2回目の『ベスモ同窓会』開催時に話題に上ったテーマでもあった。

『セナ足の怪』と『ベスモ同窓会』https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/31191213/


やっと『幻のセナ足』とめぐり逢う https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/m201310/p2/



☆    ☆           ☆


 この5月1日、セナの命日に因んだ高桐さんのFB投稿は高い関心を集めた。その初動期に早々と反応したのが、高桐さんが名前を挙げている、臨時増刊号をつくった当時の「オートスポーツ」編集長・熊谷睦さんであるのも、彼岸のセナが持つ吸引力によるものだろうか。

熊谷睦「もう四半世紀が経つのですね。追悼本製作の際は大変お世話になりました。お蔭で私個人のお宝本となっております」

 この温かいコメントに添えて、その「お宝本」の画像がキチンと添えてあった。時間を置いて、高桐さんが反応する……。

高桐唯詩 「これがどこに入り込んだものか、出てこなくて。とほほ……」

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「クマさん」とはお懐かしい。雑誌仲間も、モ―タースポーツ関係者も、そう呼ぶ。わたしが故(ゆえ)あって富士フレッシュマンレースに参戦するようになったときには、当時の「オートテクニック」編集長・飯塚昭三さんと並んで、すでに「走る編集者」として知られ、のちにTV中継の解説にも登場するほどのキャリアの持ち主だった。

 おお、お元気にSNSを活用されているな。感心しながらFBをチェックしてみると、「5月1日=メーデー」の記憶をキチンと書き上げているではないか。その内容の確かさに、改めて紹介したくなったが、そこからは次回更新まで、お待ちいただきたい。その前に、わたしは高桐さんに「コメント」を送らせていただいている。

「24年前のあの日、その前後の高桐さんの想い。されど、我らが日々、ですね。共通の感慨を、わたしの「みんカラブログ」でこれから紹介させていただきます」

  残念ながら、高桐さんからコメントのお返しはいただけなかったが、コツンと「いいね!」のサインだけはカウントされていた。           (この項、新シリーズ「富士フレッシュマンの時代=この人に逢いたい」につづく)
Posted at 2018/07/12 14:31:47 | コメント(3) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
2018年07月11日 イイね!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!消えた『A・セナの命日にめぐり逢えた
《あの時代》』との不思議な連環〜



《この人に逢いたい》という「ブログカテゴリ」で、これまで5人のビッグに登場を願っている。

 第1回目はノンフィクション作家の佐野眞一さん。お目にかかったのは2011年7月3日。佐野さんの講演があるから聴きに来ないか、と「日向読書会」から誘いを受け、開業の迫っていたスカイツリーの真下にある代表的な東京下町の一つ、東向島の図書館まで赴いている。

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 講演のテーマは東日本大震災後の日本人の生き方。東電のもつ「隠ぺい体質」を本当に暴けるのは、大文字の論評ではなく、たとえば原発から1キロと離れていない地点にあるほうれん草農家を探し当てることからはじまる小文字のノンフィクションレポートではなかろうか、という取り組み方に同感した。

 当時の佐野さんは『週刊ポスト』でソフトバンクの社長・孫正義の生き様ドキュメントを連載している注目の書き手だった。彼のルーツについても、佐野さんは徹底的に取材する。韓国の大邱(テグ)まで足を伸ばす。そこまで御存知なら、と孫正義も笑顔で認め、むしろ積極的に取材に応じるようになったという。

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  講演会が終わると、近くの蕎麦屋の二階で『佐野さんを囲む会』があるというので、そちらへ移動。出席者は25人ほどにしぼられていた。幸い、佐野さんの隣りにわたしの席が設けられていて、彼の単行本のタイトルのつけ方や、共通の友人の近況など、結構、踏み込んだ話をすることができた記憶がある。

  彼の好きな言葉は、宮本常一の「記憶に残ったものだけが、記録にとどめられる」を言い換えて「記録にとどめられるものしか、記憶にのこらない」と。……いい仕事を積み重ねている人に逢いに行くシリーズ。その始まりであった。(詳しくは、こちらを参照に)

●ノンフィクション作家 佐野眞一さん
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23029597/

その4日後は「七夕祭りの日」だった。逢いたい人に、逢いに行く。その第2回目に選んだ人との約束の時間には、まだ20分ほどある。

  改装工事中の歌舞伎座を横目でみながら東銀座をめざす。電通別館を過ぎると「銀だこ」。ここのたこ焼きと鯛焼は、通りがかるときにはかならず買ってゆくのだが、この日は残念ながら、パス。そのかわり、その地点から携帯電話で、訪問先に確認の連絡を入れる。

  1Fにうなぎ屋さんのあるビジネスビルの6F。エレベーターが停まると、もうそこは訪問する事務所の入り口だった。声をかけ、ドアを開けると、こちらを振り向く男性。片山右京君の陽焼けしてひきしまった顔がそこにあり、それがぱっと笑顔に変わる。

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 そんな、心を弾ませ、足取りも軽いイントロ部分があって、『片山右京・不死鳥伝説の美学』を書き上げている。

  その頃の右京君は、2009年暮れ、富士登山の訓練中に遭難し、同行した友人二人を失い、以後、活動を休止するという失意の状況に追い込まれていた地点から、再び新しい挑戦のテーマを設定して、翔び立とうとしているところであった。
いや、片山右京は確実に蘇っていた。未来を担う子供たちから「ほんものの元気を引き出す」チャレンジスクール、自転車レース参戦、モータースポーツでの新しいスタイルによる活動(スーパーGT)など……。

 別れ際、右京君から嬉しい誘いの言葉が……。
「今度の菅生に来てくださいよ」

  そうだ、ご無沙汰したままの菅生へいこう! 右京君がスポーティングデレクタ―をつとめる「グッドスマイルレーシング」は、さきごろのマレーシア・セパンサーキットでのGT300クラスで優勝したばかり、つまり凱旋レースをどう闘うのか、ぜひ、見てみたいし、何よりもエースドライバーの谷口信輝君は、ガンさんの「ドラテク特訓道場・中山サーキット編」で、一躍注目を集めたべスモ卒業生。加えて、「初音ミク」をあしらった痛車デザインのマシン、個人スポンサー制度など、この目で「新しい風」を確かめたい。

  当然、7月31日の菅生を観戦するために、その前日、わたしはプログレを駆って東北自動車道を北上していた。

●片山右京・不死鳥伝説の美学
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23082768/

  ☆    ☆         ☆         ☆

  それから2年後の7月10日、3人目の「この人に逢いたい」に登場するのが、女優の長谷直美さんだった。《『美女と野獣の凸凹コンビ』30年ぶりのデート》と題して……。

 なぜ、そんな嬉しい時間がやってきたのか。説明の要があるだろう。ことの起こりは「みんカラ」にあった。およそ2年前の8月14日付けのBLOGで《「新・編さん」の茨の道》の第2回として『雨中の激走! 美女と野獣の凸凹コンビ』というレース挑戦にひきずり込まれてゆくレポートを紹介しているが、その時の伴走者として、当時、眩しい青春のシンボルだった長谷直美さんを起用。なかよく「日産レーシングスクール」を受講したものだった。

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 その翌年、凸凹コンビは日産レーシングスクールをそろって修了し、それぞれのカテゴリーからレースデビュー。とくに直美さんは、日産がラングレーのレ―シング仕様でレディース軍団「チーム・エンジェル」を結成した際に、専属ドライバーの一人に抜擢され、スポットライトを眩しく浴びたものだが、あれから30年近く経って、いまはどうしているのだろうか。聞くところによれば、幼馴染と結婚してフランスに住み、ルマン24時間レースのどこかのチームの広報担当として活躍しているらしい。1956年生まれか。逢いに行きたい人の候補としてリストアップしておこう……などと、フレッシュマンレース時代のエピソードにかこつけて、ひそかにラブコールを謳いあげていたものだ。

 それがなんと、つい一月前に、わたし宛にこんなメッセージが、みんカラBLOGを通して届けられた。

——ご無沙汰です。長谷直美です。
大変ご無沙汰しています。お元気のご様子、何よりです。こちらはいろいろあって、長い外国暮らしから、昨年日本に帰ってきました。正岡さんのブログ、時々拝見しています。先だっては懐かしい頃のお話を書いていただき、ありがとうございました。今日は、実はお願いがあり、思いきってメッセージさせて頂きます。正岡さんとモータスポーツを楽しんでいた頃の、私の写真がありましたら、お借りできないでしょうか? TBSの番組内で使用させて頂きたく、お願いメッセージしました。これを機会に、またよろしくおねがいします。
                            直美

そこで7月9日の暑い午後、有楽町で待ち合わせたわけである。

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そのあたりの微妙な息遣いは「こちら」からどうぞ。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/30553806/

 そして第4回目は、いまは亡き徳大寺有恒さんである。足取りのしっかりした徳さんの姿は、この時が最後だったような気がする。

 
『2014年版 間違いだらけのクルマ選び』&NAVI CARS vol.10 巻頭特集「徳大寺有恒、という生き方。」刊行記念トークイベント+サイン会が代官山蔦屋で催行され、その開幕前に「ちょっと一服」と前置きしてあるが、すでに徳さんの影は薄かった。

●『徳大寺有恒、という生き方。』ドラマの共演者たち
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/32270393/

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 お読みいただくなら、その1ヶ月前に、代官山蔦屋でのトークショーの予告をかねて、久しぶりに用賀まで逢いいに行った日の「徳さん」がいい。

●もう一度、徳さんと一緒に仕事がしたくなった!
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/32178147/

 そして、第5回。TOYOTAの豊田章男社長から2017年のルマン24時間耐久レースで、ポルシェの後塵を拝する結果に終わったことを詫びるコメントがメールで届いた。
一読、胸が熱くなった。ここまでモータースポーツの本質を理解され、すでにそれが血となり肉となっている61歳のメッセージであった。そこで、そのまま、そっくり、手を加えずに「みんカラ仲間」にお届けたもので、こちらがインタビューした訳でもない。だから、このカテゴリーには馴染まない。

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   したがって、これから仕上げようとしている『この人に逢いたい』は、正確には第5回に当たるのだが、困ったことに、ゲストはお二人。さて、どうしたものか……というところで、やっと「7月4日12:00」に予告しておいた「何シテル?」に繋がったわけである。

——梅雨明けというのに、空は厚い雲がのさばったまま。風も強い。が、この日の夕刻は楽しみが待っている。富士スピードウェイで同時代のモータースポーツ・ライフを共有した男3人でお喋りを。どんな話が俎上に載るか。石臼挽きの自家製手打ち蕎麦、庭の盆栽が評判のこの店で。徳大寺さんも好きだったな。

 元「オートスポーツ」編集長の熊谷睦さんと、ひたすら富士フレッシュマンを撮り続けたアマチュアカメラマン、安川肇さんと、徳さんの好きだった荻窪の 『本むら庵』に集合し、あの時代の魅力や裏話、今だから話せる特ダネものを、この際公開し合おうじゃないか、という趣向であった。

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  いそいそと約束の15分前には駐車場着。で、お店の暖簾をかきわけて案内を乞うと、すでに熊谷君が席についていて、こちらに会釈を送ってくるではないか。軽快なポロシャツ姿。久しぶりに顔を合わせるクマさん。やっぱり若いや。と、感心していると、背後に人の気配。振り向くと、そこにはトレードマークの、背広にピシッとネクタイを締め込んだ安川さんの柔らかい笑顔があるではないか。

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  さて、この組み合わせがここにやって来るまでの舞台裏を、次回にはぜひまとめ上げたいものだが、そのきっかけは5月22日に《不思議なこともあるもんだ!!》として、その2週間ぶりに開いたわがPCを襲った大異変、『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』がすっぽりと抜けていたあの日に立戻らなければならない……。     
                                                                                      (以下、次回の更新へ)

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2018年07月02日 イイね!

55歳でレース出場の夢・叶えられた純情譜

55歳でレース出場の夢・叶えられた純情譜〜第1コーナー土手上指定席で育んだ「フレッシュマン」讃歌〜

『EXA純情歌集』とタイトルで謳いながら、なかなか本題に届かないのが、もどかしくてならなかった。

幸い、手元に1冊だけ生き残っていた『’84年富士レッシュマンレース・第2戦』の公式プログラムを参考に、どんなカテゴリーのレースがあったのかを確かめていくと、その第2レースで、当時19歳だった近藤マッチの FISCOデビューのレースが浮かび上がってきた。それは揃って予選落ちの苦い記憶であったが……。

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*1984 年6月24日 マッチの富士フレッシュマン・レビューレース #19がこの日の主役だった

つづく第3レースは、NPオープンレース Ⅱクラス(1301cc〜1600cc)とⅣクラス(2001cc〜3000cc)の混走で、あの土屋圭市がカーNo.2 「ADVANキャロット倉田トレノで出走、格上のスカイライン勢をきりきり舞いさせ、今でも語り草となっている凄い走りが思い出された、というところで一服させていただいたわけである。

 そのインターバル休息の効能だろうか、その間合いを盛り上げるように、以下のような「コメント」が当該BLOGに寄せられ、パワーを失いかけていた心が、もっこり、奮い立ってきた。

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*第1コーナーを、目一杯インを使って攻めて見るベストカーPULSUR。乗り手はもちろん・・・。

投稿者の「マースケGT」氏とは友達登録をし合っている仲でもないし、ましてや「ベストモータリング同窓会」のメンバーでもない。ただ注目すべきは55歳になって、たった1戦だけどレース参戦の夢を果たしたとおっしゃる方、と言う点にあった。いずれご本人の了承を得てからでないと、コメントを勝手にBLOGにアップすることはできないが、これこそ「富士フレッシュマンレース純情歌集」の一例として、ぜひ紹介したい「情念=こころ」に溢れていて、あえて引用させていただく次第。

   ☆     ☆          ☆

差出人 マースケGT
2018/06/17 22:00:10
初めてコメントさせて頂きます。

懐かしいお名前に青春の1ページが蘇ってきます。初めて観戦した時にはGCやF2以上の衝撃を受けました。
1981年、19歳の時です。

勇気と情熱と努力が足りなかった私の指定席は1コーナーを見下ろす土手の上でしたが、毎戦必ずプログラムを購入し、観戦出来ない時は専門誌で結果を確認していましたので常連ドライバーのお名前は今でもよく覚えています。
プロドライバーより大きな憧れを抱いていたかもしれません。


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*富士フレッシュマン・パルサーレース。

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 *#14がマジョルカ軍団に紛れ込んで参線のベストカーEXA       PHOTO by 安川肇

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                                                                                              PHOTO by 安川肇

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   *併催のGOLFポカールレース                                                      PHOTO by 安川肇

私のレース出場の夢が叶ったのは36年後の55歳の時です。レースカーを走らせながら、その昔自分が居た辺りを見た時には万感胸に迫るものがありました。

たった1戦ですが、その経験が局長の参戦記をさらに楽しいものとし何度も読み返しています。

願わくはサーキットで局長の勇姿をもう一度…

   ☆      ☆             ☆

  早速、40分後に「マースケGT」コメントへのわたしからの返信を送った。浮き浮きと。 

2018/06/17 22:49:52
こんばんは。とっても嬉しいコメントです。あなたの指定席だった第1コーナーの土手の上は、わたしにとっても大事な場所でした。1981年といえば、わたしの45歳、 FISCOデビューの年でもあります。それはこんな具合でした。
もし、お読みでなかったら、こちらからどうぞ。

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*レース本番前日のスポーツ走行に早朝から駆けつけたフレッシュマンたち

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*日産レーシングスクールの辻本征一郎校長と第1コーナーから観戦

●そして、FISCOデビュー戦 ~「新・編さん」の茨の道③~
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23505801/

 今もFWSで走っていらっしゃるのですか。詳しい話を、ぜひ「メッセージ」で、お聞かせいただけますか? お待ちしています。

 三日後の深夜、「マースケGT」氏からのメッセージが届いた。が、残念ながらその前日から、5月の半ばに「驚きの賓客」と名付けて紹介した真っ黒のロードスターを窓越しに眺めた場所へ、その前日から、経過観察のために収容されていた。ここではPCではなく、iPadで受信しなくてはならなかった。そのため、メッセージの文章分は読めても、同封されていたレースシーンの動画は確認できなかったのである。

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*あの「驚きの賓客」をもう一度!

 四日後、平常の生活に復帰して、真っ先にPCに取り組む。やっとマースケ氏の初レース動画を拝見できたのである。深く、大きな感動が高波となって押し寄せた。ともかく、マースケ氏のメッセージを紹介しよう。

     ☆        ☆               ☆

差出人 マースケGT 2018/06/20 23:37:56

こんばんは。夜分遅くに失礼致します。コメントへのご返信ありがとうございます!(中略)

レース挑戦の経緯ですが、ご縁があって応援や裏方をさせて頂いていたインタープロトのオーナーよりオファーがあり、清水(きよみず)の舞台から飛び降りる覚悟で2017年シリーズ第5-6戦に挑みました。

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私が初めてFSWを走ったのが3年前のこと。
マイカーで年に2〜3回程度のスポーツ走行の経験しかありません。

フォーミュラに近い挙動の本格的レーシングカーを操るには明らかにスキル不足で不安も大きく、出来るだけ走り込んでレースに挑むつもりでしたが、諸事情により初乗りから正味2時間の練習で決勝日を迎えることになりました。

素人オヤジがインタープロトで何処までやれるのか⁉︎
もうそんな話です。

●【公式練習日最終セクションの様子です】
https://youtu.be/iwh002kfGe4


予選はハーフウェットの微妙なコンディションをスリックで、決勝はスタート直後に降り出した雨のためレインに。
どちらも未経験のぶっつけ本番です。

スプリントのインタープロトでは滅多にない緊急ピットインからのタイヤ交換でしたので各ピットは大混乱です。

再スタート。1レースで1シーズン分の様々な出来事を経験出来たような気がします。

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局長もデビューの際にいろいろとあったようですね……。

決勝ではスピンをして最後尾まで順位を下げるなど「競走」としては見るに堪えないものでしたが、それでも人生最初で最後になるであろうレースシーンをしっかりと心に焼き付け、夢が叶った幸せを感じながら走りました。

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ラストの数周はメカニックの方やサポートしてくれたスタッフと一緒にゴールするつもりで慎重にマシンをコントロールして何とか完走……。

チェッカー後も各ポストのオフィシャルの方が拍手で迎えてくれる姿を見て本当に多くの方に支えられていることを改めて実感しました。

第6戦は荒天により中止となりましたので、私のレース挑戦はこれで終わりです。

  ●決勝レース動画

【レースをあまりご存じない《みん友さん》向けに面白可笑しく作った決勝動画です。簡単に編集しましたので、荒い造りですが】
https://youyu.be/dkaVMRkpfHE

インタープロトは少々特殊なフォーマットですので、私の経験が他のカテゴリーに当て嵌るのかわかりません。
でもレースを継続するために、どれだけの情熱と努力が必要であるかはわかったつもりです。

そしてこの経験によって局長をはじめ、あの頃に憧れたフレッシュマン・ドライバーの方々へのリスペクトの念が、さらに強くなりました。

私の「みん友」である「らぶ☆ロバ」さんも、あの頃のドライバーのひとりで、過去の愛車紹介などの項目に当時の面白いエピソードを書き綴っています。
それから文章を纏めるのが得意ではありませんので長文お許しください。

    ☆     ☆          ☆

 レース動画の内容は、おそらく然るべき制作プロが手がけたものだろう。外絵も車載もキチンと抑えるべきところは見せてくれる。55歳の初レースを単なる記念物として扱っていない、そしてマースケ氏のドライビングスキルもさることながら、そこまで余裕のある、真っ直ぐな取り組みに、深い連帯感を覚えてしまう……。

 それから3日後、わたしのFISCOデビュー戦を記録していた「ドン亀奮闘録」の項に、その読後の感想が「コメント」として書き込まれであった。

フレッシュマンレースは毎回予選落ちが出るほど大盛況でしたね!

予選不通過も結果の一つだと思いますので、その後の局長のご活躍を思えば貴重なご経験だったのではないでしょうか。

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現在の設備の整った富士とは違い高速サーキットに不釣合いな狭いランオフエリアでしたし、カテゴリー問わず重大事故も度々起きていましたね。

不幸な事故は起きて欲しくありませんが、あの何処か殺伐とした雰囲気の富士も私には魅力的でした。

レースに挑戦するにあたり「死」を意識することはありませんでしたか?

コメントへの返答を、わたしも大急ぎで書き込む。

あの頃のFISCOの殺伐とした、どこか魔界の空気を
漂わせた様子を、よく覚えていらっしゃいますね。

1コーナーの入り口左側の窪み、防ぎどころのない100Rの出口、雨の日の300R。

ヘアピンでは2度も亀の子を演じてしまいました。

一度機会があれば、お話ししたいと願っています。

   ☆     ☆ ☆

 5月最後の土曜日、神奈川県丹沢山麓の『丹沢そば本店』に集合、かつての富士フレッシュマン戦で青春を競い合った連中の「同走会」を舞台に、新しい動きが始まっている。

Facebookの非公開グループではあるが、すでに登録済みの『富士フレッシュマン』を舞台に、お互いが手持ちレース写真や消息を投稿するなど、新しい交流の場として、活性化しつつあるようだ。わたしも折に触れ、参加させてもらっている。みんなドライバーであったとか、チーム仲間であったとかで、富士スピードウェイは、まさに青春の聖地であった。
しかし、マースケGT氏のように、土手の上の指定席からの「慕情」は、いささか趣が違った。



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*Facebook非公開グループ「富士フレッシュマン」はメンバー数630を超えた。手持ちの秘蔵写真を、こうやって・・・。
何度か同じステージを共有し「同走会」で再開した綱島伸二さんの投稿。

まあ、ともかく、閲覧可能な彼の「初レース」の動画を鑑賞していただきたい。この項、いささか長くなった。あの時代のFISCOには第1コーナー土手上のポイントだけが見所ではない。それぞれ、ヘアピンコーナ丸見えのネット脇とか、ドライバーズサロン前の芝生とか、お好み次第だった。

その辺を絡めて、次回こそ、「無名戦士の青春譜」をお届けしたい。
あ! 報告が遅れてしまった。つい先刻、「マースケGT」氏から、コメント使用承諾の連絡が入った。加えて静止画像もたっぷり送られてきた。ありがとう。

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「鬼門のバンテリンドームでの竜戦はTV中継が滅多にない。案の定、左腕大野に丸め込まれて0:2。が7回から竜の投手リレーが始まる。8回表、中野が右前安打で出塁、森下四球でサト輝の登場。このシーン、一発逆転が出るか出ないか。スマフォ速報で固唾を飲む。痺れる。敵はバンテリンの高い塀。」
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1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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