松代大本営建設で朝鮮半島出身者が最大650人死亡 韓国調査
韓国政府の機関「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会」は28日、旧日本軍が太平洋戦争末期に大本営を移転するため造った、長野市の松代大本営地下壕の建設に朝鮮半島出身者約7千人が動員され、最大で650人が死亡したとの調査結果を明らかにした。聯合ニュースが伝えた。
日本の国土交通省の資料や関係者の証言、研究文献などを基に調査を進めたという。
同ニュースによると、強制的に徴用された朝鮮半島出身者はマイナス20度近い極寒の中、1日2交代で危険な掘削作業などに当たらされた。生存者の証言では、死者が1日に1人以上出たほか、恐怖のために自殺する者が多数いた。
産経新聞より
いつまで松代大本営に対するネガキャンは続くのでしょうか。
> 強制的に徴用された朝鮮半島出身者
徴用されたのは何も朝鮮人だけではなく、日本人は当然として、台湾でも行われておりますし、朝鮮人の徴用は1944年の9月からであります。なお、日本国民は1939年の7月から開始されております。
> 日本の国土交通省の資料や関係者の証言、研究文献などを基に調査を進めたという。
日本の国土交通省の資料をベースにしたのは7000人の動員という数字と1日2交代というところだけでしょう。
残りの
> 危険な掘削作業
これなんかはどう考えても証言ベースですし
> 生存者の証言では、死者が1日に1人以上出たほか、恐怖のために自殺する者が多数いた。
これはあからさまに証言と書いてあります。
ちなみに朝鮮人というのは
息を吐くように嘘をつく民族です
具体例1:竹島
竹島は日本国固有の領土です
具体例2:対馬
対馬も日本国固有の領土です
具体例3:従軍慰安婦
これ、完全に売春婦であって呼び集めたのも朝鮮人です
ちなみに
朝鮮人労務者は体が丈夫なせいかあまり風邪を引かず、規則正しく礼儀正しかったと言われる[1]。家族ぐるみで働きに来ているものもおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った[3]。朝鮮人労務者の食事事情は(密殺した)牛肉を食べるなど、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較して待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。
慰安所
壕周辺に慰安所は3ヶ所あり4~5人の朝鮮人の慰安婦がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。ただし、トラックで来た兵隊や支那服のようなものを着た女性が町の方から大勢来たのを覗きに行って怒られた子供の逸話もある
いずれも
Wikipediaより引用
松代大本営は一時的に政府機関を疎開させるための施設であり、当時、徴用を行ったのは日本人と同等として扱うことであって、差別の対象ではありません。
むしろ、1944年まで徴用を行わなかったのは如何に朝鮮人が優遇されていた証拠であります。
これ以上、松代大本営に汚名を着せる事はやめてほしいものです。
松代大本営の汚名を着せるくらいならこう言うことも取り上げて欲しいものです
「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)よりの引用
<その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。
終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。
略)
三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇~十九三
<昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四
<昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四
酒たまねぎ屋様より引用
第三國人( 三国人 )の暴行
表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算( つもり )であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々( たまたま )老人達が本件を論じてゐ( い )た 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処( ここ )に記して御歴々の御参考に資せむとするものである
終戦後の第三國人どもは本當( 本当 )に酷かった 軍の兵器を盗んで來た( 来た )らしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力( 実力 )犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷( 渋谷 )は臺湾( 台湾 )人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いて( こまねいて )ゐた 戦勝國民は治外法権だったのである
だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩( PX )に接収され、其処( そこ )へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。 日本人は買へなかったが。
斯うした( そうした )情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「 朝鮮進駐軍 」を僭称して堂々と闇商賣( 商売 )を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから( 流石に( さすがに )銃撃戦は挑まなかった模様 )
當時( 当時 )は物不足で、賣る( 売る )方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其( それ )で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い
警察が襲撃されること頻り( しきり )で、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった
( 録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡( 連絡 )を遮断「 攻城戦 」に出た平警察署事件等、枚擧( 枚挙 )に暇有りませんでした )
東京東部( すなはち大東京の中心地 )北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった
當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて( ひいて )行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣( 気 )付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった
斯うして( そうして )利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘( そのまま )下流へ賣りに來たのだらう
斯くて( かくて )南關東( 関東 )から、牛はゐなくなった
家畜相手ならまだしも、人間に對して( 対して )も、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松( 浜松 )、大阪、神戸などが酷かった
其( その )最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團( 集団 )暴行・傷害事件がある
翁が軽井澤( 軽井沢 )の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「 朝鮮進駐軍 」が後から大勢、切符も買はず、鐵道( 鉄道 )員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此( この )車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた
其( それ )で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち( たちまち )大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に( いかに )不出來な孫にせよ 孫共は此( これ )を知らんのだらう
直後に總理( 総理 )大臣に成る程の大物でも如斯( かくのごとし ) 況や( いわんや )庶民に於て( おいて )をや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊に( ことに )は、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災( り災 )者の土地だ
其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如き( ごとき )に何が出來よう 或日( ある日 )、警察は何月何日を以て( もって )廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百萬( 万 )の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや
堪りかねた( たまりかねた )警察が密かにやくざに頼み込み「 濱松大戦争 」になった訳だが、「 小戦争 」は日本中に頻發( 頻発 )した
最後の頼みの綱は聯合國( 連合国 )軍であったが、遂に( ついに )は其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った
其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將( 中将 )が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く( ようやく )鎮圧した 我々は其火器の煌めき( きらめき )を間近に見た
此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した( 発した )布告が、「 朝鮮人等は戦勝國民に非ず( あらず )、第三國人なり 」
と言ふ声名で、此ぞ「 第三國人 」なる語のおこりである
だから、外國人差別用語な筈( はず )は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか
聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會( 対日理事会 )や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い
「 第三國人 」の語は、國際法に則って( のっとって )説いた技術的専門用語に過ぎない
近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實( 真実 )を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面目( まじめ )に報道する氣は無いのかの
貴公、パソコン通信を遣って( やって )なさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか
日本会議 宮城県本部 北斗星さんの投稿より
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