1969年日本グランプリを制したR382が36年の時を超えて甦った。
優勝ドライバー、ガンさんがそのステアリングを握っている。(『伝説のグランプリマシン』より)
*FISCOヘアピンでトヨタ7をパスする21=黒沢のR382。(『伝説のグランプリマシン』より)
ニュージャーナリズムの旗手・内藤国夫さんは、開かずの30度バンクに足を踏み入れ、考えこんでいた。実はこの日(1980年11月3日、文化の日)、内藤さんはNHKにより全国テレビ中継された「日本オープン・ゴルフ」観戦に誘われていたという。優勝者には800万円と乗用車が贈られた。賞金総額は5000万円である。
それに対して、同じ日、鈴鹿で開かれた日本グランプリは、優勝賞金、300万円。賞金総額は1285万円。
優勝して、スポンサーから自動車を贈られるのが、命をかけたモータースポーツではなく、ゴルフゲームというのも皮肉じゃないか。無難なゴルフ・トーナメントにはスポンサーがひしめき、スリリングなモータースポーツはスポンサーから敬遠される。自動車メーカーが世界市場を席巻・制覇しかねないほどの盛況であるだけに不思議な現象としかいいようがない、と内藤さんという想いに捉われていたのです。
*30度バンクに立つ内藤国夫さん
その上、経営上の問題と、周辺の交通問題も絡んで、富士スピードウェイが閉鎖されるというようなニュースも耳に入る。モータースポーツは、日本人の国民感情からして、そもそも不向きなのか。まだ歴史の浅いこの国のモータースポーツ。その歩みを跡付けながら、その栄光と盛衰、生と死のドラマを追うことによって、問題提起をしたい、と内藤さんは心に決めた。そのためにも避けて通れないのが、30度バンク閉鎖となった1974年6月2日の、アクシデントだったのです。
●黒沢事件発生までの一部始終ドキュメント
当時の資料によれば、富士グランドチャンピオンレース第2戦が行われたこの日、出場ドライバーの間には、いつにもまして刺々しい、けんか腰の競争意識がみなぎっていたという。それは「打倒・黒沢」ともいうべき戦闘ムードだったそうです。
「ガンさん」と愛称された黒沢元治。この2、3年来、絶頂期にあった。ほとんどのレースで、スタートの瞬間から、追いすがるライバルたちをぶっちぎるようにして、黒沢が先頭に立った。前年の富士GC第5戦、黒沢はこの1周6キロのコースを1分42秒81の最速ラップを叩き出したが、やがて30度バンクが閉鎖されたため、永遠にコースレコードとして記録される皮肉なことに……。
*120LAP、720kmをひとりで走り切って優勝。マスコミ陣がどっと押しかけた。(『伝説のグランプリマシン』より
日産チームから独立して間もないガンさんの唯一の弱点は、マシントラブルの多いことでした。だから優勝するか、一位を走っていながらリタイヤするかの繰り返しで、その抜群の強さは、1973年の富士グラチャン第2戦以来、この日まで、連続5回、ポールポジションを獲得したことにも象徴されていました。
「黒沢元治・三十三歳・愛称ガンさん」
独立したばかりの黒沢にブリヂストンが年間3000万円近くもの援助金を提供して、TVコマーシャルを流したのも、それだけの人気の背景があったから。が、残された日産チームの高橋国光、北野元らが「打倒・黒沢」の念に燃えるのは当然の成り行きでした。
そういう熱気の中で、レース開始。6キロのコースを午前中に15周、午後から20周する、ツー・ヒート制が採用されていた。
出走台数が前年の35台から、17台へと半減していたのも、この年の特徴でした。前年秋、世界を襲ったオイル・ショック。それにもまして自動車メーカーを苦境に追いこんだ排ガス規制強化。モータースポーツ界に大きな翳りが生じていたのは、だれの目にも明らかでした。
予選トップは当然のようにガンさんが獲得する。1分43秒82.これで6連続のポールポジション。この日もまた、黒沢の独走か、と思わせる出足だった。
しかし午前中の第1ヒートを制したのは高橋国光だった。マーチBMW745で出走した黒沢は、ホイール・バランスが悪く、強烈なバイブレーションに悩まされ、2位に入るのがやっとでした。3位には北野元がつづいた。
第2ヒートでは、第1ヒートの成績順に、マシンは2列縦隊で並ぶ。コース左側に高橋国光、北野元、風戸裕、米山二郎、鈴木誠一……。右側(イン)に黒沢元治、高原敬武、都平健二、生沢徹とつづいた。ペースカーを先頭に、1周、2周。グリーンフラッグが振られや、各車がダッシュする。ストレートエンドから問題の30度バンクへ。コース幅は7、8台が並走できるほど広いが、バンクに全開で突入できるのは、ただ1本のラインしかない。バンクの上方ぎりぎりより、やや下にある1本のラインを目指して、各マシンが殺到する。レース第1の勝負どころでした。
●ラインは一つ、譲らない2台が突入したら……
トップを走る高橋国光が、まず「一本ライン」へと突っこんでいった。つづく黒沢と北野が競り合いながら一本ラインを目指した。右側から入りこもうとする黒沢が、左側の北野にやや先んじた。黒沢の赤のマーチBMWと、北野の白のマーチBMWの車体が、2度、3度、ガツーンと触れあった。どちらも譲らない。といって1本ラインに2台のマシンが同時には入れない。アウトサイドの北野マーチがコース外のグリーンに踏みはずし、タイヤをとられた。その一瞬に黒沢マーチは一本道へとすり抜けた。
北野マーチはスピンしたまま、30度バンク直前のコースを横切るように蛇行した。そこへ後続車が雪崩れこんでいた。まず、鈴木誠一のローラTが北野マーチの後部にぶつかり、はずみで30度バンクのガードレールにモロにつっこんで炎上した。
風戸裕の白いシェブロンも北野マーチと接触し、ガードレールに激突、200キロ近い猛スピード、そのままに空中へと舞いあがり、数十メートルのコース外の路面にたたきつけられ、炎上した。さらに高原マーチ、川口ローラT、米山シェブロンが次々と北野マーチと接触し、スピンし、クラッシュした。最後に漆原マーチが北野マーチの激突し、乗り上げるかたちで、やっと悪夢の一瞬にケリがつけられた。
「ドーン」「グワーン」。衝撃音とともに、吹きあがる黒煙、炎上するマシン。30度バンク入り口付近は瞬時にして修羅場と化したのです。
37歳のベテラン・レーシングドライバーの鈴木誠一、25歳でこれからが楽しみのアイドル・レーシングドライバー、風戸裕。ふたりが即死し、後続のドライバーや付近にいた観客6人が重軽傷を負った。この一瞬の惨事が、その後の日本のモータースポーツの歩みに、どれほどの大きいブレーキをかけたか。また、せっかくの30度バンクを閉鎖する絶好の口実となったか。
それだけではない、と、内藤さんは口調を高めています。
絶頂期にあった最強のレーシングドライバー、黒沢元治の選手生命が、力づくで断たれることになる。一人だけ悪役視され、ライセンスが剥奪される。1年余の後、レース復帰。しかし孤立無援のガンさんの本格的な復帰はかなわなかった。
*日産絶頂期のシンボルR381。可変ウイングが特徴だった 20が北野、18が高橋国光
黒沢元治の消息はやがて途絶えた。生活難のため自宅を売り払い、家族は離散し、ガンさんのその後の消息を知る者は少なかった。
ともかく黒沢元治を探し当て、その栄光と転落の日々を訊き出さなくてはならない。なによりも、なぜ、黒沢ひとりがスケープ・ゴートにされたかの真相を知りたい。
幸い、あるルートを通じて、ガンさんとの連絡がとれた。すべての真相、いきさつを話してもいいとの連絡がはいった。自動車とはまったく無縁の世界にいるガンさんと、ようやく会えた――。
内藤さんは「第1部」をこうしめくくっていました。「以下次号」へ。
ブログ一覧 |
実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/02 22:02:09