*ハコスカGT-R50連勝の原動力、KPGC10のレプリカを操るガンさん(『スカイライン神話Ⅱ』より)
「ようやくにして消息をつきとめた黒沢元治氏は、小柄で、物腰の低い、柔和な表情をした人だった」 ――内藤さんはガンさんの印象を第2部の書き出しで、こう描写しています。これまでモータースポーツ界とは無縁だった内藤さんが、競馬の騎手がそうであるように、レーシングドライバーも小柄で軽量な方が有利 なことに、思いは及んでいなかったようです。
インタビューのために、東京・九段下の「グランドパレスHOTEL」に一室をセットした。その辺のことは、内藤レポートには書かれていないが、こちら側は徳大寺有恒さん、当時、編集顧問を委嘱していた久保正明さん(元「オートスポーツ」編集長、その後「ドライバー」編集長として移籍)と、ぼくの3人が内藤さんをサポートしていた。
そこへガンさんは、赤いシビックを駆って、現れたのです。
名刺には、〈コンピュータ・オートマティック・ガス防災自動安全装置〉をシステム販売する会社のスーパーバイザーと刷り込まれてあった。 あの富士スピードウェイ30度バンクでの壮烈な競り合い事故の責任を、不当にも一人だけに押しつけられ、レース界から追放された男が目の前にいる。消息を絶って、すでに何年になるのだろう。モータースポーツひと筋に青春をかけ、燃焼させてきた男が失ったものは何か。あれからどう生きてきたのか。早速、質問をはじめた。
――
ダンプカーの運転手をなさっていると思っていましたが、いま、どういうお仕事を。
「そんな噂をされていたのですか。ぼくは初耳です。レース界から完全に足を洗い、すっかり遠のいてしまったので、いろんな噂がでたのでしょうね。自動車の世界とは、全く関係がない。ガス事故防災装置の販売店を開発する仕事をしています」
――レース界を追われてから、どういう仕事を遍歴されましたか。
「あの事故以来、もう6年になりますが、はじめは故郷の日立市でカーショップを開いたんです。儲かるからやらないか、といわれ、銀行から借金して開業した。だけどレースひと筋できて、商売をやったこともない人間にうまくいくわけがない。 それで2000万円ぐらいの赤字を出して倒産しちゃった。まだ、その返済に追われているんです。
そのつぎに、宝石の商売をやらないか、と誘われた。それでダイヤモンドの勉強をはじめたら、話をもちこんできた人が倒産してしまい、3か月ぐらいで立ち消えになった。まだ深みにはまらず、実害が出ずに助かったけど……」
朴訥(ぼくとつ) で、淡々とした語り口。茨城訛りが、ところどころで顔を出すのが、空気を妙にあたたかくする。輝ける栄光のレーシングドライバーの面影は、どこかに隠してしまったらしい。スポーツ選手。現役を退いたあとも、なんらかのかたちで、そのスポーツ界と関係をもつ。「過去の栄光の遺産」で生計を立てるのが慣例である。
自動車のレーシングドライバーこそ、過去の経験と技術を生かすのに、最適の人材ではないだろうか。それなのに、ガンさんのような実力者が、どうして自動車関連業界とまったく無縁の生活を送らねばならないのか、不思議であった。
――ドライブ・テクニックを教えたりする仕事を、なぜなさらないのですか。
「そういうことができたら素晴らしいでしょうね。だけど、そんな話は、夢の、また夢。クルマの世界で、レーシングドライバーを退いたあとに、うまい話はありません。まして、ぼくの場合は、選手生活の絶頂期に、自らの意思で、日産自動車のメーカー・チーム、ファクトリー・ドライバーを飛び出し、独立したから、なおさらです。あの事故の責任を、ぼくひとりだけが負わされたのも、いや、あの事故がおこったことさえ、実は、ぼくの絶頂期での独立と関係があるんです」
*1971年10月10日の「富士マスターズ250キロレース。
30度バンクで先頭をゆく黒沢車。追走するのが国光車(『スカイライン神話Ⅱ』より)
「加害者」のレッテルを貼られ、ライセンス返上。食うや食わずの悪戦苦闘を強いられてきただけに、この際、いっておきたいことが山ほどあるのだろう。話はズバリと本論に入り、ガンさんの口調に、熱っぽさが加わる。が、理性は失っていない。日産自動車などの特定企業の批判や、個々の選手の非難は、慎重に避けたのが印象的だった、と内藤さんは特筆する。
「ファクトリー・ドライバーで実績があがらず、会社からお払い箱になる選手は、たくさんいますよ。でも、ノリにノッている時期に、自分の方から会社を飛び出し、独立したのは、後にも先にも、ぼく一人。いまから考えると、自分の読みが甘かった、というか、誤り、つまずきの第1歩だったんです」
●なぜ日産を捨ててまで……
*ドライタイヤを選択して、オールウェザーの国光車を振り切ったガンさん(『スカイライン神話Ⅱ』より)
寄らば大樹の、の逆を行き、なぜ独立したのか。ガンさんなりの動機と理由があった。
社会に新しい変革の波が押し寄せていた。日産自動車のように巨大組織のメーカーに所属していると、もはや、自由にレースに参加したり、納得するだけの練習走行さえもが、難しくなったからだ。
ドライバーは契約を交わしているだけで、社員ではない。だが、メカニックをはじめ、レース関係者はいずれも社員であり、労働組合員でもある。むやみに残業を強いることもできない。レース前にマシンが不調になれば、徹夜してでも整備しなければならないのに、労働協約によって、そういうムリがききにくい。まして、排ガス規制の強化で、メーカー各社は腕のある技術者を全員、排ガス対策にまわし、レース参加ヘの熱が急速に薄れていったのです。
オーバーヒート気味だった「日産対トヨタ」の対決ムードも60年代の後半までがヤマ場。1969年の日本グランプリでR382に乗った黒沢元治が優勝したのを最後に、翌70年の日本グランプリは、日産の、ついでトヨタのレース不参加声明によって、突然中止された。
これで、ファクトリー・ドライバーにとっては、目標や出番が、消えた。
そして、皮肉なことに、そのころから「富士グランチャンピオンレース」が、富士スピードウェイで開催されるようになったのです。出ようにも出られないファクトリー・ドライバーをしり目に、高原敬武や生沢徹、風戸裕など、プライベート・ドライバーの独壇場となり、覇を競いあった。
人気も沸騰した。それを指をくわえて、見ているわけにはいかなかった。
それで、あえてプライベート・ドライバーへの転身をはかる。
頼るべき大樹を自ら捨てたのだ。そして日本グランプリに替わる富士グラチャンに参加したのです。ここから、あの接触事故へ、時計の針が進んでいったのです。
ブログ一覧 |
実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/04 00:37:01