*1964年、伊豆大島でのモトクロス大会90ccクラスで優勝。
トロフィーを受け取るガンさんの手前に若かりし頃の長谷見昌弘さんが!
*1956年ごろ、とか。高校の友人二人と日光の湯の湖までツーリング。
この恰好で上にジャンバーをひっかけて走ったという。
『ベストカーガイド』1984年4月号「黒沢元治の秘蔵アルバム」より、以下同じ。
「韋駄天走り」という言葉があります。お釈迦様の滅後、その骨は仏舎利(ぶっしゃり)といって高い功徳を与えるものとして尊重された。この仏舎利を足の速い鬼が奪って逃げたのを、韋駄天という仏法守護の神の一人が鬼を追い詰め、遂に取り戻したという。そこから、ものすごいスピードで一気に突っ走ることを「韋駄天走り」というそうですが、ガンさんはその申し子といっていいほど、少年時代から、何に乗っても圧倒的に、速かった。
昭和15年8月6日、茨城県日立市に生まれた。その71回目の誕生日には、箱根の自宅にNSXオーナーズミティングの教え子や、慕ってくれる若手編集者たちを招き、70人からの大バーベキュー大会を催しましたよ、と電話で平和な様子を話してくれました。そうだ、ガンさんの「走り」の履歴を、すこしおさらいしておきたい。理由はあとでわかるはずです。
ガンさんの少年時代にはよくあった話だから、お許しいただこう。小学校3年生のころから無免許でモーターバイクを乗り回したといいます。そして50年代の末期、日本のモータースポーツレースの草分け、浅間火山レ―ス時代に愛用の2輪を駆って参加し、その後、1962年、三重県鈴鹿市に開設された、初の本格的な国際レーシング・コース「鈴鹿サーキット」の開設特別記念レースでは、50㏄と125㏄の2種目で、ダブル・タイトルを制覇した。ガンさん、21歳の時だった。
内藤国夫さんの取材を受けた1980年の時点でも、20年ほどを遡らなければならないモータースポーツの黎明期を、ガンさんはこう振り返っていました。
「第1回の浅間火山レースのときは、たまたま交通事故で足を骨折し、入院中で参加できなかったのです。で、カミナリ族の友人たちが見物に行って“あれぐらいならオレたちだってできるぜ”っていうんです。それで“よーし、んじゃ、来年やろう”と第2回の浅間レースは3か月も前から浅間のバンガローに泊りこんで練習した。
だけど本番のレースでは50Rの有名なコーナーでフロント・ブレーキがロックしちゃって、十何位だったかの成績に終わったんです。日立のカミナリ族仲間では一番遅い友だちが4位にはいっているのに。ぼくは、もう口惜しくて、涙を流して家に帰った。そのうち、鈴鹿でレースがはじまった。オヤジは家業の石切り屋を継げと迫るんです。それで、これが最後のお願いだから、今回だけは、と頼みこんだ。本田技研がマシンを提供し、特訓もうけた。そのうちに勝てそうな気がしてきたんですね。
オヤジには“もし3番以内に入ったら、レースを続けさせてくれ”と頼み直した。日立の山の中で育ったセガレがそんな成績をとれるはずがないとタカをくくっていたオヤジは“いいよ”と返事してくれましたね。
レース結果は、予想外のダブル・タイトル。もうやめられなくなった」

*左から北野元、砂子義一、国光、大石秀夫、ガンさん(1968年第5回日本GP)
*1965年ごろ、日産レーシングチームに入りたてのころ。中央が故・田中健二郎さん
韋駄天の申し子は、やがて2輪レーサーから、4輪へと転じ、日産のファクトリー・ドライバーになった。その時、日産との仲介の労をとったのが、当時、城北ライダースというオートバイのモトクロス・チームのリーダーだった鈴木誠一である。その恩人を例の30度バンクでの北野元との競り合いの余波で、死にいたらしめるのだから、まったくひとの運命とは皮肉としかいいようがない。
この運命の皮肉には、伏線があったのです。30度バンクの悲劇に巻き込まれる前年、すでに日産から独立してヒーローズに移籍したガンさんは、本場ヨーロッパのF2に参戦する機会に恵まれる。その辺のいきさつを、ガンさんは「ドライビング・メカニズム」(勁草書房刊)に、こう記しています。
*1968年、第5回日本GPにR380で出場。総合3位のクラス2位。
「マーチ・カーズのメンバーが、わたしの富士スピードウェイでの走りを見て、チャンスを与えてくれたのだ。国内の調整などで返事が遅れ、ワークス・チームのシートは埋まってしまい、セカンド・チームでの参戦となった。ワークスのドライバーは先述(前年F2チャンピオンとなり、富士グラン・チャンピオン戦に招聘され出走、それをガンさんが退け、話題を呼んでいた)のジャン・ピエール・ジャリエとハンス・シュタック。わたしがドライブするチームは下請けがメインテナンスするので戦闘力が劣っているのが残念だった。
3戦だけ、それもブリヂストンタイヤでの戦いであった。今となっては信じられない話だが、当時のブリヂストンタイヤではまったく勝負にならない。2戦を終えて十数位がやっとだった。幸運にもポルトガルでの最終戦では、わたしも他のドライバーと同じように、当時常勝だったファイアストンのタイヤで戦うことができた」
*1973年、F2でフランスを転戦。フランス、ドイツ、ポルトガルをはしりまくった。
その結果、ガンさんは予選を、セットアップも半端なままで5位をゲット。レースは2ヒート制だった。その第1ヒートではスタートをうまく決めることができて、第1コーナーではアウトからトップに並びかけるたのだが、押し出されてレースを終える。
マシンの修理を急遽おこない、第2ヒートは最後尾からのスタートでした。韋駄天の申し子の追い上げは、物凄かった。が、5位を走るウィルソン・フィッティバルディのブロックがきつく、抜くのに数ラップを要してしまう。結局、5位。
「フィッティバルディさえ早くぬければ表彰台の真ん中に立てた」
ガンさんははっきりと言い切る。フィッティバルディを抜いてからは、前がクリアであったこともあり、そのレースのファステストラップを記録している。
ヨーロッパのレースシーンでは、 ファステットラップを叩き出すドライバーは、何周でも速く走る可能性があることを知っている。日本ではレースの順位でしか判断しないのは、残念なギャップで、逆にこのファステストラップがマーチ・カーズの当時のオーナー、ロビン・ハードの目に留まることとなった。
「翌年のF1に黒沢を乗せるという記事がイギリスのモータースポーツ専門誌『Auto Sports』に掲載されましたが、日本人初の、それも契約金でシートを買うのでないF1ドライバーの実現は、結局、マーチの財政難で実現しなかった」
もしも、そのままマーチの黒沢プロジェクトが実現していれば、ガンさんのそれからは、全く別のものになっていただろうに……。
F1への道を断たれ、がんさんは日本でのレース活動に戻り、その年の6月2日、一旦、ガンさんのレース時計は止まってしまう。
内藤国夫さんの「実録モータースポーツ」が新しい縁となって、ガンさんと徳さん、ぼくの同じ「昭和10年代生まれ」が、ベストカーを舞台にスパークし合う日々がはじまった。
グループ5のテストは、あいにくのみぞれで中止となったものの、わざわざ谷田部の日本自動車研究所までご足労ねがっていたり、ベストカー共催のジムカーナ大会で妙技を披露してもらったり、さらに「シビック・ワンメーク・レース」発足にあたって、ドライバーを引き受けてもらったりと、ガンさんにとっても再生へむかって羽ばたく環境が整いつつあった。
そこへさらに朗報が入った。JAFスポーツ委員の登録小委員会でガンさんの国際Bライは承認され、交付される。これでもう一度、F2レースに復帰することができたのです。
韋駄天の申し子は、当時の佐川急便をメインスポンサーとするスピード・スターで、正式に走ることに……。
Photo Chikara Kitabatake
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実録・汚された英雄 | 日記
Posted at
2011/08/08 22:36:16