*上が高橋国光と彼のマーチ73‐S・BMW,カラーは赤。下がヒートⅡで2位を争う黒沢、そして北野
(『CG』1974年8月号・過熱した2ヒート所載)
国会図書館での結果を心配していた吉田匠さんへ、さっそく「報告書」を送信しました。
「今、国会図書館から戻ってまいりました。3冊ずつが合本になっているため、検索で時間をとりましたが、無事、1974年8月号にたどり着くことができました。
前もって、該当ページを書き込んでいただいていましたので、そこからは、たいへん楽な作業でした。
まず巻頭コラムの「From Outside」のページが目に飛び込んできました。三本和彦さんが、鈴鹿のプレスルームで事故発生から5分後に知った、という話からはじまる短文。しかし、恐ろしく内容たっぷりで、この事故への、当時のマスコミ情勢の一端を知ることができました。さすが、と唸らされました」
そこのところを、もう少し詳述しておきます。貴重な資料の一つであり、磨かれた辛口の卓見が、ここにあったからです。
―― 第1回グランチャンピオン・レースを観戦して、なんとなく心にひっかかる気に入らぬ、レース運営があった。中盤戦に入った頃に、コースに油があるとの理由でペースカーがコースに入り、せっかく水をあけたリーダーと、40数秒もはなれた2位のマシーンが、それこそテール・トゥ・ノーズにされたのはもちろん、周回遅れのマシーンまで一列にされてしまい、スタート直後のようにゴチャゴチャになってレースが再開されたことだ。
(中略)
ところが、レース途中でペースカーがコースに入ることは出場選手に了解ずみのことで、これには“安全確保”の意味の他に“TV録画”の都合も含まれたという“噂”があった。まさかレースがTV録画のために異例の協力なぞするわけがない、と思っていたが、後に週刊朝日に載っていた記事を読んだら、「事前に選手にも了承を求め、反対はなかったようだ」という意味のことが書いてあった。
(中略)
とにかく、TV用の演出か、安全確保のためか知らないが、本年度第1回のGCレースは妙に感激が薄かった。主催者側は予想以上の観客動員をよろこんでいたし、私も盛会だったことはよろこんだが、なにかスッキリしないので、GC第2戦は助手だけを取材に出し、私自身は鈴鹿でモーターサイクル・レースを取材することにした。
「何かありそうですから……」と富士スピードウェイへ行った助手のカンは正しくて、鈴木、風戸の両選手が死亡するような大事故が発生してしまった。このニュースは、鈴鹿サーキットで取材中の私の耳に、事故発生5分後に届いた。新聞記者からの電話を傍聴したもので、「出場選手の鈴木、風戸が死亡、取材中のカメラマンも死ぬかも知れぬ重傷」と聞かされ、助手の安否を確め,事故発生時に現場に居合わせなかったことを知って胸を撫でおろした。
新聞記者の速報はありがたいが、「そちらでは死亡事故などないですか、あれば“東西サーキットで事故死”と見出しがたてられる」と冗談ばかりではなさそうな問い合わせにゾッとさせられた。(中略)
事故後に聞こえてきた“噂”や取材メモでは、どうも気が滅入るはなしが多い。レーシングドライバーが「黒沢の出場するレースには参加しない」と申し合わせた、とか「警察の事故調査には口裏を合わせて答えた」とか「12chの録画ラッシュを特定の人達には見せて事後処理の参考にしたが、警察に見せるのは拒否した」とかの類だ。
「モータースポーツは危険で、万一死に至る事故が発生しても、何人にもその責任を負わすことはできない」。こんな但し書はヨーロッパやアメリカのようにモータースポーツが盛んなところでは常識になっており、万一事故発生のときには徹底的に原因を追求し、後々の安全の糧にするのも常識である。(中略)
モータースポーツの安全は、特定の誰かが出場するレースをボイコットしたり、問題の派生を怖れて原因追求を怠ったり、阻害したり、非協力的だったりすることで保てるわけはない。10余年の間、日本や外国でのモータースポーツをカメラのファインダーからのぞいていて、今度の事故を知ったとき、なんだか胸に大きな空洞ができたように感じた。別にモータースポーツを至上視したり溺愛したりはしていないが、心の底ではモータースポーツから得られるであろうナニかを常に期待していたからかも知れない。 (三本和彦)
匠さんの執筆した『PIT SIGN』は、次のページに。見出しに『歪んだ闘争心』とあります。
書き出しは臨場感にみちたものでした。
「絶対に起こってはならないことが、再び勃発してしまった。6月2日の富士GCシリーズ第2戦、グラン300キロ・レースのヒートⅡスタート直後の、あの悲しむべきアクシデントである。
その時、筆者はグランドスタンド上段のプレス席にいた。リポートのためのラップチャートを採るのが目的だが、同時に、5万6000人の観客の一員として、レースの行く方に並々ならぬ興味を抱いて見守っていたのも事実であった。何故ならば、それは途方もなく素晴らしいレースになるはずだったからである。
(中略)
午後2時04分55秒、2ラップのローリングの後、すさまじい勢いでヒートⅡは始まった。リーダー国光の直後に黒沢と北野がほとんど並んでスピードを上げ、ほんの僅かの差をもってセカンド・グループがストレートを駆け抜けて行く。プレス席に立ったまま、全員が無事スタートして行ったことを確認した筆者は、やがて誰かかを先頭にして現れるはずのヘアピンの方向に、ふと目を向けた。ト、その直後、スタンドの何処かで“ヤッタ!”という悲痛な叫び。見るとストレートの彼方からもうもうたる黒煙があがり、やがてそれは赤い炎にとってかわった。TV画面で見た昨年の最終戦での恐ろしい光景が脳裏をよぎる。“またか!”、誰もがそう思ったに違いない。すぐに救急車が現場に急行、ややあって無事だったマシーンたちがレーシング・スピードのままヘアピンをかすめ去る。(中略)
*アクシデント発生(Photo 板垣清司 CG1974年8月号所載)
一体、こんな事態を起こした原因は何か? 6月17日のTV中継をご覧の読者ならば、アクシデントの発端が何であったかは察しが付くだ。互いに一歩も譲らず、もつれるように疾走して来た北野と黒沢。そして7番ポスト付近で北野はついに黒沢にハジキ飛ばされてグリーンに飛び出し、250 km/hで加速して来るセカンド・グループを横切るようにスピンして行った。一瞬の後、8番ポスト手前、すなわちバンクの入口付近は修羅場と化していた。あの時、何故彼らのどちらかが少しでもスロットルをゆるめなかったのだろうか? 後続のマシーンたちが猛烈な勢いで迫って来るため追突されかねない状態だったというのも事実であろう。だが、彼らをそうさせなかった最大の原因は“過熱した闘争心”だったといえよう。
闘争心はあらゆるスポーツを行ううえで欠くべからざるものであることはいうまでもなく、それを失ったプレーヤーはウイナーになることは不可能である。(中略)
そう、ここで考えねばならないのは、闘争心とマナーの接点についてである。いかなるスポーツでも、テクニックや闘争心を発揮するのは、ルールに沿って正しいマナーで行わなければならない。特に、小さなミスが当事者や周囲の者の生命をも奪いかねないモーターレーシングにおいては、その点は一層徹底される必要がある。(中略)
“レースは喧嘩じゃない。スポーツなんですからね。みんなもっと考えて走らなくっちゃダメですよ”
アクシデントの直後、それに巻き込まれながらも無事脱出し得たあるプライベート・ドライバーのつぶやいた言葉である。C/Gでは、鈴木誠一、風戸裕、両氏のご冥福を心からお祈りするとともに、もう2度とこんな悲しい出来事のおこらないことを切にねがうものである。もう2度とこんな文章は書きたくない――これがこのページの担当者の偽らざる心境なのである。
ここからは、ぼくが匠さんにあてた『わが読後感』ともいえる報告書の後半分です。
「闘争心とマナーの接点。生まれて10年余のこの国のモータ―スポーツ界。ヨーロッパやアメリカで育まれたスポーツとはいえ、そのころのモータースポーツに関わった人たちの思いあがった、未熟な闘争心を、たとえそれが入社3年目の若い編集者であろうと、真っ直ぐに指摘されてしまうところに、やっぱり問題があったんだ、と気づかされました。
たとえば、この事故でもっとも指弾を受けた黒沢元治さん。高校を出て、2輪から4輪へ、ただただ疾く走ること、をセールスポイントに生きてきた。今でこそ、その道一筋に生き抜いてきた『背骨』が見事なまでに光っていますが、あのころはどんな生臭い『野獣』だったかを想像すると、いろいろな感想があるでしょうね。高橋国光さんだって、北野元さんだって、一種の『走るサイボーグではなかったか』などと考えていくと、まさにあなたが触れざるを得なかった『歪んだ闘争心』が、もっと論じられていい、と思いました。
*最強と謳われた時代のNISSANワークスの面々。
はっきりいって当時の国光さんにしても『エリート=プリンス』ともてはやされていただけで、『サーキットの武人・騎士』にまで成長していたとは思えないのです。ヒートⅡの先頭集団のフォーメーション形成と位置取りから、ある種の使命があったのではないか、とついつい疑ってみたくなる。ぼくの神経がピクピクと反応してならないのです。これは決して黒沢さんをかばう見かたではありません。どこか変だな、と思う直感のなせる業です。
ぼくは大学時代、剣道部でやっていて、体育会的なお付き合いは、一切うけつけない体質だったため、いじめる先輩、逆にその姿勢を買ってくれる先輩のはざまで、随分もみくちゃにされましたが、結局はそのおかげで、剣道と縁の深い講談社という出版社に入ることができました。
武道に内包するメンタリティには共感していたから、4年間の剣道部生活を貫徹できたのでしょうね。
その意味で、あの当時の、とくにワークス系のドライバーたちとそれを仕切っていたレース関係者もまた『礼を知らない野獣集団』ではなかったでしょうか。それがボクの匠さんの『歪んだ闘争心』に触れての感想です。
「過熱した2ヒート」はまだ読みこめていません。ただ次の9月号のCGで『ニュース短信』として、黒沢さんのライセンス返上を伝えているのが、目につきました。
この件の背後について、もう少し検証できないだろうか。
37年がたって、ほんとうにあの事件が風化してしまっていいのかなぁ。その想いが、ますます強くなってまいりました。では、また。よろしくお願いします。