中部博さんから『30度バンク』閉鎖の引き金となった、あの多重事故取材について話をうかがったのが8月24日。あれから、40日あまりが経ってしまった。あの時、中部さんに単刀直入にうかがったことがある。
――あなたは『1974.06.02 まだ振られないチェッカー・フラッグ』のなかで、大事故を克明に記録した映像がない、と書いているが、その後、当時、テレビで放映された映像をご覧になったという話ですね。
*中部博さん
即座に中部さんは答える。ええ、見ましたよ、と。そして、こう続ける。
「取材しながら連載していると、読者の方々から、重要な情報提供をいただくことがあります。そんな中で、信じられないような連絡が来たのです」
そのときの様子を、中部さんは連載レポートの第14回のなかで、こう記録していた。
* * *
信じられないような連絡がきた。否、その連絡がくる日を信じてまっていたのかもしれない。
電話のぬしは、簡素な言葉でこう言った。
「あの事故の映像があるのです」
ただし最初に約束してほしい、と念をおされた。その映像が存在する理由、所有者、すべてのことは現段階において秘密である、と言う。誰が、なにの目的で、この映像を撮影し、所有しているのか、という質問にはいっさい答えられない。さらにひとつ。映像を見せるのは、とりあえず一度きりだ。当面は貸し出すことができない。
それでもいいから見たい、と思った。
実をいえばすでに二度、同じような情報を中部さんは受けていた。最初のひとつは、すぐに記憶ちがいだということが判明したのだが、もうひとつの情報は信憑性があったという。映像を録画したホームビデオレコーダーの機種が情報のなかに含まれていたからだ。さすがに、その辺の事情に通じている中部さんの目のつけどころは鋭かった。
*1974年『AUTO SPORT』誌8月10日号に掲載された。黒澤車と北野車の接触事故の瞬間を伝えた写真。
当日の観客であった稲田理人氏、健二氏より提供された貴重な写真であったという。(「レーシングオン」2008年4月号所載)
1974年当時、民間用に販売されていた日本製ビデオレコーダーはソニーUマチックだけでVHSカセットより、はるかに大型のカセットであった。Uマチック・ビデオレコーダーは高価で、1600ccのスポーツクーペが一台買えるぐらいの値段だった、と中部さんは言う。そのビデオレコーダーを所有しているレースファンが、当時オンエアされた富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦のテレビ番組を録画し保存しているはずだという情報だった。
だが、結果からいえば、その映像録画はなかった。取材というのは迷路を歩いているようなところがあるので、このぐらいことで落胆はしないで、むしろ、きっとどこかに存在しているだろうという気分が残った、という。さて、この時はどうだったのか――。
* * *
都内のオフィスビルの一室で、その記録映像を見られることになった。
デスクのうえにはMac Bookが一台おかれていた。ちかくに透明ケースに入った一枚のDVDが無造作にあった。タイトルもなにも書かれていない白無地のDVDである。そのDVDがセットされると、いつものように小型モーターが回転する音がした。(中略)
メディアプレイヤーが始動し、液晶のスクリーンがフルサイズで暗転した。そして映像が始まった。テレビのブラウン管に映しだされている。そこに番組のタイトル画面が見えた。かなり退色しているがカラー映像である。
これはテレビ放送を、おそらく8ミリカメラで撮影しているのだ。やがてそのことを断定ができる撮影中断があった。三分ほど映像がつづくと、一度途切れ、次の場面にとんでまた映像がはじまる。もしこれが16ミリであれば、そのカメラを扱える者の常識として400フィートのフィルムを使うはずだから12分程度は連続で撮影できる。(中略)
テレビのオンエアをそのまま八ミリで撮影するという方法は、いまでこそ笑い話のようだが、当時は常套手段であった。とはいえ、この八ミリ・フィルムを撮影した人物は、映像撮影の知識があると思える。テレビの周辺はきれいに暗く、それは部屋の照明ををすべて消しているからだ。テレビのブラウン管の走査線はそれほど目立たず、もしかするとノーマルの毎分24コマではなく18コマで撮影しているかもしれない。たしかな撮影技術をもった人物であろう。
(中略)
映像は第1ヒートのローリングを映している。
たしかにポールシッターのマーチ745BMWは、極端なウィービングを繰り返して他車を威嚇している。それから第1ヒートのレースの模様がつづいていた。見ることに追われてメモがとれない。もうひとつ奇妙なことに気づいたが、いままでの取材で積み重ねてきた事実確認の幻影を見てしまうのだ。実際の映像で映っていないシーンまでもが映像的に想像できてしまい、、頭のなかではブツ切りの映像が一本につながってしまう。
*FISCOのストレートエンドに残されたブラックマークの跡。その先には北野車と、その上に乗り上げて炎上した
漆原車の残骸が見える。 (「レーシングオン」2008年12月号所載)
そして第二ヒートのスタート直後の事故シーンがあった。この8ミリ映像では三回も同じシーンは編集されている。実際の放送でも三回あったのか。
アウト側につけて二番手で第1コーナーへ入らんとする北野元が、数回の接触であろうと思われる動きをみせたとたん、あっという間にスピンして、後続集団になだれこんで横切り、イン側へと飛ばされるように突っ込み、そこで漆原徳光のマシンと激突する。そのとき出火しているのがわかった。すぐに黒いヘルメットをがぶったドライバーが脱出している。見てとれたのは、そのぐらいのことしかない。
実感としてわいたのは、こんなに短い時間の出来事だったのかということだった。瞬間的なのである。たしかにこれでは名だたるレーシングドライバーであっても、意識的には避けきれないと思えた。それほど一瞬の出来事なのである。
そんなことしか見てとれぬ自分がうらめしい。と同時に、泣きたいような悔しい気持ちで胸がいっぱいになった。この事故で亡くなられたふたりのレーシングドライバーの無念さをひしひしと感じてご冥福を祈らざるをえない。さらにひとつ、この事故のことが胸に突き刺さったまま生きてきたレーシングドライバーの精神を思った。さぞや辛かろう。
「この収録番組は、東京12チャンネルから流されたもので、その辺のいきさつや背景は黒井尚志さんが『レーサーの死』で詳しく追及されていますから。でもその後、奇跡的に残っていた記録映像の持ち主から、連絡がありません。もう一度、あの記録映像を調査分析ができるといいんですが」
このあと、中部さんは津々見友彦さんを皮切りに、出場したドライバーの一人ひとりを訪ねて歩いている。どんな証言が得られたのだろうか。
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実録・汚された英雄 | 日記
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2011/10/05 07:59:28