
『青春オフロード派』とはなにを指さすのか。
1980年代の「ベストカー」はぼくの編集者としての想い、あるいはメッセージが色濃く反映した時代だった。オンロードからはずれ、やむなく石ころと泥にまみれた道で生きようとする若者に、ぼくらも同じように傷つき、それでも夢を忘れずに生きてきたから今がある、だから元気を出そうよ、と肩をポンと叩く、そんなメディアを志していた。
その意味で「童夢」のリーダー、林ミノルさんは、志が共鳴しあう仲間だった。そのミノルさんが2ページ物にもかかわらず、本気になって書き上げた青春ドキュメントのつづきは、太陽にように明るく、この時代を物凄いスピードで駆け抜けた23歳の親友の、あまりにもあっけないアクシデントによる悲報だった。
もうすぐ20歳になるというミノルさんが鈴鹿サーキットに練習に行ったとき、浮谷東次郎と知り合った。急速に親しくなる。お互いの夢を語り合い、東次郎のレースにかける情熱を知り、ミノルさんも自分のなすべきことが見えてきた……といった具合で、浮谷東次郎との共同プロジェクトを発展させていく。
「その頃、前年にモーターショーで発表されたHONDAS360が、S600となって発売され、鮒子田も東次郎もさっそく買い込み、できるかぎりのチューンを行ない練習にはげみだした。もうレースカーを作ることしか頭になかった私は、サーキットや山道を走るのをやめ、お金をためることに専念しようと決意した矢先、この年(1965年)鈴鹿サーキットで開催されるスズカクラブマンレースに参加を予定していた東次郎が、私のかねてからのアイデアを実行しようと提案してきたのである。当時のレギュレーションでは、S600はツーリングカーのカテゴリーに入るが、レギュレーションを超える大改造を行ない、GTクラスに挑戦しようというアイデアである。金をためようと決心してから、いく日も経っていない。東次郎と私が使える金は、10万円もなかった。毎日、夜を徹して計画を練り、夢はどこまでもとどまるところなくふくれ上がったが、しょせん10万円しかない。今回は、泣く泣く徹底的な軽量化と、空気抵抗の減少に的をしぼった。この頃の私は、今の私しか知らない人には、信じられないほど神経質で、シャイで一途で、正義感にあふれた青年だった。信じられないだろうが……。
しかし、悪いことに、この一途さは、学生時代にはすベてがデメリットとして現われ、車のことに関係ないことに費やす時間は、身を切られるより辛かったし、学校の存在は、最も疎ましかった。
母には、高校進学もしたくないと逃げまわり、高校に入っても、まったく勉強はしないし学校へも行かない。当然、成績は最悪で、そのうえ毎日オートバイで走りまわっていては、母から見れば、完全な不良少年である。高校はなしくずしに中退、それでも大学へ進学させることをあきらめなかった母は、ある四流高校に私をぶち込み、とにかく卒業資格だけは取らせた。しかし、何ひとつ勉強もしていない私が入れる大学は当然のごとくどこにもなく浪人。
小学校時代、いいかげんな足し算や、ゲームまがいの方法でIQテストとやらをやらされ、たいへんいい数値を出した私は、京都市の教育センターに連れて行かれ、特別に再調査された。まる一日中いろいろやらされ、結果はどうだったのかは知らないが、そのまますんなり帰らされたから天才ではなかったことは確かである。この一件のみを頼りに私の頭は悪くないと信じ込んでいる母の大学への執念はすさまじく、車に夢中の私を見ているうちに、ついに寝込んでしまった。もともと心臓の強くない母の病気は軽いとはいえず、最後の願いを約束させられて、大学に進学することになった。その大学も母の回復につれ、足が遠のき、またもや母のいう不良行為にあけくれる毎日が続いていた。
*浮谷東次郎は自然とグループの真ん中にいる。左から三保敬太郎、東次郎本人、生沢徹、多賀弘明、式場壮吉、須々木昌雄。
●何日も徹夜でクルマを作ったことも
東次郎は誰からも好かれていたが、特に私の母は気に入っていた。その東次郎と私の初めての共同プロジェクトで、私の車への情熱がただものではないことを少しは理解してくれたようだ。とにかく、製作期間は1カ月しかない。グラスファイバーも本では読んだが見たこともない。京都中の塗料屋さんを回り、やっと一軒を見つけ、毎日しつこく通って、使い方を覚えた。しかし、製作する場所もない。今はホンダのディーラーのおやじにおさまっているが、オートバイ時代、一緒に走り回っていた高山和男の家のガレージが借りられた。それから1カ月、ほとんどガレージの横に停めた車の中で仮眠しながら作業を続け、レース直前やっと完成した。
予選の日、まだ塗装をしていない改造S600の前に、東次郎や鮒子田(寛)をはじめとして、たくさんの仲間が集まり、ワイワイガヤガヤやっていたら、突然、本田博敏が、「このままじゃカッコ悪いから、黒に塗ろう」といいだし、あっという間に、黒板用塗料を買ってきて、ハケでベタベタ塗りはじめた。
またたく間に、まっ黒になった改造S600は誰いうとなく「カラス」と呼ばれるようになった。
この記念すベき私にとっての初レースは、東次郎のおかげで優勝。それから数週間した頃、小寺と矢吹という人が、ふらりと尋ねてきた。矢吹氏は今も(83年当時)鈴鹿の競技長をやっているあの矢吹圭以造氏だ。東次郎のために、もっと本格的なレーシングカーを作れ、スポンサーになろうという申し出であった。そのマシンが完成する頃、東次郎は鈴鹿サーキットの露と消えた。知り合ってから半年、車作りに生きることを決心させてくれたのも東次郎、初めての車作りのチャンスを与えてくれたのも東次郎、私の20歳の頃の思い出のほとんどは、この半年に詰まっている」

*思い立って東京・池袋のジュンク堂書店へ。すぐにみつかった「童夢へ」(幻冬舎刊)購入。近年のミノル社長、童夢の公式HPから
ミノルさんの手記はここで終わっている。が、痛恨の想いだけではない、複雑な心の葛藤と、それからのミノルさんは向き合わなければならなかった。具体的な状況が、その後、いくつかの実録作品に記述されているし、ミノルさん自身も2009年に幻冬舎から出版した自伝『童夢ヘ』の中で、「あっけない現実」という小見出しをつけて、こう書き綴っている。
――翌朝、私が作業の続きをしていると浮谷がやってきて、「林君のS6借りるよ。ちょっと走ってくる」と言うので、車の下に潜ったまま、「駄目だよ。シートベルトないから」と大声で叫んだが、聞こえなかったのか無視したのか、キキッとタイヤノイズを発しながらコースに出ていった。
私は気にも留めずに作業を続けていたが、そのうち、サーキットを走る車の爆音が消えてしまっているのに気がついた。あたりも妙な静寂に包まれている割には何となくざわついた感じで、真っ昼間の割には空も景色もどんよりと暗く重くモノクロームな雰囲気が異様に感じられた。
誰彼ともなく、車がひっくり返っているとか電柱が折れてコースを塞いでいるとかの情報が飛び交っていたが、そのうち、誰だったか忘れたが一人のドライバーが走ってきて、「浮谷が事故った! 大事故だ」と伝えてきた。
飛び上がって驚いた私たちは車でコースに出ようとしたが、もう救急車が帰ってくるというので、医務室の前で待つことにした。(中略)
人の死、それも最も親しい間柄の親友を失うという初体験は大きなショックではあったが、それから以降、ずっと言われ続けているシートベルトを装着していなかったという浮谷の落ち度の原因を作ったのは自分だという自責の念が、何よりも私を責め苛んだ。
ジャーナリストの星島浩さんが、主を失った白いレーシングカーのボンネットに浮谷の似顔絵を描き、サーキット中の車がこれに追従して追悼のためにサーキットを一周した。ライトを点灯した長い長い車の列が真っ暗なサーキットを光の帯にしていたが、この時、この名無しの白い浮谷の遺品は「TOJIRO‐Ⅱ」という名前になった。
もっともこの時の心の葛藤の一端を、同載されている「追悼パレード」写真のキャプションの形で、さりげなく書き添えている。「浮谷追悼パレードは感動的だったが、私は、こんな時にこんな企画をして準備に走り回っていることがそもそも不謹慎だと考えていたので、運転しろと言われていたTOJIRO-Ⅱにも乗らずにピットの上から眺めていた」と。
後世に語り継がれている東次郎のアクシデントの様子(「ウィキペディア」を例にとる)はこうだった。
――優勝を果たした翌月の1965年8月20日、三重県の鈴鹿サーキットでの練習中、立体交差を過ぎての150R(現在の130R)で、コース上を歩いていた2人の人を避けようとして当時コース脇にあった水銀灯に激突するという事故に遭遇。衝撃でマシンの外に放り出された浮谷は、両足の骨折や頭部を強打する等の重傷を負い、翌日脳内出血により23歳の若さで没した。皮肉なことに、その日はライバルと目された生沢徹の23回目の誕生日だった。事故直後には「コースに人がいちゃ危なくて走れないよ」と語るなど意識があり、医師に「頭を打ったので調べてほしい」と伝えたと言われている。(中略)事故の際に浮谷が乗っていたのはレース用車ではなく、「カラス」製作者である林みのるの個人車(ホンダS600)だった。林は浮谷の死に大きなショックを受け、一時的にレース界から身を引いている。
11月2日のお昼を、例の東京プリンス「和食処清水」で、久しぶり、林ミノルさんとご一緒する。どんなふうに話が発展していくか、愉しみである。
ひょいと、古い記憶が甦った。京都・宝ヶ池から鈴鹿サーキットまで、ミノルさんの運転で急行したことがある。ナビのない時代である。頭の中の地図に、鉛筆で京都から鈴鹿まで、1本の線を引く。後はその線に沿って、さまざまな道を拾いながら、ひたすら、真っ直ぐ鈴鹿を目指す。なんとも印象的で、見事なドライブとルート取りだった。琵琶湖畔から山越え。信楽、伊賀上野、亀山を抜け、あっという間に鈴鹿到着。多分、所要時間は一般ドライバーの3分の2もかからなかったろう。
ミノル特急。秘かに、ぼくは名付けたものだった。
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ベストカー時代 | 日記
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2011/11/01 23:54:50