~語り草となった「逆噴射事件」の真相~
1982年7月のできごとだから、30年も昔の噴飯ものの記憶なのに、つい昨日のことのように目を輝かせながら夢中になって語り合おうとは! かつてはいつでも、どこでも、若者たちは夢中になってNEWカーや、レースのことを話題にして時間の経つのを忘れたものだった。
自動車ジャーナリストの両角岳彦さんと、代官山にある小ぢんまりしたバルで開かれた、身内だけのパーティで一緒になった。話題は、男はどうやってドライビング・スキルを磨いてきたか、となったとき、いきなりモロちゃん(以下、両角氏の愛称で)が、バラしてしまう。

*理論派で鳴る両角岳彦さん。右が巨匠:徳大寺さん
「局長の《逆噴射事件》、ぼく、目撃してたんですよ」
「え!? パルサー・フレッシュマンレースのあの事件を」
「そ。あのとき、グランドスタンドに仮設された放送ブースにいましたから、目の前ですよ。全車がスタートした瞬間、局長のパルサーだけがいきなりバックする……」
「そ、そ。予選はどん尻近くでうしろに誰もいないからよかったものの、前代未聞のチョンボだよね。で、左となりが、当時オートテクニック編集部員だった山口正巳君(いまや、F1専門レポーターとして世界をかけめぐっている)で、スタートした途端、いきなりぼくがバックしたもんだから、急に自分が速くなったと思ったそうだ」
「(爆笑しながら)でしょうね」
*ガンさんがいつもそばにいてくれたあの頃。スタート地点へ。最後尾は遠かった……
*’82富士フレッシュマン第6戦の公式プログラム
*手書きのリザルトなんて、いまや貴重品だな。それだけ手造りの時代だった
あれで一躍、《局長、なにをするんですか》が業界ではやり言葉になった。その年の2月に日航機が羽田空港に着陸する寸前に、機長が逆噴射装置に手をつけて不幸な事故を起こしたばかりだった。その時の副操縦士が思わず発した悲鳴のようなコメントが《機長、何するんですか、やめてください!》。それをうちのスタッフがパロディにしてしまったのだ。
モロちゃんが訊いてくれる。
「あれってどうしたんですか?」
モロちゃんの仲間である森慶太君も、興味津々の様子である。ぼくにしたところで、細かいことは憶えていない。が、確実に言えることは一つ、スタートに備えてギアを左上の1速に入れておいたつもりが、そこがバックギアになっていたということ。サイド・ブレーキを下してアクセルを踏めばどうなるか、考えただけでもゾッとする。
ことの発端は、その年の4月にパルサーで参戦した際、右前を損傷したのを、日産大森モータースポーツ部の好意で手直してくれたのはいいが、ついでにミッションをレーシングパターンに組み替えてくれていた。それを、全く練習もできないままのぼくが、決勝当日のスターティンググリッドで、すっかり失念して不用意にも、いつものようにギアを左上にセットしてしまったというわけだった。
「そうだったのか。前進4速ならHパターンに、バックのギアを左下につけ加えておくんだが、前進5速だと、確かにそうなりやすけど、ストッパーがついてなかったんだね」
モロちゃんもそれで得心がいったのか、そこでぼくをヨイショと持ち上げてくれる。
「45歳でフレッシュマンに取り組んだ熱心さが素晴らしいと思ったけど、そんな大チョンボをしながら諦めないで、どんどんステップアップして、最後にはミラージュでマカオGPまで走ったんですよね」
森君も上手に驚いてくれる。
「え!! マカオの市街地レースまで。そこまでとは知らなかった」
*1987年、念願のマカオGPのミラージュレースに出場

*アデレードでのF1GP前座有名人レースに出場。コルディアを知ってるかい?
マカオGPは5年後の87年。自慢ついでに言わしてもらえば、85年にはオーストラリア・アデレードのF1の前座レース、コルディア・レースに招待されて、往年の名ドライバー、ジャック・ブラバムやバーン・シュパンと一緒に競ったことも、この際、いっておこうかな。
それにしても、逆噴射と異国での市街地レース出場とでは、落差がありすぎる。たしか、そのあと、どうやら自動車レースは不向きじゃなかろうか、と冷えた気持ちになっていたような気がする。帰宅してから、往時の資料を漁ってみたところ、「公式プログラム」やら、ガリ版刷りの「結果成績」が出てきたのである。予選は28台中27位、②の山ちゃんはコンマ8秒差で26位、そして決勝は山ちゃん20位、ぼくは完走組のどん尻、23位と記録されていた。
いい体験をさせていただいたことだし、レースもほどほどに。そんな気分でいたところ、年が明けてフレッシュマン第1戦に、当時、ぼくのサーキット巡礼のサポート役であった国沢光宏編集部員にシートを譲ったところ、えらいことをやらかしてくれた。その「暴走報告」を彼自身が、担当していた「みんなの駐車場」というコラムに「読者投稿小説」というかたちで書き残しているので、ぜひ読んでやってほしい。こうした型破りの若手編集者が、実は「ベストカー」というメディアを面白く、タメになるものにしてくれていた。こんな風に、彼は自分を売り込む。

*「アクア」の発表会で。国沢君はぼくの「愛するメフィストフェレス」であった
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*「ベストカーガイド」1983年4月号より。国沢君執筆の「熱走報告」
(前略)そんなダメな編集部員が唯一、人間らしくなれるのが、サーキットを走っている時である。(中略)国沢のデビューレースは82年の7月。第2戦は同じ年の9月に行われたスーパーシビックレースだ。この時は2周目に160km/hもの高速からスピン、ビリに落ちながらも17位でゴールした。3戦目の富士フレッシュマン最終戦は、まったくメインテナンスされていないクルマで出場。一時は8位まであがったのだが、後半はストレートでかるーく抜かれて14位であった。そして今回が4戦目のチャレンジである。
(中略=黒沢元治さんや星野一義から盗んだラインやテクニックををさんざ自慢したところで、いよいよレース報告)
レースの予選は9時45分からスタートした。出場台数は26台。練習では使わなかったスリップストリームを使う。(中略)手元のSEIKOのレースウォッチは1分56秒80秒を示した。これはブッチギリで速い2台をのぞくと3番手から0・6秒遅れの10番手だ。(中略)
国沢は気合を入れてスターティンググリッドに並んでいた。少し前にあんまりかわゆくないレースクイーンが30秒前の表示を出した。シグナルが赤になるとすぐにスタート。
さあスタート!! 国沢はいいスタートを切ったが、第1コーナーまでに2~3台抜かれた。第1コーナーでは3台を抜き返し、得意の100Rでは一気に5台近くをかわす。ヘアピンは5位で進入……したが、よくばりすぎた国沢は温まっていないタイヤで無理をするという、非常に初歩的なミスをしてしまいスキッド!! 縁石に乗り上げジャンプして25番の小川秀明選手にヒット。小川選手はスピンしてしまう(注・本当にごめんなさい!!)
8番手に落ちたあとでストレートで3台抜かれ、運命の第1コーナーがやってくる。国沢は両側2台に囲まれて第1コーナーにつっ込んでいった。ところが左側の一台が強引に……」
と、まあこんな具合で、あちらこちらで物議を醸すレースぶりだったようで、たとえば温厚で鳴るオーテクの飯塚編集長からも、強硬なクレームがつけられる始末。
「このレースで国沢は落ち込み、みんなにけなされ顔は深海魚のようになってしまった。あーあ、もうレースに出られないかしら……」
国沢君自身がこう書いていたくらいだから、ただではすまされぬ。というわけだで、お詫びを兼ねて、ぼくの『どん亀熱闘録』は閉じることなく、むしろ、ギアが1段上にシフトアップされたように、ヒートアップして行った。
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サーキットに生きる | 日記
Posted at
2012/01/20 04:58:07