
ちょっとしたサイドビジネスのつもりで創めた藤崎眞孝の中古車売買。さっそく大きな壁にぶつかってしまう。いつしか在庫車も30台に。初めのうちこそ、近所の空き地や、神社の境内やその脇の道路に並べておき、夜中に駐車違反にならないように移動させていたが、昼間は通産省の外郭団体に勤務する身には何ともつらい。その上、風邪をひいて寝込んでしまい、車の移動ができないときがあり、ついに警察の取り締まりに遭い、大目玉を食らう。限界だった。
この1件を契機に、昭和42(1967)年、勤めを辞めて中古車販売に専念する。24歳だった。
まず、その頃は東京の郊外だった調布の甲州街道沿いに中古車展示場を設け、西武モータース販売(のちのフレックス自動車販売)の看板を掲げる。
51歳で急逝した藤崎眞孝の追悼文集『眞諦録――藤崎眞孝をおもう』は、短かったが鮮やかに生きてきた男への鎮魂の想いを、関係者が精一杯、書き綴った珠玉の1冊である。その中から、この時期の秘話を明らかにしてくれた、いくつかを紹介したい。
まず、斎藤定三郎さん。鎌倉幕府に仕えた斎藤一族の末裔で、調布市在住の大地主。
――「こんばんは。おじゃまします」。夜になるとたずねてこられた若い人。それが藤崎眞孝さんだった。まだ学生に見えたが、通産省の出先機関に勤めているということだった。勤め人だから昼間は働いている。だから、そのため、夜の到来となったわけだが、「中古車の販売をやりたいので土地を貸して下さい」ということだった。
私は百姓の倅で調布市内に土地はたくさんあったので、一時使用の形で、間組や、トヨタカローラやマツダ南オートなどの会社にお貸ししていた。地代はみな、半年間の前払いという契約だった。
当時の藤崎さんは、お金はなかったが情熱にあふれ、何より熱心だった。土地を貸したからといって、トラブルの起こるような人でないことはよくわかった。だが、広い土地を借りたら、そこにたくさんの車をおかないといけない。金利だけでも大変だ。藤崎さんの印象がよかっただけに、どちらかというと、失敗させたら可哀相だという気持ちが本当のところだった。最終的に120坪の土地を、1か月ごとの前地代ということでお貸しした。特例だった。
藤崎が小さな船で大海に乗り出したときの、このエピソード、どこかで聞いているぞ、とお思いに違いなない。そう、ベストカーガイド・グループの講談社首脳との接触時と同じ波長が伝わってくるからだろう。巧みなセールストークより、着眼点の良さとそれを成し遂げようとする情熱。それに人柄の持つ誠実さ。恐らく、それが藤崎のなによりの武器だったのだ。
斎藤さんはさらに書き継ぐ。
――その後、藤崎さんは毎月ご自身で地代をもってみえ、一度として遅れたことはなかった。あるとき、ゴルフの会員権の仕事をはじめたいといわれた。なんと藤崎さんは昼間、会員権売買をしている会社に就職してしまった。半年間のことではあったが、夜は社長業をこなすわけで、相当きつかったと思う。
ある時、藤崎さんが関西から年配の経営者を招いたことがあった。都内のホテルに部屋をとって。食事をしたり、お茶を飲んだりしながら、まる一日、経営上の参考になるいろいろな話をしてもらう。お礼が100万円ということだったが、私に「一人で聞くのも二人で聞くのも同じだから一緒に話を聞きましょう」と誘ってくれた。いつの間にか、経営上のアドバイスを受けるのに、100万円をポンと支払う実力を身につけられていた。
やがて、オークネットを創業され、私などよりずっと大きな会社を経営されるようになったが、些(いささ)かも態度は変わらない。毎年、忘れずに声をかけてくれるし、昼食をごちそうになった時、わざわざ迎えの車を寄越して下さる。初対面から男が男に惚れ込むような人物だったが、その人柄は最後まで変わらなかった。
*GT車専門の柿の木坂センター。往時の藤崎眞孝社長の姿がある貴重なショット
藤崎の目配りは、自分に利を運んでくれる対象ばかりではない。1歳年下の悪ガキ時代の相棒からのメッセージに彼を慕う心情が溢れていて、とくに中古車販売創業期での藤崎の行動規範を生き生きと伝えてくれる。
「競争」と題した加藤嘉利さん(元・オニキスコーポレーション代表取締役)の一文がそれである。
――(藤崎さんとは)子供のころから家が隣近所で、小学校は私より1年先輩でした。5年生か6年生の頃、彼と二人で隣町の小学校のプールへ行き、地元の子とケンカをして負けて帰ってきたことなど、いまも頭をよぎります。(中略)
私は21歳から1年半、スナックを経営していました。なにか他の仕事を考えようと家にいたころ、藤崎さんから「よっちゃん、そうやっていても収入がないから、ぼくのやっている車のアルバイトをしてみないか」との誘いを受けたのがはじまりです。アルバイトに精を出し、一時期は毎晩のように藤崎さんの家に顔を出して指導を受けていました。先行き、車の販売会社をやろうという話になって、私は本格的に中古車販売を学ぶために、ディーラーの中古車部へ入社。彼は勤務先を辞め、会社を設立する準備に入りました。会社の登記は、費用がもったいないので自分で勉強して司法書士には依頼せず。名称も、西武とつければ誰もが知っているだろうから、西武モータース販売と。
「加藤のよっちゃん」のこの回想には、どこにでもある男たちの青春が匂いたっていて、愛嬌がある。会社の名前を決めるのに、西武なら誰でも知ってからと、堂々とパクる才覚。社員はアルバイト時代から手伝っていた藤崎のすぐ下の弟・孝さんと、「よっちゃん」の弟・竹四郎さんが加わって、計4人。営業所は藤崎が見つけて交渉してきた。例の大地主・斎藤さんから借りた国領店(調布センター)である。展示場をオープンするに当たっては、整地、砂利敷き等を藤崎抜きの3人ですませた。スタートから、営業はすこぶる好調だったと、「よっちゃん」は嬉しそうに書き添える。
国領店オープンから4、5ヵ月が経った頃、藤崎が「もう一店出店しよう。よっちゃんが国領店をやってくれれば新しい店を出せるから」と、いい出した。間もなく練馬区関町に土地を見つけ、すぐに契約。国領店のオープンの時と同じ3人で、関町店も整地から砂利敷きまで仕上げた。藤崎が関町店と全体の経理を見て、よっちゃんが国領店を担当、売り上げ競争に熱中した。楽しんで仕事ができた時期だった。
――あの頃のことは、いまでも思い出します。子供というか青年というかの時代に、藤崎さんと一緒に会社のヨチヨチ歩きの時を過ごせたことは私の心の財産で、いまも感謝しております。
この「よっちゃん」とは面識があった。ベストカーガイド・グループ立ち上げのときのメンバーですでに「日昇自動車」の経営者。環八水滸伝」「の共演者のひとりである。
こうして船出した「藤崎丸」は、次々と新しい中古車販売の方式を生み出し快走をはじめる。業界常識の壊し屋の異名をとる、いくつかのアイディアを生み出す。まさに右に出るものはなかった。
「ひな壇展示」
「写真入り広告」
「座席シートのビニールカバー」
「頭金ゼロ」
「18項目リフレッシュ」
その「ひな壇展示」について、すぐ下の弟・孝さん(現・フレックス自動車販売社長)がこう証言する。
――昔のディーラーは、車の展示場は塀で囲っていた。その柵を取り払い、ひな壇にしてお客さんに見えやすいようにした。聞いてしまえば、コロンブスの卵だけれど、それをやっていたところはなかった。始めたのは調布からだけれども、そのあとの関町、柿の木坂、世田谷の各店舗も、みんなひな壇展示形式にした。
2番目の「写真入り広告」などの藤崎流アイデアにあふれた新機軸については次回、詳細を紹介するつもり。だんだんと『べストカー』創刊の核心に近づきつつある。
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ベストカー創刊前夜 | 日記
Posted at
2012/06/03 09:52:49