
「クリスタル・キーパー」の魔法の杖で、すっかり昔の輝きをとり戻したプログレがご機嫌に疾走している。もっとも、乗り味そのものは、3年前に一度、足回りを締め直してからは、わたしのもとへやってきた頃に劣らないしなやかな走りが復活している。ステアリングの動きにも、素直にシンクロしてくれる。こころがホクホクし出した。
地下に潜った新しい環状8号線は、あっという間に光の溢れる地上に出て、旧来の往来の激しい環八に合流してしまった。そのまま、再び地下に潜って、荻窪の手前で青梅街道に合流するコースもあるが、はやく自宅へ戻って確かめたいことが浮かび上がってきた。このプログレの生みの親に関する資料に目を通したくなったのである。左の側道に逸れて、練馬に通じている千川通りに入る。逃げ足の速い冬の陽は、すでに西の地平線に沈み、行きかう対向車に、点灯を促していた。
*1998年、プログレがデビュー。早速、クリーム色のNC250を持ち出して北へ……。いっきに津軽半島まで。
*津軽・亀ヶ岡石器時代遺跡へ。この遮光器土偶に逢いに行く。そのお供がNEWプログレだった
わたしの「愛車紹介」の書き出しは、こうだった。
――「NC」とは、ニュー・コンパクトの略と記憶している。当時の技術開発の責任者・和田明広副社長がこだわりつづけた「クルマ創り」の最終版。セルシオ、マジェスタと乗り継いできて、現役引退を機に、プリウスにしようかな、と迷った末にボディサイズ(全幅)が1700mmのFR車を選ぶ。操縦性と走行性に配慮しているというので、iRバージョンとした。いまでも正解だったと満足している。
つまりプログレの生みの親である和田さんの「クルマ創り」に共鳴して、プログレを選んでいた。いろんな機会で親しくお話を伺うことの多かった和田さんの、豪快な笑顔と声が懐かしい。その和田さんはプログレを世に送り出した直後にTOYOTAを離れ、系列のアイシン精機の社長・会長を務めたのち、いまは顧問として後進たちを見守る立場にあるという。最近ではJAF MATEの連載ページ「車人が自ら語る人生ストーリー=だから、車と生きてきた」に登場し、熱いメッセージを披露されていたのを思い出した。改めて目を通したくなったのである。2012年6月号だった。タイトルは『大局的な視野に立てば、車のあるべき姿がわかる』。スペースが1ページなので、どうしても、語り足りない印象が残る。しかし、この時代に、ここまではっきり言い切れる自動車人がほかにいるのだろうか、と思えるくらい、内容が熱い!
*JAF MATE 2012年6月号に掲載された和田明広氏のページ Photo by 増尾峰明
和田さんは1934年生まれ。56年に当時のトヨタ自動車工業に入社、主として技術開発、製品開発を担当し、セリカやカリーナED、プリウスといった、時代を先駆けたヒット作を手掛ける。(JAF MATE誌の経歴紹介から)
「(意外に思われるかもしれませんが、と前置きを入れて)私はトヨタに入るまで特に車に興味があったわけではないんです」と語り出す。配属がたまたまボディ設計になったのが幸いした。ボディにはあらゆる部品が組み込まれるので、全体の計画ができなければボディ設計はできない。つまり、車のことを覚えるのに最適の職場だった。そこで車両開発の醍醐味に魅せられた。
「(それからは)がむしゃらにモノ作りをしてきました。入社当時はトヨタもまだ小さい会社でしたから、人手が足りなくて新人の頃からいろいろな仕事を任されました」
和田さんはその例として、クラウンをやっていた人が明日はコロナとか、ドアをやっていた人が明日はフロアだとか、フレキシブルに動いていた、と明かす。
「ですから、垣根を越えて皆で考えたり、よその部署の仕事にも良い意味で口を出す」
お互いに切磋琢磨しながら各自のポテンシャルをあげていった、という。
「それと、当時は車に対して作るほうも買うほうも夢を持っていました。だから私も多くのことに挑戦しましたし、その代わりミスもたくさんしてきました。だからさまざまな経験ができてきたわけです」
それが今はミスが許されない時代となってしまったではないか。分業化が進み、各自がわずかなエリアの仕事しかできなくなった。全体を見て物を判断できる人が少なくない、とはっきり言い切る和田さん。モノ作りにはこの大局的な物の見方が大切だと訴える。
*三陸海岸田野畑にて
*津軽半島三厩の「伝・義経渡道の地」にて
「車は形となり発売されるまでに5年近くかかる場合があります。加えて、その車の使用が5年以上ということを考えて、10年先を見越してモノ作りをしなければいけないんです。それには、何に対してもアンテナを高くしていろいろな知識を吸収すること。そして、その広い視点から車のあるべき姿を考えていくしかないんです」
プリウスがハイブリッドという新しい時代を切り拓(ひら)いたように……最後に和田さんは高らかにいい切っている。
「未来は技術者が創り出していくものなんですから」と。
そうだったのか、と腑に落ちることが多すぎる。和田さんがTOYOTAのクルマ創りの責任者になってから、クルマ関係と限定するまでもなく、ジャーナリストとTOYOTAとの交流が活発になった。それまで「聖域」とされていた工場のラインや研究所の見学、テストコースでの試乗会も頻繁に催されるようになっていた。それをわたしたちはTOYOTAの自信のあらわれと受け取っていたが、和田さんのいう「アンテナを高くする」試みでもあったのか、と。
残念ながら、このページではプログレについて、ひとことも触れられてない。しかし、プログレの発表された1998年から15年たって、5年ほど前の2007年に不人気車の汚名のもとに生産が終了されていることいついて、和田さんにも語るべきことがあるはずだ。文末に(談)というクレジットがある。「取材・構成」者名も明記されてあるからには、かなりの分量のコメントがあったはずだ。そこで、往時の和田さんとの交流のなかから、いくつかのエピソードやら、やり取りを思い起こしてみよう。たとえば、こんな話から……。
*常務時代の和田さん。BEST MOTORING1991年7月号「TOYOTA’91」より
「プログレは、マーケットはもとよりジャーナリストの皆さんからも、小さな高級車を作ってくれという声があり、私もその気だった。それを作らないとBMWの3シリーズが市場を牛耳っちゃうぞ、と。その作る条件として私が課したのは、絶対に5ナンバー枠を守ること。5ナンバーというとすぐに《ちょっとここカッコわるいからここ伸ばした方がいい》って、ついつい5ナンバー枠を超えてしまう。で、5ナンバー枠っていうのは使いやすさという点では非常にいいサイズだと思うんですよ。だから、絶対5ナンバー枠から出すなと。それ以外は何をやってもいいということでやったわけです」
販売も好調だった。すると他の販売チャンネルからの要請もあって、同じプラットフォームを共有し、デザインをいじり、車幅を20mm広げた「ブレビス」を追加してしまう。
「ちょっとモールを変える程度で我慢しておけばよかったのだろうが、セルシオ紛いのものを作ってしまった。だしたのはいいが、あっという間にダメになる。そうすると、プログレまでもがダメになる」
プログレは和田さんにとって、どうやら悔いの残る1台であったようだ。
*プログレの足を引っ張った?ブレビス
そこで改めて、セリカ、カリーナEDというヒット作が生まれ、そしてプリウスという、新時代を切り拓いていった軌跡を検証してみたくなってくるではないか。幸い、そのための絶好の資料が手元で眠っていたことに気付いた。これは2008年に行われた和田さんへのインタビュー集で、和田さんご自身が、オフレコという条件で話した内容があるけれども、後からレポートを読み返すと、オフレコの部分を除くと話が判らなくなってしまいそうなので、少々加筆してぎりぎりのところまで記録に残させていただいた、と断り書きのはいった対談集である。
これから、自動車人を目指す有志には、とくにご一読願いたい重要な内容が、満載である。それは次回にて。
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プログレSTORY | 日記
Posted at
2013/01/09 15:37:37